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2014年1月

2014年1月31日 (金)

今は亡きお笑い芸人 前編

 「芸は身を助く」ということわざがある。これは秀でた一芸を身につけていれば、一生食いつないでいけるということを意味する。それほど他人にまねできない優れた芸を身に着けることは至難の業である。苦節何年というように、芸能の世界は厳しくそして難しい。板前の修業と同じで、一流になるまで一筋縄ではいかず、才能があっても世間に認められるようになるまでに多くの月日を費やす。この世界は、技を盗めといわれるほど自分スタイルや売りを確立するまでは途方もない時間がかかる。よくアイドル歌手にありがちなオーディション一発でなったようなシンデレラストーリーストーリーとはおよそ無縁世界である。何年もかけて日の当たらないような日陰でひたすら芸を磨き、いつめぐってくるかわからないチャンスを待って、地方巡業や小汚い三流の演芸場でどさ周りも多数。在る者は弟子入りし、かばん持ちや下働きを何年もかけて行い、下積みに長い月日を費やすだろうし、また或る者は、場末のスナック巡りや流しスタイルでその日暮をしている輩も多く、途中で挫折して諦める者も決して少なくないと聞く。やはり、本物の芸を身に着けるまでは相当な苦難と苦労を覚悟しなければならないようだ。
 そこで、今回は、自らの芸を確立し、一流芸人として一世を風靡した方々を取り上げ、生前の活躍を偲びたいという企画だ。ただし、落語家を含めると膨大な数に上るため、今回は割愛させていただきたいと思います。
 

 早野凡平

 「ホンジャマーの帽子(ホンジャマカ帽、マジックハットの異名もある)」と呼ばれる、帽子を用いたが有名。この帽子は帽体とツバの部分が分離するようになっており、早野は慣れた手つきで黒い帽子を様々な形に変形させて、有名人や動物の真似をして人気を博した。「牧師」、「スチュワーデス」、「ナポレオン」、「カウボーイ」、「ローマ法王」(なぜか2度やってしまう)、「鞍馬天狗」(名乗る際、頭巾に見立てた帽子が落ちてしまう)等が定番ネタ。「ホンジャマー、ホンジャマカ…」と舌足らずな歌を歌いながら、次々と繰り出すのが特徴。
 この帽子芸によりテレビ出演も増え一躍人気者となり、舞台トークのネタとして「この帽子のおかげで練馬に家を建てることができました」と語っていた。
 帽子以外の芸としては、長さが異なる4本の蛇腹状のホースを振り回して音を鳴らす「パイプオルガン」がある。4本のホースを器用に使い分け、低い音を出すときはゆっくり振り回し、高い音を出すときは早く振り回す。レパートリーは、「黒田節」、「船頭小唄」など。
 1980年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
 1990年5月3日、転移性肺癌のために50歳で死去。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=knN6WRACO6k

 星セント・ルイス

 星セントと星ルイスからなる、日本の漫才 コンビ。1971年結成、2003年解散。
 星セント(1948年1月16日 - 2004年7月22日)主にボケ担当。メガネの方。
 星ルイス(1948年11月17日 - 2005年3月10日)主にツッコミ担当。
 

 1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身のセントが早口でギャグをまくし立て、小さなルイスがつっこむというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気者となる。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=m40-82sF8iI

 鳳啓介

 本名は小田 啓三。1923年3月16日 - 1994年8月8日。大阪府大阪市出身。 お馴染みの挨拶である「鳳啓助でございます」や 「ポテチン」、「あら、言いそこ間違いよ」などのギャグで人気を博した。その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。
 1994年8月8日、リンパ腺の癌により死去。71歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=NCT1RZNWbLI  

 牧伸二

 ウクレレ漫談の第一人者。本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月 29日)は、日本のウクレレ漫談家。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。 血液型AB型。 ハワイアンをアレンジした曲に、「あ~あやんなっちゃった~あ~あんあ驚いた」などのフレーズで 社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールにも挑戦した。歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』で人気者になり、早くも1960年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。この『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(英題"Hawaiian War Chant"、ハワイ先住民のポリネシア人の戦意昂揚歌)をアレンジしたもので、時世に応じた1500余の歌詞ストックがある一方、牧自身も舞台で原曲を披露することがある。
 1963年にはテレビ朝日の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978年まで15年にわたり司会を務め、番組内の名物コーナー『マキシンのバーゲンセール』を通じて『あゆみの箱』チャリティー活動に貢献した。また九州朝日放送の素人演芸会『マキシンの東芝ハレハレ555』等でも司会を務めた。
 1965年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
 2002年に脳出血で療養とリハビリを余儀なくされるが、復帰後の2003年に文化庁長官賞を受賞。
 2011年7月3日、自宅でタバコの火の不始末からボヤを起こした。自身と妻、娘の3人で消火にあたり、消防車が到着した頃にはほぼ鎮火していた。
 2013年4月29日午前0時15分頃、東京都大田区の多摩川丸子橋付近で投身し、病院に搬送されたが死亡が確認された。入水自殺とみられる。78歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=AUTFGYAgwHo

 レオナルド熊(コント・レオナルド)

 本名:井上 千蔵 <いのうえ せんぞう>、1935年6月27日 - 1994年12月11日)は、北海道樺戸郡新十津川町出身のコメディアン。石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキーパンチ』『コント・レオナルド』で一世を風靡した 。
 若手中心の漫才ブームの中で比較的年輩の熊が、政治、経済、時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは異色で、人気を不動のものにする。1983年に出演したサントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな」は流行語になり、広く知られた顔になった。土方スタイルでねじり鉢巻きがトレードマークで、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』では、美女が座る椅子を溺愛する変態男を演じ、怪優としての側面も見せた。
 1994年10月に末期の膀胱がんと診断され、ホープ、マギー司郎らの『田端グループ』によって「ガン祝いの会」を開かれた。2ヶ月後の12月11日、家族と焼肉を外食した直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で死亡が確認された。59歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=YsubWVKXAnc

 三波伸介

 本名:澤登 三郎(さわと さぶろう)、1930年(昭和5年)6月 28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。 昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。 1961年に伊東四朗(三波が大阪にいた頃、三波伸介という芸名で活躍していた時期があった)、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成。舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。
 1970年に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任。その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。
 1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝した。52歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=kzGCDyefvjE

 ウガンダ・トラ(ビジーフォー 1952年6月6日 - 2008年5月31日)

 タレント、ドラマー。本名、 佐藤 信一郎(さとう しんいちろう)。『ビジーフォー』元メンバー。 東京都港区六本木出身。
 1977年、元ザ・クーガーズの島田与作が立ち上げた『いそがしバンド』に、盟友の高田"ぐっち"裕三、スリム冬樹と共に参加し、トラ佐藤(後にウガンダ)の名でドラムとボーカルを担当。『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』にセミレギュラー出演し、童謡コーナーではキャンディーズと共演した。
 1979年の『金曜娯楽館』へのレギュラー出演と前後して『ビジーフォー』に改名。クレイジーキャッツからザ・ドリフターズへと続く、ナベプロ伝統の技巧派コミックバンドとして期待が掛けられたが、余興だったはずのものまねで売れてしまう。1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを脱退。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』、『オレたちひょうきん族』などに出演。
 2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳没。永年の鯨飲馬食による肝臓病、糖尿病、心臓病、脳梗塞などの悪化が懸念されていたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発動画はコチラ→表されている。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=6QbWBX26YMs

 中島忠幸(カンニング:1971年6月14日 - 2006年12月20日)

 お笑いコンビ「カンニング」のツッコミ担当であった。お笑いのネタ中では相方の竹山隆範があまりにもキレるため、専らなだめ役となっていた。しかし、稀に竹山が暴走しすぎた時など、竹山以上の勢いでキレて竹山を黙らせていた。
 普段は竹山より短気な性格で、竹山がネタ中の暴言で迷った際には、強く通したこともある。また『エンタの神様』において視聴者に電話で意見を求めた際も、その苦い発言に対して流そうとする竹山に対しキレた強い発言をするなどした。板前の経験から『笑いの金メダル』の『グリルの金メダル』や『めちゃ×2イケてるッ!』の『やべっち寿司』でもその腕前を披露。2005年(平成17年)1月15日には東京都で開かれた『全日本鍋物コンテスト』に『辻よしなり ラジオグラフィティ』のチームで参加。しかしながら、後述の理由から入院中となってしまい、レシピのみ提出による参加となる。
 結婚同年の2004年(平成16年)12月から病気療養を理由に休業、翌2005年(平成17年)1月、白血病(急性リンパ性白血病)の治療中であることを公表した。
 2006年(平成18年)1月には臍帯血移植を受けて軽快傾向とも伝えられたが、ウイルス性肺炎の併発によって同年12月20日午前11時46分に死去した。35歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=_P9M1-febbQ

 瀬戸わんや(獅子てんや・瀬戸わんや)

 獅子てんや。瀬戸わんやは、戦後長きに 亘り活躍した漫才コンビ。大柄のてんやが、小柄で額の禿げ上がったわんやをいびり、 わんやがムキになって怒るスタイルで人気を博した。
1956年(昭和31年)産経新聞社主催若手漫才コンクールに国定忠治の出し物で一位、翌年の第1回NHK新人漫才コンクールにも「世界旅行をかえりみて」というネタで優勝し、並居る若手漫才の中で図抜ける。新作に取り組む姿勢は積極的で、その中から「ひよこと卵」「なんで行ったの」などの定番ネタが磨かれた。
 1966年(昭和41年)から約14年間放送されたTBS『家族そろって歌合戦』の司会でも全国的人気を博した他、1967年(昭和42年)に第7回日本放送作家協会大衆芸能賞受賞、フジテレビ放送演芸大賞も二度受賞し、テレビ・ラジオで重宝がられる。
 わんやが健康面に不安を抱えた1970年代中頃から、思うような反応を見せられないわんやに対し、てんやが客前で苛立った表情を露にするようになり、それに対してわんやがふて腐るなど、稽古不足も相俟って晩年の舞台は荒れて行った。1987年(昭和62年)遂にわんやが病に倒れて活動休止、そのまま復帰叶わず亡くなり、コンビも消滅した。

 獅子てんや(しし てんや、1924年(大正13年)6月25日 -現在もご存命 )東京府荏原郡平塚村(現・東京都品川区)下蛇窪生まれ、本名:佐々木 久雄(ささき ひさお)ボケ。

 瀬戸わんや(せと わんや、1926年(大正15年)3月10日 - 1993年(平成5年)2月10日)大阪市南区(現・中央区)生まれ、本名:妹尾 重夫(せのお しげお)ツッコミ。
 1987年に糖尿病の悪化で事実上の引退。1993年、脳梗塞で死去、享年66。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=-YK8WvFAI7U

 松本竜介(紳助・竜介)

 1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成した。紳助 が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である。漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人一員として一世を風靡する。駆け出しの頃から女遊びが激しく、当時関係を持った女性は300人を軽く超えるといわれた。1980年に結婚を発表しているが、夫人も女遊びの末に手に入れた夫人である。1983年には芸名を竜助に改名。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。その後吉本を去り、新たな相方と「竜助 ポン太」というコンビを組むが、売れずにほどなくして解消する。
 その後、映像制作会社を起業し、タレント活動も続けるが、1996年頃より吉本興業と疎遠になり、1998年に、喫茶店、アダルトビデオ製作などの副業失敗で1億3000万円の借金を抱え、自己破産した。破産管財人は、淀屋橋合同法律事務所の阪口彰洋弁護士であった。自己破産を理由に吉本からはほぼ絶縁状態になる。晩年は名古屋の風俗レポーター、大阪ミナミの風俗案内所長などの職を転々とし、大阪の歓楽街で話題になっていた。
 2006年3月22日、案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。49歳没。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い。救急車を呼んで欲しい」であった。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=DHcnhtFfz_0

 本日は長くなったのでここまで。本当は20人一挙に紹介して生前の活躍に敬意を払い、ご冥福をお祈りしつつ、当時を偲ぶ予定だったが、思い入れが深く、ひとりひとりの記事が長くなってしまったため、急きょ前編と後篇に分けて2回シリーズでお送りしたい。ご了承願います。

 記事作成:1月7日(火)~

2014年1月29日 (水)

バンドブームの隆盛と衰退(1970年代後半編)

 1960年代から70年代にかけての日本は、戦後の混乱期から劇的に立ち直り、東京オリンピック開催や高度経済成長により、日の出の勢いで産業や経済が隆盛を極め、それは勢いに満ちた時代だった。政策にもやや強引さはあったものの、池田隼人の「所得倍増計画」や人間ブルドーザーの異名をとった田中角栄の「列島改造論」などで、人々の懐も潤い、豊かな生活を実現するに至った。そんな明るい時代にあって、歌謡界も劇的な変貌を遂げた。それまでの芸能といえば、民謡や演歌が主流だったが、ビートルズの出現と来日に感化された若者たちが、見よう見まねでバンドを結成し、1960年代後半には空前のバンドブーム、GSブームを創出した。代表的なグループは、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース(沢田研二・岸部シローなど)、ザ・テンプターズ(萩原健一)、ザ・スパイダース(堺正章・井上順)、ジャガーズなど挙げたらキリがない。そして、それが下火になると今度は、1970年代前半に現れのは、かぐや姫、吉田拓郎、井上陽水、かまやつひろしらを中心としたフォークブームが巻き起こり、カレッジフォークや新宿駅などではゲリラ的フォーク集会などが行われたし、嬬恋や中津川フォークジャンボリーなどの大規模なフォークの祭典が開催された。
 そして1970年代に入ると、天地真理、麻丘めぐみ、安西マリア、キャンディーズ、ピンクレディー、中3トリオ(山口百恵・桜田淳子・森昌子)、フィンガー5などのアイドルブームの傍らで、硬派系のハードロックバンドも活躍した。舘ひろしの「クールス」や矢沢永吉らの「キャロル」、さらには宇崎竜童率いる革ジャン軍団の「ダウンタウンブギウギバンド」などが独特なジャンルと楽曲を世に送り、バンドブームの先駆けとして活躍した。その後、入れ替わるように、ニューミュージックブームが突如隆盛し、世の中を席巻した。作詞・作曲・歌唱まで一手に引き受けるシンガーソングライターの登場だ。フォーク系だけでなく、ロック系のバンドも数多く登場した。もちろん、松山千春、さだまさし、南こうせつ、山下達郎、原田真二、小坂明子、八神純子、渡辺真知子、中島みゆき、荒井由実、大橋純子、高橋真梨子、久保田早紀、五輪真弓などの実力派のソロシンガーも数多くヒットチャートを賑わしたが、それ以上に歌謡界を牛耳ったのはバンドだった。
 今日は、この1970年代後半に登場したバンドの中で、特に際立った活躍を見せたビッグネームを10組取り上げたい。ただし、YouTubeのリンク曲は、スペースの都合上、代表曲の一曲のみとさせていただきたい。

 1 アリス 「冬の稲妻」「帰らざる日々」「今はもう誰も」「ジョニーの子守歌」「チャンピオン」

 私の中学時代の神的バンド。ギターを弾くようになったのも彼らの影響だし、彼らの楽曲をコピーしてはアポロキャップを目深かに被り、クラスで歌っていた。一緒に歌っていたのが箭内道彦だった。彼らのライブ盤のLPレコードはファンの間で伝説となっているし、ソロ活動も凄かった。谷村新司の「昴」、堀内孝雄の「君の瞳は10000ボルト」など。私個人では「秋止符」や谷村新司の「Far away」、堀内孝雄の「遠くで汽笛を聞きながら」、「愛しき日々」が大好きだった。

 2 海援隊 「思えば遠くへ来たもんだ」「母に捧げるバラード」「贈る言葉」

 海援隊は「金八先生」として武田鉄矢がドラマでメジャーになるまで、正直あまりパッとしなかった。それでも都会に旅立った男が故郷を懐かしく想う「思えば遠くに来たもんだ」は好きだった。小学生の頃に開成山公園で開かれた素人カラオケ大会で友人とステージに立ち、「母に捧げるバラード」を歌ったが、あまりに緊張して声が出なかったことを覚えている。また、西城秀樹の「ヤングマン」のY・M・C・Aと一文字ずつ表現する振りをパクったJODAN」(冗談)という曲が大笑いだった。

 3 サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」「いとしのエリー」「わすれじのレイドバック」

 埋め込み処理禁止のためアドレスのみ紹介します。

 http://www.youtube.com/watch?v=S2cPOArHTkI

  青山学院大学出身の桑田佳祐と原由子らが中心となり結成して活動したエリート学生バンド。ハチャメチャで卑猥な歌詞と奇抜で斬新なメロディーであっという間に当時の若者の心をつかんだ。当時は、夏場限定バンドという印象で、「いとしのエリー」の爆発的ヒット以降、ヒット曲に恵まれず、不遇の時代が続いたが、「チャコの海岸物語」で不死鳥のごとく甦った。

 4 ツイスト(世良公則&ツイスト)「あんたのバラード」「銃爪」「燃えろいい女」

 私が中1から中2にかけてのNo.1人気を誇った。男っぽいセクシーなアクションの振り付けで当時の女性はメロメロとなった。リンク映像は、過去何度も削除されていますので、保証はできません。あしからず。

 5 ゴダイゴ 「ガンダーラ」「モンキーマジック」「銀河鉄道999」

 この曲は堺正章、夏目雅子が出演した「西遊記」のエンディングテーマとして使われた。このバンドはエキゾチックムード満載だった。それもそのはず、ミッキー吉野やトミースナイダー、スティーブなどハーフやネイティブがメンバーの半数を占め、ヴォーカルのタケカワユキヒデも東京外大出のエリートだった。メンバーひとりひとりがプロ中のプロの演奏家出身で、楽曲の完成度はピカイチだった。

 6 オフコース 「愛を止めないで」「さよなら」「Yes No」

 初期は、小田和正と鈴木康博の2人組で、フォークを基調とした名曲を世に送り出していたが、折からのバンドブームにより、ニューミュージックっぽい音楽に路線が変わった。そしてメンバーを5人に増やし、ポップス系の楽曲を取り入れるようになった。小田の透き通るような甲高い美声に世の女性は癒され、魅了された。

 7 チューリップ 「心の旅」「虹とスニーカーの頃」「青春の影」「サボテンの花」

 ご存知、財津和夫率いる老舗バンドだ。ピアノ奏者がメインヴォーカルというのは、オフコースと路線も局長も似ているが、「浅春の影」はファンのみならず、カラオケファンやオヤジ世代にも好まれ、まさに神曲である。

 8 甲斐バンド 「HERO」「裏切りの街角」「安奈」

 私の中では甲斐バンドは、他のロックバンドとは一線を画し、硬派系のイメージでとらえていた。だから「HERO」という、その後のHOUNDDOGの「ff」に似た活力を与えるメジャーソングを繰り出した時には意外だった。

 9 クリスタルキング 「大都会」「蜃気楼」

 彼らの出現は、新たな時代の幕開けを予感させるような衝撃があった。最前列に2人並び、好対照なハーモニーを奏でるスタイルは業界初だった。強面で低音ハードボイスの吉崎勝正と3オクターブもの高音域を難なく出せる超ハイトーンボイスの田中昌之との絶妙なハーモニーは聴き応えがあった。真似してカラオケで歌おうとすると、血管が切れそうで、声帯も痛めそうだった。もちろんヤマハポプコン出身で、世界歌謡祭グランプリ受賞経験者である。
 個人的には下にリンクする「蜃気楼」のほうが名曲だと思っている。リンク映像は、過去何度も削除されていますので、保証はできません。あしからず。

http://www.youtube.com/watch?v=Lh3yWGxazIo

10 RCサクセション 「雨上がりの夜空に」「DAY DREAM BELIEVER」

 リーダーでヴォーカルの忌野清志郎は、露骨な歌詞と風変わりな作風、パンク系の奇抜なファッションと過激かつシンボリックでいて、ド派手なパフォーマンスを繰り広げて、主にステージで躍動したシンガーだった。私はさほど聴かなかったが、高校生時分に、熱狂的ファンだった友人がいて、彼らのレコードをすべて所有していた。わざわざコンサートを見に、東京まで足を運ぶほどの筋金入りだった。「King of Rock」の異名をとった。

 他にも一風堂、アラジン、トム☆キャット、もんた&ブラザーズ、YMO、などがいた。この時代はヤマハポプコン出身のソロシンガーやデュオ、さらにはバンドが多かった。

 1980年代に入ると、より個性的なバンドが多くなった。C-C-B、安全地帯、レベッカ、アルフィー、ラッツ&スターズ、SUGAR、杉山清隆&オメガトライブ、TMネットワーク、ザ・チェッカーズ、Hound Dog、ザ・ブルーハーツ、プリンセスプリンセス、The TUBEなどがそうだ。

 彼らは紛れもなく一時代を築き、彩を添えてくれた功労者たちである。今でもバンド活動を続けている息の長いグループもいれば、残念ながら様々な理由で解散してしまったり、惜しまれながら亡くなられたメンバーもいる。栄枯盛衰を感じる。しかしひとつ言える確かなことは、彼らが時代を作った名曲は、その後も歌い継がれ、またその影響を過分に受け、彼らのようなバンドを目指して活動して一流歌手の仲間入りを果たしたグループがいるという事実だ。彼らの残した功績は次の世代に受け継がれ、イカ天に代表されるような1990年代の第2次バンドブームを構築したその起爆剤になったことは紛れもない事実だ。音楽とは、誰かに魅せられ、それを手本として自分のオリジナリティーを追及することでよりよい名曲が生まれていくのだろう。今後もそうあってほしいと切に願う。

 記事作成:1月22日(水)~

2014年1月27日 (月)

今年ブレイクしそうな芸能人

 昨年から脚光を浴び、人気に火がつき、それを導火線として、さらに今年(2014年)大ブレイク間違いない芸能人を5人(ユニットを含む)取り上げたい。

 有村架純

Arimura Arimura2

 あまちゃんの天野春子の高校時代を演じた彼女。彼女ほどこの一年でめまぐるしく状況が一変した女優さんもいないだろう。今や武井咲や北川景子、石原さとみをおさえてCMクィーンである。現代の若者でありながら、昔(1980年代)のアイドルの匂いを感じさせ、お父さん世代にも人気が高いようだ。あの愛くるしい笑顔は、かつてのキョンキョンそのもので、菊池桃子っぽいロリ系の雰囲気を兼ね備え、守ってあげたい妹的存在になるだろう。血液型はB型で、恋するドリーミング&メルヘンチック少女っぽい印象を持っている。

http://www.youtube.com/watch?v=hW251r55Xi0

 福士蒼汰

Fukushi Fukushi2

 彼もまた「あまちゃん」への出演をきっかけにブレイクした。まだ20歳という若さ。能年玲奈と同い年だ。ドラマでは潜水士を目指す高校生で「種市浩一」というイケメン先輩を演じ、アキちゃんにコクられた。甘いマスクと長身。母性本能をくすぐるようなさわやか好青年タイプ。血液型はO

 「あまちゃん」に出演した俳優・女優は、他のテレビ局ンドラマに引っ張りだこで、オファーが相次いでいる。小池徹平、杉本哲太&古田新、有村架純、渡辺えり、尾美としのりなど。

 筧美和子

Kakei2 Kakei

 2013年9月14日、ワンライフモデルオーディションで準グランプリに選ばれる。9月23日、北海道日本ハムファイターズのイースタン本拠地最終戦で始球式を務める。10月5日、『めざましテレビ』の「ココ調」木曜リポーターに一般投票で選ばれる。私はこの番組の印象しかない。しかもアナウンサーと違ってコメントもベタで、まるで素人。噛みまくるし、つっかえるし・・・。
 しかし、彼女は中高生の間で人気絶頂の深夜番組テラスハウスに出演していただけあって、若い世代には認知度が高いようだ。血液型はAB

 

 橋本環奈

Kanna Kanna2

 福岡県の10代のモデルタレントを中心に結成されたアイドルグループ「Rev. from DVL」に所属する注目のアイドル。ほっともっと、J:COM、日本マクドナルドなどのCMに出演し、2011年には映画『奇跡』に出演した。Rev. from DVLの一員としても活動しており、2013年11月2日から4日にかけて東京都でイベントやライブを行った近年、ネットで人気を集めるとブレイクする傾向が増えている。もしかしたらキー局での出演が増えれば、一気にブレイクすることもありえるはずだ。血液型はAB

 ClariS

Claris Claris_2

 クララとアリスの女子2名で編成されている 顔出しNGの女子高生2人組のアイドルユニット。デビューから2012年3月までは現役女子中学生として紹介されていた。「ClariS」は2人の名前を組み合わせた もので、ClariSという言葉そのものには、ラテン語で「明るい・清潔・輝かしい」という意味がある。2013年暮れまでにCDシングルを8枚リリース。バーチャルアイドル初音ミクに似ているが、こちらは学業優先ということと話題作りで顔を出さないが、リリースした曲は大ヒット。いずれもオリコンでトップ10に入った。特に7枚目シングルの「reunion」は第2位となった。

 ほかには、私が好きな山岸舞彩も、もしかすると女優転向が囁かれているし、若い頃の吉永小百合似の曽田麻衣子も映画やドラマへの出演をきっかけに知名度が上がれば、あれほどの古風で清楚な純朴風お嬢さんの風貌がウケて大ブレイクするかもしれない。

 記事作成:1月18日(土)

 追記

 この記事を公開した1月28日に、残念な話題がと飛び込んだ。国民的アニメ番組として人気のあった「サザエさん」の磯野波平の声を担当している声優の永井一郎さんが急逝されたのだ。仕事で訪れた広島のホテルの浴室で、虚血性の心筋梗塞により倒れているのが見つかり、病院へ運ばれたが、帰らぬ人となってしまった。82歳だった。「バッカモーン」とカツオを怒鳴るあの声が二度と聞かれないと思うと泣きそうになる。声優の逝去の報で衝撃を受けたのは、ルパン三世の声を担当していた山田康夫さん、ちびまる子ちゃんの友蔵の声を担当した青野友蔵さんらがいる。また、ナレーターでは、演歌の花道や大映テレビの過激ドラマのナレーションを担当した来宮良子さん、ぴったんこカンカンや路線バスの旅の名ナレーションを担当した滝口順平さんも惜しまれながら最近、この世を去った。また、JET STREAMの城達也さんの訃報も衝撃的だった。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

 

 

2014年1月25日 (土)

THE 怪物列伝

 今日は、主に野球界において「怪物」の名を欲しいままにした選手を取り上げ、そのテーマに相応しい映像をピックアップしてお送りします。

 甲子園の怪物「大阪桐蔭・平田良介」

 甲子園の怪物といえば、江川卓、清原和博、松井秀喜、松坂大輔が思い浮かぶが、この男も凄かった。1試合3発の大暴れをしたのが、大阪桐蔭高校平田。残りの1打席もライトフェンス直撃の大飛球をかっ飛ばした。スタンドは騒然となり、この怪物に割れんばかりの大声援を送った。この日の観客は、入場料が激安だったに違いない。この構えが独特で、大物スラッガーの風格が漲っている。ご存知の通り、彼は今、中日ドラゴンズのスラッガーとして活躍している。

http://www.youtube.com/watch?v=0SLO32aoQb4

 5打席連続敬遠

 松井の偉大さを物語る格好のシーン。ランナーがいようがいまいがお構いなしに勝負を避けて敬遠。明徳義塾の馬渕監督に非難集中。正々堂々をうたう高校野球のあり方を根本的に覆す迷采配。悪びれた様子もなくしゃーしゃーとインタビューに応じる監督に批判が集中し物議を醸した。近年、仙台育英の選手がファールで粘ってフォアボールを選ぶ戦法が審判から注意を受けたことがあったが、それよりえげつない。この晴れ舞台のために汗まみれになって練習してきた選手の心情をさかなでし、選手の気持ちを無視し、勝利至上主義を貫く愚かな監督。これが高校野球の真の姿なのか。大きな波紋を投げかけた、後味の悪いゲームとなった。

 松井の怪物ぶりがよくわかる動画(解説者もびっくり!)

 人生初のシーズン50号 http://www.youtube.com/watch?v=bgZZceSnxj8  

 球宴で160m級の特大の一発 http://www.youtube.com/watch?v=EGKNdU0cCRM

 3打席連続ホームラン http://www.youtube.com/watch?v=Idh7vzkmhuc

 看板直撃のサヨナラホームラン http://www.youtube.com/watch?v=o3OBSwV7Ky8

 メジャー本拠地デビュー戦で満塁アーチ

 http://www.youtube.com/watch?v=lp-12az2wIk

 <驚愕のプロ初登板> 

 松坂大輔編

 平成の怪物として鳴り物入りでプロ野球の道へ入った松坂。その初登板で、いきなり豪腕を披露。しかも日本ハムの強打者片岡を155キロの伸びのある速球で、力でねじ伏せた。

 大谷翔平編

 オープン戦初登板で臆することなく堂々としたマウンドさばきを見せた。日本一になった楽天を相手に何と最速157キロをマーク。場内は騒然。

 大物の片鱗を覗かせる煬に代わる代打での一発はコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=LbnBTRKEKT4

 ライトでの強肩披露

http://www.youtube.com/watch?v=s4OlV2_6goY

 記事作成:12月3日(火)~

2014年1月20日 (月)

福島県の恐ろしいスポット

 これまで当ブログで、「郡山のミステリースポット」や「福島県で起きたミステリー事件ファイル」、「磐梯熱海・猪苗代周辺ミステリー探検」などホラー的な記事を書いたことはあったが、この記事は本来タブーで、触れてはいけないと思っていた。我が福島県の最大の恐ろしいスポットと言えば、今や「東京電力福島第一原子力発電所」以外の何物でもないが、それを除いた、霊的な意味や戦慄や恐怖を感じる「世にも恐ろしい場所」ということで紹介したい。いかにも祟られそうで、シリーズ化は避けたいテーマとなるので、できれば今回限りとさせていただきたい。

 さて、そもそもこの執筆を思い立ったのは、12月14日(土)に、TSUTAYA桑野店の中古本コーナーを漁っていた時、「世にも恐ろしい歴史ミステリー」という本を見つけた。それに載っていた、福島県で唯一恐怖の場所として紹介されていた場所が本日取り上げたいスポットだ。その本を読み、私は愕然とし、更には寒気がするほどの戦慄が走り、恐怖に戦くこととなった。
 しかしながら、冷静に考えれば、会津戊辰戦争の折、多大な犠牲を払った会津若松城下や二本松少年隊の悲劇、今年私が訪れた霊場「岩角山」など、挙げればキリがないが、ここは戦国時代の出来事なのに、未だに成仏できない地縛霊や霊魂が多数浮遊しているスポットとして書かれていた。では心して読んでいただきたい。

 「小手森城(おてのもりじょう」 二本松市針道(旧東和町)

Otenomori  福島県二本松市針道にあった戦国時代の城館。現在は廃城になっており、本丸跡に愛宕神社が祀られており、城跡各所に石垣や曲輪の遺構が残存しているだけ。
 概要は、小手森城のある中通り北部の阿武隈川東部一体は塩松とよばれ、16世紀後半は小浜城主・大内氏の支配地域であった。この時期の小手森城は小浜城の支城であり、菊池氏が城を守っていた。
 この城を恐怖のミステリーとして伝えられているのは伊達政宗の「八百人斬り」の史実によるためだ。小手森城といえば、1585年(天正13年)8月27日の伊達政宗による全城兵の殺戮が有名で、その年、出羽国米沢城主・伊達政宗は小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。
 8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父の山形城主・最上義光へ送った書状には、城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など500人を討ち取ったほか、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢1,000人に及んだと記載している。ただ、数については正確な数字ははっきりとわかっておらず、翌28日付で家臣の後藤信康に送った書状によれば200人、9月2日付で資福寺・虎哉宗乙宛の書状では800人と記載されている。しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。
 1987年(昭和62年)に放映されたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では、第11話の「八百人斬り」で、このときの撫で斬りの様子が描かれている。(ログインが必要です。)

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16314423

 実際に訪れた方の動画映像はこちら

 何の罪もない子供や婦女を弔う意味で、石塔などが建てられている。昼間でも鬱蒼と雑木林が生い茂り、夕刻や夜間は、とても一人では容易に近づけない場所である。まして肝試しなどはしてはいけない。

 その後、小浜城も落城し、塩松は政宗の所領となったが、天正16年(1588年)、政宗の命で塩松を守っていた石川弾正が相馬義胤の誘いに応じて政宗に反旗を翻した。閏5月16日に政宗は弾正の籠もる小手森城を攻撃し、約500人を討ち取り、落城させた。これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。

 余湖さんの図入りの詳しいブログはこちら

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/nihonmatutowa.htm

 <関連ブログ> 地図、写真など

http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/enomoto/11-0930-3/

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/site/kankou/490.html

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/nihonmatu/otenomori.html

http://ameblo.jp/cmeg/entry-11458496313.html

http://www.geocities.jp/zanyphenix/shiro1505.html

http://shigezane.fc2web.com/majime/kassenn/kotemori.html

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/jenoside6.html

 この殺戮から420年以上もの月日が経過したワケだが、私自身は若き伊達政宗の手柄を焦るあまりの暴走と暴挙がこうした悲劇を招いた要因であると考えている。老若男女を問わず、手段を選ばずに無差別に「皆殺し」とはあまりにも残虐で無慈悲すぎる。戦国の世は人を狂気に変え、見境ない境地に立たせ、モノの良し悪しの判断すら狂わせてしまう。歴史の一場面の中に埋もれてしまっているかもしれないが、こうした悲劇が当地で繰り広げられたという事実を伝えていかなければならない気がする。

 歴史に触れる旅(伊達政宗の足跡を追って)はコチラ(9/23付記事)

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e2bd.html

 記事作成:12月14日(土)

 

  追 記(平成26年8月17日・日)

 このような記事を書いておきながら、このスポットが頭からこの場所が離れず、物見遊山では決してないが、どうしても気になり、まるで何者かに誘われるように、平成26年6月21日(土)に訪れてしまった。距離こそ短いが、急勾配の山登りに加え、周囲には誰一人いない不気味で、呪われそうな場所に、単独で挑んだのだ。階段がきつく、頂上の神社にたどり着いたときは、息も絶え絶え、脚は吊りそうなくらいパンパンに張って激痛状態。
 詳しくは実際に訪問した時の模様を記載した下の記事をご覧ください。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-9fdf.html

 結論から言えば、やはりこの場所は訪れるべきではなかった。普通なら、山登りをしても、その3~4日も経てば、筋肉痛は快復するのだが、その後、両脚ふくらはぎの裏を肉離れしてしまい、2か月近く経過した今も、まだ痛みがある。これはきっと、法を犯した訳ではないのだが、行ってはいけない場所に足を踏み入れたことで罰があたったのではないか。呪いと祟りが降りかかった気がした。
 賢明なブロガーの方は、興味半分や肝試し的な発想では訪れないことを願うばかりだ。正宗の「八百人なで斬り」で犠牲となった民の死霊が眠る神聖な場所を侵してはならないのである。

2014年1月15日 (水)

奇跡の生還劇

 この手の話題はタブーだと思い、長い間回避してきた。運良く助かった方はいいだろうが、志半ばで命を落とした方や、その遺族の感情を逆なでするような気がしたからだ。まして、東日本大震災とオーバーラップして、辛い記憶が甦るのではいかと危惧していたからだ。
 しかしながら、私自身も被災者であるため、辛い思いを共有してきた身だし、未だ原発の汚染水問題が解決できていない状況にあり、今でも近所のモニタリングポストの放射線の値は0.3前後で、通常の100倍以上の値を示しているのが現状だ。これが蓄積され、生涯の被曝量を考えると末恐ろしい。従って、今日は、最悪の事故に見舞われて、命の危機に晒されながらも、奇跡的に生還した事故を取り上げ、未だに行方不明で生還を信じている家族への希望を与えるという趣旨でお送りしたい。

 1 チリで起きた岩盤落石事故

 2010年8月5日にチリ共和国北部、コピアポ郊外のサンホセ鉱山で 起こった事故である。 概要. 金と銅を地下624mの位置で採掘してしていた33名の作業 員は 400m付近で発生した落盤事故のために地表に戻ることができなくなってしまった。事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出された。サン・ホセ鉱山 (el yacimiento San Joséまたはla mina San José) は、コピアポの45km北に位置する。鉱山を所有したのはミネラサンエステバン社であったが、のちに倒産した。作業員達が閉じ込められたのは地下634mの坑道内で、これは坑道の入り口から5kmの位置である。この事故後、作業員は秩序を守り、独自のルールを立てて励ましながら救出を待ち、決して望みを捨てなかった。緊急に製作された脱出用のカプセルも名案だったし、彼らの生命力には敬服した。

 2 ハドソン川に着水した機長の英断

 2009年1月15日午後3時30分ごろ、ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した航空事故である。エンジン停止の緊急事態に追い込まれたにもかかわらず、機長の冷静な判断によって墜落を免れ、真冬のマンハッタンのハドソン川に緊急着陸を決行した。乗員・乗客全員が助かったことから、ニューヨーク州知事のデビッド・パターソンはこの一件を「ハドソン川の奇跡」(Miracle on the Hudson)と呼んで褒め称えた。

 3 アポロ13号

 1970年4月11日、アポロ13号は現地時間13時13分に打ち上げられた。月に到着する直前の4月13日、酸素タンク撹拌スイッチ起動により爆発が発生。酸素タンクから急激に酸素が漏れだした。酸素は乗員の生命維持だけでなく電力の生成にも使用するため、重大事態となる。当初、事態をつかみ切れていなかった乗員や管制官たちは、途中まで月面着陸を諦めていなかったが、やがて地球帰還さえできないかもしれないという重大事態であることを把握した。二酸化炭素濃度の上昇、電力の不足。地上の管制センターでは、管制官達だけでなく、メーカーの人間も含め、関係者全員が招集され、対策が練られた。搭乗しなかったケンは、電力をいかに節約するかをシミュレータを使って検討、地上からラヴェルら乗員をバックアップした。残存電力を保つため、船内は最低限の電力しか使わず、ウインナーが凍るほど寒くなるが、乗員同士支え合う。
 しかし、13号がコースを外れていることが判明。原因は、酸素の噴射により軌道のズレが生じたというものであった。誘導コンピュータは電力を使用してしまうため起動できない。このため、手動噴射による姿勢制御を決断。窓の外は船外を漂うゴミと、船内の室温低下とで曇っていてよく見えないが、地球が見えた。これを唯一の目標として、手動による噴射を行い、見事に成功。
 ところが、またもやコースについての問題が露見した。月面に着陸しなかったことで、土産として積み込む予定だった月の石100kg分の重量が不足していたためである。不要物を手動で移動させ重心を調整した。管制センターの計算では、大気圏進入角度がわずかに浅かったが、これは乗員に伏せられた。
 やがて大気圏再突入となるが、再突入時には通常、通信が約3分間途絶してしまう。ケンは何度もアポロ13号を呼び出すが、3分間経っても返答はない。しかし約4分後、交信が入る。限られた資源と時間を使って奮闘した乗務員と管制センターの連携により、彼らは無事に地球に戻ることができ、管制室は歓喜に沸いてハッピーエンドとなる。

 4 東日本大震災の津波からの奇跡の生還劇

 

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災。迫り来る津波との一刻を争う逃走劇。車ごと流された主婦が何故助かったのか。その九死に一生を得たドキュメント映像とその回顧録。

 5 奇跡の生還劇の映像集

 かつて日本テレビ系列で日曜夜8時から放送していた「特命リサーチ200X」のリサーチ報告。死に至るのメカニズムや奇跡の生還を遂げた例を取り上げたケーススタディ。

 記事作成:10月19日(土)~12月2日(月)

2014年1月13日 (月)

道を切り開いた日本人アスリート

 何事もパイオニア(最初にその道を切り開き、その道筋をつけた人)は賞賛に値する。長いあいだ閉ざされていた門戸をこじ開け、その後に続く人たちへの水先案内人になるのは並大抵のことではない。

 野茂英雄

 トルネード投法を引っさげ、メジャーへ殴り込みをかけた野茂。相手打者に背中を向ける独特の投法と鋭く落ちるフォークを武器に三振の山を築き、奪三振王にも輝いた。その卓越したマウンドさばきに魅了されたファンは野茂マニアと呼ばれた。ノーヒットノーラン2度の快挙を達成し、日米通算200勝も達成した。彼に続いた日本人プレーヤーは2013年現在で54名もいる。佐々木主浩長谷川滋利、イチロー、伊良部秀輝、石井一久、松井秀喜などが後に続いた。誰もが尊敬するところだ。血液型はB。

http://www.youtube.com/watch?v=ypq3pfJQgHY 1996年ノーヒッター

http://www.youtube.com/watch?v=ZYrdViXQwdE 2001年ノーヒッター

 中田英寿

 日本人初のセリエA移籍で大活躍。日本人のサッカー選手が世界でも通用することをアピールしたのは彼の功績が大だ。セリエAのペルージャに移籍し、いきなりデビュー戦で2ゴールの快挙を成し遂げ脚光を浴びた。その後、その活躍が高く評価され、ビッグクラブを渡り歩いた。彼以降、海外クラブへ移籍したJリーガーは数多い。名波浩、稲本潤一、高原直泰、小野伸二、中村俊輔、岡崎慎司、香川真司、川島永嗣、内田篤人、長谷部誠、長友佑都など数えたらキリがない。血液型はO

 ペルージャでのデビュー戦でいきなり2ゴール!

 2戦目で魅せたオーバーヘッドキック

 岡本綾子

 記事作成:12月21日(土)~

2014年1月11日 (土)

芸能人がいきなり・・・

 思わずドキっとするような仕草だったり、ほんわか来るようなリアクション。今日はそんなタレントや女優さんが見せる何気ない仕草を取り上げたい。

 1 堀北真希の照れた関西弁

 2 志穂美(長渕)悦子が27年ぶり電撃復帰

http://www.youtube.com/watch?v=msmyApm_t_g

 かつて女性アクションスターとして大活躍した女優の志穂美悦子が12月18日放送の「はなまるマーケット」で、27年ぶりにテレビ出演した。シンガーソングライターの長渕剛と結婚し、芸能界を引退。その後はフラワーアレンジメントで花ソムリエの資格を取得した良妻賢母。私もGメン’75や刑事物のドラマを見てそのスタントぶりに目を奪われたものだ。

 3

 4

 5 芸能人が突然現われたときの反応

 ① ガッキー

 ② 松潤

 ③ 堀北真希

 ④ 新庄剛志

 記事作成:12月2日(月)~

2014年1月10日 (金)

CMの彼女⑩

 今回が10回目の掲載となった「CMの彼女」シリーズ。今日は、12月まで放送したNHK大河ドラマ「八重の桜」に、山本覚馬の娘・伊勢(山本)みね役で出演していた三根梓を取り上げたい。では早速、彼女が出演したCM作品からどうぞ。

 「ダイキン」

 「ケンタッキーフライドチキン フレッシュ」

 三根 梓(みね あずさ)

 彼女のプロフィールをWikipediaを読んでビックリ。容姿端麗だけでなく、才色兼備の持ち主だった。あの早稲田大学の政治経済学部に在学中の女子大生女優さんだったのだ。

 1991年2月21日生まれの佐賀県嬉野市出身、所属事務所はテンカラットPrimary。血液型はA。
 中学時代は女子バレーボール部に所属していた。3年B組金八先生に出演していた黒川智花に憧れて、中学校の頃から福岡のモデル事務所レイ・ワールドに所属した。
 佐賀県立武雄高等学校を経て2010年4月より早稲田大学政治経済学部に在学。
 2012年5月にnon-noの専属モデル、同年6月に映画『シグナル〜月曜日のルカ〜』で主演を務めた。同年10月に郷里嬉野市より嬉野市観光大使に任命された。

Mine1 Mine2

Mine4 Mine3

 彼女の聡明さと愛くるしい顔立ちで、今後女優として急成長し、いずれは日本の映画界やテレビ業界を背負って立てる逸材だと見ている。まだ21歳だが、今後の演技に注目したいと思う。

 記事作成:12月15日(日)

2014年1月 9日 (木)

私が好きだったCM ~金融編~

 1980年代から90年代にかけて、消費者金融の攻勢が続いた。「サラ金」という取立てが怖い印象を脱却しようとイメージアップ作戦を展開した。その一助となったのが、有名タレントや好感度抜群の若いタレントを起用したCM作戦だった。もちろんそのトップの座に君臨したのは「¥Shop武富士」の「武富士ダンサーズ」だった。では、どのようなタレントが出演し、その後、これをきっかけにしてメジャーになったか検証したい。

 ディック 東原亜希

 彼女はグラビアモデル兼テレビタレントだった。瞳がパッチリで可愛らしくて、私も結構お気にだった。現在は柔道家で、オリンピック金メダリストの井上康生夫人。

 1982年11月11日横須賀市生まれ。血液型はA。“アサヒビールキャンペーンガール”としてデビューした2003年以後、モデル、タレント、ならびにキャスターとしてなど幅広く活動。女性誌ファッションモデルからフジテレビの深夜格闘番組『SRS』の4代目格闘ビジュアルクィーンに抜擢されたことから注目を集め、バラエティ番組を中心に、司会者、スポーツキャスター、グラビアなど多彩な活動を見せている。

 アコム 小野真弓

 彼女のこのアコムのCMは大人気で、こんな可愛い娘が窓口にいる筈がないと思いながらも毎シリーズ楽しみに見ていた。1981年3月12日生まれのグラビアアイドル・女優・歌手。千葉県流山市出身。血液型はO型。サンミュージックブレーン所属。十文字学園 女子大学短期大学部卒業。最近はO型らしく、大胆なセミヌードやきわどいセクシーポーズも何なりとこなしている。

 アイフル 安田美沙子

http://www.youtube.com/watch?v=uQEz6j5btEM

 元祖おっとり癒し系。O型の典型的な存在。1982年4月21日北海道札幌市生まれ、京都府育ち。摂南大学国際言語文化学部に在学中だった2001年(平成13年)4月、京都市のデパート、ジェイアール京都伊勢丹の靴売り場でスカウトされて芸能界デビュー、同年12月放送の番組 『美少女図鑑』がテレビ初出演となった。
 翌2002年(平成14年)、少年雑誌主催のコンテスト 「ミスマガジン2002」に於いて優勝、『ミスヤングマガジン』に選出されたことで広く知られるようになった。芸能事務所は株式会社カノックスフィルムに所属し、当時は同事務所に所属し同郷でもあった女優、田畑智子を憧れの人として挙げていた。安田はこの頃から多忙になり、大学は中退した。この年から、安田の地元である京都を本拠とする消費者金融会社、「アイフル」のコマーシャルに出演し、話題となった。
 アンニュイな感じで私も大好きだったタレントだ。京都弁で話す創味食品のCMシリーズは私のお気に入りでもある。

 ほのぼのレイク

http://www.youtube.com/watch?v=EtG5EiZLhOQ

 こちらはタレント起用ではなく、アットホームな内容に終始した印象。 

 記事作成:11月30日(土)~12月1日(日)

2014年1月 7日 (火)

世にも不思議な映像集

 正直言うと、この手の映像を当ブログで扱うことは随分戸惑った。もし祟られたり、謂れのない仕返しをされるのが恐ろしかったからだ。最先端技術が進んだ今世紀でも、世の中には科学では証明がつかないような不可解な現象や事象がある。今日は、それらを特集してみたい。たぶんご覧になっても、危害が加わるようなことは何もないとは思うが、もし少しでも心臓が弱かったり、夜眠れないなどの支障を懸念される場合には、閲覧をご遠慮頂きたいと思います。

 隕石落下&宇宙人襲撃

 たぶんこれはCGではないように思える。フィアンセとハイキングに訪れた登山道で、突如それは起きた。急に空から隕石のような黒い煙を吹き上げて火の玉のような巨大落下物が落ちてきた。爆音と衝撃がこだまする。その黒焦げで落下した物体をレポートし始めた男性に、突如得体の知れぬ奇妙な生物が襲いかかった。悲鳴を上げる女性。ほどなく、その魔の手は女性にも牙を向いた。撮影途中でカメラが放り出され、そのまま切れた。このカップルがどうなったか定かではないが、一説では行方不明になったままだという。まさに奇々怪々な動画だ。

 宇宙人が写り込んでしまった映像

 家庭用ビデオカメラで誕生日パーティーを撮影中にそれは起きた。急に停電となり、非常用電源を確保しようと家中を探し回っていた時に、屋外の異変に気づき、調べに行った。すると何とそこには得体の知れぬ謎の宇宙船が・・・。そこにいたのは3体の宇宙人。逃げ帰った男たちだが、不気味な光とともに宇宙人が家の中に。動揺激しく、気が狂ったように銃を乱射したところ宇宙人に命中。しかもその後3体の小柄な宇宙人が家の中を歩き回る様子が映し出されていた。
 これは、1984年の古い映像だが、当時はCGやSFXなどまだ確立されていなかった時代だ。あの慌て方といい、芝居にしては差し迫った緊迫感がある。素人にはあそこまで取り乱した芝居は無理だろう。

 泳ぐ河童の衝撃映像

 青森県某所で撮影された映像。始めは私もヤラセだと思っていたが、次の瞬間、水中を滑るように猛スピードで移動する陰。いくら足ひれ(フィン)をつけたとしても人間業ではとうていあのスピードは出せはしない。するとそんな芸当ができる生物といえば、伝説の生物「河童」くらいしか思いつかない。もしこれが捏造だったら、ディレクターはクビが飛ぶだろう。

 恐怖映像「殺人事件現場」 ※ 心臓が弱い方は決してクリックしないでください。

 かなり衝撃映像で直視できない。特に猟銃で頭を打ち抜かれ、首ごと頭が粉々になって吹っ飛ぶ映像は、一度見たら夢の中に出てきそうでマジ怖い。映画のシーンよりもリアルで、素人がこの映像を作れるとしたら、相当なCG技術を駆使しなければできない腕前だ。たぶん「Youtube」にアップしてあるのだから、撮影者や同伴者は無事だったのだろうと思う。

 えっ?田中マー君がキャッチャー!?

 H16年秋に行われた神宮大会でのひとコマ。紛れもなく捕手を務めるのがあの田中将大。当時はまだ1年生だったが、あの大きい体で身をかがめてピッチャーをリードし、キャッチングも見事。才能がある選手は何をやらせても難なくこなす。昨シーズン奇跡の24連勝(無敗)も頷ける。

 記事作成:12月2日(月)~

2014年1月 6日 (月)

感動ストーリー、ふたたび

  今回のような動画に基づく感動記事は、過去何度も掲載してきたが、今日も性懲りもせずお送りしたいと思います。

 新庄剛志1「感動実話~病と闘う少女との日本一の約束~」

 若くして亡くなることを夭折というが、これほど悲しい出来事はない。親より早く死ぬことを逆縁と言って、一番の親不孝と言われるが、これほど辛い出来事はない。私の身の回りにも2人、そういう風にして亡くなった人がいる。人生は細く長く生きるか、短く太く生きるかのどちらかだと思う。早く亡くなっても、人々の記憶に残る人もいれば、人知れずこの世から去っていく孤独な人も多い。人間はいつか死ぬ運命ならば、ささやかでいいから生きた証をどこかに残したいと願う。

 ももクロが好かれる理由

 これは感動します。↓(彼女たちの一生懸命さとこの動画作ったをファンの熱意が伝わります)

 踊りも一生懸命、歌も一生懸命、ファンを大事にする心が宿っている。老若男女を問わず、大勢の人々に愛されるのは、若くてもそうしたひたむきで一生懸命に頑張っている姿がビンビン伝わるからである。ユニット結成時に立てた「紅白出場」の目標に向け、全力疾走してきた彼女たち。2012年にメンバーのひとり(あかりん)が脱退するという悲しみを乗り越え、5年目に夢をかなえた。ファンとともに成長してきた彼女たち。パワーがみなぎり、勇気と元気を与え続けてくれる存在。それが彼女たち「ももクロ」だと思う。

 勇者のスタジアム 感動編

 生死の境をさまようほどの大病を負ったにもかかわらず、不屈の精神で不死鳥のごとくよみがえったプロ野球選手・盛田(近鉄)の話。並大抵の努力では復帰はならなかったはず。その影で支え続けた内助の功もすごい。涙なしでは見られない動画映像だと思う。

 三鉄復活の軌跡

 三鉄、南リアス線復活1番列車に手を振ろう!

 「つながろう三陸、つなげよう三鉄」の横断幕が涙を誘う。震災の津波被害を受け、町が壊滅状態となった三陸沿岸部。そこを僅か2ヶ月で奇跡の復活を成し遂げた南リアス線。復活の一番列車の乗客が車窓から見たものは、大勢の手を振る沿線住民の姿。鉄道を復活の旗印とし、希望の使者であるかのように。涙なくしては見られない映像だ。

 記事作成:12月9日(月)

2014年1月 4日 (土)

懐かしいテレビ番組の話

 1964年生まれの私にとって、娯楽といえばテレビだった。これまで幾多に渡り、テレビネタを当ブログで紹介してきましたが、本日お送りするのは、東京や大阪にキーステーションを置くテレビ各局で、その曲の顔というべきか、代名詞とも呼ぶべきテレビ番組を列挙することにする。その時代を代表するような名物番組であったり、息の長い長寿番組であったり、一家団欒で必ず見ていた国民的な人気番組であったり様々だ、今日は、同年代か先輩諸氏にも青春時代を懐かしんでもらいたく、この題材を設定した次第だ。

 <NHK> 

 大河ドラマ、朝の連続テレビ小説、連想ゲーム、ウルトラアイ、新日本紀行、小さな旅、

 プロジェクトX、YOU、クイズ面白ゼミナール、ためしてガッテン、その時歴史が動いた、

 お江戸でござる、紅白歌合戦、のど自慢大会、NHKスペシャル、クローズアップ現代、

 少年ドラマシリーズ、お笑いオンステージ(減点パパ)、大相撲中継、にっぽん釣りの旅、

 レッツゴーヤング

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 <日本テレビ>

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http://www.youtube.com/watch?v=LfHOmfC0zl8

 <TBS>

 ありがとう、寺内貫太郎一家、ムー一族、渡る世間は鬼ばかり、ザ・ベストテン、

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 ブロードキャスター(お父さんのためのワイドショー講座)、木下恵介アワー、

 がっちり買いまショウ、筋肉番付、SASUKE、家族そろって歌合戦、おはよう700、

 ウンナンのホントコ、JNNニュースコープ、わくわく動物ランド、ヤングおー!おー!

 3年B組金八先生

http://www.youtube.com/watch?v=zDBj0t3x01c

http://www.youtube.com/watch?v=aM08LsPxasU

 <フジテレビ>

 白い巨塔、東京ラブストーリー、オールナイトフジ、夕やけニャンニャン、サザエさん

 3時のあなた、笑っていいとも!、花王名人劇場、オレ達ひょうきん族、かくし芸大会、

 なるほど・ザ・ワールド、食いしん坊バンザイ、夜のヒットスタジオ、月9ドラマ、欽ドン!

 ゴールデン洋画劇場、平成教育委員会、ラブラブショー、ものまね大作戦、北の国から、

 クイズドレミファドン!、ひらけポンキッキ、季節はずれの海岸物語、料理の鉄人、

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 <テレビ朝日>

 徹子の部屋、土曜ワイド劇場、ワールドプロレスリング、ドラえもん、仮面ライダー、

 水曜スペシャル(川口探検隊シリーズ)、戦隊ヒーローシリーズ、プロポーズ大作戦、

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 芸能人格付チェック、アイドルパンチ、ミントタイム

http://www.youtube.com/watch?v=9E8qyWda15Q

 <テレビ東京>

 ザ・フィッシング、いい旅夢気分、徳光和夫のTVコロンブス、開運なんでも鑑定団、

 ヤンヤン歌うスタジオ

 さて、1970年代~1990年代を中心に懐かしいテレビ番組を列挙してみた。あなたのお気に入りの番組はあったでしょうか。思いついたままを取り上げたので、もしかすると超人気番組を書き逃していることもある。追記で増やして行きたいと思います。

 記事作成:10月28日(月)

 

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