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2014年1月31日 (金)

今は亡きお笑い芸人 前編

 「芸は身を助く」ということわざがある。これは秀でた一芸を身につけていれば、一生食いつないでいけるということを意味する。それほど他人にまねできない優れた芸を身に着けることは至難の業である。苦節何年というように、芸能の世界は厳しくそして難しい。板前の修業と同じで、一流になるまで一筋縄ではいかず、才能があっても世間に認められるようになるまでに多くの月日を費やす。この世界は、技を盗めといわれるほど自分スタイルや売りを確立するまでは途方もない時間がかかる。よくアイドル歌手にありがちなオーディション一発でなったようなシンデレラストーリーストーリーとはおよそ無縁世界である。何年もかけて日の当たらないような日陰でひたすら芸を磨き、いつめぐってくるかわからないチャンスを待って、地方巡業や小汚い三流の演芸場でどさ周りも多数。在る者は弟子入りし、かばん持ちや下働きを何年もかけて行い、下積みに長い月日を費やすだろうし、また或る者は、場末のスナック巡りや流しスタイルでその日暮をしている輩も多く、途中で挫折して諦める者も決して少なくないと聞く。やはり、本物の芸を身に着けるまでは相当な苦難と苦労を覚悟しなければならないようだ。
 そこで、今回は、自らの芸を確立し、一流芸人として一世を風靡した方々を取り上げ、生前の活躍を偲びたいという企画だ。ただし、落語家を含めると膨大な数に上るため、今回は割愛させていただきたいと思います。
 

 早野凡平

 「ホンジャマーの帽子(ホンジャマカ帽、マジックハットの異名もある)」と呼ばれる、帽子を用いたが有名。この帽子は帽体とツバの部分が分離するようになっており、早野は慣れた手つきで黒い帽子を様々な形に変形させて、有名人や動物の真似をして人気を博した。「牧師」、「スチュワーデス」、「ナポレオン」、「カウボーイ」、「ローマ法王」(なぜか2度やってしまう)、「鞍馬天狗」(名乗る際、頭巾に見立てた帽子が落ちてしまう)等が定番ネタ。「ホンジャマー、ホンジャマカ…」と舌足らずな歌を歌いながら、次々と繰り出すのが特徴。
 この帽子芸によりテレビ出演も増え一躍人気者となり、舞台トークのネタとして「この帽子のおかげで練馬に家を建てることができました」と語っていた。
 帽子以外の芸としては、長さが異なる4本の蛇腹状のホースを振り回して音を鳴らす「パイプオルガン」がある。4本のホースを器用に使い分け、低い音を出すときはゆっくり振り回し、高い音を出すときは早く振り回す。レパートリーは、「黒田節」、「船頭小唄」など。
 1980年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。
 1990年5月3日、転移性肺癌のために50歳で死去。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=knN6WRACO6k

 星セント・ルイス

 星セントと星ルイスからなる、日本の漫才 コンビ。1971年結成、2003年解散。
 星セント(1948年1月16日 - 2004年7月22日)主にボケ担当。メガネの方。
 星ルイス(1948年11月17日 - 2005年3月10日)主にツッコミ担当。
 

 1977年、ツービートらを抑えてNHK漫才コンクールで優勝。長身のセントが早口でギャグをまくし立て、小さなルイスがつっこむというスタイルで、社会風刺をネタにした独特の漫才で一躍人気者となる。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=m40-82sF8iI

 鳳啓介

 本名は小田 啓三。1923年3月16日 - 1994年8月8日。大阪府大阪市出身。 お馴染みの挨拶である「鳳啓助でございます」や 「ポテチン」、「あら、言いそこ間違いよ」などのギャグで人気を博した。その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。
 1994年8月8日、リンパ腺の癌により死去。71歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=NCT1RZNWbLI  

 牧伸二

 ウクレレ漫談の第一人者。本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月 29日)は、日本のウクレレ漫談家。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。 血液型AB型。 ハワイアンをアレンジした曲に、「あ~あやんなっちゃった~あ~あんあ驚いた」などのフレーズで 社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールにも挑戦した。歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』で人気者になり、早くも1960年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。この『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(英題"Hawaiian War Chant"、ハワイ先住民のポリネシア人の戦意昂揚歌)をアレンジしたもので、時世に応じた1500余の歌詞ストックがある一方、牧自身も舞台で原曲を披露することがある。
 1963年にはテレビ朝日の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組終了の1978年まで15年にわたり司会を務め、番組内の名物コーナー『マキシンのバーゲンセール』を通じて『あゆみの箱』チャリティー活動に貢献した。また九州朝日放送の素人演芸会『マキシンの東芝ハレハレ555』等でも司会を務めた。
 1965年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
 2002年に脳出血で療養とリハビリを余儀なくされるが、復帰後の2003年に文化庁長官賞を受賞。
 2011年7月3日、自宅でタバコの火の不始末からボヤを起こした。自身と妻、娘の3人で消火にあたり、消防車が到着した頃にはほぼ鎮火していた。
 2013年4月29日午前0時15分頃、東京都大田区の多摩川丸子橋付近で投身し、病院に搬送されたが死亡が確認された。入水自殺とみられる。78歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=AUTFGYAgwHo

 レオナルド熊(コント・レオナルド)

 本名:井上 千蔵 <いのうえ せんぞう>、1935年6月27日 - 1994年12月11日)は、北海道樺戸郡新十津川町出身のコメディアン。石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキーパンチ』『コント・レオナルド』で一世を風靡した 。
 若手中心の漫才ブームの中で比較的年輩の熊が、政治、経済、時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは異色で、人気を不動のものにする。1983年に出演したサントリービール「生樽」のテレビCMで発した「いかにも一般大衆が喜びそうな」は流行語になり、広く知られた顔になった。土方スタイルでねじり鉢巻きがトレードマークで、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』では、美女が座る椅子を溺愛する変態男を演じ、怪優としての側面も見せた。
 1994年10月に末期の膀胱がんと診断され、ホープ、マギー司郎らの『田端グループ』によって「ガン祝いの会」を開かれた。2ヶ月後の12月11日、家族と焼肉を外食した直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で死亡が確認された。59歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=YsubWVKXAnc

 三波伸介

 本名:澤登 三郎(さわと さぶろう)、1930年(昭和5年)6月 28日 - 1982年(昭和57年)12月8日)は、日本のコメディアン・俳優・司会者・タレント。 昭和期を代表するテレビスターのひとり。東京府東京市本郷区(現在の文京区)出身。 1961年に伊東四朗(三波が大阪にいた頃、三波伸介という芸名で活躍していた時期があった)、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成。舞台やテレビのバラエティ番組を中心に人気を博す。流行語にもなった三波の当たりギャグ「びっくりしたなぁ、もう」はこの頃生まれた。
 1970年に日本テレビ系「笑点」の3代目司会者に就任。その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。
 1982年12月8日、自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た家族らが発見、救急車で病院へ運ばれたが既に意識不明の状態で、解離性大動脈瘤破裂により意識が戻らないまま急逝した。52歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=kzGCDyefvjE

 ウガンダ・トラ(ビジーフォー 1952年6月6日 - 2008年5月31日)

 タレント、ドラマー。本名、 佐藤 信一郎(さとう しんいちろう)。『ビジーフォー』元メンバー。 東京都港区六本木出身。
 1977年、元ザ・クーガーズの島田与作が立ち上げた『いそがしバンド』に、盟友の高田"ぐっち"裕三、スリム冬樹と共に参加し、トラ佐藤(後にウガンダ)の名でドラムとボーカルを担当。『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』にセミレギュラー出演し、童謡コーナーではキャンディーズと共演した。
 1979年の『金曜娯楽館』へのレギュラー出演と前後して『ビジーフォー』に改名。クレイジーキャッツからザ・ドリフターズへと続く、ナベプロ伝統の技巧派コミックバンドとして期待が掛けられたが、余興だったはずのものまねで売れてしまう。1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを脱退。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』、『オレたちひょうきん族』などに出演。
 2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳没。永年の鯨飲馬食による肝臓病、糖尿病、心臓病、脳梗塞などの悪化が懸念されていたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発動画はコチラ→表されている。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=6QbWBX26YMs

 中島忠幸(カンニング:1971年6月14日 - 2006年12月20日)

 お笑いコンビ「カンニング」のツッコミ担当であった。お笑いのネタ中では相方の竹山隆範があまりにもキレるため、専らなだめ役となっていた。しかし、稀に竹山が暴走しすぎた時など、竹山以上の勢いでキレて竹山を黙らせていた。
 普段は竹山より短気な性格で、竹山がネタ中の暴言で迷った際には、強く通したこともある。また『エンタの神様』において視聴者に電話で意見を求めた際も、その苦い発言に対して流そうとする竹山に対しキレた強い発言をするなどした。板前の経験から『笑いの金メダル』の『グリルの金メダル』や『めちゃ×2イケてるッ!』の『やべっち寿司』でもその腕前を披露。2005年(平成17年)1月15日には東京都で開かれた『全日本鍋物コンテスト』に『辻よしなり ラジオグラフィティ』のチームで参加。しかしながら、後述の理由から入院中となってしまい、レシピのみ提出による参加となる。
 結婚同年の2004年(平成16年)12月から病気療養を理由に休業、翌2005年(平成17年)1月、白血病(急性リンパ性白血病)の治療中であることを公表した。
 2006年(平成18年)1月には臍帯血移植を受けて軽快傾向とも伝えられたが、ウイルス性肺炎の併発によって同年12月20日午前11時46分に死去した。35歳没。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=_P9M1-febbQ

 瀬戸わんや(獅子てんや・瀬戸わんや)

 獅子てんや。瀬戸わんやは、戦後長きに 亘り活躍した漫才コンビ。大柄のてんやが、小柄で額の禿げ上がったわんやをいびり、 わんやがムキになって怒るスタイルで人気を博した。
1956年(昭和31年)産経新聞社主催若手漫才コンクールに国定忠治の出し物で一位、翌年の第1回NHK新人漫才コンクールにも「世界旅行をかえりみて」というネタで優勝し、並居る若手漫才の中で図抜ける。新作に取り組む姿勢は積極的で、その中から「ひよこと卵」「なんで行ったの」などの定番ネタが磨かれた。
 1966年(昭和41年)から約14年間放送されたTBS『家族そろって歌合戦』の司会でも全国的人気を博した他、1967年(昭和42年)に第7回日本放送作家協会大衆芸能賞受賞、フジテレビ放送演芸大賞も二度受賞し、テレビ・ラジオで重宝がられる。
 わんやが健康面に不安を抱えた1970年代中頃から、思うような反応を見せられないわんやに対し、てんやが客前で苛立った表情を露にするようになり、それに対してわんやがふて腐るなど、稽古不足も相俟って晩年の舞台は荒れて行った。1987年(昭和62年)遂にわんやが病に倒れて活動休止、そのまま復帰叶わず亡くなり、コンビも消滅した。

 獅子てんや(しし てんや、1924年(大正13年)6月25日 -現在もご存命 )東京府荏原郡平塚村(現・東京都品川区)下蛇窪生まれ、本名:佐々木 久雄(ささき ひさお)ボケ。

 瀬戸わんや(せと わんや、1926年(大正15年)3月10日 - 1993年(平成5年)2月10日)大阪市南区(現・中央区)生まれ、本名:妹尾 重夫(せのお しげお)ツッコミ。
 1987年に糖尿病の悪化で事実上の引退。1993年、脳梗塞で死去、享年66。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=-YK8WvFAI7U

 松本竜介(紳助・竜介)

 1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成した。紳助 が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である。漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人一員として一世を風靡する。駆け出しの頃から女遊びが激しく、当時関係を持った女性は300人を軽く超えるといわれた。1980年に結婚を発表しているが、夫人も女遊びの末に手に入れた夫人である。1983年には芸名を竜助に改名。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。その後吉本を去り、新たな相方と「竜助 ポン太」というコンビを組むが、売れずにほどなくして解消する。
 その後、映像制作会社を起業し、タレント活動も続けるが、1996年頃より吉本興業と疎遠になり、1998年に、喫茶店、アダルトビデオ製作などの副業失敗で1億3000万円の借金を抱え、自己破産した。破産管財人は、淀屋橋合同法律事務所の阪口彰洋弁護士であった。自己破産を理由に吉本からはほぼ絶縁状態になる。晩年は名古屋の風俗レポーター、大阪ミナミの風俗案内所長などの職を転々とし、大阪の歓楽街で話題になっていた。
 2006年3月22日、案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。49歳没。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い。救急車を呼んで欲しい」であった。

 動画はコチラ→ http://www.youtube.com/watch?v=DHcnhtFfz_0

 本日は長くなったのでここまで。本当は20人一挙に紹介して生前の活躍に敬意を払い、ご冥福をお祈りしつつ、当時を偲ぶ予定だったが、思い入れが深く、ひとりひとりの記事が長くなってしまったため、急きょ前編と後篇に分けて2回シリーズでお送りしたい。ご了承願います。

 記事作成:1月7日(火)~

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