震災遺構を訪ねて (10/12)
<経緯と経過>
この被災地訪問は以前から計画していたが、実行日が未定だった。しかし、9月に入り、気仙沼の「第18共徳丸」の解体作業が開始され、9月19日(木)には、南三陸町の「旧防災庁舎」が遺族の強い意向で撤去されることとなり、一刻の猶予もなくなった。よって、最初は3連休の初日の9月21日(土)に訪れることを決意した。本来なら、この日に磐梯吾妻スカイラインにある「吾妻小富士」をトレッキングする予定だった。しかし、「待ったなし」の状況にプラン変更を余儀なくされたのだった。やはり、震災から2年半以上が経過し、徐々にその遺構が失われていくのを聞くと居たたまれなくなった。しかし、その前日の9月20日(金)の夜中の2時過ぎに、突然枕元に置いた携帯の緊急地震速報のアラームがけたたましく鳴り響き、叩き起こされる。結構長くて大きい揺れが続いた。これで寝不足決定。しかもこの日から全国秋の交通安全週間開始。絶対に交通取り締まり実施している筈。
そして同じ日の夜20:30に、GSでガソリン満タンに整えた。GSでは、この前日の木曜日に、運悪く交通事故現場に遭遇し、ガラス破片を踏んでしまい、タイヤに傷入ったのではと心配で見てもらう。異常なしに安堵。そして空気圧をチェックしてもらい、かなり高めに補填してもらい、その5時間後の出発に向けて準備万端整えた。
しかし、ここで思いもよらぬ大失態をしでかす。午前1時出発に合わせて携帯のアラームをセットするが、知らないうちに止めてしまい、目覚めたら3時50分。ヤバイ・・・。3時間遅れての出発はアウト。ここで臆病風に吹かれてしまい、この時点で被災地訪問を断念。
結局この日は、元々の予定だった「吾妻小富士」往復プランに収まった。
しかし、震災遺構が徐々に減っている中、今度は遠藤未希さんが亡くなる寸前まで避難を呼びかけた南三陸町の「防災庁舎」までが年内に解体されることが正式に発表され、是が非でも強行せざるを得なくなった。そして翌週の週末は、台風襲来などで天候にも見放され、ようやく実施にこぎつけたのは、当初の予定より3週間遅れのこの日だった。
それでは当日の模様を振り返りたい。
<予定行程>
郡山ー本宮ICー一関ICー気仙沼ー陸前高田(奇跡の一本松・旧市街地周辺・諏訪神
社・生死を分けた階段)ー気仙沼(第18共徳丸・港周辺)ー南三陸町(防災対策庁舎・旧
町内・旧志津川駅)ー石巻(大川小・石ノ森萬画館・日和大橋・門脇小)ー野蒜駅ー東名
駅)ー松島北ICー本宮ICー郡山
<実際の紀行>
10月12日(土) くもり/小雨
0:10 就寝、01:54起床。つまり睡眠時間は2時間未満という厳しい状況。家族を起
こさないように秘密裏に準備。服装は薄手の長袖にデニムという軽装。
2:10 郡山の自宅を出発。バイパスへ。大型トラック多い。3連休初日なので下り線が
混むことを予想。気温は21℃。天気予報は快晴の筈。
2:21 本宮ICから東北自動車道仙台方面へ。いきなり事故のため白石IC~仙台南IC
間が通行止めの表示。そこまで1時間かかるため事故処理終了し、解除されるこ
とを期待。Highwayラジオによると、1:45から通行止めになった模様。
2:41 福島西IC 90~110km/hのゆったりペース。
2:46 AKBのオールナイトニッポン放送中、地震アナウンス。中通り震度3。小雨。
2:54 国見IC 雨で路面濡れ。
2:58 国見SA 通行止め情報を得ようとピットインするが満車。時間調整できず。
3:18 白石IC 結局ここで強制排除。料金所まで長い車列大渋滞。1,100円。
馬鹿な「事故野郎」のせいで一旦出高速を出て、また入り直し。ETCでも高くつく。
国道4号線も大渋滞。大型トラック等で動かない。大失敗。被災への道は遠い。
たどり着けるのか?次の交差点でUターン。コンビニで仮眠し、解除されるまで待
って、白石ICから再度乗ることに決めた。予想外のタイムロスで結局大幅に遅
延。
3:33 セブンで綾鷹・おにぎり2個、サンドで505円。駐車場でシート倒して仮眠休憩。
3:58 車の数が減ったことを確認。通行止め解除か。再出発。ステレス受信。解除。
4:02 白石ICから再び高速へ。スイスイ。
4:11 村田JCT 仙台南の手前4.6kmで渋滞。仙台から再合流する車か?
4:22 5km/hで徐行。片側1車線。事故現場通過。大迷惑。LHシステムの上だった。
4:24 仙台南。4:28 仙台宮城IC。再び路面が濡れている。4:35 泉IC
4:41 鶴巣PA 80km/h規制。 同時刻大和IC。4:53 古川IC
4:57 長者原SAピットイン。やはり満車。無理やり駐める。WC&お茶飲み。スタンプ。
ハイウェイウオーカー入手。5:06 長者原SA発。ちょうど1時間遅れ。濃霧。
5:16 志波姫PA 満車で休憩できず。眠い。明るくなり出す。5:26金成PAも満車。
5:28 岩手県へ。18℃。くもり空。霧。
5:33 一関IC高速降車。1,600円。結局2,300円のところを乗り継ぎで2,700円。
市街地を気仙沼方面目指して横切る。早朝なのに車いる。右折2回後、左折。
気仙沼まであと53km表示。5:38 一関駅前を右折。5:40左折してR284へ。
片側2車線のいい道路(復興支援道)。雨。ジェットコースター道路。先行車無。
いわい牛の里、石の駅。立派な巨大アーチ橋。
5:55 かわさき道の駅でWC。6:01発。 月のように輪郭くっきりオレンジの太陽。
16℃。なぜ雨?ホームセンターサンデー。6:10 千厩高校。 線路沿い。
猫の死骸を避ける。本降りとなる。予報は晴れなのに・・・。道は平坦。
6:20 矢越。室根集落。大型車の後ろ50km/hペース。ずっと雨。
6:29 宮城県へ。にいつきパーキング。トンネル後PC。事故?気仙沼BP方面へ左折。
屋根に巨大たぬきのオブジェのあるGS。宮古方面へ左折。トンネル車多い。
ここまで263km走行。トンネル後、右に気仙沼の港と海が見える。小雨止まず。
津波浸水区間(ここから/ここまで)の標識あちこち。トンネル。煽りトラック。その
後も黒のウィッシュが車間とらずにスリップストリーム。運転荒すぎ。腹立ち警告。
海岸沿いの道を50~70km/hペース。
6:55 陸前高田市へ。神妙な気持ちになる。右手に「奇跡の一本松」が見える。津波の
爪痕が酷く残る白い学校。港と市街地、がれき撤去されて何もない。建設中の公
共の建物が工事中なだけ。右折して橋を渡り、左側の「一本松」の駐車場へ。
280.9m地点。車が多く、道路渡れない。ここから徒歩で海岸方面へ歩く。迂
回。橋の土手に黒い土豪が無数に積まれている。狭い散策路をくねくね迂回しな
がら500mほど歩く。途中で6~7人の団体とすれ違う。
7:08 一本松に最接近。橋の途中に工事用の柵で行き止まり。小雨も止む。朝焼けの
薄暗い中、一本松レプリカが聳え、逆光でシルエットに。厳かで幻想的。この1本
だけが残った。その下に津波で破壊された建物。津波襲来前の状況知らないの
で、どれほど被害が甚大だったか理解困難。周辺は山を崩して巨大な橋脚工事。
工事用の柵の両端河童の図柄。徒歩で車へ。交通往来激しい。この海岸近くは
急ピッチで復興工事が進んでいた。特に、大きな公共施設と思しき建造物が2~
3軒建設中だった。
7:22 奇跡の一本松P発。周辺散策。港側は工事車両のみで入れず。左折。高田病院
があった場所を周回。瓦礫の山が点在。震災前のナビなのでかつてあった場所
が表示されるが、駅も何もない。ここで何千人もの遺体が発見された・・・。
川に沿って堤防の上を走ってみた。途中でUターン。向こう岸に「諏訪神社」と
「可哀想な場所」を確認。旧市街地は本当に何もない。壊滅は本当だった。家一
軒無し。街全体が更地(荒野)。MAIYAも無い。瓦礫も片付き、辺り一帯は不気味
な静けさで、工事車両が忙しそうに動いているだけ。人々の笑い声もなければ、
人影すらない。言葉は悪いが「ゴーストタウン」のようだ。かつては大勢の市民の
生活がここにあった。毎日の平穏な暮らしや営みがあった筈なのに、その面影を
感じられない。遮るものが何もない、殺伐とした風景が目の前に広がっていた。そ
れが2年7ヶ月という月日。
橋を渡って右折。気仙町へ。津波の直撃を受けた廃屋が残る。山の斜面に黄
色い三角旗が連なって風になびいている場所にたどり着いた。。その裏の斜面に
「諏訪神社」の石段があった。左折し、細い道を100m進んだ左の路肩に駐車。
http://www.youtube.com/watch?v=XYWzOa7DlSc
http://www.youtube.com/watch?v=zVfpPQ2lAPA
http://www.youtube.com/watch?v=6vqqCscRp3Q
7:35 諏訪神社着。286.2km。徒歩で神社の入口へ。反対側は観光バスの駐車
場?何人かいる。合掌し礼をしてから急斜面の石段を上る。ここを3/11にお年寄
りも登ったのか・・・。ステンレスの手摺り。途中石段が破壊され、手作りの木の階
段設置。写真も配置。中間で休憩できるベンチ&テーブルのスペースあり。一気
に上る。「Youtube」の映像と同じ。やっと来れた。神社の境内。身を寄せ合って暖
をとった広場、そして津波で家屋が流れて襲ってきた見晴らし場も。あの日、地獄
絵図のような場面があった。周辺は海と化した。神聖な場所だ。誰もいなくて私ひ
とり。急階段をゆっくり降りる。続いて、その目と鼻の先にある「生死を分けた階
段」へ。遠くからでも確認できた。手すりが崩壊している。車で移動。殺風景な場
所に不釣合いなコスモスが咲き誇っている。目に映る全てが物が悲しく見える。坂
を上がって崖の下のプレハブが2つある空き地へ。その左側がその階段の入口。
右には津波に破壊された公民館の土台跡が。雑草とぬかるみで足元を気にしな
がら20m先の入口へ。道を隔てた左側には先ほどの神社の急斜面。この僅か
50mの距離が、生死を分けた。ここは高さがないので、次々避難者が波に飲ま
れた。石段は10段程度でそこからは道がなく、険しい斜面。行き止まりを示す赤
い旗が立っていた。当日、その道なき道を命からがら登り、丘の上から変わり果
てた町並みを見下ろしたようだ。合掌し、冥福を祈った。いろんな漂着物や残骸
が、今でも散乱している。手すりは横倒しのまま。L字に折れ曲がった電柱は撤
去。とにかく周辺は遮るものがなくて遠くまで見渡せる。一本松はどこからでも見
える。ラウンドマークの働き。
私が帰ろうとしたら、団体の客が諏訪神社の階段を登って行くのが見えた。
http://www.youtube.com/watch?v=8Xb0cASakf0
7:54 「生死を分けた階段」発。一本松を見納め、学校の脇を通り、坂を上って陸前高
田を後にした。19℃表示。R45を気仙沼へ戻る。大船渡へは行かず戻る。何も
ないので、長くいられなかったため、逆に遅れた時間を取り戻せた。予定では、
8:30まで陸前高田に居るはずだったので、追い越した。
8:05 海が見下ろせる「ひと休みパーキング」でピットイン。来た道を引き返す。トンネ
ルの手前の交差点から左折して、気仙沼市街方面へ。鹿折唐桑付近も住宅が流
され、何もない。港から1km離れているのに・・・。ここまで津波が深く押し入った。
やがて白い塀に覆われた場所に。その中に解体工事中の第18共徳丸がある。
前を走っていた他県ナンバーのワゴン車もそこが目的のようだった。そこの入口
に花束が供えてあった。ここで犠牲者が出た模様。右折して観光客や工事の方
のものと思しき車両が駐車。
8:17 「第18共徳丸」の解体現場着。301.2km。このあたりも住宅街だった面影が。
土台だけになっていた。目の前の頭上にプラットホームが。5~6人の観光客の
姿が・・・。先周りして一番良く解体現場(船体)が見える場所で写真を撮りまくる。
工事の人に話しかけた。写真撮影の許可を得た。すると船が屋根に乗った場所
はどこか逆に聞かれて、そこは大槌町と答えた。観光客とは別ルートで斜面を上
がり、線路へ。ぐにゃりと曲がって、途中から線路が無くなっていた。観光客は外
人で、このようなあ神聖な場所できゃぴきゃぴはしゃいでいた。考えろよ。駅舎は
津波で流され、ホームしかなかった。第18共徳丸は、私が小名浜の今は無きボ
ッコ灯台で釣りをしていた際に、目の前を通過した漁船であった。9月9日より解
体が開始され、もう跡形もないと予想したが、訪問時にはまだ前半分が未解体だ
ったので、その姿を見られただけでありがたかった。青と赤の船体もだいぶ錆び
付いていた。ここでも歳月の経過を感じた。もうあと半月もせれば跡形もないだろ
う。
8:35 「第18共徳丸」の解体現場出発。続いて気仙沼の市街地を周回。まず港へ。津
波の直撃を受けて、堤防が損壊。地盤沈下により、堤防や岸壁、船着場が浸水
&冠水して入れない箇所あり。川のような水たまり。港では誰ひとりとして釣りをし
ている人はいない。不謹慎だろう。潮の香りが強くて臭い。その後、河北新報社の
ビルを目指す。ホテル望洋館あり。仮粧坂を上り、港側へ。しかし、社屋が見当た
らない。3/11には、そこまで漁船が流れ着いたのだった。土台しか残っていない
場所がある。低い場所は津波にやられた。瓦礫置き場もあちこちにあり。反対側
へ。安波山へは行かず。風光明媚な港の風景。向島にホテルが聳え、屋上に体
育館がある気仙沼女子高校も。川沿いの土手で迷い込み行き止まり。Uターンし
て戻る。再び港へ。解体中のリアスシャークミュージーアム、魚市場界隈を周回。
噴水広場跡。結局、河北新報社は発見できず。あちこちで道路も冠水。
http://www.youtube.com/watch?v=egjEIFP7Y-Q
http://www.youtube.com/watch?v=v1V3wCpdAvY
http://www.youtube.com/watch?v=sIgh19-4CVU
http://www.youtube.com/watch?v=UPv_Ypg7RJg
http://www.youtube.com/watch?v=OJvxYF2NIzw
9:03 気仙沼発。予定より30分近く早い。左折してR45へ。旧志津川方面に向かう。
次に向かうのは、もっとも私が今回訪れたい南三陸町の防災庁舎跡だ。遠藤未
希さんが命懸けで避難を呼びかけた場所だ。ここへ来てようやく晴れ間が。20℃
表示。海岸沿いアップダウン。低い場所は「過去の津波浸水区間ここから」の標
識が何度も出てくる。そして海岸沿いの道には、時々釣りができそうな小規模な
港が登場する。でも護岸工事で真新しくなった防波堤では、釣りをしている姿は見
当たらない。道すがら、津波の被害を受けた店が放置されている。途中小雨、
雨。眠すぎる。腰も痛い。時折渋滞。
9:31 本吉市街との分岐の風越Y字路。
9:34 本吉津谷バイパスでセブンへ。おにぎり2個、缶コーヒー、お茶、ピーナッツバタ
ーパンで535円。WCを借りる。5分ほど滞在し、パンをかじる。気仙沼から南三
陸町までは遠い。陸前小泉付近で頭上を横切る高架橋(橋梁)が途中で寸断。落
ちている。通り過ぎた後、空き地に車を停車して写メ。ベンツの先客(女性)も土手
の上の線路跡を伝って写真撮影していた。歌津では橋が崩壊し、右の山側を迂
回。南三陸町に入り、道路沿いに「南三陸テナント広場」という名の仮設商店街が
あった。レールや橋脚が所どころで寸断。トンネルの入口が何度も見える。
10:10 南三陸町に入る。予定より1時間早まる。下り坂を下りて視界が広がった時、
右側に赤い鉄骨だけがむき出しで残された建造物が、何もない広大な更地(荒
地)にぽつんと佇んでいるのを発見。すぐにそれが防災庁舎だと認識した。そちら
へ車を走らせる。道路だけがある。近づくと、先客5~6人と車が数台見えた。
10:11 南三陸町防災対策庁舎跡着。349.7km。入口に祭壇が置かれ、地蔵像、卒
塔婆や焼香、周囲には多くの花やお供え物があった。順番を待って、祭壇に向か
って合掌し、深く礼をした。骨組みだけの庁舎。ここで遠藤未希さんが大津波に流
されるギリギリまで無線で避難を呼びかけたのだった。本当はここの周囲には家
屋がたくさん建ち並び、防災対策庁舎のビルの外壁自体も水色だった。
本当に周囲は何もない。家屋・店舗など一切ない。どれほど津波が威力があ
り、強大な力で全てのものを押し流したか理解できる。しかし、海からここまでは
かなり距離がある。内陸部で、海は見えないくらいだ。そしてこの場所に、この向
きであったのも予想外だった。もっと南側にあると思っていたのだが。雑草だらけ
の周辺を一周して360度回って眺めてみた。津波が襲来したあの日、3階建ての
てっぺんまで津波が押し寄せ、街が海の中に消え、てっぺんのアンテナ部だけが
残り、そこに這い上がった数名だけが辛うじて助かったのだ。信じられない高さ
だ。この庁舎だけは取り壊されず、今日まで残されたのだが、年内いっぱいで解
体されることが決まった。特に、この防災庁舎跡は、解体されると発表されて以
降、連日全国各地から線香や花を供える方々が数多く訪れ、ひっきりなしで人が
途絶えることがない。遠藤未希さんの命をかけた呼びかけは、こんなにも多くの
人々に感動を与えている。
南側から見上げると、3階部分に未希さんが使用したかもしれない放送機器の
残骸らしきものが残っていた。ひっきりなしに訪問客が来ては去っていく。とても残
念だが、この震災遺構も年内での解体が決まった。もうすぐ周辺が柵で覆われ
て、工事が始まると思われる。
10分ほどの滞在でそこを離れ、古いナビを頼りに志津川病院があった地点
へ。骨組みだけになったガソリンスタンドの向かい側のフェンスで囲まれた区域が
病院跡であることを確認できた。街中を周回し、防災庁舎の西手側に、一段高く
なった場所が線路が通っていた土手。その手前にあった筈の志津川駅跡へ。
10:25 志津川駅跡着。前広場のロータリーは何もない。プレハブのバスの待合室があ
る。その先がプラットホームへ連なる通路。ここは辛うじて当時の状態で残ってい
た。トンネル仕立ての通路を通って手前の階段を駆け上がってホームへ。ズタズ
タで損壊している。レールは跡形も無い。津波の凄さを感じ取った。ホームから反
対方向を見ると、丘の上に志津川高校らしき建物が見えた。もっとも悲惨な震災
時の映像が撮影された高台だ。遮るものがないので、吹きさらし状態で風が強
い。5分ほどで駅を後にした。線路沿いの狭い道を進み、砂利から志津川高校方
面へ。住宅が立ち並んでいたであろう痕跡のみ。土台のみを残して更地に。高校
の入口まで来たら、生徒が30名ほどボランティア活動で撤去作業していて、とて
も進入路の坂を上がれる雰囲気ではなかった。その周辺を2回周回したが、やは
り登れず。砂利の広場には部活の遠征バスが停車。結局高校のモアイ像は拝め
ず。隣りの老人ホーム「慈恵苑」があった丘へ。そこは今、駐車場で、JAなどの仮
設店舗があった。そこにも津波の犠牲者を供養する焼香場所が築かれていた。
工事の人が作業中。車椅子の人を救出した階段も見つからず。制服の女子高生
が歩いて学校方面へ。 その高台から、Youtubeで見覚えのある風景を写メ。何も
なくなった平地に防災庁舎だけが取り残されてあるので、どこからでもそれを見つ
けられる。その後、3度目のアタックを試みるが、侵入路へ行けず。裏手の急坂を
登って避難者の仮設住宅を往復。高校の裏門側だが、弓道部など部活中だっ
た。不審者と間違われそうだ。
http://www.youtube.com/watch?v=IBUWQVrbdn4
http://www.youtube.com/watch?v=rbaDwlwML1U
http://www.youtube.com/watch?v=CVbO785OPBA
http://www.youtube.com/watch?v=FlQ5iywCLMs
http://www.youtube.com/watch?v=wy94DOrlSz4
http://www.youtube.com/watch?v=RZZiVpiEj0w
10:58 南三陸町を出発。今回の慰問旅行も佳境を過ぎ、あとは石巻界隈を残し、帰路
に着くだけとなった。メインの場所を後にし、R45を南へ。観洋の前を通過。海岸
沿いの道、工事車両の大型ダンプがやたらと多い。海岸、太陽の光に海がキラキ
ラして綺麗。津波区間の標識が断続的に登場する。線路やトンネル、橋梁があち
こちに現れる。
11:04 陸前戸倉駅へ。線路は撤去され、トンネルを抜けてレールがあった場所がアス
ファルトでバスの通行路。踏切の棒がETCゲートのようになっている。一般車立ち
入り禁止のロータリー。写メ。目の前が食べ物屋の仮説店舗。そういえば、被災
地で、食堂に入りたくさん金を使おうと思ったが、店など何一つなく、結局はコンビ
ニでしか買い物をしていない。山側に進路を取り、陸前横山の先を左折。県道64
号線の狭い道へ。細いのは最初だけだった。砂防林の記念碑。山あいを縫うよう
に道が続く。対向車は全くなし。ガラガラ。この道がまた曲者で、途中からY字路を
石巻方面へ右折して以降は峠道で、すれ違えないほど細くて急坂。夕張の万字
の峠を思い出した。対向車が山を降りるまで1台だけ。結構遠くて時間がかかっ
た。
11:23 右側に追分温泉という萎びたいい感じの古い温泉宿が一軒あった。なぜか客が
多くいた。IBCラジオ、稲垣潤一とアシスタントが島本麻衣子さん。林の中の一本
道。薄暗く小川が右下を流れ、川沿いルートくねくね。22℃。山を降りたら道が太
くなり、対向車も2台すれ違った。右左折を2回繰り返し、北上川の川沿いルート
へ。この川、太くて大きいが、土手ギリギリまで水かさがある。大雨が降れば洪水
は必至。津波で落ち、その後架け替えられた綺麗なトラス橋の橋を渡る。
11:34 R398の橋を渡った。水面が近くて怖い。T字路にぶつかり左折。その右側に旧
大川小学校の校舎が見えた。右に折れて下り坂のカーブを降りた右手に、東日
本大震災最大の悲劇の舞台となった大川小学校があった。左側の空き地に車を
入れた。本当に川のすぐ脇だ。
11:35 大川小学校跡着。386.0km地点。車が5~6台、訪問客が10名以上が先に
来てお参りしていた。道路を横切り、校舎の方へ。広い敷地。おそらく校庭だった
のだろう。空き地化していた。正面玄関のある場所には祭壇が置かれ、様々な供
物が所狭しと並べられて飾られていた。遺族の感情を最優先する旨の警告板と、
供物は持ち帰る旨の指示があった。静かに合掌。厳かで神聖な場所。神妙な感
情となる。校舎は壁や窓がなく、むき出しで吹きさらし状態。立ち入り禁止のロー
プが周囲に張り巡らしてあった。右側に最近建立したと思われる、大きな石碑が3
つ並んである祭壇が築かれてあった。ここは遺族感情を最優先し、撮影も禁止。
石碑には犠牲者全員の名が刻まれている。地域の方の氏名もあり、中学生3名
も犠牲なったらしい。避難が遅れたため、児童74名が川沿いの道を歩いている
時に津波に飲まれて亡くなったのだ。その裏手には疑念が残る急斜面の山。体
育館側に卒業記念で制作された壁画の塀。プールがあったのか?コンクリートの
建造物が、根こそぎ柱は折れ曲がり、津波の威力を感じた。教室はオープンスク
ールの造りで、黒板がひとつのエリアごとに3台壁にかかっていた。教室の仕切り
壁は無くなっていた。外から中が丸見え状態。建物内には入れず。
なぜすぐに裏山へ行かなかったのか。もし雪が舞う中でも、地震後すぐにこの険
しい山を登っていればあんなに多くの児童が犠牲にならずに済んだ筈。教職員も
13名のうち10名が死亡または行方不明なので、一瞬の判断のミスが取り返しが
つかない事態を招いたのだ。あれだけ激しい揺れがあって、津波が来ない訳が無
い。なぜすぐに避難しなかったのか悔やまれる場所でもある。あまりにも悲惨な現
場で、切なくなった。何も抵抗できない児童たちが何をしたというのだ。何一つ悪
い所業を働いていない。神は何と残酷な仕打ちを与えたのか・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=DW0dqWR4S7M
http://www.youtube.com/watch?v=HNJWV0pmUcc
http://www.youtube.com/watch?v=0wSE4WK29so
http://www.youtube.com/watch?v=0h0FLBAF6tQ
http://www.youtube.com/watch?v=gwd2GYG-gc0
http://www.youtube.com/watch?v=CaIpNWeBJs8
http://www.youtube.com/watch?v=xHv6fV8kEvU
11:53 大川小学校発。坂の途中に東日本大震災418名犠牲鎮魂の碑がある。この周
辺もホコリを巻き上げながらダンプが往来する。道を間違えてUターン。川沿いの
道を西へ行く。浸水&冠水しているため、川沿いの一本左側に、新たな道が作ら
れた。だから道は4車線分ある。この川沿いの県道30号線は見通しのよい道だ
が、終点の大森まで長く遠く感じた。水量が多く、今にも堤防を越えて溢れ出てき
そう。やはり地震で沈下した模様。もしかして行方不明者の子供たちや先生方の
遺体は、誰にも発見してもらえないまま、この川底に今も眠っているかもしれな
い。皆、80km/hペースで飛ばしている。軽が煽ってくる。沿岸部の人は運転荒す
ぎ。 石巻市街への入口でまた失敗。川を左折して右折、左折してR45へ合流し
たが、実はその他前を直進すべきだった。大失敗。市街地の混む道を遠回りして
しまう。道すがら懐かしい「CoCo!」のコンビニを発見。一関街道では渋滞必至と思
い、日和大橋を渡りたいため、左折してR398へ。旧北上川の広い川幅に架かる
綺麗な橋を渡り、トンネルを抜けると、右側に広大な石巻専修大のキャンパス。そ
の先には近代的な石巻商業高校の校舎が。右折して再び旧北上川に架かる橋を
渡る。また小雨降り出す。左折して川を渡ると、右に中洲の銀色の玉ねぎ型のド
ーム屋根の建造物を発見。それが石ノ森章太郎主催の萬画館である。入口にロ
ボコンや仮面ライダー、009の人形オブジェが立つ。右折して奥の駐車場へ。こ
こで本降りとなり、車から出られず。
12:31 石ノ森萬画館着。ここまで411.1km走行。ここは下から写真撮影のみで終了
の予定。すぐに再出発。右折して橋を渡り切り、再び右折。国道398号線を海側
へと向かう。この辺の通り沿いの住宅も津波の直撃を受けた模様。あちこちに土
台の石束の跡。やがて川沿いの商店街へ。途中、大きな交差点から右折100m
先が片側2車線の大きな道路。ここは見覚えのある道路、数年前の牡鹿半島で
の釣行の際に、夜中に訪れた場所。側道から工場街へ入り、日和大橋の橋脚に
ルアーを投げ込んだ想い出がある。右にスライドする形で日和大橋へ。急な上り
坂を駆け上がる。オンボードカメラで写メ。すると数年前との豹変ぶりに愕然とす
る。左側の火口側は、灯台までの堤防が半壊し、浸水しているし、右側にあった
工場街や住宅街は津波の被害をもろに受けて更地状態と化していた。この太鼓
橋の形状の橋の上近くまで津波が押し寄せ、海と化したのだった。身につまされ
る。やがて下って石巻港川へ。途中で次の訪問地が門脇小学校であることを思い
出し、右折。するとちょうど門脇小の方面だった。すぐに正面左にそれらしき建造
物を認めた。しかし、予想外の工事用のシートで目張りしてあるではないか。ここ
も解体するのか?信号を左折して、大きな道路のバス停の裏手の駐車場だった
場所に車を置いた。
12:41 門脇小学校着。416.3km地点。先客の団体が5~6人いた。シルバーのシー
トですっぽり覆われていた。ここは3月11日当日、多くの家屋や車が津波で押し
流され、この校舎の前に集積。そして火災となり、校舎の壁中が燃え、焼け跡が
残ったのだ。その後、2年半近く、そのまま放置され、焼けただれた黒焦げの痕だ
けが残された。そして震災の年の大晦日に、ここの校庭で長渕剛が「生きる」を熱
唱し、多くの方々に感動を与えたのだった。周辺は住宅街だったのだろう。区画
が整理され、ところどころ道路がある。しかし更地状態で雑草だらけ。見る影もな
い印象。おそらくはここでも多くの犠牲者の遺体が発見されたのだろう。プールま
で続く石段には赤いペンキで矢印が描かれていた。捜索終了を意味する自衛隊
残 したものか?校庭は綺麗に整備されてあるが、車などの残骸が所狭しと漂着
した場所だ。児童が活動中は撮影禁止を告げる校長命の看板あり。本日は土曜
日で休日なので撮影可。近くに中学生らしき人影有り。左側にはお寺と低い位置
まで墓地が並ぶ。ここまで波が押し寄せ、墓石も流されたであろう。反対方面に
は、ラウンドマークとして日和大橋が見てとれた。見学は10分以内だった。
12:51 車に戻ってリスタート。門脇小学校出発。その道路は県道240号線。その先に、
仮設の商店街と有名となった「がんばろう石巻」の文字板と仏像のある祭壇が置
かれていた。被災地にはこうした祭壇がそこかしこにある。日本製紙の工場に沿
って北へ進路をとり、ヨークベニマルを右手に見た。この辺は以前に通った記憶
有り。左折して国道398号線へ合流。石巻街道のこの道は様々なチエーン店が
軒を連ねる目抜き通り。ラーメン屋やかっぱ寿司、デニーズ、すたみな太郎と続
く。どこも気づけば昼時で、満車状態で賑わっている。この街道は信号がやたら
多くて、タイムロスが多い。淀川を渡る。しきりに航空自衛隊松島基地の敷地が
見えてこないか周囲に注意を巡らす。しかし見えない。あのブルーインパルスの
本拠地だ。矢本付近で右側に石勝線の線路や駅舎が並行。しかし、津波の被害
によって、未だに運転再開されておらず、バスで代替運行されている。
http://www.youtube.com/watch?v=eBs7yfl8Se0
http://www.youtube.com/watch?v=Y2QewQjSeIo
http://www.youtube.com/watch?v=Pl2RVNq5GDQ
13:10 やがて左側に、空港でよく見かける、巨大な回転レーダーが現れ、柵で覆われ
た広大な敷地が登場。ここが松島基地だ。震災発生時、津波の襲来によって、滑
走路が浸水し、初期の救助活動が不能となった。ブルーインパルスも格納されて
いる。いつか生で飛行訓練を見てみたい。
http://www.youtube.com/watch?v=29QzVktn-HU
13:13 今度はオービスが登場。なんと両方向測定可能な設置。探知機が鳴り響き、
50km/h以下の超安全速度で難なく切り抜けた。それにしても地元のドライバーは
車間距離取らず接近するDNQがやたら多い。
13:18 陸前小野駅付近を過ぎ、鳴瀬川の大橋を渡ってすぐに左折。そしてすぐに右斜
めに分けいる。野蒜小学校の近くの沿道で秋祭り実施。ステージでギターを弾い
て歌っていた。そこを抜けて左折。運河に沿って北へ進路を取る。やがて300~
400mほどでJR仙石線の野蒜駅の駅舎が左手に見えた。駐車場へ。
13:23 野蒜駅着。先客3~4台。プラットホームがすぐ脇。しかし、今は津波のため、駅
舎は使われていないし、閉鎖されたまま。復旧のめどすら立っていない駅舎のテ
ーブルで3~4人、何かを売っているおじさんもいた。隣りの店も1F部分は津波の
直撃で破壊が凄い。その間を通って駅の線路とホームへ。やはり同じ目的の鉄オ
タがいた。写真撮影。ホームの上の鉄塔や鉄骨は折れ曲がったまま放置。レー
ルも曲がり、その衝撃の大きさを物語っていた。ホームを降り、車へショートカッ
ト。ロープを乗り越えて車へ。雨足が強まる。どこが快晴なのか。予報外れまくり。
それとも私が単に雨だからか?5分ほどのショートステイで出発。そのまま運河沿
いに進み、右にカーブした先にある東名駅へ。
http://www.youtube.com/watch?v=onSEawFhtNA
13:31 JR東名駅着。436.6km。ここは駅舎がなく、海のすぐ近くにあるため、破損状
態が酷い。プラットホームだけ。大型バスがいて、発車時間まで待っている様子。
車内には学生が乗っていて、写真を撮りに降りられず。レールはなく、架線の柱も
折れ曲がり、架線は撤去。「東名」のプレートもグニャリ曲がっている。ホームの破
損も酷い。復旧工事すらされておらず、放置された状態。バス代替運転。一周し、
バスがいなくなったのを確認して車から降りて写真。すると白いRV車が近寄って
きた。
13:38 東名駅出発。これで今回の予定は全て完了。あとは無事に自宅まで帰るだけ。
計画よりかなり早い。これなら大船渡まで行けた。髪が濡れて冷える。県道27号
線を松島方面へ。松島北ICから三陸道に入る予定。16℃。車間距離をとってい
たら、後ろの軽がまた煽ってくる。せっかちが多すぎ。北IC方面へ右折する筈が
通り過ぎてしまい、Uターンして左折して入り直す。(13:46)狭い線路の下を潜っ
て斜めに農道を進む。愛宕の界隈で岩手ナンバーのツーリングバイク10台と遭
遇。北IC入口を間違えて一本手前を入りUターン。こればっかり。
再度右折2回繰り返して松島北ICから入る。
http://www.youtube.com/watch?v=t0ZDszt_RPo
http://www.youtube.com/watch?v=VJ6dQF2CwyA
13:52 三陸自動車道(仙台松島道路)へ。車がほとんどいない。片側一車線だが後続
がなく、ゆったり走る。松島大郷ICは完全閉鎖。制限速度は50~70km/hで、松
島海岸ICからは片側2車線。対向車も少ない。
14:02 利府中央IC、14:03 利府塩竈入口。この先の利府JCTで大失敗をやらかす。
表示がわかりずらく、東北道側の左から出てしまった。直進は相馬・仙台空港の
表示。若林JCT経由仙台東道路は直進でよかったのに、左に入り、右カーブで泉
IC方面へ。料金は同じだが、遠回りする羽目に。しかも震災の爪痕の若林区の津
波襲来の状況を確認できず。最後の最後でやってしまった。GSメーターも残り
35%程度に。自宅まで持ちそうもない。やや北に戻る感じで東北自動車道方面
へ。仙台北道路だ。宮城スタジアムの脇を通過。
14:13 富谷JCT.左折。東北自動車道合流。シルバーのドームあり。泉IC、宮城IC記録
取らず。
14:25 仙台南IC。
14:31 菅生PAへ。504km地点。下り線でも満車。6~7台並ぶエネオスのGSへ並ぶ。
女性店員。大失敗。高速のガス代高すぎ。石巻市内はリッター155円だったの
に、ここは何と162円!しかも41.3Lも入って6,815円の暴利。メーターは
504.9kmだったので1L=12.2km。前のハイブリッド車は3千円台と安い!こ
れなら20Lくらいにしておけば良かった。前に2台、給油待ちで遅れる。
14:37 菅生PAを出発。 14:41 白石蔵王。後方に大きな虹。制限は守るが、抜かす
方が断然多い。
14:58 国見SAへ。541.7km地点。レストランで豚汁食べようとしたがメニューから削
除。塩鮭定食(納豆・半熟たまご・お新香などついて)700円。いつもの席で食す。
ここで女性定員可愛子ちゃん、かもめの玉子をお土産に2つ購入。6個入り420
円を手にしたつもりが、間違えて9個入り690円をレジへ。袋2枚もらう。1、380
円の出費。これは痛い。財布は残り1万円のみ。思ったより金を使う。自販機で眠
気覚ましのブラック缶コーヒーを130円で購入。ホットなのにあまり熱くない。ぬる
い。
15:18 国見SA発。15:23国見IC。横風半端ない。80km/h規制。車間距離とらない
DQN多すぎ。
15:27 LHシステム 飯坂手前土砂降り状態。結局一日天気は外れ、見放された。
15:29 飯坂IC。虹が二重になって後方に弧を作る。
15:35 福島西IC。横浜ナンバーの紺の車、車間距離取らず。右側から追い越してきて
目の前に割り込んできたので、クラクションで警告。横付けして睨みつける。その
後はムカつき一気に加速。覆面警戒のみ。
15:53 本宮IC下車。2,300円。18℃。16:03ジャスコ交差点。バイパス走行。
16:08 自宅着(ヤマダ電機) 予定より3時間半早い帰宅となった。最後は睡魔を通り
越した感じ。
総走行距離 609.9km。
費用
高速料金 5,000円(本宮IC~白石IC/白石IC~一関IC/松島北IC~本宮)
ガソリン代 6,815円
食費代 1,870円
お土産代 1,380円 合計額 15,065円
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後記
天気予報がもろ外れ。快晴の予報が、蓋を開ければどんよりした曇り空と小雨模様。前日が震災から2年7ヶ月の月命日で、涙雨だった気がする。そして予想外の高速道路の事故による通行止め。しかも帰りは、若林区経由で帰るはずが、まさかの道間違い。睡眠僅か2時間弱での610km近い日帰り強行日程も睡魔との闘いでキツかった。私が被災地に行く資格がないと天の声を聞いているようだった。
正直、被災地訪問は迷いに迷った。決して物見遊山ではないものの、私のような者が大勢の方が津波で犠牲になった神聖な場所を訪れていいのかと葛藤は凄かった。それが2年半以上も、何遍も被災地に足を運ぼうとしながら、躊躇した理由だった。しかし、徐々に震災の遺構が減り、人々から震災の記憶が薄らいで行くことが居たたまれない。決して風化させてはならないと強く感じた。それに私自身も被災県である福島県に居を構え、自宅家屋が一部損壊し、罹災証明を所有する被災者であることから、津波犠牲者に対しても弔いの意志は強く、共感できる部分も多いため、訪れても、それが冷やかしでない以上、罰は当たらないであろう、亡くなられた方々も遺族も許してくれるのではないかと考えたのだ。
そしてようやく実現した今回の被災地訪問。心のどこかで、「YouTube」や「ニュース報道」はCGや悪い夢、あるいは質の悪い冗談であって欲しかった。しかし、それは私自身が巨大な揺れを体験したように、紛れもない真実であった。津波の恐怖をまざまざと見せつけられた。一日にして街が消えてしまった惨劇。人々の人命や暮らしが一瞬にして奪われた現実がそこにあった。かつてたくさんの家屋があった場所は何も無くなり、更地と化した現状。遮るものが何もなく、風が強く吹きつける。土台跡しか残っていない宅地だった場所。工事車両だけが空しく行き来する。不幸中の幸いは、震災遺構と呼ばれる場所や被災地には、今でも全国から大勢の観光客が訪れ、花を手向け、合掌して死者行方不明者の冥福を祈る姿が後を絶たないこと。2年7ヶ月が経った今でも、あの悲劇を風化させまいと誰もが思っているということだ。被災地にしてみれば、まだまだ復興には程遠いし、被災者の深い悲しみが癒えることはまだだいぶ先だが、少しずつ、平静を取り戻し、以前のような明るい笑顔と笑い声がこだまするような街に戻って欲しい。ちょっとずつでも着実に。私にもお手伝いできることを探しながら、被災者とともに一緒に歩んで行きたいと心に決めた。
また、私が考える震災遺構とは、大槌町の民家の屋根の上に観光遊覧船が乗った光景、雄勝町の2階建て公民館にバスが乗った光景、石巻市の道路に流れ着いた巨大な缶詰のオブジェ(鯨大和煮)、門脇小、大川小、陸前高田市の奇跡の一本松と諏訪神社、田老町の防潮堤、気仙沼市の第18共徳丸、南三陸町の防災庁舎、名取市の閖上小学校、そして福島第一原子力発電所である。このうち、大部分が取り除かれ、解体されることとなった。
現地の遺族にとっては見るのが辛く、早く解体してほしいと願っているのは重々承知している。しかし、この出来事を忘れるわけにはいかない。私は、この悲惨な震災の記憶を子孫にきちんと伝える義務があるように思えてならない。広島原爆のシンボルが原爆ドームであるように、この悲惨な体験を、同じ過ちを繰り返さないための教訓とし、戒めとしなければならない。だから、震災遺構は残すべきだと考える。あれほどの地震で、「津波が来ない」とか、「防潮堤があるから大丈夫だ」と判断し、避難せずに津波に巻き込まれて亡くなった方々が数多くいた。避難所に指定された場所(公民館や体育館等)に避難しながらも、それを遥かに上回る大津波に飲みこまれて亡くなった多くの犠牲者がいる。決して油断したわけではないのに、「想定外」という言葉で片付けてしまっていいのだろうか。震災遺構は、そうした過去の悲劇的な体験やその記憶を後世まで歪曲せずに真実のまま伝える役目を担っているのだ。
「災害は忘れた頃にやってくる」。もう一度この言葉の意味を噛みしめてみたいと考える次第だ。
« 郡山の魅力再発見!④~広報メロディー~ | トップページ | CMの彼女⑤ »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 震災の記憶(9周年)(2020.03.11)
- 福島県の懐かしい映像集(2018.04.21)
- 本日、桜日和・・・。(2018.04.08)
- 温泉リハビリと霞ヶ城桜見物の巻(2018.04.05)
- 私が一番好きな場所(2018.03.26)
コメント