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2014年9月

2014年9月27日 (土)

有名人の墓所

 以前、有名人が眠る霊園を紹介したら、2年が経過した今も、数多くのアクセスをいただいている。私たちにテレビや映画、音楽を通して影響を与え、時には生きる希望になり、悲しい時にはそっと寄り添う歌を奏でてくれた。そんな方々も、今では他界し、鬼籍に入られた方も少なくない。人はこの世に生を受けたからには、必ずいずれは死に行く存在で、それは遅かれ早かれ個人差はあるが、避けては通れないものだ。今回のテーマは、私が半世紀生きてきた中で、時代を共にし、人生の道しるべになった先輩諸氏で、今後お墓参りに訪れたいと考えている有名人にスポットを当て、彼らの墓所を紹介することとする。私と同じ発想の方々で、有名人の方々のお墓参りに行かれた方のブログを紹介したいと思います。
 ただし、最近「墓マイラー」と呼ばれるマニアが急増しているが(自分も半分そうだが)、決して冷やかし気分や、物見遊山的な安易な発想で訪れるのはおやめ頂きたいと思います。あくまで故人の生前の功績を称え、私たちに遺してくれた偉業に感謝し、その姿を偲ぶという意識と目的で訪れて頂きたいと思います。

 テレサ・テン

http://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003091&id=5107

http://blog.goo.ne.jp/eh2gt72w/e/013ac651acbd1ddf648bae93b55b995b

 美空ひばり

http://tiny-coco.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_d1ed.html

 いかりや長介

http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/28182329.html

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10847643156.html

 丹波哲郎

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tanba_te.html

 村下孝蔵

http://blogs.yahoo.co.jp/mikucharat14/17185215.html

 息子が千葉にある大学へ進学し、何度か村下さんが眠る霊園の近辺を車で往復したことがあった。近いうちに、お参りに訪れようと考えている。

 松田優作

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-haiyuu.htm#yuusaku

http://happism.cyzowoman.com/2013/10/post_2561.html

 鶴田浩二

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-haiyuu2.htm#turuta

 坂本九

http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/15413420.html

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-11364233402.html

 葛飾区小菅4-20-35・蓮昌寺には、坂本九のほかに、いかりや長介の墓もあります。

http://www.tesshow.jp/katsushika/temple_kosuge_rensho.shtml

 夏目雅子(分骨)

http://blogs.yahoo.co.jp/aoshinran/19593891.html

http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/06-18.html

 田宮二郎

http://www.honen-in.jp/

戒名は「清光院法誉顕映究吾居士」。墓地の所在は柴田家代々の墓地。生まれ故郷である京都の法然院にある。

 石原裕次郎

http://homepage1.nifty.com/yumeooka/other_30.htm

 平成25年10月にお墓参りに行ってきた場所。観光客(参拝者)のために、ちゃんとお墓の場所を表示している。やはり昭和の大スターだけあって、お墓も立派。

 天知茂

http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/27386445.html

 私は平成25年の10月に訪れ、お参りして来た。なんと私が学生時代に住んでいた三軒茶屋のアパートから徒歩5分以内の至近距離にあった。

 坂井泉水

http://ameblo.jp/muroitakashi/entry-11463279665.html

 彼女が眠る霊園は、家族の方の固い意思で公表をしていません。決して所在地を暴露するような書き込みは避けてほしいと思います。最近、Yahoo!知恵袋などで、その場所を平気でバラす不心得者が登場し、ファンの感情を逆なでしています。親族の方の心情をご理解願います。

 石立鉄男

http://blogs.dion.ne.jp/kamosinobu/archives/7395850.html

 緒形拳

http://32439.neko39.com/?eid=668

 渥美清

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-haiyuu.htm#atumi

 黒澤明

http://blogs.yahoo.co.jp/syutentoku/13111553.html

 三船敏郎

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-haiyuu.htm#mifune

 萬屋錦之介

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-haiyuu.htm#yorozuya

 尾崎豊

http://blogs.yahoo.co.jp/foukusong/40168611.html

http://www.historical-greats.net/celebrity/yutakaozaki-sayamalakesidecemetery-sleep/

 沖雅也

http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10547498976.html 

 岡田有希子

http://www7b.biglobe.ne.jp/~tetuji-kayo/newpage3.html

 河島英五

http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_be48.html

 力道山

http://blogs.yahoo.co.jp/ruinsrider/31990582.html

 津田恒美

http://blog.livedoor.jp/yorozuya1996/archives/65604390.html

 

 さて、いかがだったでしょうか。いずれも私が生前好きだった方々だ。なぜか今回、訪れてお参りしたいと考えて、列挙した有名芸能人たちは、大部分が血液型がB型だと気づいた。夏目雅子、田宮二郎、天知茂、石立鉄男、緒形拳、渥美清、黒澤明、尾崎豊、沖雅也がそうだ。やはりこの型は、個性的だったということか。ところで、今年10月下旬、私も大ファンだった「天知茂」さん、ZARDのボーカル、「坂井泉水」さん、昭和の大スター「石原裕次郎」さんのお墓を訪れ、線香を手向け、心からのお悔やみを申し上げ、改めてご冥福をお祈りしてきた。今後も、時間があれば、訪れたいと考えている。

 記事作成:平成25年10月29日(火)

2014年9月26日 (金)

歴史上の人物の没年齢考

 江戸時代は「人生50年」と呼ばれるほど、今からは想像もできないくらい人の一生は短かった。そのせいか、若くして国の行く末を想い、親孝行と立身出世を夢見て志を高く持っていた青年が多かった。それは歴史上の人物の功績を見れば一目瞭然。若くして夭逝した、歴史にその名を轟かせる大人物は、若年期にその才能を開花させ、華々しく世に登場し、その名声を売った。まるで自分の死期を悟っているかのように、限られた命を精一杯生き、どちらかといえば生き急いだ印象が強い。
 一方で、かの有名な松尾芭蕉は、晩年に江戸から奥州街道を北上し、今の東北地方を弟子の曾良と行脚し、日本海側を下りて北陸地方も周り、やがてそれを「おくのほそ道」に編纂したことは周知のところ。しかし、その当時の姿を考えれば、どうみても老人の容姿である。しかし、実年齢が45歳だったことを考えれば、僅か300年前の世は、なんと老け込む速度が早いのか。現代人の45歳と言えば、「福山雅治」である。なんと異なる容姿だろう。
 そして驚くべきは、彼が全行程の歩行距離が約2,400kmキロで、それを僅か307日で踏破した。つまり、自転車も車もない時代、自分の歩足だけで10ヶ月ほどで直線距離にして北海道から沖縄まで歩いた計算だ。実に一日平均で8キロ歩いた計算だ。人間の歩く速度が時速4キロとしても、その途上で同じ場所に数日間滞在し、花鳥風月に触れ、要所要所で句を詠んでいたことを考えれば、毎日、不眠不休で歩き通さなければ、実現不可能な距離だ。
 あの小柄で老練な印象の芭蕉のどこにそんな潜在能力があったというのか。どれだけ足腰が丈夫だったのだろう。「芭蕉は忍者だった」とか「こっそり馬を使った」などという愚説まで飛び出すほどの健脚振りを発揮した。芭蕉の人離れした脚力はさておき、昔人は、現代よりも体力がずば抜けており、志をもって人生を謳歌する者が多かったように思える。それはつまり、自分の人生を無駄にせず、全うしたと言えるだろう。

 では、まずは各時代の平均寿命を確認しておこう。

 縄文~弥生時代 30~31歳
 室町時代     33歳
 江戸時代     45歳
 明治時代     43歳 (日清戦争・日露戦争で戦死者が多かったため)
 大正時代     46歳
 昭和初期     48歳
 昭和22年     52歳
 平成20年     82歳
 平成25年 男性 80.2歳、女性 86.6歳

参考資料: http://www.garbagenews.net/archives/1940398.html

 第二次世界大戦後、戦後復興や各種好景気、高度経済成長により、栄養状態も改善され、医療技術も急速に発展した。これに伴い、平均寿命が急激に伸び、女性は世界一の長寿国となった。90歳代の女性はザラで、新聞のお悔やみ欄に掲載される死亡年齢を見れば、超高齢での大往生というのが見て取れる。

 一方、フリーターや無業で、親のすねかじりやスマホやTVゲームばかりに精を出し、人との関わりを持てない若者が多い現世の趨勢とは雲泥の差である。そこで今日のテーマは、歴史上の人物がいかに若くしてその才能を発揮し、己の実力で名を馳せたかをそれぞれの没年齢から検証したい。

 高杉晋作・・・騎兵隊を率いて討幕を目指した。結核で死去 27歳

 坂本龍馬・・・海援隊 薩長連合の仲立ち 近江屋で暗殺 31歳

 沖田総司・・・新撰組の剣の達人 池田屋騒動で手柄 肺結核 24歳

 近藤 勇・・・新撰組の局長 板橋刑場で斬首 33歳

 土方歳三・・・新撰組副長、討幕派と対決し、箱館にて壮絶な最期を遂げた。34歳

 吉田松陰・・・安政の大獄で死刑 29歳

 久坂玄瑞・・・会津・桑名・薩摩藩兵らと激戦の末負傷、自害 24歳

 西郷隆盛・・・薩摩藩士 西南戦争で自刃 49歳

 明智光秀・・・織田信長を本能寺の変で討つ 「三日天下」 54歳

  小早川秀秋・・・関が原の戦いで重要な立場となった。東軍への寝返りで雌雄を決した。
          20歳

 徳川家茂・・・、江戸幕府第14代征夷大将軍。20歳

 織田信長・・・ 武将 明智光秀の謀反に遭い、本能寺で自害 48歳

 上杉謙信・・・内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。48歳

 直江兼続・・・米沢藩 上杉氏家老 59歳

 北条時宗・・・鎌倉時代中期 の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。32歳

 伊達政宗・・・独眼竜の異名で東北地方を治めた戦国武将 69歳

 武田信玄・・・甲斐の守護大名、戦国武将 謙信との「川中島の戦い」は5回にも及ぶ死
        闘だった。51歳

 平清盛・・・平安時代末期の武将・公卿 62歳

 源義経・・・頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀
       衡を頼った。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣
       川館で自刃し果てた。31歳

 平賀源内・・・江戸時代にエレキテル考案 多彩で本草学者、地質学者、蘭学者、医者、
        殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。51歳

 石田三成・・・豊臣家最後の家臣 関ヶ原の戦いで敗れ、斬首刑 41歳

 宮本武蔵・・・江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
         佐々木小次郎との巌流島決戦。「五輪書」 61歳

 浅野内匠頭・・・江戸城内松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び切腹 33歳 

 三島由紀夫・・・小説家・政治活動家 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪
          れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバ
          ルコニーで演説しクーデターを促したが、賛同者を得られないとわかると、
          その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、
          新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。
          「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」 45歳没  墓は多摩霊園

 宮沢賢治・・・岩手県出身の作家。「銀河鉄道の夜」 急性肺炎 37歳 

 樋口一葉・・・生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。

 一様に言えることは、人生50年の時代に生まれながらも、その限られた命の期限の中で、自らの志の実現を一直線に目指し、一心不乱に生き抜いたことだ。しかしながら、歴史に名を残す豪傑や奇才であっても、江戸時代やそれ以前は、医療技術が乏しく、流行り病も多く、不治の病には勝てなかった。当時は、結核や肺炎で命を落とすものが多かったし、江戸時代に蔓延した百日咳や天然痘、コレラや麻疹で命を落とすことも多かった。近年でも、死亡通知に「薬石効なく」という表現を使うが、この言い回しこそ、古の頃の風習をそのまま伝承したものだ。よって、人生が50年未満と限られた中で、早熟といわれるまでに、若くして世に出る必要があったのだ。昔人は、特に武士階級や庶民は娯楽が少なく、晴耕雨読の如く、学問に精を出すしか生きる道はなかったことも言える。生活手段を思えば、自らの実力でのし上がっていくしか手はなかったのである。

 記事作成:9月18日(木)~9月25日(木)

2014年9月24日 (水)

追悼・競技中に死亡した日本人選手

 今日の記事のタイトルは、かなりナイーブな話題である。遺族や関係者にすれば、興味半分で掲載する内容ではないとお叱りを受けそうだが、決してそのような趣旨でお送りするものではない。スポーツとは本来、健康増進や体力の増強のために行われるもので、決して死と隣り合わせの無茶なものであってはならない。しかし、一歩対応を誤ったり、一瞬の油断で打ち所が悪いと命を奪われる事故が起きる危険性をも秘めている。
 本日は、文字通り、一命を投げ打って、彼らが遺した足跡を証として、ここに刻みたい。

 1. プロレス

 亡くなった方々・・・三沢光晴、福田雅一、門恵美子、プラム麻里子など

https://www.youtube.com/watch?v=TvmeeJ3ydAw

 プラム麻里子はコチラ https://www.youtube.com/watch?v=ScpvcAhE-cU

 この競技は、常に危険と隣り合わせ。保険料が極めて高いことで知られる。脳天杭打ちやバックドロップなど、受け身の取れない荒技を受け、頚椎や脊髄損傷が致死傷となって命を奪われることが多い。

 プロレスラー死者列伝-永遠のヒーロー達

https://www.youtube.com/watch?v=L_VovXRpaxs

 2. モータースポーツ(カーレーサー)

 亡くなった方々・・・高橋徹、館信吾、小河等、川合稔、横山崇、風戸裕、萩原光、
             中村雅晴など

小河等選手の死亡事故 https://www.youtube.com/watch?v=gAxXRgCntlQ

横山崇の死亡事故 https://www.youtube.com/watch?v=DKc7fLrDSdw

 こちらは常に死の危険が付き纏う。時速300キロを超える超音速世界で生と死の狭間で恐怖心と戦い、スピードと限界を競う命懸けのスポーツだ。ステアリング裁きを間違えただけで命取りとなる。コースアウトして壁に突っ込んで大破したり、衝突の弾みでカートが炎上し、焼死するケースも少なくない。悪魔と死神に見いだされたレーサーがなんと多かったことか。

 3. バイクレーサー

 亡くなった方々・・・高井幾次郎、富沢祥也、前田淳、小関英吾、永井康友、若井伸之、
            加藤大治郎など

 https://www.youtube.com/watch?v=af4XD5WFq8E

  https://www.youtube.com/watch?v=GTE2xWTsVkU

 追悼 若井伸之 https://www.youtube.com/watch?v=8DACEA_tWdk

 富沢祥也 事故死場面(閲覧注意) https://www.youtube.com/watch?v=zusygOXT7vE

 https://www.youtube.com/watch?v=pAyyXjNTylM

 このレースもまた熾烈を極める。ライダースーツだけの無防備の状況で時速300キロ前後でサーキット場を疾走する。少しのトラブルで死に直結する。転倒の衝撃や後続に跳ねられたり、コントロールを失い、タイヤバリアに突っ込んだり、首の骨を折るケースが多い。

 ケニーロバーツと高井幾次郎の伝説のレース

 https://www.youtube.com/watch?v=Zc10vQBoSi4

 若き天才ライダーだった「ノリック」こと阿部典史選手も交通事故で夭逝した。

 https://www.youtube.com/watch?v=43GTnoIsNWY

 4. 競馬の騎手

 亡くなった方々・・・石井正善、目時重男、大柳英雄、竹本貴志、千島武司、谷岡敏行、
            玉ノ井健志、岡潤一郎、小野定夫、茂木光男、斎藤仁作、佐藤隆、
            増井光子、矢倉義勇、横山靖など

 https://www.youtube.com/watch?v=qoaJ68b3G8Q

 こちらは落馬による転倒や後続の馬に蹴られたことが致命傷となることが多い。高速走行時の骨折による落馬事故は、騎手が前のめりに頭から地面に叩きつけられるため、打ち所が悪いと死亡する。サラブレッドの場合、時速100キロ近い速度で疾走するため、生身の人間が放り出されたらひとたまりもない。落馬が原因で、再起不能に陥り、引退を余儀なくされた天才ジョッキーも数多くいる。

 5.競輪選手

 亡くなった方々・・・内田慶、中垣輝光、成島勇、福島昭亮、坂本照雄、服部雅春、東内典之など

 こちらもリンクを走行中に事故は起きる。プロの競輪選手のスピードは70キロを超える。そして大勢で競るため接触が多い。怖いのはバンクを走行する競輪用の自転車にはブレーキが付いていない。進路妨害では急ハンドルで避けるしか手はなく、しかも足先がペダルに固定されているため、転倒による落車は大きな衝撃を伴う。大抵は肩から落ちるため、鎖骨を骨折しやすい。また、接触の弾みでコースアウトし、ゴール脇の鉄柱に衝突して即死した選手もいる。

 内田慶選手の不慮の落車

 葬儀の模様 https://www.youtube.com/watch?v=CUkOeWzNt3w

 メモリアル映像 https://www.youtube.com/watch?v=00fb6vAE6QI

 6. オートレース

 亡くなった方々・・・浅井孝祐、橋本和美、坂井宏未など

 https://www.youtube.com/watch?v=Wl0efi_2QqQ

 https://www.youtube.com/watch?v=XuuC3koMAmg

 こちらの競技は、高速走行でリンクのようなサーキットを何台ものバイクで競り合う。周回を重ねるが、めまぐるしく先頭が入れ替わり、隙間を狙ってアプローチをかけるため、接触が多く、マシン同士の衝突もある、弾き飛ばされた弾みでコースアウトし壁に激突して亡くなる事故が多い。ファンに大人気だった坂井宏朱選手も、そうした事故で急逝した。

 7. 競艇選手

 亡くなった方々・・・坂谷真央、岩永高弘、木村厚子、中島康孝など

 こちらはコース上に設けられた障害やパイロンを巧みなコーナリングで最短距離でしかも高速で走り抜けるため、狭い隙間を狙って、多くの競艇ボートで競るため、接触やボート同士の衝突や転覆が多い。衝撃は大きく、頭など打ち所が悪いと死に繋がる危険なスポーツだ。女性のレーサーが多い。
  競技中ではないが、練習中の事故で亡くなった方に鈴木詔子選手がいる。

 8. ボクシング(プロボクサー)

 亡くなった方々・・・辻昌建、大雅アキラ、田中聖二、伊礼喜洋、グレート金山、小林信夫

 かつてプロボクシングは15回戦だった。12回を超えた頃から両者共に死力を尽くしてのファイトとなる。プロボクサーのパンチの威力は凄まじく、ヘビー級ともなれば、時速51キロでパンチの重さが400kg以上出ると言われている。そんなパンチがまともにヒットしたら、頭がい骨粉砕の重傷事故になるのは必然。それを15回まで打ち続ければ、急性硬膜下血腫などで試合後、容体が急変し、死亡するケースが多いのも頷ける。

 ちなみに、伝説の世界チャンピオンだった大場政夫は首都高で事故死した。また、「浪速のロッキー」として名を馳せた現・俳優の赤井英和は、何日もの間、生死の境を彷徨い、奇跡的に助かった。

 9. 野球

 亡くなった方々・・・久慈次郎、東門明

 久慈氏は四球で一塁へ歩く際に、捕手から二塁へ投げられた牽制球がこめかみを直撃し、そのまま倒れ、2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。

 東門明氏は、1972年の日米大学野球の際に、代打で登場、三遊間へのヒットで出塁する。1死後、藤波行雄の二塁ゴロの際、米国代表の遊撃手アラン・バニスターの併殺狙いの送球を頭部に受けて昏倒し、直ちに病院に搬送される。右側頭骨骨折による頭蓋内出血および脳挫傷と診断され、5日後の7月14日11時35分、19歳の若さで息を引き取った。

 10.補足

 競技中ではないが、現役で亡くなった日本人選手

 松田直樹(サッカー)・・・急性心筋梗塞 

 https://www.youtube.com/watch?v=Hqiy0rs2mD8

 https://www.youtube.com/watch?v=wsXQ1NlNvJM

 久保寺雄二(野球)・・・急性心不全 急逝を伝える記事はコチラ

 津田恒美(野球)・・・悪性脳腫瘍 https://www.youtube.com/watch?v=HbppXZYaGYk

 藤井将雄(野球)・・・肺がん https://www.youtube.com/watch?v=nUQdD1GFVNM

 小瀬浩之(野球)・・・キャンプ中の転落死

 https://www.youtube.com/watch?v=mjcZzA3KwtY

 剣晃(大相撲力士・元小結)・・・汎血球減少症による肺出血

 https://www.youtube.com/watch?v=SIKv0AqpMzk

 橋本真也(プロレスラー)・・・脳幹出血

 https://www.youtube.com/watch?v=m7UQu7ZSdBs

 ジャンボ鶴田(プロレスラー)・・・肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック死

https://www.youtube.com/watch?v=zcy6st6bDSs

 華やかなスポットライトを浴び、人生の晴れ舞台で、周囲のだれもが予想だにしないような突然の予期せぬアクシデントに見舞われ、その生涯を閉じた彼ら。それぞれが大好きなスポーツを全うしたのであれば、本人にとっては本望かもしれないが、残された遺族や友人は深い悲しみの縁に立たされる。強靭な肉体の鍛錬に余念がないほど励んでいたプロのアスリートでさえも、知らず知らず死期は迫っていたということになる。今回紹介した方々は、「太く短く生きた」面々かと思うが、自らが追い求めた人生を謳歌し、全うしたことで、彼らの生き様を瞼に焼き付けることができたし、彼らの命懸けで遺した功績は、伝説となって後世まで語り継がれていくことを願ってやまない。

 記事作成:9月16日(火)

2014年9月23日 (火)

「歴史ミステリー」セレクト10

 かつて「新説歴史ミステリー」というテレビ番組があった。教科書に載らないような歴史の闇にスポットを当てたり、裏話を取り上げて、様々な角度から検証し、新たな説を唱える物。これが実際に学会に発表して新説として認定するような類ではない。興味深い謎やミステリーのまま残す趣旨である。
 私も毎回、こうした奇々怪々な史実に疑問を投げかけるこの番組をある意味、興味を抱きながら視聴していた。その歴史ミステリーで、私が特に関心があった作品をランキング形式でお送りしたい。なお、映像埋め込み処理は5位までとし、6位以降は、アドレスのみ掲載したい。もちろん、そのアドレスをクリックすれば、動画サイトでご覧いただけます。

 1位 「源義経は生きていた?みちのく奥州藤原氏の野望」

 続編1 https://www.youtube.com/watch?v=M__nvvf9XyY

 2位 「新撰組・土方歳三はロシアで生きていた」

 3位 「戦国最大の謎!本能寺の変の黒幕は?」

 続編 https://www.youtube.com/watch?v=PgqxyCRmOJ0

 4位 「坂本龍馬暗殺の本当の理由」

 続編 https://www.youtube.com/watch?v=YQ4_-Ni96AM

 5位 「本能寺の変に消えた信長の遺体」

 6位 「邪馬台国・卑弥呼の墓は徳島にあった?」

https://www.youtube.com/watch?v=4EooUvJUZ9Y

 7位  「明智光秀は生きていた?」

https://www.youtube.com/watch?v=4mkh6PXzimY

 8位 「青森にイエスキリストの墓?」

https://www.youtube.com/watch?v=u8dZ7WOShOc

 9位 「遅れてきた傾奇者!?伊達政宗の真実!」

https://www.youtube.com/watch?v=duMSTBzm4Yc   

10位 「アポロは月に着陸していなかった?」

https://www.youtube.com/watch?v=6ru1iJG_VIg

続編 「アポロはやはり月に着陸していなかった?」

https://www.youtube.com/watch?v=mv8s7CpVDww

 ともすれば歴史が覆るような新事実が発見できそうなほど、説得力ある仮説だらけ。歴史浪漫とは、得てしてそういうもので、されど、これまで教科書に掲載されていたものが、新たな発見によって真実となったものがある。例えば私たちが、歴史の資料集で「足利尊氏」と信じてやまなかった騎馬武者は、単なる足軽だったということが明らかになった。このように歴史は次々明るみになる証拠によってめまぐるしく史実も変化する。これまでの通説は、仮説にもなり得る。
 ところで、私の祖父母の出は「会津」である。いやがおうでも「会津戊辰の役」の悲劇は、避けられない。私も白虎隊や幕末時代の会津人の生き方を誇りに思い、人生訓にしてきた部分がある。テレビで放送された幕末の動乱に関する映画やドラマを数多く見て来たし、何度も会津に足を運び、彼らの生き様に思いを馳せ、自分自身の生き方の手本としてきた。したがって、こうした歴史絵巻は人一倍興味を掻き立てられるし、勉強していたつもりだ。ゆえに、今回のランキングも幕末と戦国時代の出来事が多くなっている。
 もちろん私は歴史研究家ではないが、古の歴史浪漫に触れる時、常に新鮮な感覚で受け入れる覚悟と気構えがある。

 こうした歴史の流れを踏まえつつ、柔軟な発想と豊かなイマジネーションが歴史の闇にスポットを当て、新説を生む原動力になる。様々な角度から歴史を見て、史実にとらわれない研究姿勢こそが歴史研究に求められる条件のように思う。

 今日お送りした「歴史ミステリー」は、そうした史実に反する場合が多く、新たな発想を植え付ける上で一石を投じているのだ。

 記事作成:9月15日(月)

 

2014年9月20日 (土)

昔話⑨~発掘・郡山の昔の写真~

 このテーマの記事は、実に1年2ヶ月ぶりで、実に9回目となった。これまで様々な地元密着の話題を提供し、昔を回顧し、懐かしんでいただいてきた。本日は、以前にも似たような記事を書いてはいるが、その続編で、「郡山の今昔物語」を写真で振り返っていきたい。では、早速話を進めたい。

 明治生まれの祖父が亡くなって9年余り、彼が遺した写真や郡山市の昔を物語る資料が、生前使用していた書斎からわんさか出てきた。戦時中の様子や出征兵を見送るものから郡山の歴史を映し出したまで多種多彩あった。「郡山・田村写真集」の編集部が見たら、泣いて喜びそうなものばかりだ。しかし、当時の面影を偲ぶ一級資料であると同時に、故人の方々の姿や当時の服装や町並みの様子が数多く映し出されており、個人情報保護が厳しく叫ばれる今、果たして掲載して良いものかどうか不明のため、今回は差し障りのないものをセレクトして、ほんの一部をここで紹介したい。本日は、私が生まれた直後の昭和40年前後に撮影されたものを取り上げたい。なお、念のため断っておくが、本写真掲載には営利目的の意図は一切ない。あくまで個人の雑感を含めた懐かしい郷愁に浸って貰いたいという趣旨でお送りするものである。

 1 旧郡山郵便局(本町)

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 この写真は、左に大東相互銀行とその南西側を見下ろしたもの。よく見ると中央に横長に見える大きい建物は、実は朝日町に移転する前の郡山郵便局(本局)。その右手にはイトーヨーカドーが入っていたビルが見える。昭和50年頃、イトーヨーカードーは、「郡山ビューホテル」の東の向かい側にあった。薄ら覚えだが、2階建てくらいだったと思う。何せ昭和40年代の私が生まれた頃は、さくら通りが未舗装、西部自動車学校があった現在のイトーヨーカドー&ゼビオスポーツ前のうねめ通りは軍用道路と呼ばれ、とんでもない砂利道だった。そしてさくら通りと49号線の交差点から西側は道路は無く、田んぼしか無かった。自衛隊は町外れの田舎に佇んでいた。

 下の白黒写真は、昭和41年頃の郡山駅方面から開成山方面を望む

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 2 昭和30年代後期の国道4号線(富久山町八山田付近)

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 この写真は富久山町の国道4号線沿いを撮影したもの。「郡山・田村の100年」の写真集には49号線として紹介されているが、それは誤りで、これはれっきとした4号線。それが証拠に、真ん中の右側に、警察の検問所の建屋がある。これはかつてダイマツボウル(現在アピア)の前にあったもので、そこから北側の上り坂を撮影したものだ。坂の途中の右側には、現在「岩瀬書店」があり、日和田入り口の「ホテル万松」付近の松林を望むもので、49号線の安子が島付近の通称ジェットコースター道路と見間違えたようだが、そこにはこうした検問所など無い。

 3 市内本町付近から市街地を望む

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 画像の中央やや上にある、屋上に展望台らしきものが見える大きなビルは「第2うすい」だ。その右側には津野デパートもある。昭和40年頃の写真で、この頃にカラー画像が残っているのは珍しい。

 4 開成山公園にあった鳥類園

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 現在、開成山公園内の五十鈴湖にかかる赤い橋、その北側一円にあった大きな鉄かご状の檻が「鳥類園」。私は3歳くらいの頃(昭和42年)に今は亡き祖父に連れられて来た。記憶にはないが、ちゃっかり写真が残っていた。市民の憩いのスペースだったようだ。もちろんその後、老朽化と安全対策のために撤去され、代わって北東側にバラ園が創設され、開園した。開成山公園は桜の名所としても知られ、さくら通り沿いの土手の上は、仲里依紗が主演した、映画「時をかける少女」のロケ地として有名。あまりにも広大な公園に、訪れた方々は一様に驚くことだろう。平成10年代までは真夏の祭典として花火大会が行われる会場だった。今はその場所を、郡山南IC近くの「カルチャーパーク」に移してしまった。

 5 郡山駅前の朝の風景

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 昭和40年頃に撮影した西口駅前の様子。雑然としていて、バスプールとタクシーの待合いスペースが混在していた。この状況は駅前が整備される平成10年頃まで続いた。

 郡山駅前の昔の写真

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 私は駅周辺が庭のようなものなので、郡山駅の駅舎はもちろん、西口の駅前の変遷はすべて承知している。今は亡き父親とこの改札を潜り、7時49分発の「ひばり1号」に乗って何度、東京旅行に出発したかしれない。駅前のロータリーにあった白い親子像も覚えている。細長い円状の白色のモニュメントもあったが、駅前開発で撤去され、一時、旧星総合病院の前に移設されたが、その後、どこに行ったのかはわからない。また、駅前大通りに架っていた巨大アーチと中央分離帯の植え込みは今でも覚えている。うねめ祭りのシーズンになると、ここに赤い提灯が鮮やかに並んだ。ところで、小学校の時は、よく放課後に友人と何度も駅前周辺に遊びに出向いたものだ。山の井、うすい、丸光は、昭和40年代には子供の遊び場だった。アーケードも賑わっていた。アーケード内でヤクザの抗争による拳銃発砲事件があって、「東北のシカゴ」などというレッテルを貼られたのもこの頃だ。
 また、住んでいた方には申し訳ないが、駅の東側は、工場群と火葬場しかなかった印象。こちらは「ザイ」と呼ばれていた。

 追記(H26/9/23)

 ところで、本ブログのご当地テーマの折りに、ことごとく取り上げてきて、その都度懸案となっていた、郡山駅西口前にあった「(郡山)中央スケートリンク」の所在地について判明したので追記します。秋分の日に、麓山の中央図書館の2Fを訪れ、書庫から昭和45年、50年、55年の郡山の住宅地図3冊を見せてもらい、判明しました。やはり現在のビッグアイの西向かいで間違いなかった。駅前のペデストリアンデッキの歩道橋の近くにある「日の出通り」の角から北側50mの場所なので、今の「住友生命郡山ビル」にあったことが判明。昭和45年の地図では、日の出通り入口から北側に向かって「小山寝具」、「カワギン青果市場」、「三浦材木店」が並んでいて、その隣の建物の中にスケートリンクあった。その北隣りが「東北製氷」で、そのまた隣りが「岩山材木店」(後に岩山幸太郎商店)、その隣りには、現在のタワーPがあり、細い道路を挟んだ、現在の「うねめ代行」がある「スカイパーク」には、当時は「東部ガス」のどでかいガスタンクがあった。
 さらにその5年後の昭和50年頃の地図では、「三浦材木店」の南隣りは駐車場、「三浦材木店」の北隣りに「中央スケートリンク」があって、その北側の隣りは「セキスイハウス郡山展示場」となっていた。「中央スケートリンク」の裏側の西手には、通りを挟んで昔の「郡山テアトル」がった。

下の地図をクリックすると拡大表示します。

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 6 第2うすいの店内の様子

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 昭和40年代に、郡山市内にあった百貨店といえば「うすい」と駅前通りに鎮座していた「丸光デパート」、そして4号線の北東角地にあった「津野百貨店(デパート)」だった。その中で、老舗の「うすい」は県内初のエレベータを備え、7階にはレストランがあった。母親と買い物に訪れ、ここでお子様ランチを食べるのが楽しみだった。エレベーターは中町通り側(北西側)と一番奥の南東側に2機あった。エスカレーターは片方向ずつだけで、上の階に上るには、いったんそのフロアの売り場を回って乗らなければならず、階が上がるにつれてエレベーターの幅も狭くなっていた。そしてエスカレーターは5階までしかなかった。フロアの床は木目調だったし、箪笥の消臭剤のような独特の匂いがした。5階くらいに本屋があって、その一角に切手を売るコーナーがあった。丸光もうすいも地下に食品売り場があって、ラーメンや試食コーナーで友人とたむろしていた。また、丸光の6階のおもちゃ売り場や屋上の遊園地も遊び場だった。

    トミヤ百貨店の観覧車と丸光デパートの屋上遊園地

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 人物が写っているため、縮小して掲載しました。

 7 郡山公会堂と図書館、児童文化会館、市民会館

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 麓山に今も聳える郡山市公会堂。スペインの世界遺産、コルドバ大聖堂にそっくり。今も現役で、催し物が開かれる。何を隠そう、私の亡き祖母の葬儀告別式はここで行った。その隣には巨大な公民館があったが、東日本大震災で壊滅的な被害を受け、取り壊され、現在再建設中。この公会堂の東側にあった2階建ての細長い建物は、かつての郡山図書館。今は「こども図書館」として使われている。ここが手狭となって道路を挟んだ向かい側の麓山公園の角地に移転した。移転先には児童文化会館(右側の写真)があった。2階建てで、工作展示室を隣りに併設していた。また、天体観測ができる銀色のドームも兼ね備え、2階部分には、宇宙科学気分を満喫できる、電動可動式の月面模型やロケットオブジェなどが並んでいた。しかし、ここも内環状線沿いの開成に移転した。未だに「白雪姫と七人の小人像」の破壊事件が記憶に残っている。心無い何者かがその像を損壊したのだが、おそらくその犯人は今も捕まっていないはず。子供の夢を壊す許しがたい事件だった。

 8 平屋が並ぶ旧希望ヶ丘団地

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 私の亡き祖父母は晩年に希望ヶ丘団地の先の大徳という場所に居を構えていたため、時々前を通った場所。現在は高層団地と化したが、昭和50年代までは、百軒長屋のように戸別の一軒家が所狭しと立ち並んでいた。写真の手前は希望ヶ丘幼稚園。その前の三叉路は時差式信号だった。今は無くなったアーデンにはよく買い物に行った。多種多彩な店が商店街のように立ち並んでいた。ちょうど駅前にあった「山乃井」のように。また、小山田方面に行く通りには来来亭(らいらいてい)という美味しい中華料理屋と先崎内科胃腸科医院があった。

 9 郡山消防署と併設していた郡山警察署(国道4号線沿い)

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 4号線沿いの堂前&清水台の付近にあった警察署。かつてはここがメインの警察署で、南側に火の見やぐらを備えた消防署があった。その裏手は金透小学校。四角柱のような形と、外見が幾何学模様のような独特の外壁だった。幼少の頃、悪いことをすると、よくここに連れて行くぞと言って両親に咎められたものだ。

 下は消防署前の国道4号線の風景(昭和40年頃)

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 右上にあるのが「第2うすい」の展望台。中央やや上部のビルは「日本生命」。うすいのやや左側に観覧車の見えるビルは、第1うすいの南隣にあった「トミヤ百貨店」。

10 浄土松公園と旧三森峠トンネル

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 昭和40年頃に撮影した、浄土松公園の「きのこ岩」の写真と、同じ頃に開通した三森峠トンネルと、山頂付近から見下ろした急カーブが連続する峠道。これも貴重な写真。今は震災の影響が大きく、きのこ岩も崩落し、立ち入り禁止になっていて、岩に登ることは叶わない。さらに、三森峠も新道とトンネルが完成し、通行止めとなった。山頂のトンネルの真上には、ここで発掘された縄文土器を残そうと、その時代の住居を再現した学習施設を築いたが、今では過去の遺物と化してしまった。

11 レジャー施設(磐光グランドホテル&パラダイス、郡山レジャーセンター)

 
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 磐梯熱海町にあった大規模娯楽施設の「磐光パラダイス」。金粉ショーが売りだった。エスカレーターを昇った3Fにお座敷の舞台ホールがあって、そこで大物歌手がステージで公演した。また東隣りには高層ホテルの「磐光グランドホテル」があった。昭和44年2月に火災に遭い、31名という多くの人命が失われた。
 「郡山レジャーセンター」は1967年3月に安積町の国道4号線沿いにオープンした遊戯施設。動物園や遊園地、ヘルスセンターを兼ね備えていた。或る写真集ではここを「郡山レジャーランド」と記載しているが、これも誤り。センターが正しい。現に私が数回訪れているので間違う筈がない。熱帯雨林のような屋内の造りに、万国旗が天井から四方八方に装飾されていた。また、屋外には植物園やミニ動物園があって、象が人気だった。また、園内に遊具があり、回転する飛行機や園内を一周するトレインの乗り物などがあった。ここでも痛ましい事故が起きた。昭和49年11月4日に羆にお菓子を与えようとした小4の女の子がクマに腕を食いちぎられたのだ。私と同い年だったので、他人事ではなかった。この事故以来、客足が遠のき、ここは閉園となった。今の「迎賓館グランプラス」がある場所にあった。

12 さくら通り周辺

 昭和30年代後半の頃のさくら通り

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 まだ舗装されていない。現在よりも幅が広く、高いビルは皆無。右には私がよく買い物に訪れる老舗の酒屋さんがある。

 昭和40年代初期の頃のさくら通り

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 懐かしい柳の並木が連なる。この写真は虎丸町を駅方向から開成山方面に向かって撮影したもの。左上には日東紡績第二工場の屋根が見える。右上の大きなビルは、1階が「青山製麺所」で、2階から上はマンションの住居部分だった。その裏手には旧安積女子高校の校舎が見える。

 ザベリオ小学校(中学校・幼稚園併設)

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 現在のホテルハマツは、昭和60年頃までは「ザベリオ小学校」だった。西隣りに中等部を併設していた。裏手の東南角地には「ザベリオ幼稚園」があった。私の姉はここの卒園者だ。さくら通りに面しているため、校庭がやたら狭かった印象がある。

 さくら通りはこの半世紀の中でもっとも変貌した通りだ。駅まで一直線の目抜き通りだけに、交通の要衝である。私の実家も虎丸町にあったが、駅まで歩いて15分という利便性の良さだった。

 さて、今日の記事はいかがでしたか。50歳以上の方には懐かしかったのではないでしょうか。 私の亡き祖父は、市会議員を2期務め、長らく市の役員を務めるなど市の発展に貢献した。その一方で、カメラも趣味としていたため、郡山市内の様々な場所を記録写真として撮り収めていた。その関係で、祖父のアルバムには多数の昔の郡山の姿を残した写真が数多く収蔵されていて、その幾つかを市に提供した。それが市のガイドブックや観光案内にも使われているのだ。今日お送りしたのはほんの一部で、まだまだ貴重な写真がわんさかある。取捨選択して、誰が見てもわかりやすい場所を取り上げて行きたい。写真が集まって、編集が整い次第続編を作成してアップしたいと思います。それまでお楽しみに。

 なお、幾ら探しても見つからないのが「郡山レジャーセンター」と「磐光パラダイス」の建物の外観と施設内部の写真で、どなたかお持ちの方がいればお知らせ願えれば幸いです。古き佳き時代の郡山の姿を後世に残していくことを趣旨として掲載したいと考えています。

 記事作成:9月14日(日)

 関連ブログ 「郡山の魅力再発見!⑥~郡山の今昔物語~」

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-9245.html

 

2014年9月18日 (木)

CMに見える商品のイメージ戦略

 「またこの話題か・・・」とお叱りを受けそうだが、またまたCM関連の話題で恐縮する事然りだ。これまでもずいぶん数多くこの手の話題に触れてきたが、どうもCM制作側のコンセプトからして、商品をどうすれば消費者の記憶に植えつけさせることができるのか。販売戦略にもあの手この手のノウハウが存在する。中には、大した商品や製品ではないのに、CMイメージ先行で、買わないと損する印象や持っているだけでステータスになるような爆発的な流行で売れ線となる例もあるようだ。その戦略のひとつがキャッチコピーだったり、専用のCMソングによる名調子のフレーズだったりする。こうしたイメージアップ作戦は、商品名を消費者に覚えてもらうために、企業側の依頼で、高い広告費をつぎ込んで行う販売促進型の商法でもある。ではこれまで、お決まりのフレーズや、この節回しを聞けば、自ずと商品名が出てくる、そんな売上増に成功したCMを取り上げていきたい。ぜひ皆さんも当てていただきたい。

 1 「さ~らりとした~」と言えば   答え 「梅酒~」

 2 「やめらない止まらない」と言えば   答え 「カルビー、かっぱえびせん」 

 3 「リンスのいらない」 と言えば    答え 「メリット」

 4 「それにつけても」 と言えば    答え 「おやつはカール」

 5 「ゴホン」 と言えば    答え 「龍角散」

 6 「元気ハツラツ」「~は小さな巨人です」 と言えば    答え 「オロナミンC」 

 7 「ファイト~一発!」 と言えば    答え 「リポビタンD」 

 8 「鷲のマーク」 と言えば    答え 「大正製薬」

 9 「らっぱのマーク」 と言えば    答え 「正露丸」

10 「イケイケGO!GO!湖池屋」 と言えば    答え 「ポテチチップス」

11 「咳・声・のどに」 と言えば    答え 「浅田飴」

12 「幸せの~青い雲~」 と言えば    答え 「青雲」

13 「あなたの風邪はどこから」 と言えば    答え 「僕は喉から」(ベンザエース)

14 「イオンサプライ」 と言えば    答え 「ポカリスエット」

15 「Make It Possible」 と言えば    答え 「 With Canon」

16 「いいことあるぞ~」 と言えば    答え 「ミスタードーナツ」

17 「お金で買えない価値がある」 と言えば    答え 「MasterCard」

18 「いつかは」 と言えば    答え 「クラウン」

19 「丸~い緑の山手線」 と言えば    答え 「カメラはヨドバシカメラ」

20 「ブル~ダ~イヤ」 と言えば    答え 「金・銀・パール、プレゼント」

21 「伊東に行くなら」 と言えば    答え 「ハトヤ」

22 「100人乗っても大丈夫」 と言えば    答え 「イナバ物置」

23 「Inspire The Next」 と言えば    答え 「HITACHI」

24 「目の付け所が」 と言えば    答え 「シャープでしょ」

25 「ん~マズイ、もう一杯!」 と言えば    答え 「青汁」

26 「痔には」 と言えば   答え 「ボラギノ~ル」

27 「金鳥の夏」と言えば   答え 「日本の夏」

28 「少し愛して」 と言えば    答え 「長~く愛して」 (サントリーRED)

29 「お口の恋人」 と言えば    答え 「ロッテ」

30 「ありがとう」 と言えば    答え 「いい~薬です」 (太田胃酸)

31 「セブンイレブン」 と言えば    答え 「いい~気分」

32 「コクがあるのに」 と言えば    答え 「キレがある」 (スーパードライ)

33 「Hungry?」 と言えば    答え 「カップヌードル」

34 「当たり前田の」 と言えば    答え 「クラッカー」

35 「お正月を写そう」 と言えば    答え 「フジカラー」

36 「ココロも満タンに」 と言えば    答え 「コ・ス・モ、石油」 

37 「チョッコレート。チョッコレート。」 と言えば    答え 「チョコレートは明治」

38 「~の半分は優しさでできています」 と言えば    答え 「バファリン」

39 「スカッとさわやか」 と言えば    答え 「コカ・コーラ」

40 「お、値段以上」 と言えば    答え 「ニトリ」

41 「ロート、ロート、ロート」 と言えば   答え 「ロート製薬」

42 「すぐおいしい、すごくおいしい」 と言えば   答え 「チキンラーメン」

43 「おせちもいいけど」 と言えば   答え 「カレーもね」 (ククレカレー)

44 「i'm lovin' it」 と言えば   答え 「マクドナルド」

45 「Drive Your Dreams.」 と言えば   答え 「TOYOTA」

46 「インテル」 と言えば   答え 「入ってる」

47 「The Power of the Dreams」 と言えば   答え 「HONDA」

48 「Leading innovation」 と言えば   答え 「東芝」

49 「Changes for the Better」 と言えば   答え 「三菱電機」

50 「すべてはお客様のうまいのために」 と言えば   答え 「アサヒビール」

 今日は日本の産業をリードする大企業を中心にお送りしたが、企業を知ってもらうためだったり、何かと連想付けて商品名を覚えてもらうための戦略のひとつがこの広告媒体や宣伝効果を狙った各企業のCMイメージアップ作戦だ。節回しやロゴなどで注目を浴びる工夫が随所に散りばめられている。年間数億円も費やしてこうしたPR合戦を繰り広げている。やはりCMで放送している会社はメジャーで、商品もまがい物がない間違いないトップブランドと言う印象を受ける。それだけに、各社とも販売促進を願い多種多様、あの手この手での戦略を日々実践しているのである。

 記事作成:9月8日(月)

2014年9月12日 (金)

11日は災害・大事故の特異日?

 ニュースがない日は無い。ニュースは時代や社会を映す鏡の役目を果たし、たいていの場合は良いニュースより悪いニュースばかりで、その大半は悲惨な事件や甚大な事故の報道だ。そんなニュースを時系列で遡り、紐解いて日付を探れば、どういう因果か「11日」に悪い出来事が集中していることが判明した。語呂合わせでは「いい(良い)日」なのに、奇怪にも大規模災害や大事件、大事故がどれほど多く発生していることか。今日はそんな世にも不思議な偶然を検証したい。

 まず、この記事を書いている今日は9月11日。そう、もうおわかりだろう。2001年の同日に発生した「アメリカ同時多発テロ」から13年が経過した。アメリカ国民にとってこの日は生涯忘れない特別な日となった。私自身もそうだった。13年前の今日、夜中の11時過ぎに、ふとテレビをつけると、突然にニュース映像が中継画面に切り替わり、ただならぬ異様な状況が飛び込み、画面に釘付けとなった。それは、「ワールドトレードセンター」のツインタワーの片方から黒煙が立ち上っている絵だった。すぐさま「タワーリングインフェルノ」を思い出し、超高層ビル火災かと考えた。するとほどなく旅客機がその画面にフレームインしたと思った次の瞬間、もう片方のビルめがけて突入したではないか?我が目を疑った。一体何が起きたのか理解できなかった。映画の特撮映像か?あたかも悪夢を見ているようだった。テロリストたちによって旅客機が乗っ取られ、乗客もろともビルに突っ込む自爆テロ行為。一瞬にして爆発し、ビルはオレンジの炎に包まれた。このテロにより、このビルで働く多くの人々の命が失われ、まるでだるま落としのようにビルは一直線に崩壊した。この国家を揺るがす非常事態は、ニューヨークだけでとどまらず、アメリカ国防省(ペンタゴン)にも別の旅客機が突っ込み、炎上する事件が起きた。これが俗に言う「アメリカ同時多発テロ」で、ウサマ・ビン・ラディン氏を首謀とする国際テロ組織、アルカイダの仕業だった。

 また、日本でも11日に纏わる大規模自然災害が起きた事は周知のところだ。
 2011年3月11日、14時26分に発生した「東日本大震災」では、2万人近い人々が地震や大津波によって死亡、あるいは行方不明となった。日本では経験したことが無いような「マグニチュード9.0」という巨大地震に加え、太平洋のプレートが三箇所ずれ込むことで、巨大津波を引き起こした。高さ20mを越える大津波に、沿岸部は壊滅状態。陸前高田市や旧志津川町の南三陸町は街自体が消えた。大勢の市民が犠牲となり、未だ発見されない行方不明者が多数いる。
 また、津波で全電源を喪失した福島第一原子力発電所では、制御不能の危機的状況に陥り、1号機と3号機が水素爆発。建て屋もろとも吹っ飛び、メルトダウンによって放射性物質が拡散。「レベル7」という、我が国最悪の重大事故を招いた。半径30km以内は立ち入り禁止。数万人規模で避難を余儀なくされたのだった。

 この2つだけ見ても11日は不吉で、大規模災害や多くの方の命が失われるような大事件や大事故をもたらす特異日なのかと考えてしまうが、この数字が表す意味は、思いも寄らぬほど重く厳しいものだった。

 ではその根拠として、これまでに「11日」に発生した大きな出来事を列挙したい。

1855年 (11月11日) 安政の大地震 M6.9 死者4300人以上
1899年 (10月11日) 第二次ボーア戦争が始まる
1905年(9月11日)佐世保弾薬倉庫爆発事故339人死亡
1914年 (8月11日) 第一次世界大戦: フランスがオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告。
1935年 (7月11日) 静岡地震。静岡市・清水市などで死傷者9299人。
1939年(5月11日)ノモハン事件
1940年(11月11日)休戦日吹雪144人死亡。
1941年 (12月11日) 第二次世界大戦: ドイツ・イタリアがアメリカ合衆国に宣戦布告。
1942年(5月11日)大洋丸沈没1300人死亡。
1942年 (10月11日) 第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: サボ島沖海戦
1951年(2月11日)居昌事件(子供を含む719人が虐殺される。
1953年(5月11日)ワコトルネード発生144人。
1955年(4月11日)カシミールプリンセス号爆破事件16人死亡。
1955年(5月11日)第三宇高丸沈没168人死亡。
1955年(6月11日)ルマン災害83人死亡
1962年(1月11日)ワスカラン・ペルー地滑り(4000人死亡)
1965年(4月11日)バームサンデー竜巻発生271人死亡。
1966年(3月11日)菊冨士ホテル火災30名死亡。
1968年(9月11日)エールフランス1611便火災墜落事故95人死亡
1970年(5月11日)ラバックトルネード発生26人死亡。
1973年(7月11日)ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故124名死亡
1977年(8月11日)山梨県観光バス転落11人死亡
1979年(7月11日)日本坂トンネル火災事故7人死亡焼失車両173台
1980年(10月11日)アルジェリア大地震発生2万人以上死亡。
1981年 (6月11日) イラン・ゴルバフ地方でマグニチュード6.7の地震。死者約8000人。
1982年 (11月11日) デスブログの創始者誕生
1985年(5月11日)英国ブラッドフォード・サッカー場火災50人以上死亡。
1986年(2月11日)伊豆半島のホテル大東館火災で24名死亡。
1987年(10月11日)タミル市民殺害
1988年 (8月11日) テロ組織アルカイダ結成。
1991年(7月11日)ノリス・エアチャーター便DC8墜落事故261人全員死亡
1994年(4月11日)ルワンダの学校襲撃。2000名のうち大半が虐殺。
1994年 (12月11日) 第一次チェチェン紛争勃発。
1995年 (7月11日) 7.11水害。新潟県上越地方・長野県北信地方で集中豪雨が発生。
1996年(4月11日)池袋駅構内大学生殺人事件
1996年(5月11日)エベレスト大量遭難事件8人死亡
1997年 (3月11日) 茨城県東海村の動燃再処理施設で爆発事故。労働者37人が低レベルの放射線に被曝。
1998年(1月11日)シディー大虐殺(103人殺害)
1998年(12月11日)エアバスA310墜落事故101人死亡
2000年 (9月11日) 濃尾地方で集中豪雨(東海豪雨)発生。名古屋市周辺を中心に甚大な被害。
2000年 (11月11日)オーストリアケーブルカー火災事故。トンネル内の火災で155人が死亡。スキー合宿中の日本人中学生も巻き込まれた。
2001年 (9月11日) アメリカ同時多発テロ事件。
2003年(8月11日)パリ熱波144人死亡
2004年 (3月11日) スペイン・マドリードで通勤列車が連続爆破テロ。死者199人。
2005年(12月11日)イギリスバンスフィールド油槽所火災43人死亡。
2006年(7月11日)ムンバイ列車爆破事件209名死亡
2007年(4月11日)アルジェリア爆破事件33人死亡。
2009年 (1月11日) インドネシアのカリマンタン島沖で地元フェリーが沈没。死者100名以上。
2009年(3月11日)ヴィネンデン銃乱射事件16人死亡。
2009年 (8月11日) 静岡沖地震 M6.5
2011年 (3月11日) 東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震発生。
2012年(4月11日)史上最大規模の「横ずれ型」M8.7地震がインドネシアのスマトラ島沖で発生。
2012年(7月11日)九州北部豪雨発生27人死亡
2012年(8月11日)イラン北西部地震306人死亡
2012年(9月11日)リビア領事館襲撃事件米大使を含む4名死亡

 これだけ11日に事件や事故が集中している事実を単なる偶然と捉えるか?確率的には約30分の1。なのにこの数の多さは何なのか?神からの無言の警告なのだろうか。「そんなのどうでもいいじゃないか」と無碍に扱い、軽く片付けてしまって大丈夫だろうか?

 11日ではないが阪神淡路大震災もまた1.17(1月17日)と11に纏わる。

 また、これも奇妙な一致だが、「通り魔事件」は6月と9月に多く発生している。

 池田小学校児童殺傷事件(宅間守)・・・2001年6月8日発生

 秋葉原通り魔事件(加藤智大)・・・2008年6月8日発生

 6月8日は不吉な事件が多く、フォークランド紛争が起きたのもこの日だし、日本海軍が誇る軍艦「陸奥」が原因不明の火災で沈没したのもこの日だ。したがって、もし、東海地方で長年危惧されている南海トラフ大地震が起きるとしたら、この日をおいて他にないと思っている。

 また、同じ6月に発生した「深川通り魔事件」(川俣軍司)は6月17日だった。

https://www.youtube.com/watch?v=Ozc7CnmQL3w

 9月に起きた「通り魔事件」は、「池袋通り魔事件」、「下関通り魔事件」、「吹田市通り魔事件」がそうだ。

 最近は、常識ない犯罪者によって何の罪も無い善良な一般人が犯罪に巻き込まれ命を絶たれる事件が相次いでいる。あってはならない残忍な事件。見ず知らずの人間に、たまたまそこに居合わせただけで命を奪われることがあっていいものか。だとしたら神など本当にいりのか。正しい行いをしている人間が鬼畜のような悪魔に命を絶たれるのだ。この世に神など存在しないとさえ思える。それが運命だとしたらなんと不釣合いなことか。今回の内閣改造で法務大臣が谷垣氏から女性閣僚に代わった。えてして女性は命の尊厳を重んじるため、死刑執行命令書に判を押さない懸念がある。死刑判決が出たものは、残忍な方法で複数の人間の命を奪った極悪非道の悪党だ。死刑囚として判決確定後、数十年も命を長らえているのは不平等以外の何者でもない。被害者は突然に命を奪われ、その後人生を全うできなかった未練だけが残る。遺族の悲しみと犯人に対する憎しみはいかばかりかと察するに余りある。殺人行為は断罪するしかないのだ。生きながらえて重い十字架を背負わせ、罪を償わせるという考えが現在の法規だが、殺された人間に対して、どう罪を償えるというのか。死んだ人間は二度と帰ってこない。人を殺した人間に更正の機会を与えるという考えは根底から間違っている。被害者の氏名を明らかにし、殺人者のプライバシーは明かされないというマスコミ報道にも疑問符が付く。殺人者に人権など無に等しい。複数の命を奪わなければ死刑に相当しないという永山基準は悪の慣例にすぎない。裁判官が死刑を宣告するのが怖がっているだけだろう。鬼畜のような振る舞いには、法令を遵守し、死刑確定後、半年以内に速やかに執行してもらいたい。そうでなければ、悪戯に大臣自身が法令を軽視していることになるし、死刑囚が増え続けるだけだ。冤罪の疑いがある場合を除き、本人が罪を認め、確定死刑囚の身にあるものは、食事のために国民の血税をつぎ込むような「特別扱い」はやめてもらいたいものだ。法務大臣や裁判官、刑務官になった以上は、その職責を全うしてもらいたいものだ。

 終盤はやや焦点がブレたが、今日のテーマに掲げた「11日」が、もし犯罪や事件、自然災害が発生する特異日だとしたら、私たちは過去の出来事を、自らの戒めとし、二度と同じ過ちを犯さないように教訓とするべきだと思う。

 記事作成:9月11日(木)
 

 

2014年9月10日 (水)

五輪金メダル獲得の感動場面

 スポーツは筋書きがないドラマ。だから人々に強烈な記憶と深い感動を与える。かつて日本人アスリートと外国人選手とは体格差、体力差が相当あり、日本人が表彰台の真ん中に立つなどとは夢のまた夢であった。しかし、日本人の特徴を最大限に引き出した科学トレーニングの導入と、メンタルおよびフィジカル両面でのトレーナー技術の向上により、日本人でも種目によっては、十分金メダルを獲得できるようになったのは周知のところである。そこで今日は、日本中に感動を巻き起こした金メダル獲得レースをランキング形式で振り返りたい。しかし、この順位はあくまで私個人の趣向によるものであることを前置きしておきたい。なお、決定的瞬間をとらえた撮影者の著作権に配慮し、映像の埋め込み処理は行わず、アドレスのみを掲載いたします。

 1位 「体操日本復活陽はまた昇る金」(アテネ五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=YxheBA8YwIo

https://www.youtube.com/watch?v=PEr0Wgbm24s

https://www.youtube.com/watch?v=HimXEf7NGyo

 2位 「岩崎恭子、14歳の奇跡」(バルセロナ五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=NiU-2PX-pko

 3位 「女子マラソン高橋尚子」(シドニー五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=niBArGoVWv4

 4位 「天才・野村忠宏、前人未到の五輪3連覇」(アトランタ・シドニー・アテネ)

https://www.youtube.com/watch?v=x4eImu6plgQ

 5位 「北島康介オリンピック2連覇」(アテネ・北京五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=CIIQBm4dUxo

 6位 「日の丸飛行隊表彰台独占」(札幌五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=Jj0yHShdQHo

 7位 「鈴木大地、作戦で勝ち取った金」(ソウル五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=G7ZDqQ5Iaw8

 8位 「鉄腕上野由岐子、悲願の金メダル」(北京五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=mZyBTaPwoVE

 9位 「清水宏保、地元で最高の滑り」(長野五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=4KNMSwMBRaA

10位 「里谷多英、亡き父に捧げるモーグル金」(長野五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=qocIRz-8kdw

11位 「内村航平、男子総合金」(ロンドン五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=bLUoIzUj-x0

12位 「荻原健司、男子複合団体連覇」(アルベールビル・リレハンメル五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=UKJhElbh544

12位 「具志堅幸司、個人総合金」(ロサンゼルス五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=gW2iNVjb70s

13位 「荒川静香魅せるイナヴァウアー」

https://www.youtube.com/watch?v=8g0ghQMLORI

14位 「長野五輪、ジャンプ男子団体悲願の金」(長野五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=7rtuOyEypDo

15位 「羽生結弦」(ソチ五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=5iaopaTH-1A

16位 「船木和喜、ノーマルヒルを制す」(長野五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=xTLT75SXoqI

17位 「東洋の魔女」(東京五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=wDZ1Rt-P798

18位 「山下泰裕、脚を引きずっての涙の金メダル」(ロサンゼルス五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=nJEnEfQnzXM

19位 「塚原光男の月面宙返り降り」(ミュンヘン五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=duAo3fMMR6g

20位 「塚田真希、大逆転の抑え込み」(アテネ五輪)

https://www.youtube.com/watch?v=12-eo6DwaWY

 さて、いかがでしたか。懐かしい映像やテレビの前で手に汗握って声援を送っていた自分を思い出したのではないでしょうか。スポーツは筋書きのないドラマ。「事実は小説より奇なり」という表現があるが、それはスポーツのためにあるような言葉だ。どのような展開になって、どのような結末を迎えるのか、それは神のみぞ知る領域だ。一所懸命練習を積み重ねて得られた栄冠だけに、感激も一入だろうが、それを観戦する視聴者もまたそれを実感し、感動を覚え、駆け引きなしの声援を送れるのである。さて、次のオリンピックは2年後の2016年。再びロンドン五輪のような、日本中が大熱狂するような素晴らしいプレイ、パフォーマンスを見せてくれ、私たちを魅了してくれることを願ってやまない。

 記事作成:8月8日(月)~8月27日(水)

2014年9月 8日 (月)

商都・郡山の過当競争

 郡山市は福島県の中央に位置し、交通の要衝として古くから奥州街道の宿場町として栄えた。今も国道4号線と49号線、東北自動車道と磐越自動車道が交差。「JR郡山駅」は5つの路線(東北新幹線・東北本線・磐越西線・磐越東線・水郡線)が乗り入れる主要停車駅として、人の出入りや往来が激しく、物流や流通も盛んな土地柄である。したがって、商業が発展し、多くの商店街があり、昭和50年頃を目処に多くの百貨店(丸光・丸井)やスーパー(西友・ダイエー・イトーヨーカドー)の進出が相次いだ。既存だった「うすい」や「津野」、「トキワスーパー」、「ヨークベニマル」も含めると熾烈な集客合戦となったのは言うまでもない。逆に進出したはいいが、加熱する値引き合戦や過当競争に敗れ、撤退する企業・店舗も相次いだ。「ダイエー(後のトポス)」、「丸井」、「丸光」、「津野」、「西友(後の西武)」、「ライオンドー(後のリオンドール)」、「サンショー」、「いげたストア」は今はもう無いし、「庄司デンキ(後の「電激倉庫」)」、「そうご電器」、「第一家電」、「ISEYAデンキ」なども尻尾を巻いて撤退していった。言葉は悪いが、当地・郡山では「負け組」となってしまった。
 

 そんな中、大小乱立し、未だに過激な顧客獲得合戦を繰り広げている業界や業種がある。今回はそれらを取り上げ、存続のために頑張っている企業、店舗にエールを送りたい。

 <メガネ販売業界>

 メガネトップ、弐萬圓堂、眼鏡市場、メガネセンター、メガネプラザ、オンデーズ、JINS、郡山眼鏡院、めがねのパリミキ、めがねのトミタ、金美堂

 価格破壊を実践する「激安ショップ」の進出やネット販売により、既存のメガネ屋さんは経営危機に陥っている。特に長年お世話になっている、県内に本社を持つ「メガネセンター」は、いつ訪れても閑古鳥が鳴いているので心配。また、20代~30代の頃に、私がお世話になった内環状線沿いにあった「金美堂」は移転し、規模も縮小傾向。郡山駅前(フロンティア通り)にあった「メガネスーパー」も撤退してしまった。
 郡山市内では、会津街道沿いと八山田地区にメガネ屋さんが乱立している。半径500m以内にパリミキ、眼鏡市場、弐萬圓堂が壮絶バトルを繰り広げているが、日本人にとってメガネは生活の必需品ではあるものの、一度購入すれば、数年間は使い続けるため、売り上げが急伸するような商品ではない。したがって存続できるか否かは、アイディアと販売戦略が大事だろうと容易に察しがつく。

 <ケータイショップ>

 ドコモ 8店舗、au 9店舗、ソフトバンク 8店舗(タウンページ掲載分で、家電量販店を除く)

 1990年代、一方通行だったポケベルから、相互通話が可能となった通信革命以降、携帯電話とシェアを二分していたPHS業界は、もはや風前の灯だ。私もKDDIポケットに始まり、ムーバ、FOMAと移行した。遅まきながら、今秋にスマホに切り替え、タブレッドと二刀流になる見込み。

 <コンビニ>

 セブンイレブン、ファミリーマート、ヤマザキデイリー、ローソン、セーブオン、ココストア、ミニストップ

 「ハローショップ」は衰退。、「HOT SPAR」は「ココストア」に転換され、完全に姿を消した。「セブンイレブン」はなんと郡山市内だけで76店舗もある。ひとり勝ちの様相。

 <ファミレス>

 びっくりドンキー、まるまつ、ビッグボーイ、デニーズ、サイゼリア、ココス、ガスト、夢庵、ロイヤルホスト、オニオン&トマト、安楽亭、羅布乃瑠 沙羅英慕など

 郡山はやたら飲食店が多く、凌ぎを削っている。駅前周辺は居酒屋メインだが、新さくら通り沿い、内環状線&東部幹線沿いにはハンバーガーショップやコンビにとともに飲食店が多く立ち並んでいる。緑町(内環状線交差点)のデニーズは、改築され、おしゃれに生まれ変わった。一方で市内で少なくなったのは喫茶店だ。中心市街地はめっきり減った。「四季」、「Cafe de Cafe」、「開成館」は今も健在。

 <家電量販店>

 コジマ、ヤマダ電機(2店舗)、ケーズデンキ(2店舗)、ヨドバシカメラ

 前述した「庄司デンキ」(電激倉庫)は咲田と安積町に2店舗あった。、いせやデンキは現在の備前舘のトライアルと静町の街道沿いにあった。また、「第一家電」は長者の「インテリアダイイチ」があった建物と日和田のオリエントパーク内にある現在の「ダイソー」にあった。
  「YESそうご電器」は、朝日町のゲオ・」リサイクルショップ「DOKIDOKI」にあった。今は、日和田のイオン(旧ジャスコ)内にあるが規模縮小。よつば電機と郡山に2店舗あったデンコードー(日和田の現ケーズと安積町の現HARD OFF)はケーズデンキに買収された。
コジマは、最盛期には郡山に複数店舗(富田町の49号線沿いカワチ手前と図景店)を構えたが、今では国道4号線と49号線の交差点にある図景店のみ。昔、ホテルハマツの西隣りにあった「A電気」も、開成に移転し、頑張って営業を続けている。

 <ガソリンスタンド> 

 この業界も浮き沈みが激しい。郡山の中心市街地にあったGSはことごとく姿を消した。特にひどいのは「さくら通り」沿いで、虎丸町にあったコスモ石油(旧丸善)、郡山二中の向かいにあった昭和シェル(朴)、長者町の安積黎明の西隣りにあったカメイ、内環状線との交差点にあったGS、開成山の49号線の交差点の東側にあったモービル石油も潰れた。ニコニコこども館の隣りの出光スタンドは最近閉店した。つまり、さくら通り沿いにはガソリンスタンドが一軒も無くなるという異常事態となった。
 また、神明通りや深沢通り(酒蓋)にあったGSも今は無く、西の内の「マクドナルド」の斜め向いで頑張っていたスタンドも潰れ、今では駐車場になっている。4号線や49号線沿いには数多くのGSがあるが、中心市街地はこぞって廃業に追い込まれた。コンビニもそうだが、建物の構造を見れば、以前ここはGSだったというのが一目瞭然だ。

 <ホームセンター>

 ビバホーム、カインズホーム、ダイユーエイト、ジョイフル山新

 ビバホームは安積店と喜久田店をたたみ、今では桑野店、大槻針生店、横塚店の3店舗。緑ヶ丘団地へ向かう美術館通りにある「ビバホーム横塚店」は、完全閉店となる。

 
 カンセキ(新さくら通り店と国道49号線沿い)、郡山警察署西隣りにあったジャンボエンチョー(旧名ユニデン)は撤退、コメリとケイヨーD2は店舗を縮小した。コメリは極端に少なくなった。昔は市内に10店舗近く点在してあったが、現在は数店のみ。ケイヨーは現在のTSUTAYA桑野店にあったが、現在は安積店のみ。
 

 <パチンコ>

 ニラク、ガイア、アラジン、TSUBAME、マルハン、Max301、ダイナム、ジャンボ、パーラージョイクラブ、スロットゴリラ

 かつて郡山で栄華を誇ったパチンコTOYO、大番パチンコは無い。それにしても郡山はレジャーと娯楽の町。国道沿いやバイパス沿いなどあちこちに点在し、石を投げればパチンコ屋に当たるような過当競争ぶりである。やはりいつの時代も「娯楽の王様」らしい。

 <紳士服>

 ゼビオメンズ、洋服の青山、AOKI、コナカ

 「ゼビー」はゼビオに統一、柴宮の4号バイパス沿いにあった「はるやま」は撤退した。

 <婦人服・子供服・カジュアル>

 しまむら、西松屋、シャンブル、Avai、サンキ、SUZUYA、ユニクロ、GU、ライトオン、アメリカ屋

 「あかちゃん本舗(郡山インター向かい)」と「ベビーマム(インター線沿い)」は潰れてしまった。また、複合商業施設ビル(モルティ/ザ・モール郡山/サンシティ/アティ郡山/イオンなど)のブティックや小物雑貨を扱う店を交え争奪戦は激しい。生き残れるのか心配してしまう。

 <小売スーパー>

 スーパー鎌倉屋、ヨークベニマル、ブイチェーン、ザ・ビッグ、シミズストア、ザ・モール郡山

 トキワスーパー、赤トリ井、マルエー、サンショー、いげたストア、リオンドールはもう無い。ベニマルの圧勝。イトーヨーカドーは昔、郡山ビューホテルの東の向かい側(秋田銀行の南隣り)にあった。
 「ザ・ビッグ」は喜久田に建設中。その向かい側に「震災復興住宅団地」が建設中で、その需要が見込める。しかし、その北隣りには既存の「ブイチェーン」があり、喧嘩を売るような真似である。喜久田(会津)街道沿いは、ヨークタウン八山田店、ブイチェーンと合わせ、熾烈な生き残り合戦が展開されるのは必至。
 また、シミズストアの250円弁当はありがたい。郡山には、咲田と田村工業団地に2店舗ある。また、老舗のベニマルが幅を利かせ、市内のあちこちに「ヨークタウン」と称する一大複合型ショッピングセンターを建設し、牛耳っている。市内の北西部には、半径1km以内に3店舗(片平・小山田・希望ヶ丘)が近接し、更には大きな横塚店があるのに、小原田店との間に方八町店を移転改築し、それぞれ凌ぎを削っている。

 <ドラッグストア>

 ツルハ、マツモトキヨシ、カワチ薬品、山口薬品、カメ薬品、ドラッグセイムス、くすりのシブヤ、ウェルシア

 この業界も競争が激しい。大型ドラッグストアが乱立している。特にカワチとツルハは見境ないほど新店舗をぞくぞくオープンさせている。カワチは5店舗、ツルハは13店舗とここ5年で一気に拡張し、急伸展した。

 <薬局>

 フジ薬局、アイランド薬局、アイン薬局、クォール薬局、げんじろう調剤薬局、郡山調剤薬局、コスモ調剤薬局、さくら薬局、スマイル調剤薬局、ミッテル調剤薬局、みどり調剤薬局

 かつては大病院はもちろん、医院や診療所で薬をもらったものだが、今では完全分業制で、医師は患者を診察し、診断を下し、処方箋を渡すだけ。患者は病院に隣接する薬局に足を運び、薬を購入しなければならなくなった。実に煩わしい。しかし、民間のドラッグストアでも薬剤師が常駐する店舗では、購入可能になった。

 <カーショップ>

 JIMS、オートバックス、タイヤ館、タイヤガーデン、Fujiコーポレーション、イエローハット、タイヤ倶楽部郡山

 ドライバーズスタンド(桑野)、オートバックス島店、オートチェッカー(朝日町)、グランドスラム(インター線)などは潰れた。

 <教習所>

 西部自動車学校、昭和ドライバーズカレッジ、郡山自動車学校、富久山自動車学校、中央総合自動車学校

 郡山市は人口33万人。震災で避難し、やや減少傾向が見られたが、歯止めがかかっている。しかし、少子化に伴い、免許人口も減っているのに、教習所を5つ構えているのは珍しい。したがって、予約がとれない首都圏の方々が、短期合宿で教習を受けに来るケースが多い。以前、そうした合宿免許で施設に宿泊していた他県出身者が、喧嘩から傷害致死に発展する事件が起きた。市内富久山町の旧国道沿いにあるアパートが現場となった。

http://www.oshimaland.co.jp/?p=6yivferj

 <地元菓子>

 柏屋、三万石、よしだや、フルーツショップ青木(AOKI)

 柏屋名物は「薄皮饅頭」。最近では「檸檬」も美味。開成山の向かい側のさくら通り沿いにあった。今もあるが、当時は工場という印象だった。確か巨大な三春駒のオブジェがあったように思う。
 一方の三万石は駅前のアーケード入口(丸光デパート脇)に店があった。売りは「ままどおる」だが、「エキソンパイ」も捨てがたい。三万石は昔、「三万石不二屋」という名称だった。しかしペコちゃんでお馴染みの「不二家」と混同されやすいために、今の名称になった。
 大とら焼きでお馴染みの「よしだや」も本町、若葉町などあちこちにあったが、店舗規模を縮小した。

 洋菓子の「松風堂」(清水台)、「東京萬」(虎丸)、きんつばで有名だった「大野屋」も潰れてしまった。今は大福で有名な「丹波屋」、インター線沿いの「菓子舗愛宕屋」、大槻町の「大竹屋菓子店」、開成山の「源平団子」で有名な「旅館源平」、本町の「大黒屋」などは辛うじて生き残っている。

 さて、今日の記事はいかがでしたか。生粋の郡山っ子だからこそ、郡山の商業事情やウラ事情にも明るいのだ。そして、郡山を訪れたビジネスマンや引っ越して来た方々が、口を揃えて言うのは、郡山は「ラーメン店」と「パチンコ店」、それに「ホテル」が多いことだ。ホテルが多いのは、宿場町だった歴史や交通事情から理解できるが、ほかの2つは意外だが、「なるほど、言われてみれば確かに・・・」という節もある。
 しかしながら、今まであった店舗が無くなったり、潰れたりするのは残念で仕方ない。このままでは共倒れでになるのではないかと不安材料が増える一方だし、中心市街地が空洞化し、周辺ばかりが賑わうスプロール化が懸念される。そして、昔から馴染みだった老舗店が次々姿を消し、全国展開のチェーン店や中央資本に駆逐され、自然淘汰されていくのは実に忍びない。もうドリフのコントに出てくるような商店街はめっきり少なくなってしまった。

 最後に、無くなってしまった店で、私が特に残念に感じたお店をランキング形式で紹介し、結びとしたい。

 1位 創夢館(並木町) 現在この一帯は再開発のため更地
 2位 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(桑野・アメリカ村アーク内)ウェスタン調。
 3位 アルペン(桜木町・郡山5中東側うねめ通り沿い)内環沿いのヴィクトリアも消えた。
 4位 見聞録(桑野・うめね通り沿い)
 5位 飛行船(郵便局近く・横塚東部幹線沿い・安積町4号線沿い)何度もデートで使った。
 6位 ビデオフォーラム(内環状線沿い)倉庫のような内装がおしゃれで2階建てだった。
 7位 蟹の甲羅(内環状線沿い)
 8位 サンマルク(郡山インター線沿い)喫茶も備えたおしゃれなパン工房だった。
 9位 ユアファクトリー(郡山駅東口) ホームセンターで屋上が駐車場だった。
10位 ぽえむハウス(並木町のマクドナルド隣り)

11位 Cake & Cafe  1024(備前舘)今はケータイショップ。
12位 ビデオボーイ(清水台・桑野)→私は一度もレンタルしたことはない。
13位 BLUE HOUSE(中町)→輸入雑貨やオリジナルデザインが豊富だった。
14位 カラオケヒットスタジオ(富田庭球場前)
15位 東北書店(駅前アーケード内)
16位 角海老(中町・現郡山ビューホテルアネックス)
17位 新星堂(中町ホテルプリシード内)
18位 おもちゃのピノキオ(中町)
19位 お好み焼きのおのざわ(虎丸町)
20位  メンズCAPA&五味田(桑野・アメリカ村アーク内) 

 関連ブログ

 「今は無き郡山の建物・店」

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-9843.html

 「商業激戦都市事情 in 郡山」

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/in-8e2c.html

 記事作成:8月21日(木)

2014年9月 6日 (土)

福島県の謎めいたスポット(偉人たちの足跡)

 これまで幾度となくご当地ネタを、このブログにて掲載してきたが、今回、私もあまり知らなかった事実を紹介したい。それは歴史にその名を轟かす、かの有名な人物の墓が、意外や意外にも、ここ福島県に点在しているというのだ。墓所だけでなく、ミステリースポットに匹敵しそうな風変わりかつ意味ありげな場所まで存在する。この秋の行楽の参考にしていただきたくてしたためてみた。合計で20か所あります。ではさっそくどうぞ!

 1 新撰組組長・近藤勇の墓

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 幕末時代に活躍した新撰組。徳川幕府の最後の砦として、京都守護職に就いた会津藩お抱えの実働見廻り組として、討幕派の金狼の獅子たちに敢然と立ち向かった彼ら。腕に覚えのある剣士が集い、ひたすら剣術を磨き、厳しい戒律と鉄の掟で同志らを粛正。血なまぐさい政変の世にあってその存在を轟かせ、歴史に名を刻んだ。その隊士は沖田総司、土方歳三など錚々たる面子だが、その豪傑たちを束ねたのが誰あろう、組長・近藤勇だった。彼は、最後まで倒幕派の薩長連合(西軍)と徹底抗戦に挑んだ他の隊士とは異なり、敵の軍門にくだり、やがて板橋で処刑され、その首は極悪人としてさらしものとなったが、その後、その遺骨は分骨された。その遺骨の一部が会津若松市の飯盛山と嶺続きの慶山という地名にある天寧寺に埋葬されてある。私はこれまでに2度訪れ、お参りしている。

 参考ブログ http://www.aizukanko.com/spot/207/

 2 歌舞伎や人形浄瑠璃になった人肉を貪り喰う「鬼婆伝説」(安達ケ原黒塚)

 そこはあまりにも哀れな悲話があったミステリースポットとして全国に知れ渡っている。

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 昔、京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母がおり、姫を手塩にかけて育てていた。
その姫が重い病気にかかったので易者にきいてみると「妊婦の生き肝をのませれば治る」ということだった。そこで岩手は生き肝を求めて旅に出ることにした。しかし、妊婦の生き肝などたやすく手にはいるはずもなく、いつしか安達ケ原の岩屋まで足をのばしていた。木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に、生駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきた。その夜ふけ、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走った。
 この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝をとったが、恋衣は苦しい息の下から「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとった。
ふとみると、恋衣はお守り袋を携えている。それは見覚えのあるお守り袋であった。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのである。気付いた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化した。
   以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたった。
   数年後、知らずに宿を求めた紀州熊野の僧・東光坊が岩屋の秘密を知るところとなり逃げたが、鬼婆はすさまじい形相で追いかけてくる。東光坊はこれまでと、如意輪観音が入った笈(おい)をおろし祈願すると、観音像が空高く舞い上がって一大光明を放ち、白真弓(白木のマユミで作った弓)で鬼婆を討ち取ったという。
    鬼婆は阿武隈川のほど近くに埋められ、塚は、その昔から「黒塚」と呼ばれている。

 *「安達ケ原・鬼婆伝説について」 より抜粋させていただきました。実際に私が訪れた旅行記は下をクリックしてご覧ください。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-bc62.html

 3  心霊マニアの聖地「翁島ペンション・横向ロッジ」

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  どちらも猪苗代町にあるが、直線距離で20km離れている。ここは全国の心霊スポットの最上位にランクされている、真夏の肝試しのメッカとなってしまっている。そこで実際に事件があったとは、どこにも記録されていないが、噂が噂を呼び、今では最怖の心霊スポットとして有名になった。呪われたくないので、詳しくは、私が昨夏に訪れた旅行記をご覧ください。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-1e87.html

 4 UFO目撃情報多数 ピラミッド形の千貫森

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 私は今年6月に強行訪問した。「TVチャンピオン」や「サタふく」などで度々取り上げられる珍名所である。地元は真面目に「UFOで町おこし」を敢行している。UFOふるさと館の3Dは必見の価値あり。CIAの極秘文書も展示されてあって、UFOの謎や神秘を十二分に味わえるし、千貫山の山頂の展望台に登れば、いかにもUFOを目撃しそうな雰囲気がある。「ふるさと館」にはなんと日帰り入浴までできてしまう施設がある。多くの芸能人も取材がてら訪れていて、サインが多数陳列してある。また。町中にUFOを象った珍しいオブジェが点在しており、それらを発見するのも一興。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-9fdf.html

 5 富士山が見える北限の山(麓山)

 二本松市の旧:東和町と旧:岩代町の境界に位置する端整な円錐形をした山容の独立峰。ハヤマは羽山とも書く。富士山の見える北限の山として知られる。三角点のある山頂の露岩部には羽山神社が祀られており古くから地元の信仰の対象となっていたことがうかがえる。また山頂は小広く独立峰という山容を活かしてパラグライダーのテイクオフエリアが造られており、天気のよい日はパラグライダーを楽しむ人々をよく見かける。山麓は牧場やリンゴ畑やサクランボ畑が広がる果樹園となっており地元に多くの恵みをもたらしている。
参考ブログ http://yamayama.jp/towahayama/towahayama.htm

 6 原発事故で企画変更を余儀なくされたDASH村

 今年、長年に渡ってTOKIOと一緒に汗水垂らし農業指導にあたってこられた三瓶昭雄さんが亡くなられた。しかし、この番組に出演したことで、豊かな晩年が過ごせたと思っている。かつて「天才たけしの元気が出るテレビ」で常葉町在住だった「エンペラー吉田」というご老人がいた。もうすでに鬼籍に入られたが、興奮すると入れ歯が外れるキャラで大人気を博した。彼もまたひどい訛りで「偉ぐなくとも正しぐ生ぎる」という名言を残した。吉田さんもテレビで注目されなかったら、変わり映えのない老後を過ごし、人知れず亡くなっていた身の上だったと思う。ふとした弾みで脚光を浴びる。これもまた運命の悪戯なのだろう。

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 残念ながら、福島第一原発事故により、浪江町にあったDASH村は避難指定区域となり、そこでの撮影は不可能になった。代わって登場したのが、同時並行で放送していた「DASH海岸」と新たに始まった「DASH島」。いずれも環境問題や無人島でのサバイバル生活で自給自足はできるのかをテーマにしている。福島県人としては、再びTOKIOが当地に集結し、撮影再開となることを願ってやまない。

 7 戊辰戦争で儚く散った英霊を祀る白虎隊士と二本松少年隊士の墓

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 どちらも会津戊辰戦争の激戦地となった会津藩と二本松藩において、勇猛果敢に戦い、若くして敵の砲弾に倒れた勇ましき隊士たち。その年齢はいずれも10代であった。ぜひ壮絶な歴史に触れ、志半ばで戦場に散った若き英霊たちを弔い、供養していただきたい。

 詳しくは私が訪れた旅行記をどうぞ

  会津白虎隊 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-1559.html

  二本松少年隊 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-bc62.html

 

 8 「独眼竜正宗」が勢力を拡大のために攻め落とした城の数々

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  戦記に登場する有名人といえば、他にも戦国時代に活躍した「伊達政宗」がいる。俗に言う「独眼竜正宗」である。米沢藩の戦国大名として、東北一円に勢力を伸ばし、我が福島県に点在する城を立て続けに攻め落とした。小浜や二本松、黒川城などである。私は昨年の秋に、彼の足跡を追って人取橋の古戦場跡や実際に彼が落城させた城を見て歩いた。

  小浜城・宮森城址 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e2bd.html

 

 9 伊達政宗「八百人なで斬り」の現場 「死霊が蠢く山・小手森城」

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 ここは今でも訪れるべきではなかったと悔やんでいる心霊スポット。ここで戦国時代に大量殺戮があった。世にいう若き日の伊達政宗による「八百人なで斬り」である。二本松城主に父親を殺された伊達政宗が逆鱗。大激怒のあまり、小手の森城を総攻撃し、城に立てこもった兵士だけでなく、農民など婦女子供、犬猫の家畜も含め皆殺しにして復讐を果たした事件。私は、迷いながらも、歴史に触れるため当地を訪れ、慰霊登山した。しかし、やはり怨念は500年以上経った今も拭えず、その後、二か月間に渡って、両脚肉離れの怪我に冒された。死霊が眠る神聖な場所に足を踏み入れた報いだと思っている。その時の模様はコチラ。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-9fdf.html

 10 絶世の世界三大美女「小野小町」生誕の地?

 これも俄かには信じがたい話。小野小町と言えば、クレオパトラ、楊貴妃と並び「世界三大美女」として有名(まぁ小野小町の名を世界中の人が認識している筈はないが・・・)だが、出生は「秋田美人」としてその名が通るほどの美人の産地「秋田県」であることは周知のところ。だが、福島県には小野町というのが阿武隈山系に面した場所にあって、「小野つながりのやらせ」ともいうべき、生誕の地がここだと主張しているのだ。では小野町の公式HPの記載をどうぞ!

http://www.town.ono.fukushima.jp/soshiki/3/onono-komachi.html

http://www.town.ono.fukushima.jp/soshiki/13/history-onomachi.html

http://www.fukutabi.net/fuku/ono.html

 謎だらけ、いや、というよりも訝し気だし、眉唾っぽい。無理やりこじつけも甚だしい印象。

小野小町については、出生や生誕の謎だけでなく、その墓までもが謎だらけ。全国各地に小野小町の墓が多数点在している。いくつかは根も葉もないこじつけと察しが付く。もしかしすると分骨(髪の毛の一部とか指の骨とか)したという話なら理解も得られるが、真相は定かではない。ひょっとすると町おこしのための苦し紛れの作り話かもしれない。同じような話は日本国内にあり、宮城県大崎市や茨城県土浦市、栃木県岩舟町、鳥取県伯耆町、京都市左京区静市市原町、更には山口県下関市、我が福島県喜多方市にも塚がある。それぞれそこが本家と言って憚らない。

 私は小野町にはあまり行く用事がないが、機会があったら真相究明のため訪れてみたい。

 参考ブログ http://bqspot.web.fc2.com/takasato.html

 宮城県大崎市 http://komatide.web.fc2.com/gazo/miyagi/bohi.html
 茨城県土浦市 
 http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/page/A0487.html

 栃木県岩舟町 http://iwafune.shokokai-tochigi.or.jp/kankou_komachi.shtml
 

 京都市左京区静市市原町 http://www.e-kyoto.net/rekisi/84
 
 鳥取県伯耆町 http://www.houki-town.jp/new2/5/3/15/
 山口県下関市 http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/ono/komati1.html
 喜多方市高郷町 
 http://www.jalan.net/kankou/070000/071700/spt_07406af2170128180/

 11 静御前終焉の地

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 これも眉唾っぽい話。時は鎌倉時代。源頼朝の怒りを買い、実弟である牛若丸こと源義経が実兄頼朝の討伐の命により、命からがら都を追われ、家来の弁慶ら側近を伴って奥州へ落ち延びたのは事実。もちろん、最有力な史実では、平泉で藤原氏のまさかの裏切りに遭い、自刃して無念の死を遂げたことは知られている。
 しかし、それは影武者で、本物の義経は、変装して津軽海峡を渡り、蝦夷地に逃げたという逸話が残る。それが証拠に、北海道には義経に纏わる伝説が数多く残っている。たとえば平取村にある「義経神社」、そして道南の日本海側には「弁慶岬」や「刀掛け岩」、積丹半島の神威岬には義経がここから大陸に渡り、チンギスハンになったという話まである。こちらも真相は神秘のベールに包まれた謎である。
 しかしながら、平泉で追っ手の刺客に討たれたのせよ、その道中で我が福島県(岩代)を通ったかもしれないのだ。もちろん、追われる身の人間が、その足跡を残す筈が無く、証拠は何一つない。有力説は日本海ルートらしいのだが、郡山は昔、奥州街道の宿場町として知られていた。一宿一飯を当地で過ごしたことも十分あり得る。しかも、頼朝によって義経との愛息を殺された静御前は、深く傷つき、側近を伴って都を脱出。夫・義経を追って、当地に脚を運んだとの記録がある。そして郡山の地に滞在中、平泉で義経が討たれたことを知り、静御前は悲観して郡山の西部にある池(その後、美女池と命名)に身を投げ、その生涯と閉じたとの言い伝えまである。さらには、彼女の名に因んだ市内静町には、悲劇のヒロインとなった彼女を憐れんだ地元の住民が建立したとされる「静御前堂」という建物まである。

 静御前堂例大祭の模様はコチラ https://www.youtube.com/watch?v=ETIlXHJrmEU

 歴史ミステリー「義経の謎」 

 https://www.youtube.com/watch?v=GBfTjvZYnsc

 https://www.youtube.com/watch?v=M__nvvf9XyY

 12 木版画界の巨匠・斉藤清

 1907年 福島県河沼郡会津坂下町生まれ。独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に見せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。勲四等瑞宝章、文化功労者。1997年に福島県柳津町に「斎藤清美術館」が完成。その年の11月に90歳で死去した。夫妻の墓は会津坂下町「光明寺」にある。

 参考ブログ http://7iis.web.fc2.com/page011.html

 13 赤穂浪士・堀部安兵衛の供養塔と両親の墓

 江戸時代の「忠臣蔵」と言えば、「大石内蔵助」を筆頭家老とし、四十七士が歴史にその名を残す赤穂藩の忠義の家臣。城主・浅野内匠頭が、江戸城「松の廊下」で吉良上野介を刃傷に及び、即日切腹。その亡き君主の敵討ちとして吉良邸討ち入りで本懐を遂げた実話である。その一番弟子とも言うべき剣腕が立つ英傑と言えば堀部安兵衛だが、彼は越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。しかし、どうしたことか、福島県の史実では、父の新発田藩士中山安太郎夫妻が知る辺を頼って坂下に移り住み、寛文10年(1670年)に生まれたという。
幼名は安之助、5歳の時に母が亡くなり、父も天和2年(1682年)に亡くなった。詳しいことは、下記をご覧ください。

 参考ブログ http://7iis.web.fc2.com/page011.html

 14 水墨画家の「雪村」が晩年を過ごした活動拠点

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 郡山市と三春町の境にあたる西田町の一角に、水墨画の大家「雪村」が晩年に住まいとして使い、創作活動に勤しんだ「雪村庵」がある。ここは竹林の森を切り開いたかのようにひっそりと小屋が佇んでいる。静寂で街の喧騒を離れ、書に打ち込むには最適な場所。私は通勤として都合9年間も毎日この前を往復した。枝垂桜の名所としても知られるこの場所は、三春滝桜と並び、旅行誌のグラビアを飾ることも少なくない。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-e5fa.html

 15 奥の細道で松尾芭蕉が旅した街道

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 芭蕉は江戸時代に、曾良を伴って旧奥州街道を北上し、旅をしながらその土地で俳句にまとめ、「奥の細道」を完成させた偉人である。もちろん、我が福島県もその旅の途上で立ち寄っている。県内では白河の関から飯坂温泉まで旅し、道中、守山、安積山、二本松、文知摺観音に立ち寄ったようだが、特に須賀川市には長期滞在し、その周辺の地区にある名所を句に詠んだ。乙字が滝には彼と曾良の像がある。

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 16 東京五輪銅メダリスト、悲劇のランナー円谷幸吉生家と墓

 
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 1964年に開催された「東京オリンピック」。その男子マラソンで無名だった円谷幸吉が3位の銅メダルを獲得したことが皮肉にも悲劇の始まりでもあった。この快挙で日本中が熱狂し、次のメキシコ五輪では、金メダルの大本命との期待がかかり、彼はその重圧に苦しむこととなる。そして怪我から思うように走れない焦りが、やがて彼を自殺に追い込んだ。私は彼を尊敬してやまない一人だ。彼を偲んで、昨冬に彼の生家と墓参りを実施した。そして親族の厚意で須賀川文化センターの一角に設けられた「円谷幸吉メモリアルホール」で彼の遺品の品々を目の当たりにし、彼への想いや理解を深めて来た。彼が死の間際にしたためた家族宛の直筆の遺書は涙無くしては読めないものだった。その時の旅行記は下をクリックしてご覧ください。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-3151.html

 17 千円札の肖像 Dr. 野口の生家

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 野口英世と言えば世界中にその名を知られるほどの偉人。黄熱病研究の第一人者として知られ、南米やアフリカ各地でその研究に没頭した細菌学者。ガーナで自らも感染し、51歳で死去した。彼は福島県猪苗代町出身。幼少の頃、貧しい農家だった自宅の囲炉裏で火傷を負い、左手に大きな障害をきたす。彼の茅葺屋根の生家は今も郷里の猪苗代町に保存され、記念館として多くの資料が残されている。彼の亡骸はアメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されている。今では千円札の肖像画に描かれるほど、日本を代表する人物として崇められている。

 18 ミニ清水寺?人知れずひっそり佇む左下観音

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 こんな凄い建造物が会津にあったなんて驚き以外の何物でもなかった。まるで京都・清水寺のミニチュア版。私は会津に1年間住み、更に、これまで幾度も会津周辺は旅行で訪れ、「自称・会津通」を自負していた。しかし、よもや人里離れた奥地に、これほどの威容を誇る歴史的遺産があるとは思わなかった。今年5月に実際訪れたが、観光客はゼロ。おそらく地元(会津美里町)の人しか知らないであろうスポットである。観光案内の標識もない寂れた場所に「左下(さくだり)観音」は実在した。私が訪問したのは土曜日の朝8時過ぎだったが、30分ほどの滞在中、誰一人として訪れた観光客はいなかった。

 実際に私が訪れた時の模様はコチラ↓

 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4925.html

 私がこの記事をしたためた途端、この建造物が県の重要文化財に登録されることとなった。これでようやくアクセス道路も整備されることだろう。標識も少なく、寂しい山奥にひっそり佇んでいたので、ようやく日の目を浴びることとなった。

 それにしても私が記事に取り上げると、その場所が脚光を浴びるというジンクスは生きている。

 19 ウルトラマン・ゴジラ生みの親、円谷英二生誕の地

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 須賀川市と言えば、円谷幸吉と並ぶ二大ヒーローとして名高いのが「ウルトラマン」。なぜならウルトラシリーズやゴジラの生みの親であり、未知の特撮技術を開発した名監督・円谷英二の生まれ故郷がこの須賀川なのだ。よって彼の栄誉を称え、須賀川の町中のそこかしこには、ウルトラマンの銅像や看板、壁画などモニュメントが点在している。それを探すスタンプラリーまであるほどだ。もちろん隣町の玉川村にある「福島空港」にも、ウルトラマンの像が立ちはだかり、2F出発ロビーの展示広場にもイベント期間中は像があり、ちびっ子の人気の的となっている。お土産にもウルトラマンのせんべいや饅頭まで売られている。ウルトラマンで町おこしをしていると言って差し支えない。

 「須賀川市M78光の町」HPはコチラ http://m78-sukagawa.jp/

 「福島空港」のHPはコチラ http://www.fks-ab.co.jp/

 20 どうして白河にアウシュビッツ平和記念館?

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 「アウシュビッツ」と言えば、ナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺の舞台となった、オーストリアにある強制収容所。ここで罪なき数十万という群衆が、ガス室送りとなり、壮烈な死を遂げた、歴史上「負の遺産」とも呼ぶべき場所。その記念館が、なぜか遠く離れた日本の、白河市に存在する。
 昨年の夏(8/14)に私も訪ね、第二次世界大戦中に起きた悲劇について学び、平和の尊さを身に染みて感じた。両親が強制連行されている場面を子供が描いた絵や遺品、弾薬、毒物、防毒マスクや収容所の写真なども多数展示されていた。

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-c5dc.html

 余談 福島県にあるイギリス?「ブリティッシュヒルズ」

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 そこは日本に居ながらにして異国情緒満載の場所。羽鳥湖の西側の山麓に広がる英国。広い敷地に建つ建造物は、すべて英国風。しかもそこは日本でイギリス留学体験ができる。一歩敷地に入れば、英語を公用語として話さなければならない。中高を始め、毎年多彩な語学研修プログラムを用意し、国内留学施設として利用されている。

 公式HPはコチラ http://www.british-hills.co.jp/

 他には会津・柳津町にある「ツムジクラの滝」や日本のカッパドキア「浄土松公園(きのこ岩)」も隠れた観光スポットだと思う。

 さて、福島県内の隠れたプレイスポットもふんだんに盛り込んでみたが、いかがでしたか。福島=原発汚染の地というマイナスイメージはもう昔のことで、震災の記憶は決して忘れてはいけないが、私たち福島県民は、避難されている方を除けば、震災前と変わらない生活を取り戻している。ぜひ、秋の行楽シーズンは、「福島」を訪れてみませんか?ガイドブックには載らないような未知のスポットもある筈です。

 記事作成:平成26年8月初旬~18日(月)

2014年9月 5日 (金)

今は無き私が訪れた遊園地

 「東京五輪」の年に生まれた私にとって、私の小学生時代は高度経済成長の真っただ中で、経済情勢は飛ぶ鳥を落とす勢いがあった。それと同時に公害問題が深刻化し、光化学スモッグや多摩川の水質汚濁などを始め、全国的に公害病が蔓延した。そんな昭和40年代から50年代初めにかけて、私が亡き父親に、毎年のように東京見物や様々な観光地や行楽地、あるいは遊園地に連れて行って貰った。仕事が忙しい身の上ながら、よくぞあちこちに旅行に連れ出してくれたものだと感心する。そんな、幼少期に楽しませてもらった場所で、残念ながら、今では姿を消してしまったスポットを取り上げ、個人的に懐かしんでみたい。

 1 那須ロイヤルセンター

 東京ディズニーランドや那須ハイランドパークなどなかった時代に、福島交通グループが主体となって建てられた屋内型巨大アミューズメントパークが「那須ロイヤルセンター」だった。屋内ながら、縦横無尽に張り巡らせた水路をボートで回りながら、世界中の建造物や民族、音楽を旅できるアトラクションがあった。今で言う「It's a small world」と同じものだった。世界のショーが見られた。

 「ショー」の模様はコチラ https://www.youtube.com/watch?v=ByZwhAkGvxc

 「ブラボーロイヤル実況録音」 https://www.youtube.com/watch?v=j30NjAaN0cU

 2 「横浜ドリームランド」

 実はここには2回訪れている。一度目は小1くらいの頃。泊まりで訪れた。聳える大船観音。恐怖に怯えながら、モノレールかなにかに乗って入園したと思う。英国の兵隊さんの行進や門番で立っている場面を覚えている。そして一番印象に残っているのが、潜水艦だ。当時は、NTV系列放送で村野武徳と小林桂樹が出演した「日本沈没」というテレビドラマが流行し、そこに登場した「わだつみ号」と「ノーチラス号」がまさに潜水艦で、私はモーターで動くプラモデル模型も製作した。風呂で湯船に浮かべて走らせたものだ。その潜水艦は実際は水面から上部が出ているが、人が乗り込むのが船底のため、あたかも窓から見える光景は水の中で、模型で泳がない魚などが出迎えてくれた。この潜水艦の最大のハイライトは、洞窟を潜り抜けた先にある滝の中から現れる点。天井に叩きつける滝の音が響き渡り、子ども心ながら怖かった覚えがある。確か園内にある高層ホテルに宿泊したと思う。そこのロビーやホールで鬼ごっこをした記憶がある。赤いカーペットが敷き詰められていたように思う。その園内で書いてもらった似顔絵がずっと実家や祖父の家の寝室に飾られてあった。

 補足:「日本沈没」は大好きなドラマだった。主題歌の五木ひろしが歌った「「明日の愛」のレコードを持っていた。

 私は東京の遊園地では「後楽園遊園地(6~7回)」、「豊島園」(3回)に次いで多く訪れた場所だった。

 3 向ヶ丘遊園

 しょっちゅうテレビドラマや歌手のPV撮影などで使われ、都会っ子のオアシスとして楽しまれた。NTVドラマ「陽あたり良好!」(竹本孝之、伊藤さやか、木内みどり出演)で一度は訪れたかった。私が高3の夏に、大学受験を控え、一度だけ大学見学で小田急線に乗ってその前を通ったことがあった。生田にあった某大学を見学した際に、その向ヶ丘遊園駅を通った時に、大学生になって東京に住んだら、一度は彼女とデートしたい場所だった。正面ゲートを潜った先のカラフルな大階段がメインスポットだった。残念ながら肝心の彼女がいなかった私は、その役目を果たせず、ぼやぼやしているうちに、平成14年に廃園となった。おそらく30代以上の方は、ここでたくさんの想い出を作ったことでしょう。

 

 4 地元の遊園地・遊戯場

 ① 郡山レジャーセンター 

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 1967年5月に市内安積町に開園した娯楽施設。当時は郡山にそうした遊戯施設などなく、市民の憩いの場所となった。園内を周遊できるトレインや回転しながら飛び上がる飛行機遊具などがあり、また、ミニ動物園や屋内にはヘルスランド、ボウリング場などもあった。屋内は万国旗が天井からホールじゅうに張り巡らしてあって、ジャングルを彷彿させる熱帯植林のようなフロアもあった。私も、親に連れられ、3~4回は行ったと思う。
 しかし、開園から7年後の1974年11月4日に悲劇が起きた。屋外に設立された動物園で、檻の中にいたヒグマに餌を与えようとした、市内在住の小学4年生(10歳女児)が、腕を食いちぎられるという事故が起きたのだった。当時10歳ということは、私と全く同い年の同級学年だったと思われる。この事故以降、この遊園地への足が遠のいて、その後、赤字となり廃園となった。その後、その敷地はパークホテルとなり、今では結婚式場「迎賓館グランプラス」となっている。

 ② 郡山中央スケートリンク

 私が中学生の頃まであった。郡山駅の西口、今のスカイパークの南側(今の住友生命ビル)あたりにあった。入口は狭いが、中に入ると、縦長のスケート場が広がり、市民の娯楽に一役買った。階段で上がった2階から、スケートリンクが見渡せた。私は1~2度しか訪れたことがないので、寒かった印象しかない。残念ながら画像はどこにも残っていない。

 ③ 郡山スケートセンター(アミューズパーク)

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 郡山中央スケートリンクが潰れ、郡山市民の楽しみが減ったものの、東部幹線と国道49号線が交差する北側の阿武隈川沿いに昭和50年代中頃にオープンした。それも平成に入ると、採算が合わず、経営を断念。一時は屋内ゴーカート場になったし、屋外にはパターゴルフ場や釣堀ができて賑わった。震災時には動画サイトにここもアップされた。

https://www.youtube.com/watch?v=DwP5VLVonJ4

 ④ 郡山セントラルホール

 ここは郡山市安積町の国道4号線沿いにあった多目的催場。確か昔の「ジョイフル山新」があったマンションの東向かいで、中古車販売の「サンキョウ」の南隣りにあった。天井がやたら低く建物で、ここでは、プロレスやボクシングのタイトルマッチなども行われた。何を隠そう、小6の頃、地元出身の「小熊(大熊)正二」のプロボクシングのタイトルマッチを観に行ったが、それがテレビで全国放送された。惜しくも微妙な判定で敗れたが、熱気があったことを覚えている。また、親に連れられ、猪木が出場するプロレスも見た記憶がある。その後、総合体育館にその場を移した。
 最近までは、仙台に本社のあるディスカウント店が3か月に一度の割合でmその催し物場を借りて、一大マーケットを開いていた。今はいつの間にか取り壊され、空き地となっている。

 ⑤ 巨大迷路

 郡山市役所の隣にある「ニコニコ子ども館」。そこは以前は「郡山会館(その後、ラフィーネ郡山と改称)という結婚式場兼ホテルだった。その北側には今でも郡山社会保険事務所があって、その北東側の広大な駐車場に突如作られたのが、木製の扉とログ式の巨大迷路だった。平成元年頃~3年頃のことで、テレビの人気ドラマ「男女7人秋物語」でも取り上げられた巨大アトラクション。それがよもや我が街、郡山市の市街地に誕生しようとは夢にも思わなかった。私は物珍しさから、当時交際していた彼女とその仲間グループと一緒に遊んだことがあった。確か1回500円で、各ポイントに設けられたスタンプを押し、制限時間内にゴールするというものだった。迷い込んで、出られない場合には、所々に設けられた緊急脱出用扉を開けて外へ出られた。

 ⑥ 大島バッティングセンター

 KFB(福島放送)の北東側(大島小学校の南西側)の角地にあった。平成17年頃に潰れた。私は20代~30代にバッティングはもちろん、屋内のゲームコーナーや卓球場、オートテニスコート、スピードガンなどで遊びまくった。バッティングセンターは私が小中学校時代の走りで、本町の旧4号線沿いにもあった。よく友達とチャリで出かけてかっ飛ばしたものだ。

 ⑦ 虎丸卓球場

 ここは知る人ぞ知る隠れたスポット。郡山市の野替薬局の交差点の北西側に、昔は郡山利用学校があった。その隣にこじんまりと廃屋のように佇んでいたのが虎丸卓球場。部活で一緒だった友人と、1回50円という安さに釣られてよく週末に訪れ、2時間以上も粘って遊んだ。ここの漫画や週刊誌を読むのも楽しみだった。1階は倉庫で2階が板張りの部屋に卓球台が2台置いてあるだけの貧想な造りだった。

 ⑧ 磐光パラダイス

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 磐光ホテルは、磐梯観光株式会社という会社が経営していた。同社は元来は不動産会社であり、裏磐梯五色沼周辺を開発し別荘地として分譲していたが、1963年頃に国鉄磐越西線磐梯熱海駅から東に100mほどの街外れにあった旅館を買収してホテル経営に乗り出した。1965年にホテル本館(鉄筋コンクリート4階建て)が完成、その後新館・別館などが次々に建設され、1968年5月には演芸娯楽施設や食堂などを擁するレジャー施設磐光パラダイス(鉄筋コンクリート3階建て)、同年9月にはホテルニュー磐光が隣接地に落成した。同社はここまでの段階で当時で約10億円規模の資本を投入し、その結果、客室220室・収容可能人数1,300人の豪華ホテルが誕生した。
 磐光パラダイスは、キャバレー・温水プール・映画館・こどもの楽園などを一体化し、地方としては当時珍しかった大型総合レジャー施設に加えてヌーディストクラブをはじめとしたユニークなショーを売り物としており、週刊誌等のマスメディアでしばしば話題となっていた。また、東日本を中心にテレビCMも頻繁に放送されていた。金粉ショーが売りだったし、2階の畳敷きのステージフロアでは様々なショー(歌謡ショー)も繰り広げられた。実際有名歌手も多数出演した。私は当ブログで何度も書いたが、「フィンガー5」ショーを見た。

 他には、うすいの向かいにあった第1うすい、そしてその隣にあった「トミヤ百貨店」。私は記憶が無いが、屋上に小さな観覧車があって、市民の憩いの場になっていたらしい。そして、麓山公園にはトレインがあって、園内を一周できたとの記録もある。

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 そして、今でもあるとは思うが、本宮から東に行った山の上(岩代町?)にあったテニスコートに姉とナイターでゲームをしに行った想い出がある。平成元年頃で、2~3回行ったと思う。また、郡山警察署と五百渕の中間地点の国道49号線沿いの空き地に、よくボリショイサーカスや木ノ下大サーカスがやって来て、巨大テントが設営された覚えがある。今では専ら場所をカルチャーパークの駐車場に移した。そして、今も健在なのが、「スパリゾートハワイアンズ」で、しかし、私はオープン間もない「常磐ハワイアンセンター」の頃、確か昭和43年頃、家族でここの屋内プールで迷子になってしまい、危うくプールに落ちそうになっている所を家族に発見され、事なきを得たということがあった。もちろん私は4歳頃なので、まったく覚えがない。

 記事作成:8月12日(水)

2014年9月 3日 (水)

この夏、最後の感動物語

 8月30日(土)、31日(日)の2日間に渡って放送された「24時間テレビ」。今年で早、37回目を迎えた。中2の頃、第1回目が放送された時、24時間もぶっ続けでやる「チャリティー番組」に衝撃をうけたことを、今でも鮮明に記憶している。いつからか、番組内でマラソンが行われるようになり、数多くのランナーが24時間、長い道のりを駆け、数多の感動シーンを生んだのは衆知のところだ。

 されど、今年に限っては、私はテレビの前にくぎ付けとなった。派手さはないが、日本国民の誰からも「愛されキャラ」である「TOKIO」のリーダー城島茂が、43歳にして101キロもの夜通しマラソンを決意し、そしてそれをこの2日間で敢行したからだ。メンバーからは、「体が壊れるよ」と窘められ、「断ったほうがいい」と諌められても、彼はこの大役を引き受けたのだった。それは、同年代の「40代のおっさんでも頑張ればできるんだ」、という勇気を彼が身をもって証明したかったからだ。そして、仕事の面でもっとも苦労し、大変な思いをしながら日々努力している「おじさん世代」に光と元気を与えたかったのだ。

 しかし、根が優しい彼は、疲労がピークに達し、足に激痛が走り、脚が上がらない苦しい状況下にあっても、沿道を埋め尽くすファンの声援に、健気に笑顔で応え、時には手を振り、その痛みに耐えながら必死に走り続けた。彼の壮絶な激走を目の当たりにした中年・熟年世代の方々は、どんなに励まされたことだろう。例年にも増して、声援を送るファンの数は多かった。それは深夜でも人波が途絶えることはなかった。「リーダーを励ましたい。声を掛けてあげたい」。そんな気持ちがマラソンコースに人々を向かわせたのだろう。彼の人となりや人柄が多くのファンを呼び寄せたといって過言ではなかった。
 私ももうすぐ大台を迎えるが、同じ40代として、彼の不屈の力走に、どれだけ励まされ、エールを貰ったかしれない。何度テレビの前で目頭が熱くなり、頬を伝う涙を見たか知れない。こんな感動は初めてのことだった。

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 そして残り、5km。放送時間内に間に合わないと伴走者に知らされるや否や、満身創痍の体にもかかわらず、もう上がらない足を引きずりながら、必死の形相で渾身のラストスパートを見せたのだった。それまでの苦痛に顔を歪める彼の姿からは想像もできないほどの、何かを超越したような驚異的な走りだった。誰もが息を呑み、目を見張り、舌を巻く激走だった。そしてそれまでの遅れをあっという間に取り戻したのだった。

 彼をそこまで揺り動かしたのは、私自身は薄々感じていたが、実は或る思いがあったのだった。それは、彼が、マラソンの終盤で、もしかしたら完走後に、くたくたとなり、まともにインタビューに受け答えができないことを予測して、事前に書き綴ったメッセージ(手紙)で明らかになった。そして、その文面が、視聴者に多くの感動を与え、涙を誘うこととなった。

 それでは、番組のラストに羽鳥アナによって代読され、日本中を感動の渦に巻き込んだ、彼の直筆のメッセージを紹介したい。

「皆さん、僕は今、どんな感じでしょうか?」
「まだ走れているでしょうか?」
「たぶん、疲れ果てておそろしくみっともない姿でいるのではないでしょうか?」
「きっと武道館に辿り着けたとしても、力を使い果たして、感謝の言葉すら上手く
伝える事が出来ないかもしれません。」

「だから前もって、皆さんにお礼を言わなくてはと思い、この手紙を書きました。」
「まずは関ジャニ∞のみんな。こんなに頼りない先輩を盛り上げてくれて、ありがとう。」
「明るくて、優しい後輩をもって、同じ関西人として、頼もしい限りやで。」

「それから、戦友でもある TOKIOのメンバーへ。」
「これは今に始まった事じゃないけれど、一番年上というだけでなんにもできない僕を
支えてくれてありがとう。」

「そして、差し入れや温かいメッセージ・・・」
「いろんな形で声援を送ってくれた全国の農家さんや漁師さん、働くみなさん、
ありがとうございます。」
「マラソンの練習でつらい時、いつも皆さんの姿を思い出して歯を食いしばりました。」
「大自然を相手に、地道に、毎日、毎年、何十年と汗を流し続ける皆さんの背中。」
「その姿を思うだけで、もっと頑張らなければって力が湧きました。」

「そして何より。テレビの画面の向こう側から、こんな僕を応援してくれた日本中の皆さん。」「本当に、本当に、ありがとうございます。」

「こんな普通の43歳でも、こんな運動神経の無いオジサンでも、101キロ、走りきれることを証明して、おこがましいですが、ほんの少しでも、何かを感じて貰えたら・・・。」
「ただ、それだけを思って、這ってでも、武道館に辿り着きます。」

「最後に、DASH村でお世話になった三瓶明雄さんへ。」

「農業をしている時、いつも僕らに 『まだまだ!』 と言いながら最後まで汗を流していましたね。」
「ゴールできたら、耳を澄ましてみるから またあの時の言葉を下さい。」
「リーダー、まだだま! と。」

                                           TOKIO 城島 茂

 最後に述べた「三瓶明雄さんへ」のメッセージが、今回、彼を過酷なマラソンに立ち向かわせた最大の理由だった。24時間ランナーの依頼が彼のもとに寄せられたのは、5月のことだった。その時期は、DASH村で農業指導で大変お世話になった、三瓶明雄さんが、急性骨髄性白血病という重い病に侵され、病床に伏して闘病中だった。どうにも動かない体を悲観し、気弱になった姿を目の当たりにしたリーダーは、彼を励ましたい一心で、意を決してこの大役を引き受けたのだった。自分が、そして周囲の誰もが不可能だと思えるような試練に敢えて挑戦し、必死にもがいている姿を見せることで、三瓶さんに生きる希望と病に立ち向かう勇気を与え、闘病に少しでも励みになると考えたのだった。

 しかし、その願いもむなしく、その僅か1か月後の6月6日に、三瓶さんは天国へと旅立ってしまった。最期は安らかな表情を浮かべ逝ったという。
 彼は「6人目のTOKIO」と呼ばれるほど、TOKIOのメンバーにお父さんのように慕われ、視聴者にも愛された人物だった。たとえ作物の出来が良くても「まだまだ」というのが口癖だった。そこで満足してしまったら、先がなくなるという不安から出た、明雄さんらしい、自身の人生訓のような含蓄ある、重みのある言葉だった。

 彼はもうこの世にいなくなったが、それでもリーダー城島茂は、その決意を変えなかった。形見となってしまった三瓶さんのトレードマークだったタオルを額に巻き、暑くても決して帽子をかぶらなかった。「自分は明雄さんと一緒に走っているんだ」と思っていたに違いない。つまりそれは、今は天国から見守る、三瓶さんへ捧げる魂の走りだった。

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 同じ福島県に住んでいる私には、城島茂がマラソンを決意した本当の理由を痛いほどわかっていた。DASH村でお世話になった三瓶さんが亡くなったというのに、「鉄腕DASH」の番組内で、訃報として一度だけしか取り上げられず、番組の最後にTOKIOからのメッセージが読み上げられただけだった。村最大の功労者である三瓶明雄さんの追悼番組の企画すらなく、県民ならずとも、「日本テレビはなんと薄情なのか」と呆れ返っていた人も多かったことだろう。しかし、リーダー城島は、明雄さんと一緒に過ごした想い出や恩を決して忘れてはいなかった。やはり彼は、義理と人情に溢れた心優しきリーダーだった。

「追悼メッセージ」はコチラ → https://www.youtube.com/watch?v=xIwzCfbs2gs

 「自分がどんな状況に置かれても、いつも周囲に気をくばり、礼儀、感謝を忘れないあなたこそ真のリーダーです!」と声を大にして伝えたい。

 そして、武道館のゴールの手前300mを切った地点で、突然画面にメンバー4人が割って入り、リーダーの元に駆け寄って来た。それまで、苦しそうなリーダーの表情を見る度に、「どうして他のメンバーは駆けつけて、一緒に伴走しないのか」と心配していた人も多かっただろう。満を持して、ようやくラストで合流し、100mの並走を行った。ひときわ大きなファンの大歓声の中、彼はメンバーの温かい見送りを受けて武道館の中へ・・・・。

 会場からは惜しみない拍手が沸き起こった。しかし、そこでもドラマがあった。メンバー5人でゴールしたいと思った彼は、タラップを降り、ゴール前のステージ下で何度か振り返り、他の4人のメンバーを手招きした。しかし、4人は主役はあくまで城島であるため、気を遣い、更には事務所の後輩の「関ジャニ∞」がメーンパーソナリティーを務めているため、敢えてステージには合流しなかったのだ。彼らの美しき「メンバー愛」やジャニーズの固い「絆」を目にしたような気がした。

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 今回の「24時間テレビ・愛は地球を救う37」のテーマは「小さなキセキ 大きなキセキ」だった。最後の最後で彼自身が大変な奇跡を演じきった。それはシナリオ通りではなく、彼がこれまで送って来た人生の縮図を見ているように思えた。「友情」、「愛」、「人情」、「真の優しさ」、いろんなシーンを目の当たりにし、人生を見つめ直させてくれた24時間だった。

 日本国中の誰もが、リーダーの健闘に涙し、ボロボロの状態で走り続ける姿に感動を覚え、テレビの前に釘付けとなって声援を送り続けたに違いない。ハラハラしながら、一時はもう間に合わないと諦めかけた時に、奇跡は起きたのだ。ラスト5kmからの猛スパートは、誰もが興奮し、涙したことだろう。どこにそんな力が残っていたのだろう。追走するスタッフも驚愕だったに違いない。仲間を信じ、期待に応えようと歯を食いしばり、無我夢中で突っ走る姿は、お世話になった明雄さんに感謝の気持ちを表したいという想いがひしひしと伝わる感動的な激走、いや劇走だった。

 結びに、彼から多くの感動をいただき、勇気と元気を貰い、明日からまた仕事や勉強に頑張ろうと思った人々は数多くいたに違いない。奇しくも、翌日から新学期で学校が始まった人も多かったはずだ。今、彼から学んだ人生知や教訓を実生活の中で生かすことだと痛切に感じている。彼の101キロを走破した根性と頑張りに応え、報いる方法は、挫けそうになっても、最後まで走る抜く精神を持つことだと改めて悟った。

 彼から受け取ったバトンをこれからの人生に役立てていきたい。

 記事作成:9月2日(火)

2014年9月 2日 (火)

想い出のCM④ ~JRA~

 今では「JRA」というのが一般的呼称となったが、JRAはかつては「日本中央競馬会」と言われた。「Wikipedia」によれば、競馬法(昭和23年法律第158号)により、競馬を行う団体として、農林水産大臣の監督を受け、政府が資本金の全額を出資する特殊法人とある。
 つまり、賭博が全面禁止とされている日本において、お上が直接関与し、勝負事に公然とお金を用いることが許される唯一の賭け事なのである。したがって、「宝くじ」と性質は同じだ。一方、かつては「娯楽の殿堂」として一世を風靡した「パチンコ」はあくまで遊技扱い。警察では換金の事実は承知しないとして憚らない。まぁ苦しい弁明だが、昔から時代劇に登場するサイコロの出目で「丁半」を判読した御馴染みの賭場が実在したように、違法・合法は別として、日本では古来から賭け事は庶民のお楽しみだったようだ。

 さて、私の世代だと競馬と言えば、「ハイセイコー」や「タケホープ」、「トウショウボーイ」、「テンポイント」、「グリーングラス」に始まり、大学時代に夢中になったサラブレッドは、「皇帝」の異名をとり、「史上最強馬」の名をほしいままにした「シンボリルドルフ」、その息子で、度重なる骨折から何度も甦った「トウカイテイオー」、そして捲くりの刺客「ミスターシービー」、引退レースの有馬記念で有終の美を飾った「オグリキャップ」らが一世を風靡した。
 もちろん平成以降に活躍した「ディープインパクト」や「ナリタブライアン」、「メジロマックイーン」などの華々しい勇姿も脳裏に焼きついている。
 サラブレッドたちが織り成す伝説の名レースの数々。手に汗握る興奮と熱狂があった。

 1980年代のバブル期には、オシャレなCM効果もあって、競馬場に足を運ぶ女性ファンの黄色い歓声がこだまするようになった。そしてトレンディスポットとして、デートコースに挙げられるほどだった。 

 では、競馬=ギャンブルのイメージを一新したCM集をご覧ください。

 柳葉敏郎と賀来千香子のCM集(1990年代)

 1990年の宝塚記念から1991年の有馬記念までの柳葉敏郎+賀来千香子の「好奇心­100%の競馬」シリーズのCM集。本音を言えば「オン・ザ・ターフ」のCMがあれば完璧だった。芝生で寝ころんで寛いだり、ヤマが当たって絶叫する場面を描いたCMなのだが、動画サイトをいくら探っても見当たらない。しかし、このCMのBGMの歌が大好きだった。

 ストーリー仕立てでドラマ性を感じるCMはコチラ(2000年代)

① 「誕生」編 https://www.youtube.com/watch?v=hj1zGPleEfk

② 「デビュー」編 https://www.youtube.com/watch?v=Ol7mbahVrbc

③ 「GⅠ」編 https://www.youtube.com/watch?v=IWU-vF0JozQ

④ 「ラストラン」 

感動CM「オグリキャップラストラン」 https://www.youtube.com/watch?v=-IPoPImD5ew

 一青窈の歌が涙を誘う。ジョッキーの一瞬の駆け引き、勝負に賭ける執念、正面スタンド前の追い込みなどすべてが筋書きのないドラマ。馬と人間の絆と人生を感じる。

 競馬場へ行こう的な勧誘CM(CLUB KEIBA:佐藤浩市・蒼井優・大泉洋)2000年代

 2010年代 JRA60周年記念CM「LOVE,HOLIDAY」

 競馬は、そのLIVEの臨場感が半端ない。名勝負は誰も予想がつかないからこそ面白い。ガチガチの本命が100%勝てるとは限らないし、対抗、大穴などライバルの存在も勝敗を左右する。そして、距離や風向き、馬場、体調、体型、毛並、血統、距離、過去の戦績など、あれこれ思案し、総じて予想を立てる、いわば玄人はだしのレースが「競馬」なのである。

 「そうだ、週末は競馬場へ行こう!」

 競馬に関る私の関連HP、ブログ記事はコチラ

「北海道の牧場」 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%2014.htm

「名馬たちの墓標」 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%20177.htm

 記事作成:8月7日(木)

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