伝説の男⑬ ~夭折した天才レーサー ~
半年以上振りでこのテーマ記事をお送りすることとなった。今回は、是が非でも厳粛かつ襟を正して掲載したいと思えるような人物を取り上げる。本日紹介するのは、或る天才レーシングドライバーが、予期せぬアクシデントに見舞われ、不幸にして急死するという悲劇に遭ったことが、そもそもこの伝説の始まりだった。その出来事は、私がその場所を訪れる3年前に起きた。当時、動画サイトなどない時代だったので、私はこの事故現場が富士スピードウェイの伝説の30度高速コーナーバンクで起きたとばかり勘違いしていた。そしてこの観客を巻き込む大事故がきっかけで、そのバンクが閉鎖されたものと思い込んでいたのだった。
しかし、コンピューターの開発&普及により「YouTube」にアップされるようになり、皮肉にも事故の詳細を知ることとなった。それでは、追悼記事の意味合いが濃い、今回のテーマを始めたい。まずは当時、「天才レーサー」の名をほしいままにしていた「高橋徹」のプロフィールから紹介したい。(Wikipediaより抜粋)
高橋 徹
1960年10月6日 - 1983年10月23日は、広島県東広島市出身のレーシングドライバー。中学2年の時、野呂山スピードパークで初めてレースを見てレーシング・ドライバーになる夢を抱く。広島県立広島工業高校を1年留年した後2年生時で中退。
1979年、18歳でKS-07スズキを駆って西日本サーキットのFL500のシリーズ戦に参戦。デビュー前の練習走行は2回しか出来なかったが予選5位、決勝4位と健闘。
翌1980年鈴鹿市に転居。自動販売機のメンテナンス会社や自動車部品の販売会社に勤めながらFL550のシリーズにフル参戦。資金も時間もなく練習時間もほとんど取れない状態だったが、「鈴鹿シルバーカップFL550」シリーズの年間チャンピオンになる。
1981年にはハヤシレーシングにメンテナンスを依頼し、FL550と平行してFJ1600の鈴鹿シリーズにも参戦。FL550シリーズ3位、鈴鹿FJ1600シリーズ9位、西日本FJ1600シリーズ5位の戦績を残す。
1982年、FJ1600に乗る傍ら、全日本F3選手権にもハヤシレーシングからマシンレンタルと言う形で参戦。チームメイトであった鈴木亜久里を上回る成績を残す。当初は第一人者だった星野一義との2人体制で1983年シーズンを戦う予定だったが、星野はシーズンオフにヒーローズレーシングを電撃離脱しホシノインパルの関連子会社としてレーシングマネジメント会社ホシノレーシングを設立。ナンバーワンドライバーを失ったヒーローズレーシングは急遽高橋徹をエースドライバーとして擁立することとなった。こうして類い稀なる才能と多くの支援者によって下級カテゴリーを僅か3年半で通過、全日本のトップカテゴリー、フォーミュラ2に駆け上がった。しかし資金もなく仕事に追われていたため、高橋の練習・経験不足は明らかで、危ないスピンを何回か繰り返していたといわれる。
ここで、現存する貴重な彼のインタビュー映像をどうぞ。(埋め込み処理不可です)
https://www.youtube.com/watch?v=mH-iErDwlbc
1983年、ヒーローズレーシングからF2とGCの全シリーズに参戦することになった。全日本F2選手権第1戦の予選前に行われた公開練習で、並み居る強豪を尻目に高橋が最速タイムを記録し、関係者の度肝を抜く。更に予選ではいきなり4位、本戦でも最終ラップ、ヘアピンで星野をかわして中嶋悟に次ぐ2位に付け衝撃のデビューを飾る。国内トップ・フォーミュラにおける新人のデビュー戦最高成績を挙げ、一躍トップドライバーの仲間入りをした。
その年、全8戦で行われる全日本F2は前半を終えランキング6位。新人としては決して悪くない位置だったが、デビュー戦で2位を獲った事で周囲もファンも優勝を期待。高橋自身も「1位しか価値がない」と周囲に漏らしていたと言われる。また、富士での事故の直前には、成績が伸び悩んでいた。そんな状況の中で迎えた、10月23日の富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース」。高橋は決勝レースでトップを走る星野一義を追走していたが、オープニングラップを終えたばかりの2周目の最終コーナー立ち上がりでスピンを喫する。車体は木の葉のように舞い上がり、車体上面(運転席付近)から観客席フェンスに突き刺さるようにクラッシュ。マシンやその破片の直撃を受けた観客一人が巻き添えで即死、一人重傷、二人が軽傷を負うという大事故となった。
高橋は富士スピードウェイの医務室に運ばれたが死亡が確認された。まだ23歳と17日だった。高橋がトップ・カテゴリーで戦ったのは僅か8ヶ月だったが、この短い期間にレース関係者・ファンに強烈な印象を残し、若くしてその魂はサーキットに散ることとなった。
それではその録画映像をご覧ください。(閲覧注意)
非常に緊迫した走行シーンと思わず息を呑むような壮絶なクラッシュ場面。木の葉のように舞い上がるマシン。操縦不能に陥りなすすべもない状況。その時彼は、ひとり孤独なコックピット内で一体何を思っただろうか。一瞬で命を奪われる死と隣り合わせの危険なスポーツであることがわかる。ひたすら恐怖心と戦い、極限まで達した緊張状態の中、スリルを求めてチェッカーをトップで受ける場面を夢見て、レーシングドライバーたちはハンドルを握っている。
この時代は、星野一義を筆頭に、中島悟、高橋国光、高橋健二、松本恵二などがパイオニアとして君臨していた。彼は20代そこそこで、鮮烈デビューを果たし、まさにこれからが時代をリードする人材と期待されていた。その矢先の悲劇だった。実は、私の身の周りに彼と同姓同名の友人がいたことと、彼は今でも私が尊敬してやまない、元広島カープのリリーフエースだった津田恒美(実)や、当時人気絶頂だった松山千春に顔立ちが似ていることから記憶に深く刻まれたレーサーだったのだ。
私は、この3年後の1986年9月に、友人たちとバイクを駆って、富士スピードウェイを訪れたことがある。「SUPER SPRINT」というバイクレースの公式予選を観に行ったのだった。小雨の降りしきる中、その予選は行われていた。予選と言っても、決勝に残るために選手達は必死だ。この予選の結果で、ポールポジションなど各選手のスターティンググリッドが決まるからだ。しかもレースには莫大な資金を要し、個人参戦ではなく、「ワークス」とプロ契約し、多くのスタッフが陰で支え、チームとして戦っているという背景がある。
250km/hを超える猛スピードで、目の前を一瞬で風の如く通過するレーサー達の命知らずのパフォーマンスに心を奪われた。サーキット場にこだまする怪物マシン(2サイクル)の甲高い爆音。排気ガスやエンジンの焼け焦げた匂い。そこには同郷の平忠彦も現役バリバリのレーサーとして激そ走していた。お馴染みトレードマークの平レプリカのメットをかぶり、颯爽とメインスタンド前をド迫力で走り抜けていた。彼が登場すると周囲の空気が変わった。燃えるような赤色のレーシングスーツに身を包み、同じ赤を基調としたヤマハのYZR500Rのド派手なマシンを操り、正面スタンド前のロングストレートではモーターファンの視線を釘づけにしていた。彼は、当時私と同じ体型(178cm/64kg)だった。
そして、予選の最中、ずっと勘違いしていた私と友人で、第一コーナー(右カーブ)にあるタイヤバリアの外側の閉鎖ブロックに分け入り、その先に続く、幻の急勾配の高速バンクを歩いてみた。そこが彼が悪魔に導かれて命を落とした現場だと思い込んで・・・。アスファルトがひび割れし、所々雑草が生い茂っているコースを、急斜面に身を傾けながら500mほどどうにか歩くと、コース外に慰霊碑のような石碑が建っていた。だからそこが事故現場でと思い込んでいたのだ。下はモーターファンの方が撮影した30度バンクの映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=NySNuQCv7zo
さて、彼が逝ってから早いもので31年が経過した。生きていれば54歳で、後進の指導に当たり、レーシング界の発展に寄与していたであろう。おそらくは、F1にも果敢にチャレンジし、世界を股に掛けて活躍していたに違いない。「あの事故がなかったら」と悔やまれてならない。勇猛果敢にコーナーを攻め立て、巧みなマシンコントロールと勝負の駆け引きを仕掛け、タイトルを総なめにしていたかもしれないし、表彰台でシャンパンファイトを何度も見たかった。もし存命なら、新たな伝説を十分に築いていたに相違ない。夭折するまでの数年間で、彼は人々の記憶に残る、誰にも真似できない「走り」を披露したのであった。まさしく「太く短く生きた天才」だったが、彼の人生もまた、一瞬の風のように過ぎ去ったのかもしれない。実に彼らしい人生のエピローグだった。
最後に、彼のご冥福を心からお祈り申し上げ、結びとします。
記事作成:6月1日(日)
なお、今回掲載した写真は、下のサイトから借用したものです。感謝申し上げます。
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