歴史上の人物の没年齢考
江戸時代は「人生50年」と呼ばれるほど、今からは想像もできないくらい人の一生は短かった。そのせいか、若くして国の行く末を想い、親孝行と立身出世を夢見て志を高く持っていた青年が多かった。それは歴史上の人物の功績を見れば一目瞭然。若くして夭逝した、歴史にその名を轟かせる大人物は、若年期にその才能を開花させ、華々しく世に登場し、その名声を売った。まるで自分の死期を悟っているかのように、限られた命を精一杯生き、どちらかといえば生き急いだ印象が強い。
一方で、かの有名な松尾芭蕉は、晩年に江戸から奥州街道を北上し、今の東北地方を弟子の曾良と行脚し、日本海側を下りて北陸地方も周り、やがてそれを「おくのほそ道」に編纂したことは周知のところ。しかし、その当時の姿を考えれば、どうみても老人の容姿である。しかし、実年齢が45歳だったことを考えれば、僅か300年前の世は、なんと老け込む速度が早いのか。現代人の45歳と言えば、「福山雅治」である。なんと異なる容姿だろう。
そして驚くべきは、彼が全行程の歩行距離が約2,400kmキロで、それを僅か307日で踏破した。つまり、自転車も車もない時代、自分の歩足だけで10ヶ月ほどで直線距離にして北海道から沖縄まで歩いた計算だ。実に一日平均で8キロ歩いた計算だ。人間の歩く速度が時速4キロとしても、その途上で同じ場所に数日間滞在し、花鳥風月に触れ、要所要所で句を詠んでいたことを考えれば、毎日、不眠不休で歩き通さなければ、実現不可能な距離だ。
あの小柄で老練な印象の芭蕉のどこにそんな潜在能力があったというのか。どれだけ足腰が丈夫だったのだろう。「芭蕉は忍者だった」とか「こっそり馬を使った」などという愚説まで飛び出すほどの健脚振りを発揮した。芭蕉の人離れした脚力はさておき、昔人は、現代よりも体力がずば抜けており、志をもって人生を謳歌する者が多かったように思える。それはつまり、自分の人生を無駄にせず、全うしたと言えるだろう。
では、まずは各時代の平均寿命を確認しておこう。
縄文~弥生時代 30~31歳
室町時代 33歳
江戸時代 45歳
明治時代 43歳 (日清戦争・日露戦争で戦死者が多かったため)
大正時代 46歳
昭和初期 48歳
昭和22年 52歳
平成20年 82歳
平成25年 男性 80.2歳、女性 86.6歳
参考資料: http://www.garbagenews.net/archives/1940398.html
第二次世界大戦後、戦後復興や各種好景気、高度経済成長により、栄養状態も改善され、医療技術も急速に発展した。これに伴い、平均寿命が急激に伸び、女性は世界一の長寿国となった。90歳代の女性はザラで、新聞のお悔やみ欄に掲載される死亡年齢を見れば、超高齢での大往生というのが見て取れる。
一方、フリーターや無業で、親のすねかじりやスマホやTVゲームばかりに精を出し、人との関わりを持てない若者が多い現世の趨勢とは雲泥の差である。そこで今日のテーマは、歴史上の人物がいかに若くしてその才能を発揮し、己の実力で名を馳せたかをそれぞれの没年齢から検証したい。
高杉晋作・・・騎兵隊を率いて討幕を目指した。結核で死去 27歳
坂本龍馬・・・海援隊 薩長連合の仲立ち 近江屋で暗殺 31歳
沖田総司・・・新撰組の剣の達人 池田屋騒動で手柄 肺結核 24歳
近藤 勇・・・新撰組の局長 板橋刑場で斬首 33歳
土方歳三・・・新撰組副長、討幕派と対決し、箱館にて壮絶な最期を遂げた。34歳
吉田松陰・・・安政の大獄で死刑 29歳
久坂玄瑞・・・会津・桑名・薩摩藩兵らと激戦の末負傷、自害 24歳
西郷隆盛・・・薩摩藩士 西南戦争で自刃 49歳
明智光秀・・・織田信長を本能寺の変で討つ 「三日天下」 54歳
小早川秀秋・・・関が原の戦いで重要な立場となった。東軍への寝返りで雌雄を決した。
20歳
徳川家茂・・・、江戸幕府第14代征夷大将軍。20歳
織田信長・・・ 武将 明智光秀の謀反に遭い、本能寺で自害 48歳
上杉謙信・・・内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。48歳
直江兼続・・・米沢藩 上杉氏家老 59歳
北条時宗・・・鎌倉時代中期 の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。32歳
伊達政宗・・・独眼竜の異名で東北地方を治めた戦国武将 69歳
武田信玄・・・甲斐の守護大名、戦国武将 謙信との「川中島の戦い」は5回にも及ぶ死
闘だった。51歳
平清盛・・・平安時代末期の武将・公卿 62歳
源義経・・・頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀
衡を頼った。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣
川館で自刃し果てた。31歳
平賀源内・・・江戸時代にエレキテル考案 多彩で本草学者、地質学者、蘭学者、医者、
殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。51歳
石田三成・・・豊臣家最後の家臣 関ヶ原の戦いで敗れ、斬首刑 41歳
宮本武蔵・・・江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
佐々木小次郎との巌流島決戦。「五輪書」 61歳
浅野内匠頭・・・江戸城内松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び切腹 33歳
三島由紀夫・・・小説家・政治活動家 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪
れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバ
ルコニーで演説しクーデターを促したが、賛同者を得られないとわかると、
その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与え、
新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。
「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」 45歳没 墓は多摩霊園
宮沢賢治・・・岩手県出身の作家。「銀河鉄道の夜」 急性肺炎 37歳
樋口一葉・・・生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。
一様に言えることは、人生50年の時代に生まれながらも、その限られた命の期限の中で、自らの志の実現を一直線に目指し、一心不乱に生き抜いたことだ。しかしながら、歴史に名を残す豪傑や奇才であっても、江戸時代やそれ以前は、医療技術が乏しく、流行り病も多く、不治の病には勝てなかった。当時は、結核や肺炎で命を落とすものが多かったし、江戸時代に蔓延した百日咳や天然痘、コレラや麻疹で命を落とすことも多かった。近年でも、死亡通知に「薬石効なく」という表現を使うが、この言い回しこそ、古の頃の風習をそのまま伝承したものだ。よって、人生が50年未満と限られた中で、早熟といわれるまでに、若くして世に出る必要があったのだ。昔人は、特に武士階級や庶民は娯楽が少なく、晴耕雨読の如く、学問に精を出すしか生きる道はなかったことも言える。生活手段を思えば、自らの実力でのし上がっていくしか手はなかったのである。
記事作成:9月18日(木)~9月25日(木)
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