福島県の恐ろしいスポット
これまで当ブログで、「郡山のミステリースポット」や「福島県で起きたミステリー事件ファイル」、「磐梯熱海・猪苗代周辺ミステリー探検」などホラー的な記事を書いたことはあったが、この記事は本来タブーで、触れてはいけないと思っていた。我が福島県の最大の恐ろしいスポットと言えば、今や「東京電力福島第一原子力発電所」以外の何物でもないが、それを除いた、霊的な意味や戦慄や恐怖を感じる「世にも恐ろしい場所」ということで紹介したい。いかにも祟られそうで、シリーズ化は避けたいテーマとなるので、できれば今回限りとさせていただきたい。
さて、そもそもこの執筆を思い立ったのは、12月14日(土)に、TSUTAYA桑野店の中古本コーナーを漁っていた時、「世にも恐ろしい歴史ミステリー」という本を見つけた。それに載っていた、福島県で唯一恐怖の場所として紹介されていた場所が本日取り上げたいスポットだ。その本を読み、私は愕然とし、更には寒気がするほどの戦慄が走り、恐怖に戦くこととなった。
しかしながら、冷静に考えれば、会津戊辰戦争の折、多大な犠牲を払った会津若松城下や二本松少年隊の悲劇、今年私が訪れた霊場「岩角山」など、挙げればキリがないが、ここは戦国時代の出来事なのに、未だに成仏できない地縛霊や霊魂が多数浮遊しているスポットとして書かれていた。では心して読んでいただきたい。
「小手森城(おてのもりじょう」 二本松市針道(旧東和町)
福島県二本松市針道にあった戦国時代の城館。現在は廃城になっており、本丸跡に愛宕神社が祀られており、城跡各所に石垣や曲輪の遺構が残存しているだけ。
概要は、小手森城のある中通り北部の阿武隈川東部一体は塩松とよばれ、16世紀後半は小浜城主・大内氏の支配地域であった。この時期の小手森城は小浜城の支城であり、菊池氏が城を守っていた。
この城を恐怖のミステリーとして伝えられているのは伊達政宗の「八百人斬り」の史実によるためだ。小手森城といえば、1585年(天正13年)8月27日の伊達政宗による全城兵の殺戮が有名で、その年、出羽国米沢城主・伊達政宗は小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・福島県伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。
8月27日、政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。このとき、政宗は城主・菊池顕綱をはじめとする敵将や敵兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父の山形城主・最上義光へ送った書状には、城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など500人を討ち取ったほか、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢1,000人に及んだと記載している。ただ、数については正確な数字ははっきりとわかっておらず、翌28日付で家臣の後藤信康に送った書状によれば200人、9月2日付で資福寺・虎哉宗乙宛の書状では800人と記載されている。しかし、数はどうであれ、城内の人を殺戮したのは事実であり、大内定綱やその一派は言うに及ばず、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれることとなった。伊達氏ゆかりの祝歌として有名な「さんさ時雨」は小手森城のある安達郡一帯では現在でも歌われることはないという。
1987年(昭和62年)に放映されたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では、第11話の「八百人斬り」で、このときの撫で斬りの様子が描かれている。(ログインが必要です。)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16314423
実際に訪れた方の動画映像はこちら
何の罪もない子供や婦女を弔う意味で、石塔などが建てられている。昼間でも鬱蒼と雑木林が生い茂り、夕刻や夜間は、とても一人では容易に近づけない場所である。まして肝試しなどはしてはいけない。
その後、小浜城も落城し、塩松は政宗の所領となったが、天正16年(1588年)、政宗の命で塩松を守っていた石川弾正が相馬義胤の誘いに応じて政宗に反旗を翻した。閏5月16日に政宗は弾正の籠もる小手森城を攻撃し、約500人を討ち取り、落城させた。これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。
余湖さんの図入りの詳しいブログはこちら
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/nihonmatutowa.htm
<関連ブログ> 地図、写真など
http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/enomoto/11-0930-3/
http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/site/kankou/490.html
http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/nihonmatu/otenomori.html
http://ameblo.jp/cmeg/entry-11458496313.html
http://www.geocities.jp/zanyphenix/shiro1505.html
http://shigezane.fc2web.com/majime/kassenn/kotemori.html
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/jenoside6.html
この殺戮から420年以上もの月日が経過したワケだが、私自身は若き伊達政宗の手柄を焦るあまりの暴走と暴挙がこうした悲劇を招いた要因であると考えている。老若男女を問わず、手段を選ばずに無差別に「皆殺し」とはあまりにも残虐で無慈悲すぎる。戦国の世は人を狂気に変え、見境ない境地に立たせ、モノの良し悪しの判断すら狂わせてしまう。歴史の一場面の中に埋もれてしまっているかもしれないが、こうした悲劇が当地で繰り広げられたという事実を伝えていかなければならない気がする。
歴史に触れる旅(伊達政宗の足跡を追って)はコチラ(9/23付記事)
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e2bd.html
記事作成:12月14日(土)
追 記(平成26年8月17日・日)
このような記事を書いておきながら、このスポットが頭からこの場所が離れず、物見遊山では決してないが、どうしても気になり、まるで何者かに誘われるように、平成26年6月21日(土)に訪れてしまった。距離こそ短いが、急勾配の山登りに加え、周囲には誰一人いない不気味で、呪われそうな場所に、単独で挑んだのだ。階段がきつく、頂上の神社にたどり着いたときは、息も絶え絶え、脚は吊りそうなくらいパンパンに張って激痛状態。
詳しくは実際に訪問した時の模様を記載した下の記事をご覧ください。
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-9fdf.html
結論から言えば、やはりこの場所は訪れるべきではなかった。普通なら、山登りをしても、その3~4日も経てば、筋肉痛は快復するのだが、その後、両脚ふくらはぎの裏を肉離れしてしまい、2か月近く経過した今も、まだ痛みがある。これはきっと、法を犯した訳ではないのだが、行ってはいけない場所に足を踏み入れたことで罰があたったのではないか。呪いと祟りが降りかかった気がした。
賢明なブロガーの方は、興味半分や肝試し的な発想では訪れないことを願うばかりだ。正宗の「八百人なで斬り」で犠牲となった民の死霊が眠る神聖な場所を侵してはならないのである。
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