非業の死を遂げた一族
数年前、木村拓哉が主演しTBSで放送した「華麗なる一族」というドラマがあった。一流階級の一族に生まれた青年の複雑な人間関係やその葛藤を描き、最後は自ら命を断つまでに追い込まれた生涯を描いた秀作だった。まるでドラマのような出来事を地で行くように、数奇な運命に翻弄された挙句、非業の死を遂げた一族がいる。時代や国籍は異なるが、個々ではなく、その家族や親族までもが不可解にして不慮の死を遂げた例がある。本来は自殺という行為は、ショッキングでデリケートな問題だけに、故人の名誉やプライバシーを優先し、本来は避けたい事象ながら、それぞれが社会的影響力の強い「公人」的な存在だったことを加味し、また、Wikipediaを始め、他の一般のHPでも扱われている点を考慮し、今回この記事を掲載することにした。その点を予めご了承願います。では早速、個々ではなく、一族全体に降りかかった不幸的な出来事や事件・事故を紹介し、改めて歴史認識を深め、あわせて追悼の意を表したい。
1. 豊臣秀次一族の不遇な処罰
豊臣秀次は、日本の戦国武将、大名である。三好秀次、羽柴秀次とも。豊臣秀吉の甥(姉の子供)と言われ、一時期秀吉の後継者であった。小牧長久手の戦いでは徳川家康に看過されて池田恒興、森長可らを失い、九死に一生を得て逃亡するなどの失態を犯すものの、続く四国征伐では豊臣秀長と協力して長宗我部元親を攻め、これを降伏させる。九州征伐の頃から徐々に政務へも参入し続け、小田原征伐でも軍功を挙げその後の奥州仕置きを秀吉から任された。1591年には秀吉の実子鶴松が幼くして死亡したため、秀吉の後継者として関白に就任、やがて秀吉が唐入り(朝鮮出兵)に専念すると秀次は権力のほとんどを秀吉から移譲され、事実上日本のTOPに近い存在であった。
1593年、豊臣秀吉に実子の秀頼が生まれ秀次の命運に影を落とすことになる。秀吉から権力のほとんどを移譲されたが、依然として太閤(前関白)の秀吉は健在であり、影響力も大きかった。一方秀次は奥州仕置きの際に伊達政宗、最上義光ら東国大名を取り込み、もともと秀次に近しい存在であった中村一氏、山内一豊といった与力大名も多くいた。
このような状況の中二元政治ともいえる権力構造も災いし豊臣秀吉と豊臣秀次はやがて対立を深める。両者の対立は権力の強さもあってやもすれば応仁の乱の再来ともなりかねない状況であったが、1595年、ついに進退窮まったのか、豊臣秀吉が謀叛の理由により豊臣秀次を謹慎させ実権を取り上げた。やがて秀次の切腹が秀吉より通知され、秀次は謹慎先の高野山で切腹した。享年28歳。
死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。実際には、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が約5時間かけて処刑された。
2. 西郷頼母一族の集団自決の悲劇
いずれ「八重の桜」でもその壮絶な戊辰戦争の悲劇を取り上げるであろうが、幕末の世にあって、会津藩主松平容保が京都守護職の任を引き受けてから会津の運命が狂う。やがて倒幕派との戦に巻き込まれて行く。勅許を手中にした薩長連合を中心とした西軍の勢いは凄まじく、会津は孤立無援状態となり、多大な犠牲を払った末に、負けるはずのない戦に敗れたのだった。その際、筆頭国家老であった西郷頼母邸では、劣勢を悟り、敵に捕らえられ、恥ずかしめを受ける前にと妻千恵子を始め、親類を含め、総勢21名の最後一族の集団自決があった。幼いわが娘にトドメを刺し、自らも喉を自刃し、果てた。
感涙のシーンは13分29秒からです。土佐藩士中島信行にトドメを懇願するシーンは涙なくしては見られない。この時代、会津藩士の死を覚悟しての潔さは武士の家柄に生まれた者の心得として当然の行いだった。これが会津藩の生き様である。「なよたけの 風に任する身ながらも たゆまぬ節はありとこそきけ」。
3. ケネディ家の呪い
ケネディ家の人々を襲う一連の悲劇を指してしばしば使われる言葉である。一族の数人は普通の死に方をしておらず、そのうち最も有名なのはアメリカの現職大統領だったジョンと議員として大統領選出馬を予定していたロバートで、二人はそれぞれ1963年と1968年に銃で暗殺された。ジョンJrは1999年に妻と義姉と共に飛行機事故で死亡した。ではその悪魔に見出されたかのような不幸な年表を見てみたい。以下「Wikipedia」より。
これだけの不幸が一族や親族に起きたのは、どう考えても単なる偶然とは言い難い。これがケネディ家に降りかかった、まさに「呪い」である。
4. 政治家・中川父子の不可解な死
親子で自民党の政治家だった中川一郎と中川昭一もまた、不可解な死を遂げた。両者ともに、一度は総理大臣を狙えるまでに実力を付け、次代のニューリーダーと期待された矢先に自殺や不慮の死によってその幕引きを見ている。
中川一郎 (中川一郎・怪死事件より一部引用)
昭和58年1月9日早朝、自民党の大物政治家・中川一郎(当時57歳)が宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを夫人の貞子さんが発見した。当初、死因は「急性心筋梗塞」と発表された。ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが公表された。中川の首吊り自殺は不審な点が多く、いまでも「他殺か自殺」か論議が分かれている。まず、自殺方法に疑問を呈する声がある。中川は、浴槽に座ったまま浴衣の紐で自分の首とタオル台の留め金を結んで自殺していた。警察の検証では確かにこの方法でも「死ぬことは可能」であるようだ。だが、この方法は《最後の瞬間まで自身の強い意志で死に向かっていかなければならない》。このようなことが人間として可能なのだろうか、という点が挙げられる。
さらに、死亡してから僅か2日後に荼毘に付されており遺体の検証も十分でなかったと指摘する声もあった。一般に、大物政治家であれば遺族は党との相談で葬儀をする事情から死亡してから数日間はそのままの状態で置かれる場合が多い。中川の場合、あまりにも荼毘に付すのが早いと思われた。
また、中川は遺書らしいものは何も残していなかった点である。これも自殺する場合、通常では考えられないことであり、よって他殺説が今でも根強く指摘されている。
中川昭一
1983年1月、自由民主党衆議院議員在職中だった父・一郎が急死したことを受け、銀行を退職し、同年12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に、自由民主党の公認を得て北海道第5区から立候補した。弔い選挙となったこの選挙には、父・中川一郎の側近として秘書を務めていた鈴木宗男も立候補。2人による後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」と書き立てられた。この選挙で中川はトップ当選した。その後、農林水産大臣で初入閣し、経済産業大臣、政調会長、財務大臣兼財務金融大臣などの要職を歴任。
しかし、大臣在職の2008年2月、中川はG7の財務大臣・中央銀行総裁会議出席のためにイタリア・ローマを訪れたが、この会議の後の記者会見における、呂律が回っていない、酩酊しているかのような姿が注目された。この様子は各メディアで大きく取り上げられ、猛批判を浴びることとなった中川は釈明を行ったが、3日後には大臣職を辞すこととなった。
大臣辞職から約半年後の2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙が行われ、中川は現職選挙区であった北海道第11区から再選を目指して立候補した。中川は謝罪回りに奔走するとともに、断酒宣言も行ったが落選し失職した。
翌月中川は、自身のウェブサイトで、「今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と記したものの、健康は優れず、腰痛や風邪に悩まされるとともに、不眠症のため睡眠薬を服用する状況であったという。同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている。死因について、その後遺族は弔問客に急性心筋梗塞と説明していたとされるが、実際の死因の特定は行政解剖の結果待ちとなった。つまり、検死だけで済まされず司法解剖が行われたことを考えても、通常の死に方ではないことが窺える。
急死を知らせるニュース報道 https://www.youtube.com/watch?v=Dcv4ip4EkVM
辛坊治郎氏の許しがたい暴言 http://www.youtube.com/watch?v=WguaLvFcpS0
5. 沖田浩之一族の不可解な死
沖田浩之といえば、竹の子族リーダーからスカウトされ、芸能界に転身。キツネ目が特徴のアイドル歌手として人気があったし、俳優としても様々な映画やドラマに出演していた。しかし、家族の残した借金や俳優としての素質のなさに思い悩み、更に実父の様に慕っていた師匠、津川雅彦から演技に関して強く叱責され、自ら命を絶ったのだった。彼はその近親者が相次いで自殺してこの世を去ったという不可解な連鎖があることが気になる。
父親(享年71)は不動産、ゴルフ会員権などを扱う会社を経営していたが、経営をまかせた長男(沖田の兄)の乱脈ぶりとバブル崩壊で多額の債務を抱え平成8年9月、「自分の生命保険で、会社の損失を補填してほしい」と首を吊ったという。
翌年12月には、母親(享年62)ががんで死去した際は、沖田浩之のショックは大きかったようだ。両親の保険金は会社の負債を埋めるため、すべて長男に渡したが、長男は金を会社に入れず、責める沖田に、長男は「俺が死んだら保険金が入るから、死ねばいいんだろ」と反発。
弁護士だった祖父も、担当事件絡みで正当性を主張するために自殺しており、兄だけは自殺させたくない、と沖田は思っていたという。しかし、1年後に沖田自身が首を吊って自殺。長男もその後、首を吊って亡くなった(享年43)。
自殺の真相はいまだ不明だが、祖父・父・兄・本人と一家3代4人が相次いで自殺している。
http://www.youtube.com/watch?v=YItmM2KjZ7U
さて、今回の記事をどう思ったでしょうか。偶然とか運命では割り切れないような、不遇な最期を遂げている一族だと思う。あまりにも悲しい結末だ。単細胞な私は、死ぬ気になれば何でもできるだろうと思うが、実際は本人にしかわからない苦悩やどうにもならない葛藤があって、最終的に死を選んだと思う以外にない。彼らが今も存命ならば、きっと素晴らしい国を築き、あるいは名優として君臨し、社会に与えた影響は大きかったに違いない。特にジョン・F・ケネディや中川昭一はさぞかし無念だったに違いない。政治に身を投じ、いろいろな柵の中で生きたために、思いもよらぬ運命に引きずり込まれた感が否めない。惜しい人物を我々は失ったのだ。彼らに変わる傑出した人物は現れないと思うが、今はこの記事を追悼記として、彼らの成仏とあの世でのご冥福を祈ることしかできない。
記事作成:3月13日(水)
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