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2013年10月

2013年10月31日 (木)

CMの彼女⑥

 好評をいただいている「気になるCM美少女」の第6弾。今日は若手で今、人気急上昇中の彼女を紹介したい。何と地元・福島県出身のモデル兼アイドルだ。

 松井愛莉

 福島県出身。アミューズ所属。さくら学院の元メンバー。現在16歳で血液型はO型。元々人前に出るのが苦手だったが、父親に「受かったらケータイ買ってあげる」とのせられ、2009年、ティーン向けファッション雑誌『ニコラ』(新潮社)の第13回ニコラモデルオーディションに応募し、1万4076人の中からグランプリを受賞。同年10月号より同誌の専属モデルとしてデビュー。

 2010年12月8日さくら学院としてメジャーデビュー。
 2011年7月、『魔法のiらんど』の2011年度イメージガールに起用される。
 2012年1月17日、アメーバブログを開始。
 2012年3月25日、さくら学院を卒業。2012年6月より『レコールバンタンハイスクール』の 
 2012年度イメージモデルとして活動する。
 2013年2月15日、結婚情報誌『ゼクシィ』(リクルート)の2013CMガールオーディションで、応募者400人の中からグランプリに選ばれる。ゼクシィ6代目CMガールとして約1年間、同誌のCMに出演する予定。今年、「山田くんと7人の魔女」に滝川ノア役で出演した。

 今年制作された今が旬の芸人からプロポーズされる企画CM「ゼクシィ」はコチラ

 井上真央に似ていると思ったら、同じO型。やっぱり・・・。

 「ゼクシィ」のメイキング

 今が旬で今後の活躍が期待できる若手芸能人だ。ぜひ応援してほしい。

 記事作成:10月6日(日) 

 

2013年10月30日 (水)

巨人軍の功罪エピソード

 私は物心ついた時から大の巨人ファンだった。一番影響を受け、感化された小学生時代は、スーパースターONが日本プロ野球界に君臨し、その屋台骨を支え、V9という輝かしい大金字塔を打ち立てた時代だった。華麗な守備と豪快なホームランに魅了され、その当時の男の子は、誰もがソフトボールや野球をしていたと思う。「巨人・大鵬・玉子焼き」という言葉が生まれ、当時の子供の大好きな物であり、流行でもあった。しかし、裏腹にも「常勝軍団」であるが故の葛藤や苦悩があった。特に即席の結果だけを求められる人気球団だっただけに、毎年繰り返された「電撃的トレード」や内部の亀裂や軋轢を生み出すような事変が相次いで起きてしまった。言うなればこれらは負の遺産であり、ファン心理を逆なでするようなものだった。
 私のファン歴は40年以上で、筋金入りではあるが、時として嫌気が差すことも多かった。現場に深入りしすぎるフロントとの深刻な対立や、影響力のありすぎる球団オーナーや代表の不用意な発言によって現場が大混乱する事態を招くこともしばしだった。これが負けが混んだ時の球界の盟主たる巨人の悩みのタネであったことは言うに及ばない。
 では、具体的にはどのようなドタバタ劇があったのか、モデルケースとして幾つかの逸話を交えて例証したい。

 1.江川卓の「空白の一日」騒動(ドラフトに翻弄された怪物)

 これは球界の盟主の巨人が犯した重大な規則違反で、社会問題になったほど不可解な事件だった。高校(作新学院)時代からノーヒットノーラン9回、完全試合2回を達成するなど「怪物」の名を欲しいままにしていた剛速球投手・江川卓。それは手元でホップする伸びのあるストレートが最大の武器だった。打者はバットに当てることも困難なほどだった。
 1973年の高卒時、阪急ブレーブスからドラフト指名を受けたが、巨人入りを熱望していた江川はこれを拒否し、大学進学を表明。慶應受験に失敗した後、拾われるように法政大学へ進学した。大学でも奪三振記録を塗り替え、最多勝利の記録も更新し、「神宮の星」となった。1977年の大学卒業時のドラフトでは、クラウンライターライオンズから1位指名を受けるが、再び入団を拒否。米国野球留学を含む浪人生活を送った。そして1年後(1978年)の3度目のドラフト会議のまさに前日に事件は勃発した。

 当時の正力享オーナーを含む巨人の経営陣が、翌日に控えたドラフトを待たず、突如ドラフトの盲点を突く「空白の一日」を利用して江川との強行契約を交わしたのだった。これは明らかなルール違反であり、非難の目が球団と江川本人の両者に注がれた。無論この契約は無効となったが、これに反発した巨人が翌日のドラフトをボイコットする前代未聞の事態に発展。結果、巨人欠席で行われたドラフトで、江川は阪神が指名して交渉権を獲得した。ここでも江川は巨人への忠誠を貫き、阪神への入団を頑なに拒絶。この非常事態に異例とも思えるコミッショナーが仲介に入り、妥協案を提示。それは「前途ある球界の宝ともなり得るような将来を嘱望された逸材をみすみす無駄にすることは、球界全体の損失」とするもので、前例のない仲裁案だった。それは、江川が一旦、阪神と契約を交わし、その後直ちに巨人へのトレードで入団させるという異例中の異例の裁定だった。阪神側は、その見返りに、当時巨人軍のエースだった小林繁を指名。前代未聞のドタバタ劇は、トレードという形で混乱の幕引きを図り、事態は収束した。

 この出来事は、ドラフト制度のあり方にも一石投じ、大きな波紋を投げかけた。球界のルールを無視し、やりたい放題の江川に対し、マスコミはこぞって彼を悪役に仕立て、ファンの怒りを買った。一方の小林は、突然の江川の身勝手な振る舞いにも努めて紳士的に振る舞い、不満を一切口にせず、この不条理な裁定に従い、トレードを受け入れ、拍手喝采を浴びた。小林は密かに投倒巨人を誓い、猛練習を重ね、翌シーズンに、登板した巨人戦は全試合負けなしの快投を演じた。しかも自身最高の22勝(9敗)を挙げ、最多勝を受賞。一方の江川は、9勝止まり(10敗)でシーズンを終えた。江川が投げた試合はブーイングの嵐で、ファンの野次やバッシングは強烈だった。江川には「手抜き」や「一発病」というレッテルが貼られた。寡黙な小林に軍配が上がったのだった。小林は阪神移籍後、3年連続で15勝以上をマークする戦績を残した。駄々っ子でガキンチョのような江川に対して、冷静で大人の対応の小林というのが世間の見方で、それが通説となった。
 この一連の出来事が、その後の野球人生に大きな遺恨を残し、印象が芳しくなくなっただけでなく、江川はコーチや監督の誘いがないのは周知のところで、未だに野球界(現場)に復帰できていない。王道を歩んだ原辰徳とは対照的に、評論家や解説者として外野から持論を述べるだけの存在に落ちぶれてしまっている。他人を巻き込み、自らの我儘を貫いたことが、後々これほどの悪影響を及ぼしている典型例となっている。

Kobayashiegawa

http://www.youtube.com/watch?v=K9T4VnlCYi4

 関連記事 「ドラフトを蹴った「巨人命」の選手たち」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-17ec.html

 2.高橋由伸の逆指名(翻意して急転直下の巨人入りの謎)

 東京六大学野球のスーパースターとして活躍した選手は数あれど、「天才打者」の名をほしいままにしたのが、慶應義塾大学のスラッガーだった高橋由伸だった。田淵の持つ大学通算本塁打記録を更新し、三冠王も獲得するほどの実績を残した。慶應出身のプロ野球選手は大成しないというゴシップもどこ吹く風、鳴り物りで、プロのスカウトのみならず、その進退については世間の注目の的だった。結果的に彼は、大どんでん返しの末に逆指名で巨人入りを表明したのだが、ここにも数奇な運命のいたずらが潜んでいた。
 その当時のドラフト制度は、大学生と社会人については、各球団2名までが選手からの逆指名によって入団が認められていた。未成年の高校生以下にはその条項は適用されず、それ以外の選手は、相思相愛であれば、希望球団への入団が可能だった。
 当初、当の高橋本人は、マスコミ等にはヤクルトが第一志望で、入団する意思を固めていることを明言していた。ところが、蓋を開けてびっくり。急転直下で、急遽開かれた会見の席上で、いきなり巨人への逆指名を表明したのだった。「私、高橋由伸は読売巨人軍を逆指名します」と宣ったのだ。ここ、ここに至って、世間を揺るがす突然の翻意の原因とはいかなるものだったのだろうか。その理由について彼は、自身ではなく、父親と祖父が巨人ファンだったというものだった。何とも苦しい弁明だったが、一部では、水面下で多額の現金の授受があったのではと疑る記者もいたし、様々な憶測が飛び交った。つまりは両者しか知らない密約説だ。しかし、入団から十数年経った今、真相は以下の通りが最有力である。

 当時、由伸の父親の会社が倒産寸前だった。そこに、これほどの逸材をみすみす同じリーグの他球団に渡すには惜しいという思惑から、巨人が由伸獲得の名目で60億円もの大金を出して、父親の会社の立て直しに一役買った(週刊文春の記事として掲載)。由伸は神宮で育ったこともあり、ドラフトギリギリまでヤクルトが希望球団だったが、父親のことで球団に恩義があるので、FA権も行使せず、メジャーにも行かず、今日まで「生涯ジャイアンツ」を宣言しているとされる。この事実を隠すために、そのことは公にならず、祖父や父親が大好きな球団だからということが巨人入団の理由と発表されただけで事態は収拾された。不可解な決着だった。

 3.他球団の看板選手の買い占め(トレード、FAでエース級・4番を独占)

 これも当ブログで記事にした内容である。巨人というチームは勝つことを義務付けされた特殊なチーム事情がある。だから時間をかけてゆっくり育てるという方針はチーム事情に合わない。従って即興で戦力を整えられるトレードやFAで他チームの有力選手を金にものを言わせてかき集める傾向があった。そうして集めた外人(多国籍軍)部隊はそうそうたる超一流選手が名を連ねた。では驚きの巨人に在籍した選手を列挙したい。

 投手・・・高橋直樹(日本ハム)、工藤公康(ダイエー)、川口和久(広島)、グライシンガ
      ー、ゴンザレス(ヤクルト)、藤井秀悟(日本ハム)、ホールトン(ソフトバンク)、
      阿波野秀幸(近鉄)、杉内俊哉(ソフトバンク)、シコースキー(ロッテ)

 打者・・・簑田浩二、加藤英司(阪急)、屋敷要(横浜)、石井浩郎、ローズ(近鉄)、広澤
      克実、ペタジーニ、ラミレス(ヤクルト)、マルチネス(西武)、江藤智(広島)、
      清原和博(西武)、小久保裕紀(ソフトバンク)、小笠原道大(日本ハム)、
      村田修一(横浜ベイスターズ)、落合博満(中日)

 いずれも他のチームの主力を根こそぎ獲って来たと言って過言ではない。しかし、巨人に入団した途端、前年までの好成績は影を潜め、鳴かず飛ばずで、数年間在籍し、再び戦力外で放出。すると再び水を得た魚のように活躍する不思議。

 4.第一次原政権下での辞任劇の裏側

 長期政権を担った長嶋監督が勇退し、後任に指名したのは原辰徳だった。巨人の生え抜きの選手で、4番を張った若大将への政権移譲は定石であり、シナリオ通りだった。篠塚、岡崎、吉村、川相、村田真一、斎藤雅樹など戦友たちの信望は厚く、原も腹心たちでコーチ陣を固めたのだった。バトンを受けた翌年にいきなり日本一に輝き、巨人軍の将来は向こう10年間は安泰と思われた。しかし、2年目に故障者が続出し、スタートダッシュに躓き、9月の正念場に泥沼の9連敗を喫し、優勝争いから脱落して3位と低迷した。半ば解任に近い形で原監督が責任をとって辞任をしたものと素人目には映った筈だ。しかし、大多数の巨人ファンは首をかしげた。前年に日本一を獲得して、この年もAクラス入りをしている原監督を、優勝を逃しただけでどうして辞めさせなければならないのかと。これには球団内部しか知りえないような深い事情があったのだ。以下の記載(Yahoo!知恵袋より)が真相だったようだ。

 読売グループのドンであるナベツネの懐刀として読売新聞のエリートコースを歩んでいた三山秀明氏が、将来の読売新聞社長のポストへの布石として巨人の球団代表になったところから端を発する。しかしこの男、野球には全く疎く、厳格な結果第一主義者だったのだ。球団代表という仕事はおろか、野球のこともほとんど知らなかったのに、就任直後に連敗していた原監督を呼び出して采配批判(それが球団代表の仕事だと勘違いしていた)をし始めた。選手起用や采配など、ド素人丸だしの批判をうけた原監督は「人生で最大の屈辱」を味わうこととなった。元から誠実で巨人生え抜きの4番として屋台骨を支えたことで、人一倍プライドが高い同監督は、こうしたなりふり構わぬ外様のぞんざいな振る舞いに不満を募らせた。そしてそのド素人による「チーム再建策」を聞かされるうちにモチベーションがどんどん低下していき、さらに三山代表がマスコミの前で「(巨人の歴史で一度もない)シーズン終了前での途中解任もある」と言った発言によって最後の一本が「プチッ」と切れてしまったのだった。そして三山発言が新聞に載った当日に、ナベツネ氏のところに行って辞表を叩きつけたのだ。
 慌てて慰留に勤めたナベツネ氏に対し、原は「三山代表をクビにするか、自分が辞めるかの二者択一」を迫るが、自分の後継者として期待していた三山氏をすぐに解任させることができずに、双方に丸く収まる決着を求めたものの、それを聞いた原監督は独断専行で辞任会見を開こうとしたのだった。
 ファンや選手の人望が厚い原監督の電撃解任では、ファンに怒りを買うことを恐れたフロントが、窮余の策として考え出したのが「読売グループの人事異動」という屁理屈だったという訳だ。

 こうしたドタバタ劇によって原監督の引退セレモニーは本拠地の東京ドームではしてもらえず、阪神ファンで埋まった甲子園球場で行われるという異常事態を生み、巨人ファンは強い憤りを覚え、フロントへの不信感を強めた。NHKの解説者同士で師弟関係を築いていた星野監督が、直々にセレモニーで花束を手渡し、涙ぐむ原監督に「若いんだからまた帰って来いよ」と声をかけて、熱い抱擁を交わした。そして甲子園球場にて場内アナウンスで原監督が御礼を述べ、阪神ファンからも温かい拍手が送られた場面をはっきり覚えている。もちろん人気、人望ともにあった原監督が辞任したことにより、原信者のコーチ陣もこぞって原に追従して辞めたのだった。



 しかし、結果的にこの騒動の主となった三山氏、上原投手の代理人交渉でも後に「代理人OK」となってしまう失言を繰り返し、さらに一場事件でもナベツネの関与を口にしてしまい、ナベツネをオーナーから失脚させてしまった。原監督辞任にいたる過程の醜聞によって、後釜を任された堀内監督は、コーチ就任を打診しても断られまくり、前年一軍の道具係だった人間を一軍コーチに就任させるという悲惨な状態に陥ることになる。
 さらに川相選手(現中日コーチ)など大事な人材も失うこととなった。ある意味、三山氏は「巨人をぶっ壊した」だけだった。野球を知らない人物を重要なポストに当てること自体が有り得ない人事である。そして三山氏が巨人を去った翌年に、原辰徳が再び巨人の監督に返り咲き就任。実にわかりやすい経緯と構図である。原は第一次第二次政権の11年間で7度の優勝を成し遂げるという好成績を挙げ、盤石のチームを作り上げているのは周知のところだ。

 5.トレード放出選手の復讐心

 以前も同様の記事を書いたが、巨人を追われた選手は、ことさら巨人戦になるとリベンジとばかりに好成績をあげる傾向が強い。かつては広島に移籍させられた萩原外野手がそうだった。外野フェンスに激突し、鎖骨を骨折した時も、古葉監督が直々に病院を訪れ、涙ながらに感謝してくれたそうだ。萩原は人情味あふれる古葉監督の振る舞いに、使い捨てで冷酷な巨人の待遇とは雲泥の差であることを悟り、一生この人の為に身を捧げようと誓ったそうだ。
 また、巨人時代はファームや出番が少なかったが、近鉄に異動した石毛や吉岡もレギュラーを獲得し、リーグ優勝に大きく貢献したし、スキャンダルで巨人を追放された二岡やセットアッパーの林もまた新天地日本ハムで巨人にリベンジを果たした。他にもマイケル中村、小田捕手、駒田徳広もまた然り。特に駒田は、巨人時代は満塁男の異名をとるほどの勝負強い強打者だったが、代打が多く、新外人とのポジション争いでレギュラー獲得が難しかった。しかし、自らの意思で横浜へ移籍後は、2,000本安打を達成するほどの大打者に成長した。
 しかし、一番のリベンジャーは冒頭で取り上げた小林繁であったに違いない。愚痴一つこぼさず、巨人のエースの座を明け渡し、翌年の巨人戦では、無敗の活躍。寡黙の中に復讐心を燃え滾らせ、打者をバッタバッタとなで斬りした姿は格好良く、プロ野球選手のお手本のような選手だった。

 6.桑田真澄強行指名の密約説

 PL学園時代、清原と桑田はKKコンビとして甲子園の人気を二分したスーパーヒーローだった。その二人が、悲運のドラフトによって引き裂かれた瞬間だった。早くから巨人入りを熱望していた清原和博と、そんな清原を気遣って早稲田大学進学を表明していた桑田真澄。しかし、運命のドラフトで、巨人王監督が指名したのは、皮肉にも桑田真澄だった。画面にアップになり、涙を必死でこらえる清原の悔しい表情。対照的に指名されたことすら呆気にとられ唖然とする桑田の表情。あまりにも残酷な結末だった。
 大学進学を表明し、他球団が桑田真澄の指名を回避したその間隙を突いての強硬指名。「読売・桑田真澄」とコールされた時の会場は大変などよめきに包まれた。巨人に出し抜かれた!という雰囲気だった。これまで江川など大物獲得に失敗してきた巨人が取った裏取引で、桑田本人とも密約があったのではとさえ揶揄されたドラフトだった。結果、桑田は悩みに悩んだ末に巨人入団を選択。清原は打倒巨人を胸に秘め、西武に入団したのだった。

 エースだった桑田真澄に関しては、本人が副業で多額の借金を抱えて、球団が肩代わりした事件などもあった。

 7.巨人からメジャー挑戦した面々の顛末

 野茂投手が固く閉ざされた門戸をこじ開け、日本人の有力選手がこぞってメジャーに挑戦するようになって約20年が経過した。野茂に続いて長谷川や伊良部、石井一、新庄、佐々木、イチロー、田口、井口、城島などの一流選手が渡米して活躍した。巨人の選手もその例に漏れず、メジャー挑戦をした選手も多くいた。その方々を紹介したい。

 柏田貴史、木田優夫、岡島秀樹、松井秀喜、松井秀喜、高橋尚成、桑田真澄、上原浩治らがそうだ。

            巨人時代の戦績        メジャー移籍後の戦績

 柏田貴史   4勝  2敗  1S 3.91    3勝 1敗      4.31
 木田優夫  50勝 57敗 20S 3.91    1勝 1敗  4S  5.83
 岡島秀樹  32勝 32敗 37S 3.20   17勝 8敗  6S  3.11 
 高橋尚成  79勝 66敗 15S 3.70   14勝12敗 10S  3.97
 桑田真澄 173勝141敗 14S 3.55    0勝 1敗      9.43
 上原浩治 112勝 62敗 33S 3.01    9勝10敗 35S  2.42 
 
 松井秀喜 巨人時代  1,390安打 332本塁打 889打点 打率.304
        メジャー    1,258安打 175本塁打 760打点 打率.282

 いずれも巨人時代のほうが成績は良い。高い給料と夢を追い求め、メジャー挑戦するが、結局は成績は芳しくなく、引退に追い込まれてしまっている。 

 8.清武氏の謀反(告発)とお家騒動  

 こちらは記憶に新しいドタバタ劇。2011年11月11日に起きたプロ野球チーム「読売ジャイアンツ」の運営会社「株式会社読売巨人軍」球団代表清武英利による、同社取締役会長渡邉恒雄への告発に関する問題である。「読売巨人軍のコンプライアンス上の重大な件」する記者会見を開き、巨人の来季のヘッドコーチ人事を巡って渡邉恒雄球団会長が不当に介入し、告発直前に問題となった大王製紙やオリンパスを引き合いに出して、会社の内部統制とコンプライアンス(企業倫理)を破ったとする声明を発表し、渡邉を批判した。清武はこの問題を理由に、同月18日読売巨人軍におけるすべての職を解任されている。

 9.巨人入団のために浪人した選手たち(巨人神話に惑わされた面々)

 これも以前、本ブログで特集記事にした通りだ。江川卓、元木大介、そして昨年の菅野智之である。プロ野球のルールを無視してまで、そんなに巨人に入りたいのだろうか。小さい頃からの憧れの球団でプレーしたいという 時として我儘とか異端児と捉えられがちだ。逆にこのことで、他球団からは敵視され、ブーイングやらバッシングが凄まじくなり、却ってやりづらくなることは心得ておいたほうがいい。近年はFAも制度化されたので、実績を積めば、いずれは希望球団でのプレーも決して不可能ではなくなった。それを実力もわからないひよっこが生意気ほざいて他の選手から憎まれることのほうがよっぽどやりずらいとは思わないのだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=40sh803TTH4

10.伸びなかったドラ1

 幼少期の野球少年時代からのあこがれで、紳士集団の巨人に入れたことで満足してしまい、ハングリー精神を発揮できずに鳴かず飛ばずで辞めていった選手が大勢いた。特に巨人のドラフト1位選手は大成しないというジンクスまで存在する。では、そうした選手を名指しするのは申し訳ないが、そのテーマに当てはまる選手を取り上げたい。

 S54 林泰宏
 S59 上田和明(慶應大卒内野手)
 H元  大森剛(内野手)
 H3  谷口功一(天理高校卒投手)
 H5  三野勝大(大卒投手)
 H7  原俊介 (高卒捕手)
 H13 真田勇貴(高卒投手)
 H15 辻内崇伸(大阪桐蔭卒投手)
 H17 村田透 (捕手)
 H18 太田泰示(東海大相模高卒内野手)

 既に引退した選手もいれば、もう後がない選手もいる。ぜひ栄光の巨人軍で一軍の切符を手にし、レギュラーを獲得できるよう頑張ってほしい。

11.名球会入りの選手がいかに少ないか

 巨人の生え抜きの選手で名球会入りしている選手がいかに少ないかご存知だろうか?落合や工藤、小笠原など引退間近の選手を他球団からトレードやFAで獲得し、2,000本安打や200勝を達成しているが、生粋の選手では少ない。何と1980年に堀内と柴田が達成して以来、誰も入っていない事実。原監督はもちろん、江川、西本、篠塚、桑田、斎藤雅樹、槙原ですら達成していない。いかに巨人が金に物を言わせ、外人部隊に頼り切っているかがわかる。若手の選手を育てるのも下手だし、ろくな外国人が来ない。期待料とばかりに、入団時に多額の契約料を払ったばかりに、あぐらをかいてまともな練習もせず、試合に出すからこのような結果に陥るのだ。フロン陣にも猛省を促したい。使い捨てがあまりにも多く、5年先10年先を見据えた選手育成プログラムを構築してもらいたい。亀井や矢野などは飼い殺し。プロテクトを外れた一岡など広島に移籍した途端、大活躍。萩原や駒田もそうだった。逆に巨人に来た途端ダメになったのがペタジーニ、広沢、石井浩郎、ローズ、マルチネス、李、グライシンガー、清原だ。

 上記に記載以外にも、私が幼少の頃に起きた「湯口事件」というのもあった。最強V9時代の真っ只中に起きた悲劇である。現役の左腕投手だった湯口敏彦が、無礼講と称した飲み会で飲みすぎ、翌日の紅白戦で打者一巡の滅多打ちに合う。それに激怒した川上哲治監督と二軍監督だった中尾碩志からも厳しく叱責されたことが発端となり、うつ病を発症。1973年3月22日に病院のベッドで変死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件だった。球団側の「死因は心臓発作」の発表にマスコミがこぞって疑惑を取り上げ、世間の非難を浴びることとなった。その年のイメージは低下し、ドラフト会議で指名された新人選手7人のうち、ドラフト1~3位を含む4人が入団を拒否する事態に陥ったのだった。

 他にも原監督と彼を崇拝していた仁志敏久のまさかの不仲トレード事件や、主力だった二岡智宏と山本モナのスキャンダルによる電撃トレード事件、将来の4番を嘱望されていた吉村禎章と栄村忠広の衝突負傷事故などもあった。

 さて、今回の記事だが、巨人に対する批判の意図は一切ないことはここで明言しておきたい。球界の盟主であるが故の半ば宿命とも言えるような苦悩であるからである。巨人の来し方行く末を案じるならば、こうしたゴタゴタ劇は、百害あって一利なしということは明らかである。真の王者でありせば、こうした番外編ではなく、グラウンドで勝負することこそ、本当の野球人であり、野球をこよなく愛するファンへの答えであろう。巨人が強くなければ野球界は盛り上がらない。打倒巨人だからこそ、他球団も燃えるし、ファンも応援に熱が入るのである。巨人を愛するあまり、多少お小言的になったことはお詫びするが、これから10年先、20年先の巨人を考えてこその愛情の裏返しと思っていただけたら幸いである。

 記事作成:10月9日(水)

 追記(10月30日)

 現在、楽天との日本シリーズがたけなわだが、今年に限っては巨人ファンの私でも楽天を応援している。それは私自身が東北人だからだ。震災に苦しんだ仙台や東北の方々に希望を与える存在である楽天。震災の直後、地元の方々をどれだけ元気づける被災者支援活動をしてくれたことか。絶対的エースの田中が、シリーズ後にメジャー挑戦を表明するのは明らかで、もしかするとこれが楽天での見納めになる可能性が高いし、彼が抜けた後、優勝争いに加わるのは、超高校級の松井の成長次第という見方が妥当なところ。東北にさらなる勇気と活力を与える意味で、今年だけは、楽天に優勝してほしいと願っている。

 更に追記したい。この記事を書いた10月9日に、巨人V9時代の監督で、現役時代は赤バットで「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治氏の健康状態がとても気になっていた。妙な胸騒ぎや悪い予感がしていた。奇しくも、三週間後の本日(10月30日)に、この記事をアップしたが、奇遇ながら、それに呼応するかのように、「川上哲治氏」が死去したという残念なニュースが飛び込んできた。この訃報は、不思議な因縁を感じるし、何かとても信じられない。偶然とは言え、ただただ、V9の偉業を讃えると共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 追記

 H27.1.4(日) 11.の記事を追加

 追記(H27.10.21)

 原監督退任で、高橋由伸監督誕生なるかの大事な時期に、「球界の紳士集団」として君臨してきた巨人軍に泥を塗るような不祥事がまたしても明るみになった。野球賭博問題が暴露し、球界を揺るがす大事件に発展したのだ。しかも巨人の行く末を担う若手投手陣による悪徳行為だ。福田投手単独ではなく、22歳と24歳の若手投手である松本投手と笠原投手も野球賭博と賭け麻雀、バカラ賭博にも関与していたことが発覚した。
 笠原投手は以前から遠征先で「朝帰り」などの素行不良が問題視されていた悪童だった。プレイボーイで女遊びが過ぎた。巨人の選手として相応しくない選手だった。松本投手もまた然り。先輩をいじめたり、ありえない所業を繰り返していたようだ。この問題発覚は、いわば「身から出た錆」であって、まさに「自業自得」いや「自業自損」状態だ。このような選手を野放しにしていた巨人軍の管理責任は極めて重い。
 
 いずれにしても今回の問題は、巨人軍の伝統と格式を総崩しにする暴挙だ。一刻も早く真相を究明し、厳しい処分を望みたい。過去に八百長事件が発覚した「黒い霧事件」では関与した選手は、永久追放処分を受けた。それに匹敵する野球界に泥を塗り、野球少年たちの夢を打ち砕く暴挙である。刑事告発と永久追放処分を科し、再発防止に努めてほしい。

 原監督退任発表以降、本記事にアクセスが殺到している状況から、野球ファンの関心が高かった点を考慮し、ここに追記をした次第だ。

2013年10月24日 (木)

郡山の魅力再発見!⑤~知られざる郡山の素顔~

 このシリーズ記事も今回で5回目を迎えた。タイトルは多少なりとも大げさだが、今日は郡山市民でもあまり馴染みのない隠れた部分にスポットを当てたい。

 「赤木遊郭」

 赤木町と言えば、その名を一躍全国区に押し上げたのが、皮肉にも、ありがたくない汚名となった「ゴミ屋敷」である。旧コマツ醤油屋の坂を上がって、日の出屋酒店があった交差点を左折し、細い一方通行路を4号線に向けて進む道すがらにあった。赤木町と咲田二丁目にかけて4軒またがって民家にゴミを溜め込んで放置していた。連日マスコミが押し寄せてワイドショーの中継を行っていた。しかし、それはもう10年近く前の出来事で、町内会の働きかけもあって、一掃作戦を展開。70トンものゴミを清掃処理センターに運んで処分。その一角は整備され、もはやその面影すら感じられないほど綺麗になったという。

 それはさておき、郡山は江戸時代に奥州街道の宿場町として繁栄した。交通の要衝だったこともあり、旅人の疲れを癒すために一宿一飯を提供する御宿も数多くあったと聞く。温泉場でもないのに、よくもまぁ郡山の礎を築いた産業が宿貸しだったとはいささか戸惑うし歯がゆい感じがする。しかも当時は、現在の4号線沿いに、旅人へ遊興を提供する場と称して「遊郭」が築かれたと文献には記されている。そして時が明治に移ると、今の赤木町の一角へと移転したようだ。そうした記述がある史実は以下の通り。

 明治32年、郡山市街地からの移転問題が起こった。もともと街道宿駅として発展した郡山は、江戸時代には飯盛女が名物として道中記にも紀行にも知られていた。明治5年10月の人身解き放し令で、娼妓廃止となったが、翌年貸座敷規則によって復活、明治34年赤木へ移転。郡山の歓楽地となって夜毎に太鼓の音や絃歌が響いていた。

 当時のその建物は赤木の高台にドンと聳え立つ大御殿で、それは豪勢な造りで圧倒されるような威容だったとされる。下の白黒写真がそのかつて豪邸「赤木遊郭」である。

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 「遊郭」といえば江戸の「吉原」が有名だが、赤木のそれも、吉原を模した造りで、入口には大門が聳え、華やかな様相だった。朱塗りの格子窓から艶やかに化粧して、華やかな着物を身に纏った遊女たちが夜毎男たちを色仕掛けで誘い、一夜を共にしたに違いない。男心をくすぐる遊郭は、今で言うと性風俗で、まさに「夢の世界」だが、よもや郡山にもそのような大掛かりな建屋があったとはいささか疑問だった。実際にそのような客引きをしたか否かは不明だが、芸妓達が小太鼓叩き、三味線を弾いてのいわゆる芸者遊びをしたのは間違いないところだ。

 そこで、実際にその痕跡をこの目でしかと見届けようとその地を訪ねてみた。それは10月6日(日)のことであった。

 小学生時分に野球をしに行った空き地がある狭い道路を下って上がり、周囲を注意深く調べながら車を走らせたが、やはりもうゴミ屋敷らしき建物は確認できず。家主が改心したか、引っ越したかだろう。その後、それらしき十字路で右折し、2年前まであった筈の大門があった道路へ。右側にビジネスホテルが・・・。目印となる下宿「一登苑」は跡形も無くなっていた。

 9時12分に到着し、10分ほど滞在。アスファルトの路面には、大門の支柱を移動した部分を埋めたような痕跡も皆無。その近くに小さな石柱の欠片が転がっていただけ。

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上の写真の電柱がある付近に石柱の門があった。もちろん道路の両側に。

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 複数のブロガーの方の訪問記事を読めば、その大門が最近まで壊されずに残っていたのだが、2年半前の震災で「特定危険物件」に指定され、崩壊の危険度が高いことから、敢え無く撤去されたらしい。訪れた方の記事をリンクさせていただいた。

http://blog.goo.ne.jp/erotomania_2006/e/a3b9fbe2f61094e6485f35110e54b8ef

http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/waki/mati.htm

http://huusan.exblog.jp/6177836/

 撤去前のそれは、結構な高さがあり、石造の門柱には「明治三十四年九月建立」と彫られていた。『消えた赤線放浪記』によると、この遊郭は旧街道沿いに点在していた妓楼を集めて建造されたもので、昭和初期には妓楼十軒に六、七十人ほどの女性がいたらしい。残念ながら現在はこの大門跡を含めて周囲は住宅街になっており、往時を物語るものは何一つ残っていない。当時の面影を偲ばせるものは無いのは残念だが、意外な新発見を得られ、40数年郡山に居を構える私としては収穫だった。

 記事作成:10月5日(土)~7日(月)

2013年10月23日 (水)

有名人の墓参りと鉄道博物館の旅②(10/23)

 2日目の旅程は以下の通り。

 カプセルホテルー大森駅ー新橋駅ー築地市場(高級玉子焼「山勇」)ー新橋駅ー信濃町

 駅ー慶應義塾大病院(坂井泉水転落現場)ー新宿駅ー大宮駅ー鉄道博物館ー大宮駅

 ー郡山駅ー自宅

 <実際の旅行記>

 10月23日(水)くもり

4時過ぎ 早朝まだ暗い中、4時過ぎに隣りのカプセルのアラームが鳴り出して、叩き起さ
     れる。しかも消し忘れたらしく、いつまでも鳴り止まない。その後、15本ほどやか
     ましい苦痛に耐えながらウトウト。熟睡を妨げられた。
 6:25 カプセルを出て、5Fのラドン温泉へ。昨夜のネット時、隣りのオヤジがタバコをプ
     カプカ吸い、全身に臭い匂いが染み着いたので、それを振り払おうという試み。体
     重は72.7kgだった。せっかく徒歩で減量したのに、昨夜の夕食で0.5kg増え
     る。この時、湯船につかりながら、本日の出発を早めようかと思案。通勤ラッシュ
     に遭遇する時間帯(8時)にチェックアウトする予定だったが、最初の訪問地が築
     地なので、早朝からやっていることも鑑み、早出しようと画策。
 6:50 カプセル(2030号)に戻る。布団の下に隠しておいた財布やPCやらは無事だっ
     た。すだれは降ろすが、中に人がいると思わせるように、ルームライトは点灯した
     まま出るのが安全策。ここから急ぎの行動。
 6:55 4階のレストランで、洋食セットを注文。右側の9番の席。内容はボリュウムある
     トーストとサラダ、ハムエッグ。それに室内が暖房使用で暖かいので、アイスコー
     ヒーを頼んだ。これがすべて宿泊費に含まれる。ワンドリンクと朝食付きで一泊
     3,600円は、どう見ても激安価格。アメニティも部屋着も付いている。この時点
     で、通勤ラッシュを回避すべく、予定より早い出発を決意。2階のカプセルに戻り、
     急ぎ出発準備。

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 7:16 荷支度を整えて、カプセル内を何度も見渡して忘れ物がないか確認後、1階フロ
     ントへ。チェックアウト手続き。前回異なり、追加の昨夜の夕食分の2,200円の
     みの決済。もちろん楽天カードでサインのみ。靴箱の81番の鍵を受取り、ホテル
     を出発。外は曇り空だが寒くはない。
 7:21 徒歩で大森駅へ。既に駅からサラリーマンやOL達が出てくる。券売機で新橋ま
     で160円の切符を購入。他の客は皆、携帯でタッチして改札通過。階段を上がる
     途中で先発列車が発射。僅かの差で乗り遅れる。ラッシュは8時半前後かと思い
     きや、この時間帯でも既に車両は満員。
 7:24 女性専用車両に間違って乗らぬよう注意して乗り込んだ。大森駅出発。新橋は
     大森からは京浜東北線で5つ目。3年前もこうして満員電車に揺られ、田町で降り
     たっけ。あれは震災の前年だった。
 7:40 新橋駅着。1月に劇団四季の芝居を見に来た時のルートと同じ。地上に出ず
     に、そのまま階段を下りて地下通路へ。通勤のサラリーマンの歩く速度は速い。
     人の波。これが嫌で東京在住時はバイクで走っていた。ぶつからないように人ご
     みを避けて歩くのが難しい。この時点で既に昨日痛めた足と脚が痛む。付け根部
     分も酷いが、両足の裏が水ぶくれで、地面に着くたびに激痛が走る。まずい・・・。
     今日も相当歩くはずだ。湿布やトクホンチールを持参すべきだった。パナソニック
     ショールームの広場の先に、見覚えのある「四季劇場海」の広場。
 7:44 四季劇場海に到着。いったんそこで写真撮影。現在上演中の新作「ウィキッド」
     の宣伝用垂れ幕が下がっていた。昨日の夕方に、それを見ようと計画を練ったこ
     ともあったが、キャンセルした。その後、階段をどうにか登って地上へ。車の往来
     が激しい通り。浜離宮周辺は工事中で、歩道と車道が柵で仕切られ、歩道は迷
     路のようにくねくね廻っている状態だった。首都高速の高架橋の下を渡るが、脚
     の激痛に耐えながらの徒歩移動。早足のサラリーマンに追い越される。右手には
     浜離宮の庭園とその右隣りには首都高のランプ。都会の風景だ。左の頭上に
     は、朝日新聞社のどでかい社屋が聳えていた。左カーブを進むと、青果市場の入
     口が見えた。しかし!ショッキングなことに、「本日休場」の文字看板と共に「青果
     門」の門扉が閉鎖。「まさか!」築地市場自体が本日休みで中へ入れない?店も
     休みでやっていない?立て続けに嫌な予感。「朝日新聞社」と「国立がんセンタ
     ー」の巨大にして豪勢なビルの前を歩き、築地市場の正門へ。

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 7:57 角に交番有り。写真を撮っていると、不審人物のような眼差し。やはり門は閉
     鎖。がっかり。通り過ぎて、その先のGSの角から右折。その周辺は「築地外市
     場」だった。何軒かは店を開いていた。ここの目的は私が大好きなZEROキャスタ
     ーの山岸舞彩さんの実家の「高級玉子焼き 山勇」を訪ね、土産に玉子焼きを購
     入すること。脚の痛みに耐えながらやっとこさ来たのに、いきなり出鼻を挫かれ
     た。水曜日は「水産デー」で一番賑わう曜日ではないのか?」ネットでちゃんと定
     休日を調べてきたのに・・・。
 8:00 一字違いの「山長」という玉子焼き屋は開店していて、外国人観光客の人だかり
     が出来ていた。もしやここの市場外にあるのでは?と勘ぐって、何度か周辺を歩
     き回った。同じ目的なのか、カップルも店を探している様子だった。一部の鮨屋は
     早朝から開店していたが、軒並みシャッターが閉まった市場商店街を周回した
     が、目当ての「山勇」はどこにも無かった。閑散とした市場の周辺。神社があっ
     た。ここまで来て店にたどり着けずに帰るのも癪に障る。「山長」の前に戻ってき
     た。その前に休憩所があり、自販機でお茶を150円で購入して足の痛みを和ら
     げようと休息。すると中に入れないと思っていた築地市場内を観光客が入って歩
     いている人影を目撃した。もしや?その建物の中の通路を渡る。その際、壁に
     「玉川村の野菜」をPRするポスターと直売所を発見した。何という偶然。そのまま
     外へ出て、GSの前を通って、再び交番のある市場入口(正門)へ。中から外国人
     観光客たちが出てきたのを見て、「行ける!」と確信した。その角に事務所らしき
     プレハブ小屋があったが、何食わぬ顔で入場。 市場の機能は完全停止している
     し、人影の少ない市場内に潜入。ここまで来たのに門前払いは悲しすぎ。築地市
     場内も足を引きずりながら歩いた。この界隈のどこかに「山勇」はあるはず。しか
     し、シャッター街の商店街を何度も往復するが、なかなか見つからない。2~3周
     した頃、偶然に丸昌近くの角地に「山勇」の文字を店先に発見。やっとたどり着け
     た。感動的だった。いきなり現われた。

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 8:26 「山勇」に到達。周辺はひっそりして誰もいない。私一人の状況。休業日の模
     様。土産を買えずがっかり。若いお父さんとも話したかったし、携帯の待ち受けが
     彼女の画像なので、それを見せて大ファンですと伝えたかったのだが・・・。10枚
     以上店構えの写真を撮影した。10分近い滞在中、誰もここを訪れる人はいなか
     った。店が閉まっているのだから、当然といえば当然。お店はここだが、自宅はこ
     こではない。たぶんここからほど近い下町のどこかだろうが、彼女は親と一緒に
     住んでいるようだ。帰る頃になって、別々の二人の観光客がマップ片手でこの辺
     に姿を現した。たぶん「山勇」が目当てに違いない。私が写真を撮っていたため、
     それが目印になっただろう。次回来る時のために、正門からそこまでの地図をメ
     モした。正門から結構近い位置にあった。「魚がし横丁」という名称だった。

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 「山勇」のホームページはコチラ

 「山勇」の位置はコチラ → 「yamayu.jpg」をダウンロード

 8:36 築地市場発。正門から出た。足の裏、水ぶくれが更に膨らんで少しでもショック
     が加わると痛む。右脚の付け根部分は激痛。びっこ状態の歩行。来た道を戻る
     がしんどいし、歩くペースが極端に落ちる。ラッシュの時間帯は過ぎたかに思えた
     が、出勤途中のOL、サラリーマンの集団と何回もすれ違う。東京の若き女性は
     皆、綺麗だ。ビル風なのか結構風が強く吹いていた。至近の大江戸線に乗れば
     良かった。国立競技場前で下車すれば、次の訪問地の信濃町の「慶應大学病
     院」が近かった。 
 8:48 激痛に耐えかねてパナソニックショールームのテーブル椅子で休憩。痛みを癒
     す。ポケット地図をバックから出して、近道がないか探る。バインダーから慶應病
     院付近の地図と写真入りの資料を出して差し替えた。胸ポケットにはデジカメと全
     体の行程表。風が強くて肌寒い。通りの方では緊急自動車のサイレンが鳴り響い
     ていた。
 8:57 パナソニック広場を出発。地下道に入ると風はおさまった。でも9時を回っても人
     並みは途絶えない。ぶつからないように細心の注意。一度も地上に出ずにJR新
     橋駅の構内へ。秋葉原で総武線に乗り換えるが、信濃町までは160円。
 9:03 新橋駅発。京浜東北線のほうが速度が速いので山手線には乗らず。しかし、神
     田で下りて隣りのホームの中央線に乗り換えるべきだった。

 9:15 秋葉原駅で乗り換え。上りと下りのホームを間違えて電車一本を逃す。
 9:17 後続列車に乗る。しかし、満員状態。立ちっぱなし。御茶ノ水駅で、同時にホー
     ムに滑り込んできたオレンジ色の中央線の車両がガラガラ。ホームを渡ってダッ
     シュで乗り換え。しかしこれが裏目。その電車は特別快速で信濃町は通過。手前
     の四谷で降りて、再度後続の黄色の中央線各駅停車に乗り換える羽目に。向か
     い側の男性が寝ていて乗り過ごし、慌てて出ようとしたが、扉がしまって出れなか   
     っ方と一緒に降りた。しばらく待つ。
 9:29 後発の電車に乗り、次の信濃町へ。結局乗り換え失敗。
 9:32 信濃町駅着。駅を出ると、そのすぐ斜め向かいが、次の訪問地の慶應大学病
     院。スクランブル交差点で信号待ちの人だかりが、皆同じ場所へ吸い込まれてい
     く。

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 9:35 正門を通り、駐車場を横切って、すぐ右手に見えていた1号棟の問題のスロープ
     へ。そこはZARDのボーカル・坂井泉水さんが転落して亡くなった現場だった。しか
     し、意外にも門のすぐ脇で、もっとも人の往来が激しい場所。早朝とはいえ、この
     ようなひと目につきやすい場所で彼女が転落したとは・・・。その前に警備員がい
     たので、念のため断って写真を撮らせてもらった。本などに掲載する目的でなけ
     れば、個人として保存目的であれば構わないという返答。もちろん、両手を合わ
     せ、黙祷し、彼女の冥福を祈ってから臨んだ。そのスロープは、上部にステンレス
     製の手すりがあり、乗り越えない限りは、事務所が発表したような足を滑らせて転
     落したなんてことは絶対に不可能だ。しかし、病気を苦にしての覚悟の自殺なら
     ば、高さ3mしかないこの場所では死にきれない可能性があったはず。事故の直
     後は真相を探ろうと、マスコミが勝手気ままに掻き立て、噂が飛び交うこととなっ
     た。ここの4階に彼女は子宮頸がんで入院していたのだった。それが肺に転移し
     てしまったために、悲観したのだろうか。大ファンだった身としては、これ以上のこ
     とは詮索できない。この裏手の人影少ない場所が悲劇の現場だが、周辺には車
     やバイクが所狭しと駐車してあった。6年前の事故の痕跡や面影は全くない。何
     事もなかったようにひっそりしているし、花一輪さえ供えていない。角度を変えて5
     ~6枚シャッターを切った。あの日の出来事は、開けても触れてもいけないパンド
     ラの箱状態で、封印されてしまったようだ。救命センターの入口の前を通って正面
     玄関から病院内へ潜入。入口に上半身のでかい福沢諭吉先生の銅像が置かれ
     てあった。内部は多数の患者でごった返していた。作り自体は大病院そのもの
     で、南東北病院のそれと似ていた。受付も全て機械処理だ。中央の総合案内所
     で、館内図を貰う。1号棟に行けないか尋ねたが、入院患者専用なのでそれは無
     理そう。試しにどこかに通路がないか探検しに、東側の1Fの通路を歩いてみた。
     どこを探しても1号棟への表示は皆無。放射線科の通路を50mほど行ってベンチ
     でメモ書きして、再び戻った。
      その後、ふたたび正面玄関から出て、軒先を辿り、再度転落現場へ。どうしても
     信じたくなかったし、受け入れたくなかったが、この場所で彼女が転落して、それ
     がもと(脳挫傷)で亡くなったのは揺ぎのない事実なのだ。あの時に時計の針を戻
     せたら・・・。何度もその付近を往復。再び写真撮影。時折、人が通るが、何も気
     にする素振りはない。ここで有名な人気アーティストが命を失ったというのに・・・。
      最後にもう一度合掌してからその場を立ち去った。たぶん、この場所に来ること
     は二度とないだろう。

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 http://www.youtube.com/watch?v=Nu8rZIsTXdA (当時のニュース映像)

 http://www.hosp.keio.ac.jp/ (慶應義塾大学病院のホームページ)

 (ミステリー作家戸松淳矩さんの「転落死の謎」のHP)

 http://89865721.at.webry.info/200706/article_2.html

      実は、もうひとつこの場所には或る思いがあった。それは昭和の時代に、石原
     裕次郎が心臓の大動脈瘤の手術を受け、3%の生存率しかない難しい大手術の
     末に生還を果たした場所だったのだ。屋上で、渡哲也と石原まき子夫人に付き添
     われて、ガウン姿の彼が車椅子から立ち上がり、詰めかけた報道陣に向かって
     手を振って歓声に応えたのがここだった。
 9:52 慶應大学病院発。ここまで当初の予定よりも1時間半も早い。やはり、築地がい
     きなりの休場だったせいで、時間が余ってしまったのだ。こういう事態に陥った時
     の時間の潰し方を知らない。東京ドーム?新宿下車で遊び?アメ横?くらいしか
     思い浮かばない。とても「東京スカイツリー」まで足を伸ばして戻れる時間ではない
     し、岡田有希子が投身自殺した四谷の「サンミュージックビル」は今回の趣旨に合
     わない気がした。「あまちゃん」でブレイクした原宿のNHK放送センターや靖国神
     社再訪なども頭にはなかった。あまり歩きたくないので、このまま大宮に向かい、
     鉄道博物館で時間を調整することにした。やはり都会の雑踏は苦手だ。

10:00 信濃駅でスタンプを押し、大宮までの450円の切符を券売機で購入。中央線乗
     車。メモすることは足の痛みばかり。それと仕事でしくじり、人間関係を悪くしたこ
     とが旅行中ずっと脳裏から離れなかった。この中央線はシートが跳ね上げてあっ
     て、広々空間。10時まではラッシュを意識してこのような配置に。10時過ぎたら 
     近くに立っていたサラリーマンのおじさんが急にシートを手動で倒して座り始め
     た。
10:04 新宿駅到着。乗り換え。階段の途中で発車のベル。タッチの差で先発列車に乗
     れなかった。

10:17 4番線から「湘南新宿ライン」の特別快速に乗車。最初は満員で座
     大宮まで直通運転。有難い。しかも停車駅は、池袋、赤羽、浦和のみ。周囲の人
     は相変わらず携帯でネット通信。少し居眠りした。ずっとどんよりした曇り空。都会
     から逃げるように電車は都心から離れていく。
10:31 赤羽駅、10:40浦和駅停車。時々日差しが降り注ぐ瞬間があった。大宮駅のす
     ぐ手前に「スク水専門店の可愛子ちゃんの大看板」。妖しい誘惑。
10:45 大宮駅に到着。ここからさらに地獄体験。歩きたくないのに足を引きずってニュ
     ーシャトル乗り場へショッピングモールのような通路を北へ。痛くて急いで歩けな
     い。対向してくる歩行者が多い。都会は人の波が半端じゃない。ニューシャトル
     (埼玉新交通)の乗り場は結構離れた外れの場所にある。券売機で180円(ひと
     駅間でこれは高い)の切符を購入していると、いきなり発車のメロディとアナウン
     ス。猛然と駆け込み乗車。間一髪で乗れた。
10:50 大宮駅発車。その路線は、レールがなく、札幌地下鉄のようにゴムタイヤ走行?
     ゆりかもめみたいな感じで、車両が短く、マッチ箱を連ねて走っている印象。しか
     もくねくねと蛇行した進路で、車両同士が曲がりくねって走行。急に雲行きが怪しく
     なり、上空真っ暗。いつ一雨来ても不思議ではない状況。
10:53 鉄道博物館(大成)駅着。皆、ここで下車。そこから階段を下りて、更に博物館の
     入具とまで200mほど歩く。辛い、広い通路に車輪やSLの前面部などが壁に埋
     め込まれていたり、すでにこの通路から展示物が始まっている。やがて右に折れ
     て、両側に入場券購入の券売機を発見。最初液晶画面のどこをタッチすればい
     いのかわからずに戸惑う。1,000円を投入し、磁気のパスカードを受け取る。改
     札機のようなゲート機にタッチして入場。
10:56 鉄道博物館初入場。6年越しの夢だった。やっと来れた。日本語版の館内案内
     パンフを取り、館内へ。いきなり床に、複数のSLのプレートがガラス張りの奥に埋
     め込まれてある。エスカレーターの付近に、遠足と思しき幼稚園児の集団が。賑
     やか。右に折れ、まずは1Fフロアから攻める。広大なフロアに圧倒される。いきな
     り旧国鉄時代の古い車両が現れ、順追って国鉄の歴史に触れられるような仕掛
     け。黎明期の超レアな客車や蒸気機関車が所狭しと展示されている。年代物の
     客車やSLが目を引く。衝突防止の閉そくシステムなどの機械類も陳列。このフロ
     アだけで、大小30以上もの車両があちらこちらの様々な向きで並んでいた。ひと
     きわ目を奪われたのは、やはり、自分が幼少期に乗った車両。それはクリーム色
     に赤のラインが入った「L特急ひばり号」、小豆色とクリーム色のツートンの急行車
     両。あづま・ばんだい・まつしまなど、かつて自分が乗車した懐かしい車両だ。亡
     き父親に連れられて東京見物した際には、行きがひばり、帰りが急行だった。こ
     れに何度乗ったことか。涙が出そうなくらい懐かしい。本日は先頭車両のマークが
     「あいづ」ではなく、「ひばり」だった。日替わりで交互に表示が変わるが、ラッキー
     だった。早速車両に乗り込み、久し振りにシートに腰掛けて、当時の感慨に浸っ
     た。隣りの東北新幹線の初期型車両(緑のライン)には、お爺さんお婆さんの団体
     客が座っていた。階段で昇れば、車両の屋根の上から見物でき、パンタグラフを
     間近で見れる。また、車両の下に潜れる階段もあって、台座を下から眺められる
     スペースもあった。東海道新幹線の初期の0系新幹線の先頭車両、ブルートレイ
     ン「あさかぜ」、昔の国電(高尾行のオレンジ車両)も並列していた。所々に黒子の
     人形も効果的に配置し、ストーリー性を持たせた演出も施されていた。2F・3Fの
     南側は、ラーニングスペースで、電車が止まる仕組みや、衝突しない仕組み、あ
     るいは燃料の変化(石炭・軽油・電気)と動力の違いなどがつぶさに学べるコーナ
     ーもあった。信号も実物の模型もあった。自由にタッチして切り替えられる。また、
     1Fの屋外には駅弁販売コーナーと、本物の「あさま」と「とき」の車両が並べてあ
     り、車内で自由に食事が摂れるゾーンがあった。また、子供はミニ電車に乗れる
     アトラクションもあった。至れり尽せりで来訪者を飽きさせない仕掛けが多数。あ
     まり何回も来訪できないと思い、ここぞとばかり、脚の痛みを忘れてしゃにむに見
     学。3~4回同じフロアを往復して見物して回った。
      運転室や内部に入れない列車も多い。かつて実際に新幹線司令室で使われて
     いた、運行状況を示す大型パネルもあったし、運行開始した頃の新幹線の貴重
     な映像をテレビで放映していたり、子供が遊んだ新幹線のおもちゃも陳列してあっ
     た。家にも同じものがあった気がする。

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11:30 フードコートへ。2FのTDというレストラン。オープンスペース。デミグラスハンバー
     グ+ドリンクバーのセットを注文。1,080円。席を移動し、線路が見える窓際の
     一番奥のテーブルへ。やはり一人の見物は寂しい。No.1の立札。カルピス、ウー
     ロン茶、メロンソーダ(半分)、アイスティー(氷入り)、アイスコーヒー2杯で計6往
     復。貧乏性丸出し。悲しい性。曇り空に変化なし。コックスタイルでやや肥満気味
     の男性係員が料理をテーブルまで届けてくれた。

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11:55 食事終了。トレイと食器類はセルフで棚へ戻す。2Fの壁に沿って囲むように設
     けられ回廊通路を歩いているとちょうど時計の針が12時を指し示した。
12:00 転車台に乗った本物の巨大なSLがゆっくりと回転するアトラクションが始まった。
     汽笛を3~4回、館内中に鳴り響かせ、煙を噴いていた。そして360°ゆったりと
     時間をかけて台座が回転した。運転士もギャラリーに手を振っていた。女性の制
     服を纏った係員がMCを務めていた。
      更に館内を右往左往したり縦横無尽に片っ端から見て回る。これほどの車両群
     を間近で見られるスポットはそうそうない。一堂に会し、滅多にお目にかかれない
     レアな古い汽車も多数展示されている。鉄道の初期の頃のSLや豪華すぎる天皇
     家御用達の御前用の客車まであった。さすがにこれは立ち入り禁止。ガラスの向
     こうにあった。ただ残念だったのは、2Fの通路にある「運転シュミレーター」が予
     約制で、時間外で閉められてあったこと。有料で500円だった。その隣りの展示
     室には実物のパンタグラフや機械類、そして記念運転の際に車両のフロント部分
     に設置するプレートが飾ってあったり、東海道新幹線で使われていた列車の発車
     時刻を表示する回転ボードなども陳列してあった。

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12:30 WCの後、エレベーターで屋上のパノラマデッキへ。左側は、走行する新幹線の
     車両が生で間近に見られるコーナー、右側は、眼下に在来線が見渡せた。線路
     の数は10本では利かないくらい多い。オレンジと緑のカラーの車両が多く通過し
     ていた。鉄オタには堪えられない絶景スポットだろう。

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12:40 エレベーターで2Fに降りたら、巨大ジオラマのコーナーが開場していた。13時開
     演の運行プログラムまで、最上階中央のベンチに陣取って待つ。縦横無尽に
     様々な列車が走り回っている。子供には堪らないスポットだ。ガラス張りの奥に築
     かれたジオラマは、幅20mはあろうかという巨大な作りで、鉄道もHOゲージ。山
     あり谷あり、海あり市街地ありの凝ったレイアウトで、大規模なものだった。次第
     に客足が増え、幼稚園児たちも乱入。一気に煩くなる。
13:03 運行プログラム開始。女性係員の案内付き。でも園児の大歓声で聞こえない。
     前面の上部に備え付けられた4つのモニターに走行する「はやぶさ」が映し出され
     ると大歓声。照明が明るくなったり暗くなったりと24時間の情景を再現していた。

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13:30 その後、再び館内を巡回。5~6回目か。1Fには高崎線の特設コーナーがあっ
     た。傾斜のある坂道を汽車が登るのが、当時はどれだけ大変だったかを模型を
     使っていじって学べた。ここは写真撮影禁止だったのに、わからず撮ってしまっ
     た。この館内は、一部を除いて、基本的にフラッシュを炊かなければ写真撮影は
     OK。また、スイッチバック方式を説明する模型では、自分で電車の発着をスイッ
     チ操作できた。その仕組みを学べた。また、入口近辺のコーナーに衝突防止装
     置の閉そく区間を体験できる機械やその仕組みをVTRで見た。大きなワイヤーの
     付いた鍵のような物を各駅間で受け渡しして連絡手段にしていたは・・・。アナログ
     世界というか、ステレオタイプすぎる。見どころは無数にあり、ここで時間を費やし
     て大正解。1,000円でこれだけ見て回れれば安すぎ。何度も往来し、目に焼き
     付けた。平日で何より。ガラガラ状態で、心ゆくまでじっくりと見物できた。充実して
     いた。予定では2時間半程度の見物時間だったが、3時間半も見て回れた。おか
     げで脚はもう動かない。鉛を引きずっている感じだ。明日仕事なのに・・・。支障を
     来すことは必至。

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      最後に、再び2Fへエスカレーターで上がった。もう歩くのも辛いので、壁沿いに 
     設置された、国鉄時代からJRまでの鉄道の歴史を記した年表とガラスケースの
     中の展示物を見物した。古い切符や新幹線の模型もあった。年表にて自分が生
     きて来た時代を重ねて、いろんな出来事を確認。なかなか発見できなかったの
     が、「ひばり号」の運行開始時期と昨日訪れた鶴見事故の概要。後者は見つか
     り、昭和38年の発生で、死者は161名にも上ったとの記載。前者は、昭和57年
     の東北新幹線大宮駅暫定開業により、廃止された。「はつかり」「やまびこ」「つば
     さ」「やまばと」「あいづ」などの特急は相次いで廃止に追いやられた年だ。
      ぎりぎりまで歩き通して限界を感じたので、お土産ショップへ。めぼしい候補が幾
     つかあって迷った挙句、お菓子を3つ購入。1,575円で1万円を崩した。

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14:23 後ろ髪を引かれる思いを振り払い、カードを返却して外へ。その際、新品のパン
     フと来場記念のカードを2枚取った。足を引きずりながら鉄道博物館駅へ。券売
     機で180円区間の切符を購入。左奥のエスカレーターから1番線ホームへ。先頭
     で電車の到着を待つ。線路のない風景は奇妙。進行方向のアスファルトの路は
     急に盛り上がっていた。そこから見下ろす駐車場は平日のためガラ空き。上りと
     下りのホームがかなり離れた場所にある。先に到着したのは緑色の下り車両。音
     が少なくて静か。ほどなく赤い車両の大宮駅方面行きも到着。すかさずシャッター
     を切った。先頭車両の一番前に陣取り、運転手の背中越しに進行方向の風景を
     観察。まるで子供。隣りには下校途中の中学生グループ。

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 鉄道博物館の公式ホームページはコチラ

14:34 鉄道博物館駅発車。60km/h未満の走行なのに速く感じる。急坂をアップダウン
     しているのに、鉄製の車輪ではないためか異様に静か。
14:39 右に大きくカーブして大宮駅に滑り込んだ。凄いアングル。すでにこの電車の到
     着を待っていた乗客が多数並んでいた。コンコース通路を渡って再びJRの改札
     前の広いスペースへ。北口改札や南口改札などたくさんあって迷う。しかし、帰り
     の新幹線までは1時間近くある。さて、どうやって時間を潰すか。いつもこれで頭
     を痛める。どこか行こうにも足が痛くてどうしようもない。歩けない。NEWDATSのコ
     ンビニで綾鷹を147円で購入。
14:54 やむを得ず長いエスカレーター乗り、17番ホームへ。その前には連結車両数と
     乗るはずの7号車の位置を何遍も表示板で確認しておいた。この辺りは用意周
     到。ホームのベンチに座り、新幹線を3本見送る。自由席でもいいから、目の前
     の車両に飛び乗りたいくらいだった。でも列車指定なので、所有しているチケット
     では、変更が不可。結局30分以上も待たされた。郡山に帰れば、現実に戻され
     る。嫌な気分を残しての旅立ちだったので気が重い。ホームを行き交う綺麗な女
     性たちを眺めて目の保養。この旅行で硬いアスファルトの上を20km以上歩き通
     したせいで腰も痛いし、もう動きたくない心境。今回の旅行では、靴が合わないせ
     いもあるが、とにかく歩き疲れた。足の裏の水ぶくれがあまりにも痛い。でも後悔
     だけはしたくなかった。いかんせん田舎者なので、しょっちゅう東京に行けない。

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15:34 やっとこさ「やまびこ143号」が滑り込み、乗り込んだ。7号車2番E。窓際だ。し
     かし、東京駅、上野駅と経由しても私の座席の隣りには意外にも乗客なし。という
     かこの先も郡山駅までは隣りに誰もいない状況が続いた。そして車内はガラガ
     ラ。曇り空。この2日間、2つの台風襲来で、晴れ間はなかったものの、傘をさす
     場面は一度もなかったので幸いだった。次第に、郡山を出る時に、不愉快な思い
     を残して来たことが蘇ってきて、胸糞悪くなって、ムカついてきた。
15:58 宇都宮駅着。相変わらずの曇り空。小高い山の上にタワーが建つお馴染みの
     光景。ここでも車内はガラガラ。隣り不在。なのに何故30%割?これだったら
     35%引きでもOKだったのでは・・・。トンネルが増えだし、白河駅をノンストップ通
     過。8月に訪れている見慣れた風景。須賀川~安積町の景色。ビッグパレット、
     49号線の東陸橋が左側に流れゆく。スピードダウン。
16:28 郡山駅着。夕暮れ。つい4日前に、この駅前広場で或るパフォーマンスを実施し
     たが、遥か昔の出来事のよう。それくらいいろんな出来事があったということ。改
     札を抜け、エスカレーターにて1Fへ降りた。そして迷わずバスターミナルへ。やや
     肌寒い。7番のりばの「さくら循環」が間違いないが、2分前に出発したばかりで、
     後続は20分以上も待たなければならず、至近のバス停の時刻表と路線図を見て
     回った。すると16時40分発のバスがあった。それは9番乗り場から出る「あすな
     ろ循環バス」だった。それを待つ。
16:40 郡山駅発。郡山駅前の大通り、中央大町、R4をまたぎ、清水台経由。
16:50 第二中学校前バス停で下車。170円。ちょうど小銭の持ち合わせがあった。
16:52 そこから徒歩で100mほど歩き、車を預けた実家へ。お土産のチョコを渡し鍵を
     受け取る。仏壇に手を合わせ、線香を手向ける。母親に石原裕次郎の墓参りに
     行ってきたことを告げる。そんな目的でわざわざ東京へ行ったのかと半ば呆れら
     れた。実家に行った際には必ず出てくるお茶と梅干、みかんとりんごをゴチになっ
     た。薄暗い。
17:28 実家を出て、車で神明通り、会津街道経由で帰路に着く。
17:42 自宅到着。自宅には、小学校の同窓会の案内ハガキが届いていた。平成9年1
     月以来、17年振りの開催だ。またイベントが続くことにニンマリした。

 2日目の費用

 宿泊代(前日の夕食を含む) 5,800円
 電車代 160円+160円+450円+180円+180円+4,400円
 お茶代 150円+147円
 入場料 1,000円
 昼食代 1,080円
 土産代 1,575円
 バス代   170円

   計 15,452円          2日間の合計額  22,927円  

  後記

 さて、22日(火)、23日(水)の振替休日を利用しての東京旅行の一部始終を記載したが、いかがでしたか。個人の備忘録のつもりで紀行文形式で書き留めてみた。あまり参考にはならないかもしれないが、所詮人間の記憶なんて曖昧なもので、大切な旅行の想い出も、数年もすれば立ちどころに忘れてしまうもの。だから、忘れないためにこのような紀行文をしたためている次第だ。
 今回の旅行は、10月の一大イベントを無事乗り切った自分へのご褒美として計画していたもので、今年中に行っておきたい場所を幾つか事前にセレクトしていた。しかし、2つの超巨大台風の襲来で実行が危ぶまれたり、前日には、人間関係をしくじって、その余韻を引きずったままの旅立ちとなり、やや心底楽しめないものとなってしまった。決して逃避行とするつもりはなかったのだが・・・。これが唯一の反省材料。

 旅行自体は、初期の計画をほぼ達成できて充実していたし、満足している。しかし、築地市場が休みとなったことで、山岸舞彩キャスターの実家の玉子焼き屋で土産を買えなかったことが残念な出来事だった。初日の墓参りは出来すぎ。天知茂、石原裕次郎という昭和の大スターの墓を相次いで訪れて、実際にお参りできたことは収穫だった。そしてメインだった、坂井泉水のお墓参りを実現出来きたことは奇跡に近いことだった。数少ないネットの情報を頼りに、そこに映し出された建物を手がかりに自分で予想を立て、ここが最有力地との予測を立て、それがまんまと当たった。本当に彼女のお墓を発見できた時は、この上ない幸せ感を得た。でも彼女の墓前で思ったことは、彼女は6年半近く前に、紛れもなくこの世から去ってしまったという、信じ難く、受け入れがたい現実だった。心にポッカリと穴が開いたような虚脱感。2日目には転落した現場も訪れ、心から彼女のご冥福を祈りつつ合掌したが、6年の月日は、彼女の存在すら薄くしてしまうほど、何事もなかったかのような日常がそこにあった。悲しい現実を突きつけられて、身につまされた。だけど幾ら時が経とうとも、大好きだった彼女のことは決して忘れないでいたい。この記事を執筆している最中でも、イヤホンで聴いているのは彼女の曲だ。本当は涙が出るくらい悲しい出来事だったが、彼女のお墓参りを実現できたことで、生前会うことが叶わなかったのに、こんなにも彼女を身近に感じることができている。少しはお墓の位置が判明し、行こうと思えば毎年でもお参りに行ける状況を得たことで、彼女を失った悲しみの傷が癒えそうな気がしている。
 そして締めくくりに訪れた「鉄道博物館」。6年越しの夢が叶った。初見参となったが、幼少の頃から鉄道ファンだった私としては、何もかもが新鮮で、ノスタルジックな感慨に浸る場面が随所にあった。特に亡き父親に連れられて東京見物した時に乗ったのは、毎回「ひばり1号」だったし、帰りは21時台の急行「あづま」や「ばんだい」、「まつしま」だった。その両方が展示されているのには正直シビレた。亡き父との想い出がここに来れば鮮やかに甦るような気がした。マイナス材料は、今夏の北海道旅行時もそうだったが、靴が合わず、歩き通した結果、脚の付け根と足の裏の水膨れを拵えたことによる激痛を伴い、思うように歩けなくなったこと。激痛と闘いながらの旅路となってしまった。次回は、このようなことが起きぬよう、万全の態勢で臨みたい。

 最終記事作成:10月25日(金) 22:36

 

 

2013年10月22日 (火)

有名人の墓参りと鉄道博物館の旅①(10/22)

 前日まで休みなしで仕事を頑張った自分へのご褒美で計画した今回の旅行。10月3日(木)の夜に「えきねっと」の「お先に得だね」で30%OFFのJR往復券と3年前に、在籍する「慶應義塾大学法学部」の夏期スクーリングがあった際、7日連泊してお世話になった「カプセルホテル」をネット予約。その日の午前まで、35%引きでガラ空きだった帰りの列車が、夜には完売という憂き目に遭い、やむを得ず帰宅を1時間遅らせて30%引きの列車を予約。「善は急げ」を思い知った。
 この有名人の墓参りプランは、実は8月に計画していたが、実現に至らなかった。しかも毎週火曜日は、「鉄道博物館」が休館日となることとで、一日ずらし、帰り際に立ち寄ることに変更した。しかし、今回のメインはそこだけではない。最大の目的は、私がこよなく愛した3人の芸能人のお墓参りだ。生前にはいずれもお会いできなかった面々だ。
 今回、私が予てから是が非でもお墓参りしたいと切に願っていて、実現にこぎつけた有名人は「坂井泉水」と「石原裕次郎」。二人とも、我が「慶應義塾大学」にゆかりがある。そしてもうひとりは、当初計画していた「美空ひばり」を、遠路に加えて電車の接続が悪いという理由から、これを中高時代の憧れの存在だった「天知茂」に変更した。彼の墓所は、私が住んでいた「三軒茶屋」にほど近いことから、学生時代のアパートを5年半振りに訪れ、そのついでに墓参りに出向くことに変更した。
 しかし、案の定、予想通りだった。一週間前までは両日ともに天気は快晴予報。ところが5日前の17日(木)になって、2週連続で台風(27号)が突如発生し、その日の襲来が確定的に。予報も、くもりのち雨に変更された。昔から雨男だったが、ここまで祟られるとは・・・。せっかく苦労して取った「JR新幹線指定券」と宿のキャンセルを検討。この台風、先週の26号と同じルートで猛烈な強さ(何と過去最大の910hp・最大瞬間風速70m)だが、思いのほか速度が遅く、23日でも九州の南付近にいる予測。何とか新幹線で逃げ切れるだろうと楽天的に考えてキャンセルを踏みとどまり強行することとした。

 

 そういうわけで今回の旅は、一世を風靡した芸能人の「墓参り」がメイン。しかるに当日の旅程は以下の通り。

 

AmachiSakaiIshihara

 

  初日の旅程(予定)は以下の通り。

 

 自宅発ー郡山駅ー大宮駅ー渋谷駅ー三軒茶屋ー学生時代のアパートー龍雲寺(天知

茂の墓参り)ー駒澤大学駅ー某駅ー某霊園(坂井泉水の墓参り)ー某駅ー踏切事故現場

(合掌)ー鶴見駅ー総持寺(石原裕次郎の墓参り)ー大森駅ーカプセルホテル(泊)

 

 <実際の旅行記>

 

 初日 10月22日(火)くもり→小雨→くもり

 

 7:58 自宅発。台湾と同じ服装。カバンがブタ状態。ラッシュの時間帯、内環状線混
     む。除染の機械がPに。8:13に無理やり停めて、路線バスが接近していたのを
     見て、即座に兄貴に鍵を手渡す。対面へ走る。
 8:13 第二中学校前バス停発。ガラガラで、先客2名。170円で駅前へ。寒くてくしゃ
     み。
 8:22 郡山駅着。バスターミナル内まで入って停車。どこぞの修学旅行生の大群が駅
     前広場に。幼稚園生も。すぐに構内へ。改札横の発券機でカードで暗証番号入力
     してものの1分で往復のJR券を発券。大宮往復で8,800円。安い!  
 8:53 郡山駅発 東北新幹線「やまびこ126号」8号車16番E。同じ郡山から乗り込ん
     だ62歳のサラリーマンが同席。野田元首相そっくりで、意気投合。話し込むうち
     に奇遇。出身が北海道上川、台湾の話、有名人の墓参りの話。蒲田に会社があ
     って、羽田でPC修理してもらい、明日帰るらしい。すっかり話し込んで、1時間楽し  
     く過ごす。修学旅行生も同じ列車に乗車。5~6号車らしい。
 9:58 大宮駅着。2回改札出て、券売機で渋谷まで540円。乗り換えホーム間違えっ
     て7番へ。酔っ払いが駅員に絡む。乗るはずの湘南新宿ライン乗り損なう。売店
     でお茶購入。147円。10:27発。15分遅れて一本遅い電車に乗る。滅茶混み。
     座れず。立ちっぱなし。するとさっき通った浦和駅で後発が人身事故でその後の
     電車から不通とのアナウンス。危なかった。それを予想した矢先にマジで事故。
11:04 渋谷駅着。長い通路を歩く。1階に下りて、ハチ公&路面電車のモニュメントの
     脇を通り、地下へ。東急田園都市線はオレンジの券売機。三軒茶屋までは150
     円。5年前もアパートを訪ねた際に乗ったのに、忘れ。新玉川線は無し。 
11:17 渋谷駅発 座れる。急行に乗り、池尻大橋パス。乗客は皆スマホばかり。
11:20 三軒茶屋駅着 徒歩で上馬のアパート方面へ向かう。もうすでに左の脚の付け
     根が痛む。やばい。昨日までの疲れ。周囲歩くのはやい。東京にいる実感無し。
     寒くはない。懐かしい街並み。足の裏も痛い。皮剥けそう。マルエツ、中里商店街
     へ。ここだけ時が止まったままで、学生時代と変わらぬ風景。でも酒屋がコンビニ
     に。銭湯の煙突が残る。左折。鉄塔見える。工事中の警備員を追い越し、心を躍
     らせながら右折。しかし・・・。

 

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11:32 上馬アパート着。5年半前に来た時にはあったのに、何と取り壊されて更地に。
     何もない。しかも大家さんの家も建て替えてあった。表札が2枚。呼び鈴押さず。
     28年前の想い出が消えた。がっくり。震災が原因で取り壊しか?ベルトがゆるゆ
     るで、ズボンが下がり、シャツが自然に外に出てしまい、何度も立ち止まっては直
     した。

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11:38 上馬アパート発。徒歩で一度かかったことがある石橋医院へ。ここの若くて可愛
     かった看護婦は優しくて、診察して帰宅後、すぐにお加減どうですかのTEL。私に
     気があるのかと誤解したほどだった。一方通行の細い住宅街の道路を南へ。私
     が中高時代に大ファンだった天知茂が眠る墓へと向かう。龍雲寺という墓地にあ
     るらしい。閑静な住宅街の一本道を進む。途中右手に上馬公園。腹減るし脚の付
     け根が痛い。靴に問題あり。北海道もこの靴で足の裏の皮が剥けてびっこ引いて
     いた。すると小学校が左手に見え、その手前にマンションがあるY字路に差し掛か
     った。そこで何と道沿いに「龍雲寺墓地」の標識と門扉を発見。通行途中に出くわ
     すとは何たるラッキー!ネット情報では、龍雲寺から10分ほど住宅街を歩いた墓
     地にあると記載してあったが、寺まで行かずともここで現れるとは。門扉は閉まっ
     ていたが、鍵はかかっておらず、自由に出入り可能。墓地自体、そんなに広くはな
     いので、天知茂の本名「臼井登」の文字を探して、墓地内を散策。一番奥から、
     入口に戻ってくる作戦。しかし、迷路のような区画に右往左往。どこにも無い。マ
     ンションの住人に不審者に間違われないか不安。なかなか見つからず、焦ってい
     ると、何と入口のすぐ左手の通路にあった。

 

11:48 天知茂の墓に到着。早速墓参り。しかし、芸能人だから、さぞかし立派で豪華な
     石構えかと思いきや、閑散。花も供えてないし、貧相な墓石に落胆。一般人と何ら
     変わらぬ大きさだし、狭い。確かに墓誌には、彼の本名と没年、享年54才の文
     字まで一致。ここで間違いない。戒名には芸名の天知茂の天と茂の文字が使わ
     れていた。「天秀院茂道一徹居士」とあった。昭和60年7月27日没。54才とあっ
     た。しかし、あれほどの大スターだったのに、誰もお墓参りに来た形跡はなく、花
     もないし、線香をあげたような跡もなかった。あまりにも淋しい。お寺の手桶で水を
     汲み、墓石に掛けてお墓を清め、そっと手を合わせて語りかけた。「明智小五郎
     シリーズ」を大好きで見ていたことや、今でも全シリーズDVDを所有し、時々見て
     いることなど。頭の中ではOPテーマや非情のライセンスのテーマが鳴り響いてい
     た。私が墓参りの最中も、誰もこの墓地にはいなかった。寂しい限りだ。近くのア
     パートや民家の人が、不審人物を見るような視線を送っていた。実際、ここは学
     生時代にバイクで通っていたような気がした。私が三軒茶屋のアパートに住んで
     いた時には、彼は既に他界していたから、きっとこの地に眠っていたのだった。当
     時はネットが無く、墓地の情報が無かった。まさか歩いて5分ほどの至近に眠って
     いたとは・・・。龍雲寺まで行く手間が省けたので、私に縁の深い大学に寄り道して
     みることにした。

 

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 龍雲寺の公式ホームページはコチラ

  龍雲寺墓地の地図はコチラ → 「ryuunji.jpg」をダウンロード

 

11:53 龍雲寺墓地発。 徒歩で戻る。三茶から急行に乗っても良かったが、駒澤大学
     駅から乗ることに。アパート近くまで引き返し、迂回路を左折してR246沿いの通
     りへ。ディスカウントショップやGSも無くなっていた。足が痛くて極致だが、耐えな
     がら歩く。自転車の警官が違反者に目を光らせていた。そう言えば、地下鉄駅を
     出た直後に、自転車警官が違反者を止めて、切符処理をしている場面に出くわし
     た。警視庁は厳しい。徒歩で環七を横断。見覚えがある。脚と腰に激痛。駒澤大
     学駅の先の交差点を左折。本当はその一本先を左だった。間違えているとも知ら
     ず、南へ。道すがら、マルエツに入って、線香とライターを買い求める。2Fに上が
     って店員に尋ねると、1Fの薬屋だと言われる。戻ってまた聞いて、2束入り100
     円の線香と298円のチャッカマンを購入。398円。 
      左右を見渡しても大学の校舎らしき建造物なし。足が痛くて動き回りたくないの
     に墓穴で焦る。今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした曇り空。右折して、階段を
     上がって駒澤オリンピック公園を歩く。園路がサイクリングロード。運動部員が激
     疲で走る。右手にキャンパス発見。見覚えのある野音のような円形舞台。一度来
     た記憶あり。
12:35 ぐるっと回り込んで駒澤大学正門へ。学生がわんさか。私が受験の頃は、「日東
     駒専」は、受験者数が多くて入るのが難しかったのだが、少子化によって今では
     簡単に入れるようになってしまった。つい最近の出雲駅伝で優勝して話題になっ
     た。腹も減るし、脚の付け根は痛むし最悪。念の為に守衛室で怖そうな警備員に
     見学者と断ってキャンパスへ。メインの校舎が工事中。学生会館、1号館など写
     真撮りまくる。授業中のようだ。白髪頭のオッサンが場違いの感じ。北門から出よ
     うとして、警備員にこの門は工事中で片側通行と断られ、正門に回るハメに。駒
     澤公園通りへ。大勢の学生とすれ違う。途中、ベンチで休む。

 

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12:47 この通りとR246の交差点にある「すき家」に駆け込む。脚がどうしようもない。
     東京の地面は硬すぎ。すぐに足に負担が来る。390円の炭火焼き鳥丼。カウンタ
     ーへ。やっと休める。歩き通し。カバンが何度も転げ落ち、とっちらかる。メモ書
     き。
13:03 R246を歩き、駒澤大学駅へ。歩きすぎ。田園都市線の某駅まで?円。
     かなり遠いのに、私鉄は安すぎ。次は今回のメインの「坂井泉水」の墓だ。本当に
     あるのかも不明だが、情報に頼るしかない。行ってみてそこじゃなかった可能性も
     ある。

 

   場所を特定できる恐れが生じたため、以下にあった記載をすべてカットさせていただ
  きました。

 

14:05 右手にようやく「某霊園」の文字と入口が現われた。200mほどのアクセス路。
     左右に駐車エリア。左にカーブすると、正面に霊園事務所が。下って上った先が
     墓地。新しくて綺麗な霊園だ。明るい印象。事務所には声を掛けず。左側に納骨
     堂らしき建屋が。おそらく、その近辺に茶色い墓石の彼女のお墓があるはず。右
     側には自販機の業者が作業中。左に折れた途端、すぐに、明らかに坂井泉水の
     お墓とわかる門構えを見つけた。所在地は半信半疑だったが、本当にあった。嬉
     しかった。ここまで足の痛みに耐え、坂道を乗り越えてここまで来た甲斐があっ
     た。本当にここで良かったのだ。安堵感。芝生の園路。その周りに他に墓石は無
           く、やたら目立つ。しかし、思ったより区画が小さい。スターだっただけに、もっと大
           げさな作りかと思っていた。周辺には人影なし。というかこの綺麗な園内で、私一  
     人しか参拝者なし。誰もいない状況に戸惑う。そして彼女の「永遠」と刻まれた墓
     標の前へ。間違いない。門構えには本名の「蒲池家」の文字。そして墓誌には、
     彼女の俗名の「蒲池幸子享年40歳」の文字と彼女の戒名「麗唱院澄響幸輝大
     姉」、「平成19年5月27日没」と刻まれていた。裏手では納骨堂の補修工事をし
     ていた。ここはとにかく綺麗な霊園で、明るい印象。既に完売している。彼女の墓
     石にはチェーンが掛けてあって、中には入れないが、その脇には線香を供える場
     所もある。花苗が植えてある。やはり一般に公表されていないため、訪れるファン
     は少ないのだろう。花が一輪も供えてないし、線香を炊いた跡もない。あれだけ名
     曲を生み、多くのファンに愛された彼女が・・・。何か寂しすぎる。買ってきた線香
     に火を灯し、2箇所の線香台に供え、合掌。そして彼女への感謝を呟いた。明日
     には、亡くなった場所(慶應義塾大学病院)へ行くことも話した。頭の中は、「揺れ
     る想い」や「負けないで」、「永遠」のメロディーが渦巻いていた。
      今でも亡くなったことが信じられない。ファンの一人として彼女を時々思い出した
     いし、数年に一度はこの場所を訪れたいと思った。静かに眠らせてあげたいと思
     う反面、訪れる参拝客が無く、あまりにも寂しすぎる気がした。遺族の方にしてみ
     れば、墓を荒らされる危険を感じ「公表したくない」という気持ちもわかるのだが、
     それでもあまりにもひっそりしすぎていたのには驚いた。
      この一角だけポツンとしている。墓誌の隣りにはお父さんだろうか。66歳で亡く
     なった身内の方の名前が刻まれてあった。いつしか小雨は止んでいた。
      生前は一度も会ったことがないのに、こうして墓前に来ると親しみがわく。私とふ
     たりっきりの時間だった。また来ることを誓い、後ろ髪を引かれつつ、その場を離
     れた。

 

 <お断りとお願い>

 

 坂井泉水さんのお墓のある霊園は、ご家族の固い意思により公表できません。また、問い合わせにも応じることはできませんので、予めご了承いただきたいと思います。知ったかぶりとお叱りを受けそうですが、諸般の事情を何卒ご理解頂きたいと存じます。(場所を特定される恐れが生じたため、事務所の画像をモザイク処理し、前後の記載も省略させていただきました。)

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 坂井泉水さんのラストシングル「素直に言えなくて」はコチラ

 

http://www.youtube.com/watch?v=71LJbTHB0EQ

 

 映像集

 

http://www.youtube.com/watch?v=aWBKo9VuX4k

 

http://www.youtube.com/watch?v=AHKCs6gju2w

 

 坂井泉水FOREVERの記事はコチラ

 

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-8be8.html

 

14:18 霊園発。場所が特定される恐れが生じたため、これ以降の記事をカットさせて  
    いただきます。

 

14:44 ?行JR?線へ乗る。各駅停車で座れる。山手線と同じ車両。ある場所で合掌す
     るつもりでいたが、JR某駅の先の踏切に献花台を見つけた。迷わず手を合わせ
     た。そこは踏切内で倒れていた老人を助けた女性が電車にはねられて亡くなった
     現場だった。写真は撮れず。花束がたくさん並べてあった。隣りに幼稚園生が座
     る。某駅で目の前に巨大な総合運動競技場の建物。

 

              Jraccident

 

15:06 某駅で下車。乗り換え。京浜東北線に乗る。
15:10 乗車。新子安の先で「鶴見事故」の慰霊碑がないか注視。しかし、鳥居と社しか
     見えなかった。
15:17 鶴見駅下車。曇り空。遠回りしてロータリーを回って、バス停を抜け、線路沿い
     の道へ。ガード下は一杯飲み屋や餃子の王将などあり。もう歩くのもキツイが、無
     理して脚を引きずって歩く。
15:28 やがて、右側に「総持寺」の文字が。長い参道も立派。白いレトロな電話ボック
     ス。右脚の付け根激痛。限界。山門とその先に鉄筋の門。下校時間のため、鶴
     見学園の女子高生や男子高校生とすれ違う。駐車場に山形ナンバーの観光バス
     と団体客。集団で記念撮影。もしかしてこの後、石原裕次郎の墓でかち合う?急
     ぐ。右に折れてやがて宝物殿で左カーブ。坂を登る。高校生わんさかすれ違う。
     100m先で右に折れる道があり、その角に「裕ちゃんの墓」の看板。右に折れる
     と、水堂あり。手桶を借り、水を汲んで持参。50m先で左に折れるよう案内板が
     指示。すると20m先の左角に、ひときわ立派な墓石が立っていた。後ろ面だった
     が、一発で「石原裕次郎の墓」だとわかった。

 

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15:41 到着してびっくり。やっぱり昭和の大スター。天知茂と坂井泉水にはない光景。
     門構えはでかいし、墓標も桁外れ。供えてあるお花の数も凄いし、さっきまで誰か
     いたかのように線香から煙が・・・。しかし、私が到着した時点では無人。犬の散
     歩で通りかかる人は数名。両方の門構えには「裕次郎」の文字。石原家と書かれ
     た手桶もあった。柵があって、墓石までは入れない。レコード会社の花が供えてあ
     った。さっそく線香に火を灯し、墓前に供えた。合掌。日活の大スターで、太陽に
     ほえろのボス役や石原プロモーションの「大都会」や「西部警察」シリーズの主役
     だった。「ブランデーグラス」や「恋の町札幌」など私も大好きだった。ここでもふた
     りっきり。寒くはないが、薄暗くなってきた。天気は相変わらずどんよりとした曇り。
     左側には石原まき子夫人の自筆の詩が刻まれていた。「美しきものにほほえみを 
     淋しきものに優しさを たくましきものに さらに力を すべての友に思い出を 愛
     するものに永遠を 心の夢 醒めることなく」という文言だった。

 

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https://www.youtube.com/watch?v=Qkx0FxNpLLk

 

 石原裕次郎の墓の位置はコチラ → 「soujiji.jpg」をダウンロード

 

15:50 石原裕次郎の墓発。坂を下りて、宝物殿の脇へ。5人の僧侶の像があった。駐
     車場まで下り、山門を2つ潜った。おばあさんが木組みのベンチで休んでいた。そ
     こで座ってみたが、おにぎりとサンドイッチは食える雰囲気なし。高校生たちがひ
     っきりなしに通るからだ。そして大きな案内図まで来たら、さっきの裕次郎の墓の
     途中に「鶴見事故」の慰霊碑があったことを発見。足が痛くて歩きたくないが、こ
     のまま帰って後悔したくないので、堪えて戻ることに。宝物殿の坂を上がる途中
     で、土手の下に観音像と慰霊碑を見つけ、コースアウトして土手の斜面を斜めに
     降り、そこへ。
16:06 鶴見事故慰霊碑着。誰もいない。不気味。「畜霊碑」も立っていた。駐車場側の
     柵の中に「鶴見事故慰霊碑」の立て看板。しかし人影ないような駐車場の片隅に
     追いやられるように160人も亡くなった大事故の慰霊碑がひっそりあるとは。心
     霊が映り込みそうで怖いが、一応シャッターを切った。犠牲になった方々の名が
     刻まれたプレートがあったが、柵の中に入って近くで見る勇気はなかった。

 

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 鶴見事故の概要はコチラ  映像はコチラ

 

 総持寺の公式ホームページはコチラ

 

16:12 団体が写真を撮っていた由緒ある門へ。新潟ナンバーの観光バスも乗り付け
     た。前を行く鶴見大生のうちの女が歩きタバコで煙撒き散らし。体にかかる。追い
     越す。足を引きずりながら、線路沿いを必死に歩く。

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16:25 JR鶴見駅へ。大森まで駅間3つ。210円。やっぱりJRは高い。京浜東北線。県
     境の川を渡る。川崎、蒲田の次。
16:39 大森駅へ。懐かしい。震災前の3年前、慶應義塾のスクーリングで7泊した場
     所。地図なくても駅からカプセルホテルみづほまでバッチリ。でもアーケードのとん
     かつ屋が無くなっていた。
16:42 カプセルみづほ到着。靴箱81番。フロントでチエックイン。カプセル番号2030。
     腕輪型のロッカーキーを付ける。2Fのロッカールーム内にタオル、バスタオル、ガ
     ウン上下セット有り。手ぶらでOKだった。地デジ対応でテレビ見れる。何とAV2チ
     ャンネルまで無料。スクーリング時は勉強そっちのけで見すぎた記憶あり。苦笑。
     カプセル内飲食禁止だが、買ってきたおにぎりとサンドイッチを頬張る。

 

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17:30 5Fのラドン温泉へ。足の痛みを和らげる。体重は歩きすぎてカロリー消費。72.
     2kgにまで減った。
18:00 3Fのインターネットコーナーへ。LANケーブル2つ。先客ひとり。ビール飲みなが
     らうるさい。隣のオヤジは読書しながらタバコ3~4本吸いまくり。せっかく温泉入
     ったのに匂いがつくし、副流煙地獄。ネットは遅くて使えない。それでも天知茂の
     墓地参拝まで打つ。しかし、保存しようとしていきなり接続が断裂。コピーしておい
     て良かった。慌てて、ワードに保存。しかし、その後、設定を変えても何しても二度
     と繋がらず。がっかり。途中で・・・。20時まで粘ったがダメ。
20:10 諦めて、4Fレストランへ。無料券でビールを頼む。つまみ注文。枝豆(300円)、
     冷奴(300円)、梅きゅう(300円)、さんまの開き(350円)、レモンサワー(350
     円)、野菜サラダ(400円)、鮭おにぎり(200円)で合計2,200円。外で食うより
     面倒くさくなくて良いかも。伝票のみで後でチェックアウト時決済。その後、同じ階
     のマッサージ機(無料)で体をほぐす。こち亀と釣りキチ三平を読む。ウトウト。

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22:00 眠くなり、カプセルへ戻る。携帯アラームを6:30にセット。しばらくテレビに見入
     っていたが、22:30には寝てしまった。足の痛みは酷かった。

 

「カプセルホテルみづほ」はコチラ→ http://www.mizho.net/ 

 

 <本日の出費>

 

 バス       170円
 鉄道    5,940円
 飲食代  147円+390円+430円
 線香ライター  398円     

 

 合計    7,475円

 

 後記

 

 この日、予定した芸能人3人の墓参りを終えた。特に坂井泉水さんの墓参りを実現できたのは幸いだった。明日は鉄道博物館がメインだが、その前に、山岸舞彩キャスターの実家のある築地の高級玉子焼き「山勇」と坂井泉水さんが亡くなった我が母校「慶應義塾大学病院」の事故現場に行って手を合わせ、改めてご冥福を祈りたいと思う。

 

 しかし、どこまで足(脚)が持つか・・・。正直厳しいところだ。

 

 

 

 お断り(H26.2.16)

 

 この記事に関しては、故坂井泉水さんの墓所が特定できないように、場所や地名などを匿名にて記載するなど細心の配慮を行ってきましたが、それでも「ZARDファン」と称する特定の方から指摘コメントを頂きましたので、この記事を一部修正(霊園近辺の記載を大幅カット)し、なおかつ限られた方しか閲覧できないような処理を施しました。また、当記事に対するコメントも、情報漏えいや場所が特定される恐れがあることから、受付を終了させていただきたいと思います。諸般の事情をご理解いただければ幸いです。(SUZU)

2013年10月21日 (月)

若くして才能を発揮したアスリートたち

 「東京五輪」が56年ぶりに開催されることとなり、スポーツ界はもとより、経済界や財界までが景気回復の起爆剤になると色めき立っている。確かに私が生まれた1964年は、東海道新幹線が開業し、首都高速道路も突貫工事で開通するなどインフラ整備が加速した。外国から大勢の観光客を受け入れるためにホテル建設はラッシュを迎え、観光地の期待感は否応にも高まり、それは勢いがあった時代である。神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気に勝るとも劣らぬオリンピック景気を生み出したことは周知の通りである。
 そして、2020年の開催決定に向け、現在の中高生のアスリートの卵にも脚光が集まり、明日の金メダリストを夢見て日々の練習にも熱が入るのは言うに及ばないだろう。

 その先陣を切るかのように、10月初旬に開催された世界体操において、高校生の白井健三が、空中で4回も体を捻る新技「シライ」を鮮やかに決め、床運動で見事金メダルを射止めた。これは日本体操界にも明るい兆しである。次代のエースと言うべき逸材だ。若くしてその才能を開花させるその類まれな潜在能力の高さはやはり天賦のものなのだろう。スポーツの歴史を紐解くと、やはり日本においても、年齢に似合わぬ活躍をしたり、快挙を成し遂げたアスリートがいる。その方々を研究し、検証すると、意外にも或る共通点があることがわかる。今日はそれをテーマにしたい。

 「若くして才能を発揮したアスリート」

 福原愛

 卓球少女として3歳からマスコミに登場。泣きながらラケットを必死に振り、その若き才能を開花させ、人気を博した。宮城県出身の「泣き虫愛ちゃん」も青森山田高校、早稲田大学へと進学。順調に成長し、実績も積み上げた。卓球の強豪国の中国へ単身留学し、北京語をマスターし、反日が強烈な国においても、友好的に振る舞い、支持を得た。そして昨年夏に開かれたロンドンリンピックで、団体銀メダルという快挙を成し遂げた。血液型B。

 岩崎恭子

 1992年開催のバルセロナオリンピックにおいて、弱冠14歳の愛くるしい少女が表彰台の中央に立つという快挙を成し遂げた。それは200m平泳ぎ。後半、驚異の追い上げを見せ、ラスト10mで先頭に立ち、そのままトップでタッチ。誰もがどよめき、その快挙を讃えた。

 浅田真央

 14歳頃からその類まれな才能を発揮。国際大会で次々優勝するなど順風満帆に成績を残した。体が柔らかく、片手で頭上に海老反りしたスケート靴を掴むことができた。誰もが金メダル獲得を疑わなかった。しかし、絶頂期の15歳に、僅か数ヶ月の年齢制限に抵触し、トリノオリンピック出場を果たせなかった。その後、体重の増加とともにジャンプ(トリプルアクセス)が思うように跳べなくなり、スランプに陥った。コーチを替えたり、コンビネーションを変更したり、悩みに悩んだ。初出場のバンクーバーでは、ライバルの金妍兒に敗れ、銀メダル。しかし、ジュニアからGPファイナルなどの国際大会で優勝を成し遂げた功績は大きい。血液型はB。

 田村亮子(谷亮子)

 YAWARAちゃんとして中学時代からその才能を花開かせ、あの小柄な体で俊敏な動きを駆使し、背負投や巧みな足技で大柄な対戦相手を圧倒。アテネ五輪で念願の金メダルを獲得した。血液型はB。現在は小沢一郎(B型)に傾倒し、小沢チルドレンのひとりとして参議院議員となった。血液型はB。

 イチロー

 彼は「孤高の天才」と呼ばれて久しい。「振り子打法」にて弱冠20歳で前人未踏の200本安打を悠々と記録し、連続首位打者や強肩にして俊足。3拍子揃った完璧な野手として球界に君臨した。シアトルマリナーズからニューヨークヤンキースに移籍してからも、その活躍は凄まじく、次々と安打記録を塗り替えた。レーザービームや盗塁、バッティングゲージでの独特の構えなどファンを惹きつけるパフォーマンスを披露し、華がある選手だ。WBC2連覇に貢献するなどその功績は著しい。引退したら、これまで2度断っている「国民栄誉賞」を間違いなく受賞することだろう。血液型はB型。

 野村忠宏

 彼は前人未到のオリンピック3連覇を成し遂げ、「天才柔道家」の名を欲しいままにした。あまり派手さはないが、真摯な態度と実直さで柔の道を探求するその姿勢は他の模範である。血液型はB型。

 今日紹介したアスリートは大多数がB型である。型にはまらない性格で、マイペース、重圧を楽しみに変えることができる楽天家だからである。B型こそ天才肌で、早熟傾向が強い。しかもB型はカリスマ性が強く、熱狂的なファンが付く。テーマにはそぐわないが、国際舞台での戦績が素晴らしい北島康介やクルム伊達公子、杉山愛、宮里藍、野茂英雄などもB型である。B型はプレッシャーに強く、オリジナリティーを追求するタイプ。人の真似事を嫌い、マイペースで自分スタイルで勝負する。負けず嫌いにして楽天的で、外交的な性格も好結果につながっている要因である。

 さて、今回のテーマ、いかがだったでしょうか。血液型を出すと批判するブロガーも多いが、B型が日本人の22%程度しかいないのに、不思議なほどやたら目立つ活躍をする。共通点を理解していただけたと思う。

 記事作成:10月6日(日)

2013年10月18日 (金)

アイディア無限集

 21世紀の今、高度に進んだ科学技術をもってすれば実現可能な発明や特色ある製品・商品作りは意図もなく簡単に実用化できそうに思えてしまう。とりわけ今年の注目株は4Kテレビであろう。年々進化している家電製品も30年前には考えられなかった。3Dテレビなども夢のまた夢だった。そこで今日は、私が生きている間に実用化しそうな物や開発して欲しい製品を列挙したい。

 フルオートメーションのオペシステム

 ロボットによる絶対にミスのない手術が可能。過去の手術の成功場面をコンピューターにインプットし、プログラミング化し、同じ症例のオペに適用する。そして絶対に失敗のない完璧な施術を可能にする。

 人間の血液を人工的なものに代用

 ips細胞も含め、輸血に頼らずに、人間の血液も人工的なもので賄う。かつては人工皮膚や人工血管、人工臓器などは夢の代物だった。しかし、実際の臨床で実用化されている。一見不可能や無駄と思えるモノでも、試行錯誤の末に人間は、その障壁を打ち破って来た。

 ガンを正常細胞化してしまう特効薬

 これはもう半世紀前からの課題。先端医療が進んだ現代の医学をもってしてもガンの発見が遅れれば未だに不治の病である。日本人の死因の第一位は新生悪性物である。健康ブームや禁煙者が増えた今でもその傾向は変わらない。ガンの特効薬を発明し、開発すれば間違いなくノーベル医学賞ものだろう。

 地震やニュース速報のテロップのみを消去できるレコーダー

 地震列島・地震大国の日本にとって、せっかく録画した貴重な番組に地震速報や震度のテロップが流れ、がっかりしたことがある人も多いはず。ニュース速報のテロップもまた然り。そこで予め、それらの情報を別の信号で送信し、いつでもどこでも地震情報を消せる装置を開発してもらいたい。

 素人作曲家発掘企画

 若くて才能がある素人の脚本家を発掘し、プロ化しようという企画「ヤングシナリオ大賞」から思いついた。新進気鋭の作曲家を養成しよういう企画だ。たとえば、「きゃりーぱみゅぱみゅ」に歌わせたい曲を世間一般に広く募集する。アマチュアミュージシャンたちが、彼女のイメージに合う曲を作り、これに応募する。歌手本人を含め、所属事務所、レコード会社などのプロの目で審査し、実際にCD化する。採用者には賞金を与える。創作意欲向上の励みになるだろう。採用者は、自分の楽曲が日の目を浴び、多くの人に聞いてもらえる機会を得、自分の存在を世間に認めてもらえる絶好のチャンスとなる。おそらくプロのミュージシャンに依頼するよりも、経費が安く済むと思われる。また、同様に、アマチュアデザイナーに衣装のデザインおよび製作を募集し、そちらの発掘も同時に行う。芸能界のしがらみはあるだろうが、誰にでも応募のチャンスがあるため、注目度が増し、売上アップも期待できる。

 伸縮自在の携帯電話。

 スマホやi-phoneが主流だが、インターネットに繋ぐには画面が小さくて不便。一方で、タブレッドは持ち運び便利で、どこでもWi-Fi機能でネット環境は良いが、電話機能がないのが難点。アンドロイド携帯も微妙な大きさ。やはりどこかで不便な思いを強いられる。だから普段は携帯電話の大きさだが、用途に応じて、ハード機器自体が伸縮する機能が欲しい。3Dプリンターが実用化された時代なので、技術的には可能なはず。

 旅行全記録撮影システム

 旅行に出ても、何年も過ぎるとその詳細など忘れてしまうのが人の記憶力だが、それをすべて保存できるシステムだ。目線に近いキャップの中に、超軽量・超小型のHDD内蔵の高性能CCDカメラを仕込み(あるいは補聴器のように耳かけスタイル)、自分の視線と同じ映像を記録するシステム。朝起きて、すぐに電源を入れ、撮影開始。夜寝る際に電源をオフにするだけのワンタッチ。あとは旅行中、旅行者の目線で全ての旅行内容が記録できるという優れもの。もちろん時刻も保存可能。いつ、どこで、何をしたかが全部記録できてしまう。再生すれば一目瞭然。価格を3万円以内に抑えれば、きっと爆発的ヒットとなるのは間違いない。ただし、使い方を誤ると、盗撮と受け取られかねないので、「旅行記録撮影中」の表示が必要かも。

 21世紀には、ガンが治り、不老不死が実現していると思っていたし、リニアが全国中を走り、車が空を飛び交っているものだと思っていた。そんなユートピア(理想郷)は現実には程遠く、30年前とさほど変化していない気がする。唯一、携帯とパソコンなどIT産業の発達は目覚しい。昔、ウルトラセブンで見た、ウォッチ型のTV電話は実用化されたし、パソコンも開発当初に比べて劇的に価格は安くなった。ワンタッチでいろんな操作が可能となった。まるで夢のような話で、70年前まで日本でも戦争をしていて、明日の生活もしれなかった時代から考えても急激な進歩だ。日本があらゆる産業をリードしているといって過言ではない。特に細かい部品(ICチップなど)を取り扱う精密機器は日本の技術には叶わないだろう。あとは商品開発へのアイディア次第だろうと思う。便利な機能搭載の、暮らしに役立つ新製品をどんどん生み出してほしいが故に、この企画を思いついた次第だ。

 記事作成:5月中~7月

 

  

2013年10月17日 (木)

芸能人の意外な特技

 もう1年近く前になるが、大晦日恒例の「NHK紅白歌合戦」で、SKE48の藤本美月が歌の間奏部で披露したバック転&バック宙は、観客の度肝を抜いた。そして同様に、バレエの回転技をしたメンバーもいるなど、他には真似できいない芸当の持ち主がいることを知り、意外な印象を受けた。何かしら秀でた才能があれば、それを芸として披露し、世間に認められれば、それを取り柄として注目を浴びることが可能となる。それが文字通り、芸能界を生き抜くための処世術である。 
 かつては毎年正月に「かくし芸大会」が放送され、多忙を極める芸能人たちが競い合って自らの芸を披露したものだ。巨匠の堺正章は、毎回10点満点を獲得するほど芸達者な面を見せつけ、その奇才ぶりは誰もが認めるところだった。今回の記事は、そんな芸能人たちの知られざる芸の数々を取り上げ、意外な特技の持ち主をセレクトして紹介したい。

 ① 藤本美月のバック転&バック宙

 

 体操選手顔負けの助走、バック転からのバック宙の連続技。臆することもなく、自信たっぷりに涼しい顔で成し遂げた。これは幼少時代に本格的に競技に取り組んでいなければできない芸当だ。アイドルグループと見くびる勿れ。中には真似できないような特技を持ったメンバーもいるということだ。では、昨年の紅白の「パレオはエメラルド」の名場面をどうぞ!実は彼女、もうSKEを卒業している。保育士を目指してのグループ離脱らしいのだが、彼女の通う高校は、愛知県内の中でも偏差値70を越えるトップクラスの進学校で、毎年東大に10名以上も入る名門だ。才色兼備とはこのことか・・・。

 逆立ちで30秒歩く芸はコチラ

 AKBの湯本亜美のバック転映像はコチラ

 ② 山岸舞彩の才色兼備ぶり

 私が大のお気に入りの彼女だが、彼女の秀でた才能は他の比ではない。何と日本女子大学を首席で卒業し、水泳をさせれば背泳ぎでJOに出場するほどの選手(肩幅が広いのは水泳の賜物)だし、ゴルフをやらせれば、関東ベストアマに選ばれるほどの腕前。更には書道では師範、入選多数の実力派である。とにかく芸達者。セイント・フォース所属で、フリーアナとして活躍中だが、何をやらせても器用にこなす天賦の才能は真似できない。

 「笑っていいとも」、テレフォンショッキングの映像はコチラ

 ③ 田中みな実のモノマネ

 

 局アナにしておくのがもったいないほど芸達者。「サンデージャポン」で披露した「芹那」に始まり、「ローラ」、「YOU」、「スザンヌ」など滅茶苦茶上手い。ピン芸人としても十分やっていけそう。

http://www.youtube.com/watch?v=sEOT0yldWXo

 ④ 風見しんごのブレイクダンス

 映画のダンスバトルの場面で、吹き替えなしで自分ですべてダンスを実演。ステップやトーマス旋回など芸能界No.1の腕前を披露。

 ⑤ 堺正章の名人芸

 彼ほど多芸で限界知らずのチャレンジャーはいない。どんなに難しい技にも挑戦し、絶対に成功させてきた。ミスターかくし芸たる所以だろう。凄すぎる!

 他にも片岡鶴太郎や工藤静香、五月みどり、八代亜紀のプロ顔負けの絵画も玄人はだしである。個展を開けるのも合点がいく。特に八代亜紀は、演歌歌手としてだけでなく、画家としてもフランスの「ル・サロン」展に5年連続入選、日本の芸能人として初の正会員になるなど活躍しているから凄い。そして渡辺正行とはんにゃ金田の剣道、ハライチ澤部のバスケも凄い。やはりり「芸は身を助く」を地で行くのが芸能人なのだ。

 今回はスペースが不足したため、もし好評ならば続編を考えたい。

 記事作成:10月7日(月)

 

 

2013年10月16日 (水)

CMの彼女⑤

 今日は全国の人は見たこともない筈なので、掟破りだが、福島県出身の芸能人が出演する地元ローカルCMをお送りしたい。

 植木安里紗

http://www.youtube.com/watch?v=7Ty_NGrkt-Q

http://www.youtube.com/watch?v=hAOptfb7uVI

http://www.youtube.com/watch?v=2cOkAVWynYo

 1989年8月7日生まれの24歳。モデル、タレント、女優として活躍中。 福島県出身で郡山市内の高校を卒業した。現在、フリーランスで活動中。血液型はB型。

 東日本大震災は、地元である福島を中心に活動を開始した。その後、『ミス采女』や『ミス郡山』、『ミスピーチ』となった。さらに『美人時計仙台版』グランプリを獲得した。
 土曜日のお昼に放送しているFTV「サタふく」にレポーターとして隔週出演。また、地元のローカルCMにも多数出演している。

  • ぐるっとTV 「ネットで福島を支えます!いわき・郡山・会津編」
  • 「駅前コンタクト」お天気フィラー
  • 「東邦銀行 Always ポイント貯まる」篇
  • ATi THE BARGAIN「アルパカ館長登場」篇
  • ダイユーエイトMAX』福島店2周年祭
  • エースコンタクト「エキコンマンエース誕生!」篇
  •  CMではないが、彼女のイメージ映像をどうぞ!
  •  彼女は今後、もっともっとメジャーになり、全国区のモデルや女優になる兆しがあるし、活躍が期待できる若手芸能人のひとりだ。ぜひ応援してほしい。

     記事作成:10月6日(日) 

     

    2013年10月12日 (土)

    震災遺構を訪ねて (10/12)

       <経緯と経過>

     この被災地訪問は以前から計画していたが、実行日が未定だった。しかし、9月に入り、気仙沼の「第18共徳丸」の解体作業が開始され、9月19日(木)には、南三陸町の「旧防災庁舎」が遺族の強い意向で撤去されることとなり、一刻の猶予もなくなった。よって、最初は3連休の初日の9月21日(土)に訪れることを決意した。本来なら、この日に磐梯吾妻スカイラインにある「吾妻小富士」をトレッキングする予定だった。しかし、「待ったなし」の状況にプラン変更を余儀なくされたのだった。やはり、震災から2年半以上が経過し、徐々にその遺構が失われていくのを聞くと居たたまれなくなった。しかし、その前日の9月20日(金)の夜中の2時過ぎに、突然枕元に置いた携帯の緊急地震速報のアラームがけたたましく鳴り響き、叩き起こされる。結構長くて大きい揺れが続いた。これで寝不足決定。しかもこの日から全国秋の交通安全週間開始。絶対に交通取り締まり実施している筈。
     そして同じ日の夜20:30に、GSでガソリン満タンに整えた。GSでは、この前日の木曜日に、運悪く交通事故現場に遭遇し、ガラス破片を踏んでしまい、タイヤに傷入ったのではと心配で見てもらう。異常なしに安堵。そして空気圧をチェックしてもらい、かなり高めに補填してもらい、その5時間後の出発に向けて準備万端整えた。
     しかし、ここで思いもよらぬ大失態をしでかす。午前1時出発に合わせて携帯のアラームをセットするが、知らないうちに止めてしまい、目覚めたら3時50分。ヤバイ・・・。3時間遅れての出発はアウト。ここで臆病風に吹かれてしまい、この時点で被災地訪問を断念。
     結局この日は、元々の予定だった「吾妻小富士」往復プランに収まった。
     しかし、震災遺構が徐々に減っている中、今度は遠藤未希さんが亡くなる寸前まで避難を呼びかけた南三陸町の「防災庁舎」までが年内に解体されることが正式に発表され、是が非でも強行せざるを得なくなった。そして翌週の週末は、台風襲来などで天候にも見放され、ようやく実施にこぎつけたのは、当初の予定より3週間遅れのこの日だった。
     それでは当日の模様を振り返りたい。

     <予定行程>

     郡山ー本宮ICー一関ICー気仙沼ー陸前高田(奇跡の一本松・旧市街地周辺・諏訪神

    社・生死を分けた階段)ー気仙沼(第18共徳丸・港周辺)ー南三陸町(防災対策庁舎・旧

    町内・旧志津川駅)ー石巻(大川小・石ノ森萬画館・日和大橋・門脇小)ー野蒜駅ー東名

    駅)ー松島北ICー本宮ICー郡山

     <実際の紀行>

     10月12日(土) くもり/小雨

     0:10 就寝、01:54起床。つまり睡眠時間は2時間未満という厳しい状況。家族を起
         こさないように秘密裏に準備。服装は薄手の長袖にデニムという軽装。
     2:10 郡山の自宅を出発。バイパスへ。大型トラック多い。3連休初日なので下り線が
         混むことを予想。気温は21℃。天気予報は快晴の筈。   
     2:21 本宮ICから東北自動車道仙台方面へ。いきなり事故のため白石IC~仙台南IC
         間が通行止めの表示。そこまで1時間かかるため事故処理終了し、解除されるこ
         とを期待。Highwayラジオによると、1:45から通行止めになった模様。
     2:41 福島西IC 90~110km/hのゆったりペース。
     2:46 AKBのオールナイトニッポン放送中、地震アナウンス。中通り震度3。小雨。
     2:54 国見IC 雨で路面濡れ。
     2:58 国見SA 通行止め情報を得ようとピットインするが満車。時間調整できず。
     3:18 白石IC 結局ここで強制排除。料金所まで長い車列大渋滞。1,100円。     
          馬鹿な「事故野郎」のせいで一旦出高速を出て、また入り直し。ETCでも高くつく。
          国道4号線も大渋滞。大型トラック等で動かない。大失敗。被災への道は遠い。
          たどり着けるのか?次の交差点でUターン。コンビニで仮眠し、解除されるまで待
          って、白石ICから再度乗ることに決めた。予想外のタイムロスで結局大幅に遅
          延。
      3:33 セブンで綾鷹・おにぎり2個、サンドで505円。駐車場でシート倒して仮眠休憩。
     3:58 車の数が減ったことを確認。通行止め解除か。再出発。ステレス受信。解除。
     4:02 白石ICから再び高速へ。スイスイ。
     4:11 村田JCT 仙台南の手前4.6kmで渋滞。仙台から再合流する車か?
     4:22 5km/hで徐行。片側1車線。事故現場通過。大迷惑。LHシステムの上だった。
     4:24 仙台南。4:28 仙台宮城IC。再び路面が濡れている。4:35 泉IC
     4:41 鶴巣PA 80km/h規制。 同時刻大和IC。4:53 古川IC
     4:57 長者原SAピットイン。やはり満車。無理やり駐める。WC&お茶飲み。スタンプ。
          ハイウェイウオーカー入手。5:06 長者原SA発。ちょうど1時間遅れ。濃霧。
     5:16 志波姫PA 満車で休憩できず。眠い。明るくなり出す。5:26金成PAも満車。
     5:28 岩手県へ。18℃。くもり空。霧。
     5:33 一関IC高速降車。1,600円。結局2,300円のところを乗り継ぎで2,700円。
          市街地を気仙沼方面目指して横切る。早朝なのに車いる。右折2回後、左折。
          気仙沼まであと53km表示。5:38 一関駅前を右折。5:40左折してR284へ。
          片側2車線のいい道路(復興支援道)。雨。ジェットコースター道路。先行車無。
          いわい牛の里、石の駅。立派な巨大アーチ橋。
     5:55 かわさき道の駅でWC。6:01発。 月のように輪郭くっきりオレンジの太陽。
          16℃。なぜ雨?ホームセンターサンデー。6:10 千厩高校。 線路沿い。
          猫の死骸を避ける。本降りとなる。予報は晴れなのに・・・。道は平坦。

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     6:20 矢越。室根集落。大型車の後ろ50km/hペース。ずっと雨。
     6:29 宮城県へ。にいつきパーキング。トンネル後PC。事故?気仙沼BP方面へ左折。
          屋根に巨大たぬきのオブジェのあるGS。宮古方面へ左折。トンネル車多い。
         ここまで263km走行。トンネル後、右に気仙沼の港と海が見える。小雨止まず。
         津波浸水区間(ここから/ここまで)の標識あちこち。トンネル。煽りトラック。その
         後も黒のウィッシュが車間とらずにスリップストリーム。運転荒すぎ。腹立ち警告。
         海岸沿いの道を50~70km/hペース。

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     6:55 陸前高田市へ。神妙な気持ちになる。右手に「奇跡の一本松」が見える。津波の
         爪痕が酷く残る白い学校。港と市街地、がれき撤去されて何もない。建設中の公
         共の建物が工事中なだけ。右折して橋を渡り、左側の「一本松」の駐車場へ。
         280.9m地点。車が多く、道路渡れない。ここから徒歩で海岸方面へ歩く。迂
         回。橋の土手に黒い土豪が無数に積まれている。狭い散策路をくねくね迂回しな
         がら500mほど歩く。途中で6~7人の団体とすれ違う。
     7:08 一本松に最接近。橋の途中に工事用の柵で行き止まり。小雨も止む。朝焼けの
         薄暗い中、一本松レプリカが聳え、逆光でシルエットに。厳かで幻想的。この1本
         だけが残った。その下に津波で破壊された建物。津波襲来前の状況知らないの
         で、どれほど被害が甚大だったか理解困難。周辺は山を崩して巨大な橋脚工事。
         工事用の柵の両端河童の図柄。徒歩で車へ。交通往来激しい。この海岸近くは
         急ピッチで復興工事が進んでいた。特に、大きな公共施設と思しき建造物が2~
         3軒建設中だった。

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     7:22 奇跡の一本松P発。周辺散策。港側は工事車両のみで入れず。左折。高田病院
         があった場所を周回。瓦礫の山が点在。震災前のナビなのでかつてあった場所
         が表示されるが、駅も何もない。ここで何千人もの遺体が発見された・・・。
          川に沿って堤防の上を走ってみた。途中でUターン。向こう岸に「諏訪神社」と
         「可哀想な場所」を確認。旧市街地は本当に何もない。壊滅は本当だった。家一
         軒無し。街全体が更地(荒野)。MAIYAも無い。瓦礫も片付き、辺り一帯は不気味
         な静けさで、工事車両が忙しそうに動いているだけ。人々の笑い声もなければ、
         人影すらない。言葉は悪いが「ゴーストタウン」のようだ。かつては大勢の市民の
         生活がここにあった。毎日の平穏な暮らしや営みがあった筈なのに、その面影を
         感じられない。遮るものが何もない、殺伐とした風景が目の前に広がっていた。そ
         れが2年7ヶ月という月日。
          橋を渡って右折。気仙町へ。津波の直撃を受けた廃屋が残る。山の斜面に黄
         色い三角旗が連なって風になびいている場所にたどり着いた。。その裏の斜面に
         「諏訪神社」の石段があった。左折し、細い道を100m進んだ左の路肩に駐車。

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    Img_2976_r Img_2977_r

    http://www.youtube.com/watch?v=XYWzOa7DlSc
    http://www.youtube.com/watch?v=zVfpPQ2lAPA
    http://www.youtube.com/watch?v=6vqqCscRp3Q

     7:35 諏訪神社着。286.2km。徒歩で神社の入口へ。反対側は観光バスの駐車
         場?何人かいる。合掌し礼をしてから急斜面の石段を上る。ここを3/11にお年寄
         りも登ったのか・・・。ステンレスの手摺り。途中石段が破壊され、手作りの木の階
         段設置。写真も配置。中間で休憩できるベンチ&テーブルのスペースあり。一気
         に上る。「Youtube」の映像と同じ。やっと来れた。神社の境内。身を寄せ合って暖
         をとった広場、そして津波で家屋が流れて襲ってきた見晴らし場も。あの日、地獄
         絵図のような場面があった。周辺は海と化した。神聖な場所だ。誰もいなくて私ひ
         とり。急階段をゆっくり降りる。続いて、その目と鼻の先にある「生死を分けた階
         段」へ。遠くからでも確認できた。手すりが崩壊している。車で移動。殺風景な場
         所に不釣合いなコスモスが咲き誇っている。目に映る全てが物が悲しく見える。坂
         を上がって崖の下のプレハブが2つある空き地へ。その左側がその階段の入口。
         右には津波に破壊された公民館の土台跡が。雑草とぬかるみで足元を気にしな
         がら20m先の入口へ。道を隔てた左側には先ほどの神社の急斜面。この僅か
         50mの距離が、生死を分けた。ここは高さがないので、次々避難者が波に飲ま
         れた。石段は10段程度でそこからは道がなく、険しい斜面。行き止まりを示す赤
         い旗が立っていた。当日、その道なき道を命からがら登り、丘の上から変わり果
         てた町並みを見下ろしたようだ。合掌し、冥福を祈った。いろんな漂着物や残骸
         が、今でも散乱している。手すりは横倒しのまま。L字に折れ曲がった電柱は撤
         去。とにかく周辺は遮るものがなくて遠くまで見渡せる。一本松はどこからでも見
         える。ラウンドマークの働き。

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      私が帰ろうとしたら、団体の客が諏訪神社の階段を登って行くのが見えた。

    http://www.youtube.com/watch?v=8Xb0cASakf0

     7:54 「生死を分けた階段」発。一本松を見納め、学校の脇を通り、坂を上って陸前高
         田を後にした。19℃表示。R45を気仙沼へ戻る。大船渡へは行かず戻る。何も
         ないので、長くいられなかったため、逆に遅れた時間を取り戻せた。予定では、
         8:30まで陸前高田に居るはずだったので、追い越した。

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     8:05 海が見下ろせる「ひと休みパーキング」でピットイン。来た道を引き返す。トンネ
         ルの手前の交差点から左折して、気仙沼市街方面へ。鹿折唐桑付近も住宅が流
         され、何もない。港から1km離れているのに・・・。ここまで津波が深く押し入った。
         やがて白い塀に覆われた場所に。その中に解体工事中の第18共徳丸がある。
         前を走っていた他県ナンバーのワゴン車もそこが目的のようだった。そこの入口
         に花束が供えてあった。ここで犠牲者が出た模様。右折して観光客や工事の方
         のものと思しき車両が駐車。

     8:17 「第18共徳丸」の解体現場着。301.2km。このあたりも住宅街だった面影が。
         土台だけになっていた。目の前の頭上にプラットホームが。5~6人の観光客の
         姿が・・・。先周りして一番良く解体現場(船体)が見える場所で写真を撮りまくる。
         工事の人に話しかけた。写真撮影の許可を得た。すると船が屋根に乗った場所
         はどこか逆に聞かれて、そこは大槌町と答えた。観光客とは別ルートで斜面を上
         がり、線路へ。ぐにゃりと曲がって、途中から線路が無くなっていた。観光客は外
         人で、このようなあ神聖な場所できゃぴきゃぴはしゃいでいた。考えろよ。駅舎は
         津波で流され、ホームしかなかった。第18共徳丸は、私が小名浜の今は無きボ
         ッコ灯台で釣りをしていた際に、目の前を通過した漁船であった。9月9日より解
         体が開始され、もう跡形もないと予想したが、訪問時にはまだ前半分が未解体だ
         ったので、その姿を見られただけでありがたかった。青と赤の船体もだいぶ錆び
         付いていた。ここでも歳月の経過を感じた。もうあと半月もせれば跡形もないだろ
         う。
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     8:35 「第18共徳丸」の解体現場出発。続いて気仙沼の市街地を周回。まず港へ。津
         波の直撃を受けて、堤防が損壊。地盤沈下により、堤防や岸壁、船着場が浸水
         &冠水して入れない箇所あり。川のような水たまり。港では誰ひとりとして釣りをし
         ている人はいない。不謹慎だろう。潮の香りが強くて臭い。その後、河北新報社の
         ビルを目指す。ホテル望洋館あり。仮粧坂を上り、港側へ。しかし、社屋が見当た
         らない。3/11には、そこまで漁船が流れ着いたのだった。土台しか残っていない
         場所がある。低い場所は津波にやられた。瓦礫置き場もあちこちにあり。反対側
         へ。安波山へは行かず。風光明媚な港の風景。向島にホテルが聳え、屋上に体
         育館がある気仙沼女子高校も。川沿いの土手で迷い込み行き止まり。Uターンし
         て戻る。再び港へ。解体中のリアスシャークミュージーアム、魚市場界隈を周回。
         噴水広場跡。結局、河北新報社は発見できず。あちこちで道路も冠水。

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    Img_3020_r Img_3021_r

    http://www.youtube.com/watch?v=egjEIFP7Y-Q
    http://www.youtube.com/watch?v=v1V3wCpdAvY
    http://www.youtube.com/watch?v=sIgh19-4CVU
    http://www.youtube.com/watch?v=UPv_Ypg7RJg
    http://www.youtube.com/watch?v=OJvxYF2NIzw


     9:03 気仙沼発。予定より30分近く早い。左折してR45へ。旧志津川方面に向かう。
         次に向かうのは、もっとも私が今回訪れたい南三陸町の防災庁舎跡だ。遠藤未
         希さんが命懸けで避難を呼びかけた場所だ。ここへ来てようやく晴れ間が。20℃
         表示。海岸沿いアップダウン。低い場所は「過去の津波浸水区間ここから」の標
         識が何度も出てくる。そして海岸沿いの道には、時々釣りができそうな小規模な
         港が登場する。でも護岸工事で真新しくなった防波堤では、釣りをしている姿は見
         当たらない。道すがら、津波の被害を受けた店が放置されている。途中小雨、
         雨。眠すぎる。腰も痛い。時折渋滞。

     9:31 本吉市街との分岐の風越Y字路。
     9:34 本吉津谷バイパスでセブンへ。おにぎり2個、缶コーヒー、お茶、ピーナッツバタ
         ーパンで535円。WCを借りる。5分ほど滞在し、パンをかじる。気仙沼から南三
         陸町までは遠い。陸前小泉付近で頭上を横切る高架橋(橋梁)が途中で寸断。落
         ちている。通り過ぎた後、空き地に車を停車して写メ。ベンツの先客(女性)も土手
         の上の線路跡を伝って写真撮影していた。歌津では橋が崩壊し、右の山側を迂
         回。南三陸町に入り、道路沿いに「南三陸テナント広場」という名の仮設商店街が
         あった。レールや橋脚が所どころで寸断。トンネルの入口が何度も見える。

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    10:10 南三陸町に入る。予定より1時間早まる。下り坂を下りて視界が広がった時、
         右側に赤い鉄骨だけがむき出しで残された建造物が、何もない広大な更地(荒
         地)にぽつんと佇んでいるのを発見。すぐにそれが防災庁舎だと認識した。そちら
         へ車を走らせる。道路だけがある。近づくと、先客5~6人と車が数台見えた。

    10:11 南三陸町防災対策庁舎跡着。349.7km。入口に祭壇が置かれ、地蔵像、卒
         塔婆や焼香、周囲には多くの花やお供え物があった。順番を待って、祭壇に向か
         って合掌し、深く礼をした。骨組みだけの庁舎。ここで遠藤未希さんが大津波に流
         されるギリギリまで無線で避難を呼びかけたのだった。本当はここの周囲には家
         屋がたくさん建ち並び、防災対策庁舎のビルの外壁自体も水色だった。
          本当に周囲は何もない。家屋・店舗など一切ない。どれほど津波が威力があ
         り、強大な力で全てのものを押し流したか理解できる。しかし、海からここまでは
         かなり距離がある。内陸部で、海は見えないくらいだ。そしてこの場所に、この向
         きであったのも予想外だった。もっと南側にあると思っていたのだが。雑草だらけ
         の周辺を一周して360度回って眺めてみた。津波が襲来したあの日、3階建ての
         てっぺんまで津波が押し寄せ、街が海の中に消え、てっぺんのアンテナ部だけが
         残り、そこに這い上がった数名だけが辛うじて助かったのだ。信じられない高さ
         だ。この庁舎だけは取り壊されず、今日まで残されたのだが、年内いっぱいで解
         体されることが決まった。特に、この防災庁舎跡は、解体されると発表されて以
         降、連日全国各地から線香や花を供える方々が数多く訪れ、ひっきりなしで人が
         途絶えることがない。遠藤未希さんの命をかけた呼びかけは、こんなにも多くの
         人々に感動を与えている。
          南側から見上げると、3階部分に未希さんが使用したかもしれない放送機器の
         残骸らしきものが残っていた。ひっきりなしに訪問客が来ては去っていく。とても残
         念だが、この震災遺構も年内での解体が決まった。もうすぐ周辺が柵で覆われ
         て、工事が始まると思われる。
          10分ほどの滞在でそこを離れ、古いナビを頼りに志津川病院があった地点
         へ。骨組みだけになったガソリンスタンドの向かい側のフェンスで囲まれた区域が
         病院跡であることを確認できた。街中を周回し、防災庁舎の西手側に、一段高く
         なった場所が線路が通っていた土手。その手前にあった筈の志津川駅跡へ。

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    10:25 志津川駅跡着。前広場のロータリーは何もない。プレハブのバスの待合室があ
         る。その先がプラットホームへ連なる通路。ここは辛うじて当時の状態で残ってい
         た。トンネル仕立ての通路を通って手前の階段を駆け上がってホームへ。ズタズ
         タで損壊している。レールは跡形も無い。津波の凄さを感じ取った。ホームから反
         対方向を見ると、丘の上に志津川高校らしき建物が見えた。もっとも悲惨な震災
         時の映像が撮影された高台だ。遮るものがないので、吹きさらし状態で風が強
         い。5分ほどで駅を後にした。線路沿いの狭い道を進み、砂利から志津川高校方
         面へ。住宅が立ち並んでいたであろう痕跡のみ。土台のみを残して更地に。高校
         の入口まで来たら、生徒が30名ほどボランティア活動で撤去作業していて、とて
         も進入路の坂を上がれる雰囲気ではなかった。その周辺を2回周回したが、やは
         り登れず。砂利の広場には部活の遠征バスが停車。結局高校のモアイ像は拝め
         ず。隣りの老人ホーム「慈恵苑」があった丘へ。そこは今、駐車場で、JAなどの仮
         設店舗があった。そこにも津波の犠牲者を供養する焼香場所が築かれていた。
         工事の人が作業中。車椅子の人を救出した階段も見つからず。制服の女子高生
         が歩いて学校方面へ。 その高台から、Youtubeで見覚えのある風景を写メ。何も
         なくなった平地に防災庁舎だけが取り残されてあるので、どこからでもそれを見つ
         けられる。その後、3度目のアタックを試みるが、侵入路へ行けず。裏手の急坂を
         登って避難者の仮設住宅を往復。高校の裏門側だが、弓道部など部活中だっ
         た。不審者と間違われそうだ。

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    Img_3055_r Img_3054_r

    http://www.youtube.com/watch?v=IBUWQVrbdn4
    http://www.youtube.com/watch?v=rbaDwlwML1U
    http://www.youtube.com/watch?v=CVbO785OPBA
    http://www.youtube.com/watch?v=FlQ5iywCLMs
    http://www.youtube.com/watch?v=wy94DOrlSz4
    http://www.youtube.com/watch?v=RZZiVpiEj0w

    10:58 南三陸町を出発。今回の慰問旅行も佳境を過ぎ、あとは石巻界隈を残し、帰路
         に着くだけとなった。メインの場所を後にし、R45を南へ。観洋の前を通過。海岸  
         沿いの道、工事車両の大型ダンプがやたらと多い。海岸、太陽の光に海がキラキ
         ラして綺麗。津波区間の標識が断続的に登場する。線路やトンネル、橋梁があち
         こちに現れる。
    11:04 陸前戸倉駅へ。線路は撤去され、トンネルを抜けてレールがあった場所がアス
         ファルトでバスの通行路。踏切の棒がETCゲートのようになっている。一般車立ち
         入り禁止のロータリー。写メ。目の前が食べ物屋の仮説店舗。そういえば、被災
         地で、食堂に入りたくさん金を使おうと思ったが、店など何一つなく、結局はコンビ
         ニでしか買い物をしていない。山側に進路を取り、陸前横山の先を左折。県道64
         号線の狭い道へ。細いのは最初だけだった。砂防林の記念碑。山あいを縫うよう
         に道が続く。対向車は全くなし。ガラガラ。この道がまた曲者で、途中からY字路を
         石巻方面へ右折して以降は峠道で、すれ違えないほど細くて急坂。夕張の万字
         の峠を思い出した。対向車が山を降りるまで1台だけ。結構遠くて時間がかかっ
         た。
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    11:23 右側に追分温泉という萎びたいい感じの古い温泉宿が一軒あった。なぜか客が
         多くいた。IBCラジオ、稲垣潤一とアシスタントが島本麻衣子さん。林の中の一本
         道。薄暗く小川が右下を流れ、川沿いルートくねくね。22℃。山を降りたら道が太
         くなり、対向車も2台すれ違った。右左折を2回繰り返し、北上川の川沿いルート
         へ。この川、太くて大きいが、土手ギリギリまで水かさがある。大雨が降れば洪水
         は必至。津波で落ち、その後架け替えられた綺麗なトラス橋の橋を渡る。

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    11:34 R398の橋を渡った。水面が近くて怖い。T字路にぶつかり左折。その右側に旧
         大川小学校の校舎が見えた。右に折れて下り坂のカーブを降りた右手に、東日
         本大震災最大の悲劇の舞台となった大川小学校があった。左側の空き地に車を
         入れた。本当に川のすぐ脇だ。

    11:35 大川小学校跡着。386.0km地点。車が5~6台、訪問客が10名以上が先に
         来てお参りしていた。道路を横切り、校舎の方へ。広い敷地。おそらく校庭だった
         のだろう。空き地化していた。正面玄関のある場所には祭壇が置かれ、様々な供
         物が所狭しと並べられて飾られていた。遺族の感情を最優先する旨の警告板と、
         供物は持ち帰る旨の指示があった。静かに合掌。厳かで神聖な場所。神妙な感
         情となる。校舎は壁や窓がなく、むき出しで吹きさらし状態。立ち入り禁止のロー
         プが周囲に張り巡らしてあった。右側に最近建立したと思われる、大きな石碑が3
         つ並んである祭壇が築かれてあった。ここは遺族感情を最優先し、撮影も禁止。
         石碑には犠牲者全員の名が刻まれている。地域の方の氏名もあり、中学生3名
         も犠牲なったらしい。避難が遅れたため、児童74名が川沿いの道を歩いている
         時に津波に飲まれて亡くなったのだ。その裏手には疑念が残る急斜面の山。体
         育館側に卒業記念で制作された壁画の塀。プールがあったのか?コンクリートの
         建造物が、根こそぎ柱は折れ曲がり、津波の威力を感じた。教室はオープンスク
         ールの造りで、黒板がひとつのエリアごとに3台壁にかかっていた。教室の仕切り
         壁は無くなっていた。外から中が丸見え状態。建物内には入れず。
          なぜすぐに裏山へ行かなかったのか。もし雪が舞う中でも、地震後すぐにこの険
         しい山を登っていればあんなに多くの児童が犠牲にならずに済んだ筈。教職員も
         13名のうち10名が死亡または行方不明なので、一瞬の判断のミスが取り返しが
         つかない事態を招いたのだ。あれだけ激しい揺れがあって、津波が来ない訳が無
         い。なぜすぐに避難しなかったのか悔やまれる場所でもある。あまりにも悲惨な現
         場で、切なくなった。何も抵抗できない児童たちが何をしたというのだ。何一つ悪
         い所業を働いていない。神は何と残酷な仕打ちを与えたのか・・・。

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    Img_3075_r Img_3077_r

    http://www.youtube.com/watch?v=DW0dqWR4S7M
    http://www.youtube.com/watch?v=HNJWV0pmUcc
    http://www.youtube.com/watch?v=0wSE4WK29so
    http://www.youtube.com/watch?v=0h0FLBAF6tQ
    http://www.youtube.com/watch?v=gwd2GYG-gc0
    http://www.youtube.com/watch?v=CaIpNWeBJs8
    http://www.youtube.com/watch?v=xHv6fV8kEvU

    11:53 大川小学校発。坂の途中に東日本大震災418名犠牲鎮魂の碑がある。この周
         辺もホコリを巻き上げながらダンプが往来する。道を間違えてUターン。川沿いの
         道を西へ行く。浸水&冠水しているため、川沿いの一本左側に、新たな道が作ら
         れた。だから道は4車線分ある。この川沿いの県道30号線は見通しのよい道だ
         が、終点の大森まで長く遠く感じた。水量が多く、今にも堤防を越えて溢れ出てき
         そう。やはり地震で沈下した模様。もしかして行方不明者の子供たちや先生方の
         遺体は、誰にも発見してもらえないまま、この川底に今も眠っているかもしれな
         い。皆、80km/hペースで飛ばしている。軽が煽ってくる。沿岸部の人は運転荒す
         ぎ。 石巻市街への入口でまた失敗。川を左折して右折、左折してR45へ合流し
         たが、実はその他前を直進すべきだった。大失敗。市街地の混む道を遠回りして
         しまう。道すがら懐かしい「CoCo!」のコンビニを発見。一関街道では渋滞必至と思
         い、日和大橋を渡りたいため、左折してR398へ。旧北上川の広い川幅に架かる
         綺麗な橋を渡り、トンネルを抜けると、右側に広大な石巻専修大のキャンパス。そ
         の先には近代的な石巻商業高校の校舎が。右折して再び旧北上川に架かる橋を
         渡る。また小雨降り出す。左折して川を渡ると、右に中洲の銀色の玉ねぎ型のド
         ーム屋根の建造物を発見。それが石ノ森章太郎主催の萬画館である。入口にロ
         ボコンや仮面ライダー、009の人形オブジェが立つ。右折して奥の駐車場へ。こ
         こで本降りとなり、車から出られず。

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    12:31 石ノ森萬画館着。ここまで411.1km走行。ここは下から写真撮影のみで終了
         の予定。すぐに再出発。右折して橋を渡り切り、再び右折。国道398号線を海側
         へと向かう。この辺の通り沿いの住宅も津波の直撃を受けた模様。あちこちに土
         台の石束の跡。やがて川沿いの商店街へ。途中、大きな交差点から右折100m
         先が片側2車線の大きな道路。ここは見覚えのある道路、数年前の牡鹿半島で
         の釣行の際に、夜中に訪れた場所。側道から工場街へ入り、日和大橋の橋脚に
         ルアーを投げ込んだ想い出がある。右にスライドする形で日和大橋へ。急な上り
         坂を駆け上がる。オンボードカメラで写メ。すると数年前との豹変ぶりに愕然とす
         る。左側の火口側は、灯台までの堤防が半壊し、浸水しているし、右側にあった
         工場街や住宅街は津波の被害をもろに受けて更地状態と化していた。この太鼓
         橋の形状の橋の上近くまで津波が押し寄せ、海と化したのだった。身につまされ
         る。やがて下って石巻港川へ。途中で次の訪問地が門脇小学校であることを思い
         出し、右折。するとちょうど門脇小の方面だった。すぐに正面左にそれらしき建造
         物を認めた。しかし、予想外の工事用のシートで目張りしてあるではないか。ここ
         も解体するのか?信号を左折して、大きな道路のバス停の裏手の駐車場だった
         場所に車を置いた。

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    12:41 門脇小学校着。416.3km地点。先客の団体が5~6人いた。シルバーのシー
         トですっぽり覆われていた。ここは3月11日当日、多くの家屋や車が津波で押し
         流され、この校舎の前に集積。そして火災となり、校舎の壁中が燃え、焼け跡が
         残ったのだ。その後、2年半近く、そのまま放置され、焼けただれた黒焦げの痕だ
         けが残された。そして震災の年の大晦日に、ここの校庭で長渕剛が「生きる」を熱
         唱し、多くの方々に感動を与えたのだった。周辺は住宅街だったのだろう。区画
         が整理され、ところどころ道路がある。しかし更地状態で雑草だらけ。見る影もな
         い印象。おそらくはここでも多くの犠牲者の遺体が発見されたのだろう。プールま
         で続く石段には赤いペンキで矢印が描かれていた。捜索終了を意味する自衛隊
         残 したものか?校庭は綺麗に整備されてあるが、車などの残骸が所狭しと漂着
         した場所だ。児童が活動中は撮影禁止を告げる校長命の看板あり。本日は土曜 
         日で休日なので撮影可。近くに中学生らしき人影有り。左側にはお寺と低い位置
         まで墓地が並ぶ。ここまで波が押し寄せ、墓石も流されたであろう。反対方面に
         は、ラウンドマークとして日和大橋が見てとれた。見学は10分以内だった。

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    12:51 車に戻ってリスタート。門脇小学校出発。その道路は県道240号線。その先に、
         仮設の商店街と有名となった「がんばろう石巻」の文字板と仏像のある祭壇が置
         かれていた。被災地にはこうした祭壇がそこかしこにある。日本製紙の工場に沿
         って北へ進路をとり、ヨークベニマルを右手に見た。この辺は以前に通った記憶
         有り。左折して国道398号線へ合流。石巻街道のこの道は様々なチエーン店が
         軒を連ねる目抜き通り。ラーメン屋やかっぱ寿司、デニーズ、すたみな太郎と続
         く。どこも気づけば昼時で、満車状態で賑わっている。この街道は信号がやたら
         多くて、タイムロスが多い。淀川を渡る。しきりに航空自衛隊松島基地の敷地が
         見えてこないか周囲に注意を巡らす。しかし見えない。あのブルーインパルスの
         本拠地だ。矢本付近で右側に石勝線の線路や駅舎が並行。しかし、津波の被害
         によって、未だに運転再開されておらず、バスで代替運行されている。

    http://www.youtube.com/watch?v=eBs7yfl8Se0
    http://www.youtube.com/watch?v=Y2QewQjSeIo
    http://www.youtube.com/watch?v=Pl2RVNq5GDQ

    13:10 やがて左側に、空港でよく見かける、巨大な回転レーダーが現れ、柵で覆われ
         た広大な敷地が登場。ここが松島基地だ。震災発生時、津波の襲来によって、滑
         走路が浸水し、初期の救助活動が不能となった。ブルーインパルスも格納されて
         いる。いつか生で飛行訓練を見てみたい。

    Img_3100_r Img_3101_r

    http://www.youtube.com/watch?v=29QzVktn-HU

    13:13 今度はオービスが登場。なんと両方向測定可能な設置。探知機が鳴り響き、
         50km/h以下の超安全速度で難なく切り抜けた。それにしても地元のドライバーは
         車間距離取らず接近するDNQがやたら多い。

    13:18 陸前小野駅付近を過ぎ、鳴瀬川の大橋を渡ってすぐに左折。そしてすぐに右斜
         めに分けいる。野蒜小学校の近くの沿道で秋祭り実施。ステージでギターを弾い
         て歌っていた。そこを抜けて左折。運河に沿って北へ進路を取る。やがて300~
         400mほどでJR仙石線の野蒜駅の駅舎が左手に見えた。駐車場へ。

    13:23 野蒜駅着。先客3~4台。プラットホームがすぐ脇。しかし、今は津波のため、駅
         舎は使われていないし、閉鎖されたまま。復旧のめどすら立っていない駅舎のテ
         ーブルで3~4人、何かを売っているおじさんもいた。隣りの店も1F部分は津波の
         直撃で破壊が凄い。その間を通って駅の線路とホームへ。やはり同じ目的の鉄オ
         タがいた。写真撮影。ホームの上の鉄塔や鉄骨は折れ曲がったまま放置。レー
         ルも曲がり、その衝撃の大きさを物語っていた。ホームを降り、車へショートカッ
         ト。ロープを乗り越えて車へ。雨足が強まる。どこが快晴なのか。予報外れまくり。
         それとも私が単に雨だからか?5分ほどのショートステイで出発。そのまま運河沿
         いに進み、右にカーブした先にある東名駅へ。

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    Img_3109_r Img_3110_r

    http://www.youtube.com/watch?v=onSEawFhtNA

    13:31 JR東名駅着。436.6km。ここは駅舎がなく、海のすぐ近くにあるため、破損状
         態が酷い。プラットホームだけ。大型バスがいて、発車時間まで待っている様子。
         車内には学生が乗っていて、写真を撮りに降りられず。レールはなく、架線の柱も
         折れ曲がり、架線は撤去。「東名」のプレートもグニャリ曲がっている。ホームの破
         損も酷い。復旧工事すらされておらず、放置された状態。バス代替運転。一周し、
         バスがいなくなったのを確認して車から降りて写真。すると白いRV車が近寄って
         きた。

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    13:38 東名駅出発。これで今回の予定は全て完了。あとは無事に自宅まで帰るだけ。
         計画よりかなり早い。これなら大船渡まで行けた。髪が濡れて冷える。県道27号
         線を松島方面へ。松島北ICから三陸道に入る予定。16℃。車間距離をとってい
         たら、後ろの軽がまた煽ってくる。せっかちが多すぎ。北IC方面へ右折する筈が
         通り過ぎてしまい、Uターンして左折して入り直す。(13:46)狭い線路の下を潜っ
         て斜めに農道を進む。愛宕の界隈で岩手ナンバーのツーリングバイク10台と遭
         遇。北IC入口を間違えて一本手前を入りUターン。こればっかり。
         再度右折2回繰り返して松島北ICから入る。

    http://www.youtube.com/watch?v=t0ZDszt_RPo
    http://www.youtube.com/watch?v=VJ6dQF2CwyA

    13:52 三陸自動車道(仙台松島道路)へ。車がほとんどいない。片側一車線だが後続
         がなく、ゆったり走る。松島大郷ICは完全閉鎖。制限速度は50~70km/hで、松
         島海岸ICからは片側2車線。対向車も少ない。
    14:02 利府中央IC、14:03 利府塩竈入口。この先の利府JCTで大失敗をやらかす。
         表示がわかりずらく、東北道側の左から出てしまった。直進は相馬・仙台空港の
         表示。若林JCT経由仙台東道路は直進でよかったのに、左に入り、右カーブで泉
         IC方面へ。料金は同じだが、遠回りする羽目に。しかも震災の爪痕の若林区の津
         波襲来の状況を確認できず。最後の最後でやってしまった。GSメーターも残り
         35%程度に。自宅まで持ちそうもない。やや北に戻る感じで東北自動車道方面
         へ。仙台北道路だ。宮城スタジアムの脇を通過。
    14:13 富谷JCT.左折。東北自動車道合流。シルバーのドームあり。泉IC、宮城IC記録
         取らず。
    14:25 仙台南IC。
    14:31 菅生PAへ。504km地点。下り線でも満車。6~7台並ぶエネオスのGSへ並ぶ。
         女性店員。大失敗。高速のガス代高すぎ。石巻市内はリッター155円だったの
         に、ここは何と162円!しかも41.3Lも入って6,815円の暴利。メーターは
         504.9kmだったので1L=12.2km。前のハイブリッド車は3千円台と安い!こ
         れなら20Lくらいにしておけば良かった。前に2台、給油待ちで遅れる。
    14:37 菅生PAを出発。 14:41 白石蔵王。後方に大きな虹。制限は守るが、抜かす
         方が断然多い。

    14:58 国見SAへ。541.7km地点。レストランで豚汁食べようとしたがメニューから削
         除。塩鮭定食(納豆・半熟たまご・お新香などついて)700円。いつもの席で食す。
         ここで女性定員可愛子ちゃん、かもめの玉子をお土産に2つ購入。6個入り420
         円を手にしたつもりが、間違えて9個入り690円をレジへ。袋2枚もらう。1、380
         円の出費。これは痛い。財布は残り1万円のみ。思ったより金を使う。自販機で眠
         気覚ましのブラック缶コーヒーを130円で購入。ホットなのにあまり熱くない。ぬる
         い。
    15:18 国見SA発。15:23国見IC。横風半端ない。80km/h規制。車間距離とらない
         DQN多すぎ。

    15:27 LHシステム 飯坂手前土砂降り状態。結局一日天気は外れ、見放された。
    15:29 飯坂IC。虹が二重になって後方に弧を作る。
    15:35 福島西IC。横浜ナンバーの紺の車、車間距離取らず。右側から追い越してきて
         目の前に割り込んできたので、クラクションで警告。横付けして睨みつける。その
         後はムカつき一気に加速。覆面警戒のみ。
    15:53 本宮IC下車。2,300円。18℃。16:03ジャスコ交差点。バイパス走行。

    16:08 自宅着(ヤマダ電機) 予定より3時間半早い帰宅となった。最後は睡魔を通り
         越した感じ。

      総走行距離 609.9km。

     費用

     高速料金  5,000円(本宮IC~白石IC/白石IC~一関IC/松島北IC~本宮)  
     ガソリン代  6,815円
     食費代   1,870円
     お土産代  1,380円                   合計額  15,065円 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     後記

     天気予報がもろ外れ。快晴の予報が、蓋を開ければどんよりした曇り空と小雨模様。前日が震災から2年7ヶ月の月命日で、涙雨だった気がする。そして予想外の高速道路の事故による通行止め。しかも帰りは、若林区経由で帰るはずが、まさかの道間違い。睡眠僅か2時間弱での610km近い日帰り強行日程も睡魔との闘いでキツかった。私が被災地に行く資格がないと天の声を聞いているようだった。
     正直、被災地訪問は迷いに迷った。決して物見遊山ではないものの、私のような者が大勢の方が津波で犠牲になった神聖な場所を訪れていいのかと葛藤は凄かった。それが2年半以上も、何遍も被災地に足を運ぼうとしながら、躊躇した理由だった。しかし、徐々に震災の遺構が減り、人々から震災の記憶が薄らいで行くことが居たたまれない。決して風化させてはならないと強く感じた。それに私自身も被災県である福島県に居を構え、自宅家屋が一部損壊し、罹災証明を所有する被災者であることから、津波犠牲者に対しても弔いの意志は強く、共感できる部分も多いため、訪れても、それが冷やかしでない以上、罰は当たらないであろう、亡くなられた方々も遺族も許してくれるのではないかと考えたのだ。
     そしてようやく実現した今回の被災地訪問。心のどこかで、「YouTube」や「ニュース報道」はCGや悪い夢、あるいは質の悪い冗談であって欲しかった。しかし、それは私自身が巨大な揺れを体験したように、紛れもない真実であった。津波の恐怖をまざまざと見せつけられた。一日にして街が消えてしまった惨劇。人々の人命や暮らしが一瞬にして奪われた現実がそこにあった。かつてたくさんの家屋があった場所は何も無くなり、更地と化した現状。遮るものが何もなく、風が強く吹きつける。土台跡しか残っていない宅地だった場所。工事車両だけが空しく行き来する。不幸中の幸いは、震災遺構と呼ばれる場所や被災地には、今でも全国から大勢の観光客が訪れ、花を手向け、合掌して死者行方不明者の冥福を祈る姿が後を絶たないこと。2年7ヶ月が経った今でも、あの悲劇を風化させまいと誰もが思っているということだ。被災地にしてみれば、まだまだ復興には程遠いし、被災者の深い悲しみが癒えることはまだだいぶ先だが、少しずつ、平静を取り戻し、以前のような明るい笑顔と笑い声がこだまするような街に戻って欲しい。ちょっとずつでも着実に。私にもお手伝いできることを探しながら、被災者とともに一緒に歩んで行きたいと心に決めた。

     また、私が考える震災遺構とは、大槌町の民家の屋根の上に観光遊覧船が乗った光景、雄勝町の2階建て公民館にバスが乗った光景、石巻市の道路に流れ着いた巨大な缶詰のオブジェ(鯨大和煮)、門脇小、大川小、陸前高田市の奇跡の一本松と諏訪神社、田老町の防潮堤、気仙沼市の第18共徳丸、南三陸町の防災庁舎、名取市の閖上小学校、そして福島第一原子力発電所である。このうち、大部分が取り除かれ、解体されることとなった。
     現地の遺族にとっては見るのが辛く、早く解体してほしいと願っているのは重々承知している。しかし、この出来事を忘れるわけにはいかない。私は、この悲惨な震災の記憶を子孫にきちんと伝える義務があるように思えてならない。広島原爆のシンボルが原爆ドームであるように、この悲惨な体験を、同じ過ちを繰り返さないための教訓とし、戒めとしなければならない。だから、震災遺構は残すべきだと考える。あれほどの地震で、「津波が来ない」とか、「防潮堤があるから大丈夫だ」と判断し、避難せずに津波に巻き込まれて亡くなった方々が数多くいた。避難所に指定された場所(公民館や体育館等)に避難しながらも、それを遥かに上回る大津波に飲みこまれて亡くなった多くの犠牲者がいる。決して油断したわけではないのに、「想定外」という言葉で片付けてしまっていいのだろうか。震災遺構は、そうした過去の悲劇的な体験やその記憶を後世まで歪曲せずに真実のまま伝える役目を担っているのだ。

     「災害は忘れた頃にやってくる」。もう一度この言葉の意味を噛みしめてみたいと考える次第だ。

     

    2013年10月 9日 (水)

    郡山の魅力再発見!④~広報メロディー~

     郡山市民なら誰でも知っている「郡山市民の歌」。「あ~けゆ~く~安~積~野希望~の汽笛~♪」という名曲。小学生時代に一度は歌ったことがあるはず。私も福島県民の歌と似ているので、幼少時代はよく歌詞とメロディーを混同した覚えがある。この歌は、安積開拓に携わった古の偉人たちの苦労を偲び、またその偉業を讃えるものでもある。まずはお聞きいただきたい。

     この曲はなんと夏の甲子園のテーマ曲である「ああ栄冠は君に輝く」を作曲した福島市出身の大作曲家の「古関裕而」さんの作品だ。作詞は内海久二氏。昭和29年に作られ、その後市民に愛される曲として歌い継がれてきた。それ以前は、昭和6年制作の「郡山市歌」というお堅い曲だった。しかしその曲も名作詞家の土井晩翠の作だった。

     ではこの曲がなぜ郡山市民に親しまれているかといえば、毎日正午に、郡山市内で一斉に防災行政無線「広報こおりやま」で、このメロディーが流されているからだ。これは平成元年から約5年前まではクラッシクの定番「歓喜の歌」だった。それが震災前の或る時期に急にこの曲に変わった。今もこの無線は、朝7時に「野ばら」、夕方6時には「夕焼け小焼け」のメロディーが流されている。時計がなくても時刻を知ることができる貴重な告知放送なのだ。7時のそれは「めざまし代わり」だし、18時は小学生に帰宅を促す役目も果たしている。

     もちろんどこの都市でも、同様の防災無線放送は流しているかもしれないが、この音楽は「郡山市民」であることを実感させてくれる。例えば都会の大学へ進学したり、首都圏や県外に就職した方にとっては、郡山に帰省した時に、この曲を耳にすると「故郷に帰ってきた」ことを実感し、若かりし日の自分を懐かしむ材料となる。楽しかった想い出、悲しかった出来事などが脳裏をよぎり、悲喜こもごもとなる。「歌は世につれ人に連れ」という名言を遺した名司会者もいたが、この曲は、まさに郡山市離れた人と故郷を結ぶ大切な架け橋であると言える。

     結びに、YouTubeにアップされている「広報郡山」の無線放送をリンクして閉じたい。郡山を離れ、都会で頑張っている方に是非聞いて欲しいと思う。

     朝7時「野ばら」(朝ですよ~起きてください!寝坊しますよ)

     昼12時(お昼ですよ~、さぁひと休みしてお弁当を食べましょう)

     旧メロディー「歓喜の歌」(ん~懐かしい!いきなり大音量で鳴り出すからびっくり!)

     夕方6時「夕焼け小焼け」(家に帰る時間ですよ~)

     この曲を聞きに、ぜひまた郡山に帰って来てください。

     記事作成:9月24日(火)

    2013年10月 6日 (日)

    今週の山岸舞彩キャスター(9/29~10/5)

     毎週お送りしているこの記事は、フリーアナウンサーの山岸舞彩さんを応援するために、毎週彼女の番組出演の様子を掲載するものです。

      9月29日(日)

     この日の「第一次さんま内閣」と「ものまねグランプリ」に審査委員役として彼女が出演していましたが、本記事への掲載は割愛させていただきます。

     9月30日(月)

     この日から「ZERO」は23時から23時59分までとこれまでより時間短縮となった。

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     10月1日(火)

     BS7で放送の「築地」に関する特番で、ゲスト出演した。

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     「NEWS ZERO」はコチラ

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     10月2日(水)

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     10月3日(木)

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     この日はスペシャルで、山岸キャスターが沖縄のサンゴの現状を水中に潜って取材した。ゴルフに加え、水泳でもJOに出場しただけあって抜群の運動神経を披露。シュノーケリングで海底を這うように泳ぎ、飛び込みも板についていた。それに頭から垂直にポ長いニーテールをなびかせて海中に潜っていく姿はかっこよすぎ!

     10月5日(土) WOWWOW「「私もあなたも熱くなる12時間スペシャル」

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     この日はWOWWOWで、朝11時から12時間ぶっ続けで生放送でのMCを担当した。30分間で6~7回出演。ゲストに同じ事務所の先輩である皆藤愛子やYOU、田中麗奈を招いてのトーク&番組の見所紹介がメインだった。

    2013年10月 5日 (土)

    魅惑&官能的ミュージック

     9月22日(日)の彼岸の中日に、霊園に墓参りに向かっている車内で、ラジオ福島の番組内で流れたのが官能的なムード歌謡「ハーレムノクターン」。朝も早くから、色っぽいムード音楽の特集をやっていた。CMで「ハッピーちえちゃん」がもう85歳になっていることを知り、愕然とした。いわき市植田に住んでいた時に、「スナック麗」には随分お邪魔したものだ。人がいいおばちゃん(当時は65歳くらい)で、私が結婚式を挙げた時、わざわざ郡山の式場へ祝電を打ってくれたのだった。彼女と今回のテーマはまるっきり結びつかないが、ラジオ福島が良いテーマを与えてくれたので、今回はこれで行くことにした。では、よくBGMなどで使われる色っぽさや艶っぽさを漂わせ、官能的でいて、かつ妖しい雰囲気を醸し出すような魅惑的な曲をリストアップしたい。

     「ハーレムノクターン」

     これは官能的過ぎる。男女の絡みや女性が赤い口紅、黒い下着を纏ってベッドの上で男性を誘っているようなイメージを抱いてしまう。かつて森村誠一の「腐蝕の構造」がテレビドラマ化されたが、故・岸田森が色っぽさではピカイチだった夏樹陽子にベッドで手招きされ、飛びついたシーンを思い出す。男女の絡みを描いたハードコアを彷彿させる。サックスが効いたサムテイラーの名曲。非情のライセンスの天知茂が出てきそう。
     確か「鶴光のオールナイトニッポン」でこのBGMを使ったエロいコーナーがあった。

     「男と女」

    http://www.youtube.com/watch?v=SlFWzNfC6Yk

     「ダ~バ~ダ~ダバダバダ~ダバダバダ~」でお馴染みの曲。フランシス・レイの名曲だ。文字通り男女の情愛を描いた傑作。最近ではNHK連続テレビ小説「てっぱん」で取り上げられた。フランシス・レイと言えば「白い恋人たち」が有名。

     エマニエル夫人のテーマ

     1974年にエマニュエル・アルサンの小説『エマニュエル夫人』を映画化したもので、当時のフランス映画独特の演劇的な演出と作品全体に漂うアンニュイな雰囲気が絶妙にマッチし、大ヒットを収めた。シルビア・クリステルはこの作品で世界的な名声を獲得した。大々的に初の女性向きソフトコア・ポルノとして宣伝され、特に日本で女性中心に大ヒットした。以後シリーズ化され、後年になってからリメイクもされている。

     「11PMのオープニングテーマ」

    http://www.youtube.com/watch?v=UbnGrx1F-is

     最近は見なくなったが、ウサギの耳をつけて、黒いアミタイツを身にまとったスタイル抜群のモデルがラインダンスするオープニング映像に、世のお父さんたちは色めきだったに違いない。「シャバダバ~シャバダバ~」という意味不明の歌詞も、大人の世界を感じたものだ。こういう深夜のお色気番組は、他にも「ウィークエンダー」の再現VTRや「トゥナイト」の山本晋也監督の風俗を取り上げたコーナー、更には「独占大人の時間」、「TV海賊チャンネル」の名物コーナー「ティッシュタイム(後のシャワータイム)」などもあった。また、何の番組かは忘れたが、テレビの公開番組で、野球拳を行い、負けたら一枚ずつ脱いでいくような「ヤバイ」番組もあった。一方、昼間では「アフタヌーンショー」や新倉イワヲ監修の「あなたの知らない世界」での再現VTRもそそられるものがあった。

     「時には娼婦のように」

     黒沢年雄の名曲。「ザ・ベストテン」にもランキングして出演していた。よくよく考えると放送禁止になってもおかしくないタイトルだ。歌詞も刺激が強くて衝撃的だった。

     「時には娼婦のように淫らな女になりな 真赤な口紅つけて黒い靴下をはいて 大きく脚をひろげて片眼をつぶってみせな 人さし指で手まねき私を誘っておくれ バカバカしい人生よりバカバカしいひとときが うれしい OH-OH-OH-OH- 時には娼婦のようにたっぷり汗をながしな 愛する私のために悲しむ私のために 時には娼婦のように下品な女になりな 素的と叫んでおくれ大きな声を出しなよ 自分で乳房をつかみ私に与えておくれ まるで乳呑み児のようにむさぼりついてあげよう バカバカしい人生よりバカバカしいひとときが うれしい OH-OH-OH-OH- 時には娼婦のように何度も求めておくれ お前の愛する彼が疲れて眠りつくまで」

     「愛の水中花」 

    http://www.youtube.com/watch?v=CaS5V6VVPLE

     こちらも「時には娼婦のように」と同時期に大ヒットした曲。美人女優の松坂慶子が歌い、黒いコスチュームが妙に艶っぽかった。大人の女性のイメージは彼女が築いた感がある。チャイナドレス風のコスプレやスリットが大きく開いた黒いドレスから細くて長い脚がみえてドキッとしたものだ。

     「伊勢佐木町ブルース」 青江三奈

    http://www.youtube.com/watch?v=JN9Rfq-YM1Y

     1968年に発売されたこの歌はあまりにも衝撃的で刺激が強すぎた。子供には聞かせたくないと思った親は多かった。人前でいきなり「ア~ン、ア~ン」とため息を連発。聞いている方が赤面してしまうほどだった。よくもまぁ放送禁止にならなかったものだ。

     「経験」 辺見マリ

     いきなり「やめて~」で始まるこの曲は鮮烈だった。しかもその歌詞を連発する。1970年4月にリリースされた辺見マリの2枚目シングルである。 作詞安井かずみ、作曲村井邦彦。 同年10月6日には当時東映専属だった谷隼人の第 一回主演作品として映画化され、辺見マリが当曲を熱唱するシーンもある。和製お色気ムード歌謡の先駆者のような役目を果たした。彼女は西郷輝彦と結婚したが、その後離婚した。

     「魅せられて」 ジュディオング

     台湾から来た彼女がいきなり白いドレスを両手を広げて蝶のように舞い、レコード大賞までかっさらってしまった。それは衝撃的な登場で妖艶さが漂って、それまでにないタイプだった。

     「Foxy」 Susan Anton

     ブロンドのロングに青い瞳がトレードマークだった彼女。とてもスタイリッシュで182cmもあった。その彼女が歌ったこの曲は、色っぽさでは右に出るものがない。

     「Physical」 オリビアニュートンジョン

     大胆にショートヘアにイメチェンし、レオタード姿でエアロビクスをするPVは清楚なイメージを抱いていたファンの度肝を抜いた。アクティブな彼女を初めて見た方も多かっただろう。

     他にも洋楽を挙げればキリがない。Madonnaやレディ・ガガ、ノーランズ、アラベスクもセックスアピールは強かった。

     邦楽はなかなか難しいが、妖艶な雰囲気は黛ジュンの「天使の誘惑」、高橋真梨子の「桃色吐息」、大橋純子の「シルエットロマンス」もこのテーマには捨てがたいし欠かせない筈だ。

     記事作成:9月22日(日)

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