2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

« 私が好きだったドラマエンディング | トップページ | 航空業界を舞台にしたドラマ »

2013年11月 6日 (水)

郡山の魅力再発見!⑥ ~郡山今昔物語~

 平成25年10月14日(月)体育の日のこの日、予てから兄嫁にお願いしていた「写真集・郡山」(昭和55年発行)と「郡山の歴史」(昭和39年発刊)という名の書籍を借りた。8年前に94歳で亡くなった祖父が生前、本棚に忍ばせておいた写真集だ。実は職場の本棚にも同じ物があり、「赤木遊郭」をメモらしてもらったのだが、それと全く同じ郡山の歴史を記した写真集を祖父も持っていたのだ。昔、祖父は市会議員だった。そのため、市の実情や歴史には明るかった。遺品を整理していた時、昔の写真や新聞記事、歴史的価値のある資料がわんさか出てきたのだ。祖父が出版社に資料提供した写真も一部含まれている。よって今回は、諸事情に配慮しつつも、営利目的ではないため、自主規制と自己判断により、郡山の町並みについて今昔事情を写真で比較し、古き佳き時代時代の郡山を懐かしもうという企画をお送りしたい。ではさっそく一緒に見て行きましょう。

 1 「郡山駅」と「駅前広場から見た駅前大通り」

Img_3231_r Dvc00185

Img_3232_r Dvc00187

Dvc00180 Dvc00186

 昭和40年代頃の駅舎と駅前の風景

 子供の頃、うっすら覚えている。昔の駅舎の頃から亡き父に連れられ、毎年夏に「特急ひばり1号」で東京見物に行った想い出が残る。 私の実家はさくら通り沿いの郡山第2中学校学区だったため、駅前は遊び場だった。友達と街に繰り出しては、いろんな店をはしごした。山の井、うすい、丸光、ダイエー、西友(西武)、丸井、模型の樽川などあちこちに出没して遊んだものだ。駅前大通りにあった様々なモニュメント(平和の女神像)や筆記体の「ℓ」を象ったような白い像は一体どこに行ったのだろう。

Dvc00184

 その後、この平和の女神像が、現在の郡山総合体育館の一角に移築されてあることが判明しました。

 2 「郡山市役所」

Img_3233_r Img_3200_r

今のNTT付近にあった市役所と昭和初期の市役所(現合同庁舎)

 私が小学生時分には、市役所は既に朝日町に移転していた。細沼にあるのは市役所ではなく、合同庁舎だ。そこも子供時分の遊び場で、石垣の隙間からろうそく片手に潜り込んで、床下を探検して隠れ家にしていた。合庁の駐車場は、昔は池だった。

 3 「駅前大通り」

 駅前大通りとアーケードが一番の繁華街だった。今では寂れてしまった。残念ながら資料が無く、見つかり次第、ここに掲載する予定。従って、3「駅前通り」は、項目だけはここに残して取っておきたいのであしからず。

 4 「郡山消防署」

Img_3224_r Img_3212_r

昭和30年代末期の頃の郡山消防署周辺

 この火の見櫓は、郡山のラウンドマークだった。一心坂の堂前の下にあったので、私の実家から見ることはできなかった。昭和50年代まで郡山を見守っていた。今も同じ場所に、近代的なビルとなった。この裏手で、訓練中の消防士が、はしご車から落下して亡くなった痛ましい事故が起きた。 

 5 「さくら通り」

Img_3214_r Img_3220_r

4号線からみた八幡坂(郡山信金付近)と右は清水台付近(昭和30年代)

Dvc00182 Dvc00173

昭和40年代初期のさくら通り(津野デパートが見える)と清水台付近(道幅が狭い)

 私の庭的場所。八幡坂に2軒あった本屋(叶屋と松文堂)で立ち読みしたり、この周辺は皆、同級生や先輩の店が多かった。この清水台から虎丸(第1方部)にかけて、2軒ある花屋、そば屋、履物屋、パーマ屋、理美容室、蕎麦屋、印刷所、仏壇仏具屋、左官屋も皆同級生達の店だった。

  Dvc00181

 昭和40年代初めの頃のさくら通り。なんとこの写真に私の実家が写っている。当時私は2~3歳。さくら通りは舗装されていなかった。さくら通りとは名ばかりで、柳の並木だった。

 6 「麓山近辺」

Img_3204_r

Img_3203_r Img_3210_r

市民会館とその隣りになった昭和50年代まであった児童文化会館(現:中央図書館)

   Dvc00179

 麓山周辺も子供時代の遊び場。池ノ台の荒池公園は早朝野球の練習場だったし、市民会館では、西城秀樹がゲスト出演した「スター誕生」の公開録画、そして榊原郁恵が出た「NHKのど自慢」も見に行った。ラジオ福島の公開録音で、くじが当たり、景品を貰いにステージまで行った記憶もある。また、現在の中央図書館がある場所には、児童文化会館があった。手前が2階建てで、大小の様々な模型や子供騙しの遊具が置いてあった。別棟とは繋がっていて、工作ができる大きなテーブルが置いてあって、多目的ホールのような教室があった。

 7 「開成山周辺」

Img_3217_r Img_3237_r

開成山前の国道49号線と新装オープンなった開成山水泳場

 開成山まで来ると田舎だった。私は「附属幼稚園出身」なので、バスで定期券をぶら下げて通ったのだった。開成山プールも何度泳ぎに行ったかわからない想い出の場所だ。成長するにつれて、幼児プール、25mプール、50mプールと出世していった。 

 8 「4号線沿い」

Img_3219_r Dvc00178

 この写真は相当古い。消防署方面から南へ向かって走り、三菱電機の工場(古舘交番)を通りすぎた先で、国道4号線がやや右斜めに曲がっているが、ちょうどどこにあったエッソのGS付近。写真は歴史を雄弁に語ってくれる。

 9 「中町周辺」

Img_3190_r Img_3213_r

中町通り(昭和30~40年代の頃の第1うすいと第2うすい)

 第1うすいと第2うすいに分かれていた。第2うすいは7階がレストランで、母親と訪れ、お子様ランチを食べるのが楽しみだった。エスカレーターが一方方向しかなく、いちいち各階を回り込んで行かないと次の階へのエスカレーターに乗れない仕組みだった。私はここでは、よく珍しい切手や古銭を買いに来たし、屋上近くのやや出っ張ったスペースに遊具が置いてあって、それに乗った記憶がある。エレベーターも北西側と東側の奥の階段の隣りにあった。

Dvc00174 Dvc00177

写真左は「丸光」の屋上にあった遊園地/右はうすいの最上階にあった遊具たち。
子供の頃の記憶が甦る涙ものの写真だ。

10 「警察署」

Img_3223_r Img_3191_r

左は自衛警察署で、右は昭和40年代まで堂前(消防署の隣り)にあった警察署

 今は4号線と49号線の交差点に移転したが、かつては現在の消防署の北隣りにあった。悪いことをすると、よく両親に「連れて行くぞ」と言って脅かされたものだ。その隣りは善導寺だが、カルチャースクールを行う善導寺文化会館なる建物があった。

11 「その他」

Img_3221_r Img_3215_r

我が母校の芳山小学校と清水台の現存する商工会議所

 私が小学時代を過ごした昭和40年代は、近代的で新しい校舎だった。3階建てで、屋上にも昇れた。当時は珍しいアナライザー教室も備えていた。私は毎日放課後に友達とやっていたソフトボールと小6の頃に目覚めて入部した合奏(メロフォン)、鼓笛隊のトランペット演奏が一番の想い出となっている。演奏曲は「錨を上げて」と「ビューティフルサンデー」だった。当時は鼓笛隊パレードが市内の小学生の憧れで、合同庁舎から総合体育館の西側の駐車場まで練り歩いた。途中の一本松の資生堂のところでFTVのテレビ撮影が行われていた。
 一方、右の写真の商工会議所は昔と同じ作りのまま。小学生の頃、クリスマス会を楽しんだ記憶がある。市内在住のマジック好きなおじいさんのネタバレしている手品を見た気がする。あの震災でよく崩れなかったものだ。

 ~その他 貴重な写真~

  Dvc00175

 45歳以上の方は記憶にあると思うが、郡山市安積町の須賀川市との市境付近に、「郡山レジャーセンター」(上の写真)という遊園地があった。植物園や蝋人形のようなもの、万国旗が一杯天井から四方に掛けられて、それは派手だった。また、動物園のような檻があったし、豆列車のような遊具があった。また、うすい百貨店が郡山一のデパートだった頃に、その向かい側には「富谷(トミヤ)」という百貨店があった。丸光より早く、ミニチュアの観覧車を備える屋上観覧車があった。それ以外で郡山には迷路のようなL字型の作りの「山ノ井」があったし、4号線の角には「丸藤」という婦人服専門の店があった。津野デパートの真向かい角地だった。

 ~今は無き建造物たち~

 1 郡山駅の凱旋門

Img_3193_r

相当古い。もしかすると日露戦争の頃、つまりは明治時代にあった建造物かも。

 2 郡山地方専売局

Img_3225_r

現在の市民文化センター付近にあった専売公社。洋風の大正浪漫風の出で立ち。

 3 布袋館

Img_3199_r

大正時代の洋風建築の旅館。駅前にあったとされる。

 4 「赤木遊郭」

Img_2940_r

 前回に紹介した建物。明治時代に、江戸の吉原を模して作られたとされる。震災前までは、石柱の大門が遺っていたが、東日本大震災で崩壊危険物に指定され、その後撤去された。

 5 「日東紡第2工場」

Img_3226_r

 現在の「THE MALL 郡山」にあった広大な紡績工場

 6 「東部電力株式会社社屋」

Img_3227_r

 7 「中町記念アーチ」

Img_3230_r

 5の日東紡績第二工場を除いて、他の建造物は全く知らない。今ではその面影すら偲ぶ手段もない。本当にあったのかさえわからない。亡き祖父は明治生まれだったため、知っていたかもしれない。亡き父親も昭和8年生まれだったので、いろいろと昔話を聞かせて欲しかったが、もうこの世にいないのでそれも叶わない願いだ。郡山市は福島県の中央に位置し、昔から交通の要衝であり、宿場町として栄えたが、戦前は重化学工業、戦後は新産業都市に指定され、商業が発展した。現在は、中核市として指定を受け、さらなる発展を続けている。震災で打撃を受けたが、「楽都」として活気が漲っている。そんな故郷の古に触れるのも一興かと思い、本日のテーマを設定した次第だ。なお、今回の記事は「郡山の歴史」と「写真集郡山」から一部引用をさせていただいていることを付記しておきたい。

 記事作成:10月14日(月)~15日(火)

 追記情報

 H25.11.13 写真を追加

« 私が好きだったドラマエンディング | トップページ | 航空業界を舞台にしたドラマ »

郡山の話題」カテゴリの記事

コメント

SUZUさん、久しぶりの書き込みになります。いつも楽しく読ませていただいています。
僕もかなり覚えている方ですが、SUZUさんの記憶力には脱帽するばかりです。
駅前にあったモニュメントの一つ(平和の女神像)は、総合体育館の敷地内にありますね。
芳山小にあったアナライザー教室、よく覚えています。
リコーのマイティーチャーのような教材(A4版サイズの磁気シートを機械にセットするやつ)を使って勉強する部屋も図書室の隣にありましたよね。名前を忘れてしまいました・・・。
SUZUさんとは小中学校、遊び場まで思いっきりリンクしています(^^)
おそらく、どこかでお話ししたことくらいはあるかもしれませんね。
僕は実家がT丸町で、二中時代の部活はハム部、委員会は整美部で恥ずかしい帽子をかぶって清掃の見回りをしていたものです(笑)よくギターも弾いていました。
(奇遇なことに僕が今住んでいるのもY山田なので、ご近所かもしれませんです)

 ・・・・MITSURUさん、書き込みありがとうございます。いつも読んでいただき、感謝です。毎日頑張って更新する甲斐があります。実は一ヶ月以上先までの記事が完成しているので、公開する時は、結構古い話題になっていたりしますが。でも、そこまで暴露してしまうと、お互いの素性がバレバレですね(笑)。たぶん同じ町内(実家も現在の住所も)だと思います。
 駅前大通りのモニュメントですが、もしかして、旧星総合病院前にあったのもそうですかね。あと、開成山公園にあるのも移転した物でしょうかね。白い色で、細長くて丸みがあった奇妙な形だと思っていましたが。
 こうして同郷の方にコメントをいただくと、こちらの励みにもなりますので、何か気になった記事があれば、遠慮なくコメントを頂きたいと思います。(SUZU)

いつも楽しく拝見させて頂いております

とくに、郡山の写真入りの歴史は大変興味深く観ております


今後も資料があれば載せていってほしいです

 ザキさんこんにちは。コメントありがとうございます。励みにさせていただきます。ただ、中には著作権に触れるものもありますので、できるだけ吟味して載せるようにさせていただいておりますので、そのへんはご了承ください。できるだけ、ご期待に添えるよう努力をしたいと思っています。(SUZU)


コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 私が好きだったドラマエンディング | トップページ | 航空業界を舞台にしたドラマ »

福島県の天気


無料ブログはココログ