福島の英雄・円谷幸吉の功績を讃えて
私は東京オリンピックが開かれた1964年に生まれた。「東洋の魔女」などの活躍により、日本列島中が五輪一色に染まり、国際色豊かに華々しく開催されたのだった。私自身は9月生まれなので、10月10日に開会式を迎えた時には、この世に生を受けていたものの、もちろん熱狂に包まれていた当時の様子など知る由もないが、その記念すべきオリンピックで、大活躍した、福島県ゆかりの或る孤高のマラソンランナーが今日の話題に上る人だ。
その人とは、福島県民なら誰もが知っている、誰あろう「円谷幸吉」である。それまで無名で一地方ランナーに過ぎなかった彼が男子フルマラソンの代表として栄えあるオリンピックに出場し、国民の期待を背負って懸命に走り続けた。国立競技場に、エチオピアの英雄・超人アベベ・ベキラに続く2位で入ってきた。彼の姿を見るやいなや、競技場は割れんばかりの大声援に包まれた。しかし、そのすぐ50m後方には3位選手が。人間機関車の異名をとった「ヒートリー」だった。残りトラック一周。しかし、その大観衆の目の前で、彼は追い抜かされ、3位でゴールテープを切ったのであった。されど観衆は彼に歓喜と温かい、惜しみない拍手を送ったのだった。オリンピック競技の長距離走で、日本に初のメダルをもたらしたのであった。
本日は、以前(2012年1月27日付当ブログで「伝説の男⑦~栄光と挫折の果てに~」という記事を書いたことがあったが、それ以来になるが、「円谷幸吉」の遺した偉業に敬意を表して、彼に纏わる伝説をお送りしたい。
<円谷幸吉の横顔>
1940年5月13日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。
須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、県対抗東日本縦断駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰椎のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。
東京オリンピック開催年の1964年(昭和39年)に、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。
東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。しかし、男子マラソン本番では君原と寺沢がメダル・入賞(当時五輪入賞は6位迄)争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2時間16分22.8秒(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。
この東京五輪で銅メダルを獲得したことで、国民の期待はいやがおうにも高まった。次のメキシコ五輪では、金メダルの期待が日に日に強くなり、このプレッシャーが怪我に苦しむ円谷幸吉を追い詰めていった。
次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年(昭和42年)には手術を受ける。病状は回復したが、すでにかつてのような走りをできる状態ではなかった。
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺。27歳での夭折だった。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。また、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得することになる君原も、大きなショックを受けたという。
円谷幸吉の遺書
銅メダリスト円谷幸吉さんの遺書【一人の道】はコチラ
川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。(「風景」1968年3月号)当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で、これらの無責任な発言に対し「(円谷の自殺は)傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺……この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で批判した。
友の自殺に衝撃を受けた君原だったが、2人で誓った約束事を果たそうと、君原は4年後のメキシコ五輪に出場。高地のため酸素不足に陥り、有力選手が次々脱落する中、「円谷さんの分まで頑張る」との強い意思で、まるで夢遊病者のようにフラフラになりながらも完走し、見事銀メダルを獲得し、2大会連続で日の丸を掲げた。
君原健二「友に捧げる銀メダル」
さて、こうした偉業を称えるために、この度、彼にゆかりのある場所を訪ね歩いた。予定は以下の通り。
自宅ー須賀川アリーナ(円谷幸吉メモリアルホール)ー芭蕉記念館ー可伸の庵跡ー
円谷幸吉生家(大町・以前はこの隣りに遺族が開設した円谷幸吉記念館があった)ー
十念寺(円谷幸吉の墓・芭蕉句碑)ー自宅
参考HP&ブログはコチラ
http://sukagawa-sports.or.jp/arena/memorial.html
http://nasukougen.web.fc2.com/tubu/tubu.html
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実際の旅行 11月30日(土)くもり
昨日は職場の忘年会だった。今日のショートトリップを考え、胃カメラを飲むと嘯き、ウーロン茶とメロンソーダ、ノンアルコールで過ごした。しかし、帰宅後、23時半からセブン往復で2本目のマヨネーズをもらい、夜中の1時まで溜まり溜まった予約録画のCMカット作業に手間取り、就寝が遅くなり、朝起きられず。
8:15 起床。9時出発予定が大幅に狂う。どんより曇り空。しかし放射冷却はなし。でも
風があって空気は冷たい。ダビング作業とPCいじって出発おくれる。
9:28 自宅発。いきなりワインレッドのセレナが妨害トロトロ。小雨がフロント叩く。
5℃。風強い。バイパスを順調に巡行。MKGトラック暴走。蛇行運転。
9:43 市境。6℃。R4を流れに乗って南下。カワチ交差点より右折。
9:52 須賀川アリーナ(釈迦堂川沿い)のPへ。16.8km。建物の外壁に「円谷幸吉」
の写真が。早速メモリアルホール内へ。受付で芳名記帳。綺麗で整備されたホー
ル。ただし、狭い。展示品も少なめ。厳粛な面持ちで見学。ホール内は東京オリン
ピックのマラソンの競技場内のラジオ実況がBGMで流れ、またピンクピクルスの
「一人の道」が哀愁と情感を誘う。くまなく時間をかけて見物。受付のシルバー人
材の係員にパンフを貰い、写真撮影OKの返答を頂く。先客ひとり。でも閑散。彼
の生涯を振り返る年表や東京五輪も模様、新聞記事や遺品(パスポート・スパイ
ク・ユニホーム・メダル・勲章・表彰状・カップ・日本代表ブレザー・色紙・足型、遺
書・父母に充てた手紙・川端康成の「一草一花」の草稿)を見て、彼の生涯を振り
返るVTRを6分間で見た。感動で涙が出た。特に、彼の自筆の「遺書」には彼の
誠実さ、真面目さ、実直で親思いの本心が垣間見れた。涙が溢れでた。身長
163cm、55kg、足の大きさ25.0cm、血液型Bと記された調査書があった。
予想以上に素晴らしい施設。あまり全国的には知られていない、地元が生んだ
英雄を讃える場所。何度も隣の文化センターや近くに来ていながら、このような立
派な彼の功績を偲ぶ場所があるとは知らなかった。訪れる価値は十分あった。今
年、2020年の東京五輪開催が決まり、俄かに取材が増えているという。芳名帳
を見ると、何とロンドン五輪メダリストの小原日登美の名が・・・。しかも来館日は
昨日。埼玉県と書かれてあった。その後、お礼を言い、10分ほど係員と話す。生
家に行くなら事前にお兄さんにTELしたほうがよいと助言を頂く。
「一人の道」 by 茶木みやこ
10:34 須賀川アリーナ発。左折して川を渡り、左折。工場街を東へ。R4を横切り、須賀
川警察署の前を通過し、次の信号を右折。左に古い建物。50m先右に芭蕉記念
館があった。右折し、広い駐車場に駐車。結構満杯。
10:41 松尾芭蕉記念館着。19.3km。そして記念館へ。無人。若くて綺麗な職員に声
をかけ、見学させてもらう。写真OK。良識の範囲内で。内部は広く、茶店風。床が
土間なので底冷え。パンフを大量に頂く。スタンプを押す。壁中に展示品。ここは
俳句を学ぶ施設でもある。掛軸や版画など展示物を見た後、テーブルにて観光マ
ップを見ながら、位置関係を確認。芳名帳には他県(山口や鳥取)の住所ばか
り。他客なし。ゆかりの品が多数。2階には茶室があるらしいが入れず。
10:55 芭蕉記念館発。徒歩で周辺散策。記念館の向かい側の古い作りの建物の外壁
に巨大看板マップ。標識を頼りに50m先を右折し、細い路地へ。70m先左に小
公園の「軒の栗」があった。2~3段登ったところに石碑や句を詠むためのベン
チ、案内標識や説明板があった。最初、ここが「可伸庵」と分からずに周辺を彷徨
った。その後、芭蕉が須賀川滞在中、7日間も泊まっていた「相良等躬」の墓があ
る「松長院」という寺院へ向かう。25年前、須賀川に1年間勤めていたのに、こう
した由緒ある歴史的遺産に触れることが一切なかった。まぁそれだけ自分が歳を
とった証拠だが。R118を渡り北へ向かう。50m先で最初に現れたのが「妙林
寺」。綺麗で大きなお寺。道路を挟んでその隣りが「松長院」。
11:07 松長院着。何と曹洞宗の寺院。こちらは境内広い。墓地が裏手にあって、そこか
しこに「相良等躬の墓」の標識(道しるべ)あり。裏手には、高さ25mもあろうかと
いうピラミッド型の巨大な白い供養塔らしき建造物が・・・。しかも全ての石に一文
字が書かれてあった。その左側に案内板が。すっかり忘れていたが、須賀川城の
土塁跡を示していた。その裏手がそれらしき土手。ここにかつて城があったと
は・・・。粗末。巨大供養塔を回り込むと、墓地の真ん中に一軒家が。幽霊など怖
くないのか?そして供養塔の北側に「相良等躬」の一族の墓所があった。礼をし、
手を合わせていると、他の客がひとりの男がやって来て、私の動きを監視してい
た。何なんだ!供養塔は「須賀川萬年観音寳塔」と記載されていた。凄いのは、
その供養塔に「金美堂」提供の丸い時計が設置されて時を刻んであったこと。そし
て傍らには「平和記念塔」という石灯籠が。祈念塔の間違いでは?その後、目抜
き通りを横切り、メインストリートへ。かつて飲んだ「まちかど」という店舗があった
が、店名は変わっていた。地図を片手に途中から右折し、100m先にある「十念
寺」へ。ここに「円谷幸吉」が眠っている。厳かに訪問。通り沿いから、ひときわ大
きな黒い墓石を見つけ、すぐにそれだと悟った。
11:22 十念寺着。入口に高さ3mほどの石柱が2本立つ。無人。冷える。顔や手が冷た
い。ここは本堂も巨大だが、広い敷地。まず入口左の神社へお参り。鐘つき堂、
観音像や心洗、奥の細道の碑などもある。墓地の方(左)へ向かうと、震災で崩れ
た墓石や石像などが倒壊したまま放置されてあった。衝撃の映像。もう2年半が
経過するのに、まったく修復しておらず、手つかずのまま。ほとんどが倒壊。地面
にはほぼ散り終えた銀杏のカーペット。黄色に染まっていた。30m先にひときわ
立派な黒い御影石の墓石が南向きに立つ。それが「円谷幸吉」の墓。墓前には
名刺入れや墓誌があった。震災で倒れたのか傷があった。
まず、礼節通りにお参り。心の中で写真を撮らせていただきますと念じ、シャッタ
ーを切る。反射で文字が見えない。亡くなられて日付がどこにも無い。オリンピッ
クの偉業などが墓石全面に記されてあった。私が生まれた昭和39年に開催され
たオリンピックで日本初の快挙、銅メダルを表彰台に掲げた功績は顕著。この墓
の下に、自ら命を絶った彼の遺骨が眠っている。墓石には「故2等陸尉従七位勲
六等圓谷幸吉之墓」と刻まれてあった。参拝する方も多いのだろう。菊の花が墓
前に供えてあった。ここには有森裕子さんや小掛陸連会長も訪ねていた。
11:31 十念寺発。2本の石柱から出て南へ向かう。目の前が高層マンション。こんな有
名な方が眠る墓地の前に住み、どのような気持ちで毎日の生活を送っているのだ
ろうか。冷える。ボウリング調査している場所を素通り。R118へ右折し、道沿い
に300mほど戻る。ホテルサンルート須賀川は昔からあるが、どこか廃れてい
る。潰れたかと思えるくらい内部も暗い。通りがてら「相良等躬」の自宅跡を探す
が見当たらず。仕方なく、芭蕉記念館へ戻って、職員に聞くことに。ここ須賀川は
震災で被害が大きかった場所。瓦屋根が崩れ、未だに修復されずブルーシートで
覆われていた。記念館前では客待ちタクシーが昼寝。車に観光マップを忘れたの
が痛かった。再び記念館で美人職員に道を尋ね、今は跡しか残っていないとい
う。車に乗り換える。
11:44 記念館発。言われたまま、旧奥州街道沿いの角に車を止めた。しかし、どうみて
もゴミ置き場の木造小屋。20mほど徒歩で平行移動。すると、何とNTTの入口と
なる狭い入口に表札が・・・。「相良等躬宅跡」の文字。つまりはNTTの敷地内にか
つては、芭蕉と弟子の曾良を七日間も足止めさせたお宅がこの辺にはあったの
だ。当時を偲ぶものがなくてがっかり。
11:48 相良邸跡発。Uターンして旧奥州街道を南下。次は圓谷幸吉の生家へと向かう。
そこは2006年に須賀川アリーナに移転するまで、実家を記念館にしていた場
所。南郵便局の交差点を左折。100先の危険な二股道路を右カーブ。やがて下
り坂。200m先に二股があって、御岳神社の幟と法律事務所の看板が。そこを細
い方の左側に入る。下る途中の右側にある民家がそう。表札には黒くて見づらい
が、確かに「円谷幸吉記念館」と刻まれていた。
11:50 旧円谷幸吉記念館着。20.4km。通行の妨げにならない路肩に停車。扉がしま
っているので中には入れず。外側から写メのみ。歩いて周辺を回り、何枚かシャ
ッターを切った。かつてはこの生家を記念館にしていた。数々の故人を偲ぶ品々
を展示していたが、兄が高齢になり、その遺品の管理がままならなくなったため
に、市に寄贈したのだった。それが2006年だったので、7年前の出来事だ。そ
れ以来、元の生家は無人で放置されているようだ。日本中を歓喜に包む、あれほ
どの功績があった英雄・「円谷幸吉」なのに、あまりにも待遇が悪く、粗末な扱い
にショック。郷土が生んだヒーロ-なのに、長年身内によって保管・管理。運営さ
れていたのだった。
11:56 円谷幸吉の生家発。300m先左折で整備された県道へ。R118を横切り、カワ
チやイチイのスーパーを通過し、400m先の交差点をマイナス方向に右折。かつ
て私が通った道へ。そして円谷幸吉の銅像がある、彼の母校「須賀川高校」へ。
懐かしい。当時のままだ。門扉が開いていたので、写メだけ撮りに中へ。すると見
覚えのある青いアウディが・・・。一番奥に銅像がある。玄関のすぐ右隣りだ。
11:58 須賀川高校着。22.4km。忍耐と書かれた彼そっくりに出来た銅像を写メ。今で
も毎年、メモリアルマラソンが開かれ、彼の親友でメダルを誓い合ったライバル君
原健二さんも欠かさず墓参りとマラソンに出場している。ここが本日の須賀川界
隈ショートトリップの最終訪問地となった。直ちに出発。
12:01 須賀川高校発。「松明明かし」で有名な五老山、翠ケ丘公園のヘリを回り、芦田
塚、大きな店舗が建ち並ぶスーパーセンター街を抜ける。
12:08 国道4号線へ合流。無理な車線変更を自重し、流れに身を任せる。
12:15 市境。この界隈が一番ガソリン代が安い。
12:17 トライアル安積店へ。食料を調達。今日ここまで、朝食も昼食も抜き。腹がグウ
グウ鳴っていた。1,059円分買う。ホットウェア上下やウォームパンツが欲しくな
る。
12:36 トライアル発。気温は8℃の表示。
12:42 バイパス降りる。トラックとろくてまた先頭で信号待ち。小雪がちらつく。明日、午
前中に散髪し、午後からスタッドに交換予定。
12:44 帰宅。 走行距離は40.2kmだった。
今回の訪問にあたって、参考にしたHP・ブログは以下の通りです。
http://sukagawa-sports.or.jp/arena/memorial.html
http://www.geocities.jp/robin119jp/suburaya/tsuburaya.html
http://nasukougen.web.fc2.com/tubu/tubu.html
http://hosomiti.skr.jp/hosomiti/murabun/aruku/okuno_hosomiti/aizune_hosomiti/sukagawa_toukyu.html
記事作成:11月20日(水)~30(土)
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