歴代首相採点簿
政治評論家でもない私が、このようなタイトルの記事を書くのはおこがましいが、これまで半世紀の人生の歩みの中で、政治にはことさら興味があった。私の亡き祖父は地元の市議会議員を2期務め、政界引退後は市の要職に就いていた。そして様々な選挙の際には、応援演説者として方々出歩いては熱弁を奮い、いつしか「金べろ」と称されるほどの好評を得、毎回拍手喝采ぶりであった。祖父の演説を聞きたいがために、出席するファンも数多くいた。また、私自身が民主党選出の玄葉衆議院議員とは幼馴染だったこともあり、そんな縁があって政治には子供の頃から親しみを覚えていた。しかし、今週末に衆議院議員選挙の投票日を控えて、このような記事を書く訳ではなく、単なる偶然なので予めお断りしておきたい。
そんないきさつで、今回はタイトルは「採点簿」になっているが、点数ではつけずに、私が一般国民の目線で政治を見てきて、人物・功績ともに素晴らしいと判断できる政治家を、それぞれベスト10とワースト10に分けて掲載してみたい。ただし、これは個人的見解であり、主観的かつ率直な感想から来るもので、決して好き嫌いから判断するものではない。
ベスト10
1位 吉田 茂 O型
戦後の混乱期の中、外務大臣として日本の復興と再生に尽力し、最大の功績を挙げた大政治家だ。その後、首相に就任。1946年5月22日〜1947年5月24日、および、1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。内閣改造を含め、二度首相を務め、第5次改造内閣まで長い任期でその座に君臨した。2,716日は日本で4番目に長い。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。恰幅が良くふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。「バカヤロー」解散は有名。
https://www.youtube.com/watch?v=DDEuMQXJG6E
2位 海部俊樹 A型
彼を2位にしたのは、あくまで私の個人的な好みだ。水玉模様をトレードマークにし、クリーンかつ誠実なイメージで、スマートで調整型の首相だった。しかし、予算委員会の答弁で、衆議院解散を意味する「重大な決意で」と発言したことで波紋を呼び、たったその一言が辞任に追い込まれることとなり、反対勢力に押し切られ失脚させられた。
https://www.youtube.com/watch?v=K49yFqgqcNk&list=PL7eYVAV6H4xKFQyrKBRuKjIvVj9MNiCvA
3位 中曽根康弘 O型
大平正義が在任中に急死したことを受け、副総裁だった会津出身の伊東正義が首相就任を打診されていながらも固辞したため、鈴木善幸が総理になった。しかし、その後、首相就任以来、一部マスコミからは直角内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。また、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ、税収減の恐れと支出削減の限界が出てきたため、増税無しでは1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面し、退陣に追い込まれた。そして、その後釜探しが難航する中で、急遽総理大臣になった。就任時の「9回1点差、無死満塁でマウンドに上がった投手の心境」と語ったことを今でも鮮明に覚えている。
しかし、実力はぴか一だった。時折、O型特有の「風見鶏」傾向はあったが、最大勢力の田中派の後ろ盾を得て、次々政治改革を断行した。調整もうまく、外交では、強固で盤石な日米関係を築き、レーガン大統領とは水魚の交わりで、「ロン」と「ヤス」と呼び合う親密ぶりだった。また、後任を決める際には、田中派に義理立てして、竹下登を後継首相に指名した一連のドタバタ騒動は、中曽根裁定と呼ばれた。鶴のひと声で決まった異例の展開だった。
https://www.youtube.com/watch?v=7vqUTsFXbwc
4位 小泉純一郎 A型
この10年では最も長く首相を務めた。白髪の長髪という独特な風貌と弁舌が立ち、爆発的な国民的人気を得た。内閣支持率も継続的に高く、答弁などを見ていても笑いが出るほど滑舌が良かった。また、おとぼけや詭弁も備え、野党の追及を巧みに交わしていた。とりわけ「自民党をぶっ潰す!」と豪語し、郵政民営化に反旗を翻す議員、つまり抵抗勢力には刺客を送り、小泉チルドレンを多数当選させた。そして独自の小泉ワールドを構築し、5年の長きにわたり、総理の椅子に鎮座した。最大の功績は郵政民営化の実現だが、北朝鮮に自ら乗り込み、金正日と直接会談を実施し、拉致の事実を認めさせ、拉致被害者を日本に帰国させた。
https://www.youtube.com/watch?v=2sUfbefdAEw
https://www.youtube.com/watch?v=lEuSKQpnJfE
5位 田中角栄 B型
ロッキード事件で失脚し、有罪判決を受けたが、彼ほど功罪がはっきりした総理大臣もいなかった。彼は旧制の小学校しか出ていない。しかし、東大出のエリート議員をアゴで使い、最大派閥越山会の長として、その影響力をいかんなく発揮した。真の実力者である。右手を掲げ、「よっしゃよっしゃ」の合言葉で、金脈をバックに、半ば強引に政策を推し進め、「人間ブルドーザー」と呼ばれた。カリスマ的で彼を崇拝する議員が、目白にある田中邸を訪れる様は「角栄詣で」と言われた。取り巻きが凄じく、「数は力」を背景に七奉行が脇を固めていた。首相在任中の1972年の日中平和友好条約を締結。また「列島改造論」で日本中に高速輸送&通信網を張り巡らせ、物流や人的交流を活性化させた。とりわけ地元の新潟には手厚く手当し、いち早く新潟新幹線を開業させた。新潟にとっては神様以上の傑出した大人物である。娘の真紀子もまた彼の血を引く大物の風格は十分だった。
https://www.youtube.com/watch?v=o9i-gbhAP80
6位 原 敬
平民宰相の名で親しまれた。衆議院で過半数を占める党の総裁として初めて首相になり、閣内をほぼ党内の人事で済ませた。融和外交により、これまでの対中国強硬外交や対アメリカ外交の滞りを取り除いた。それによって国際連盟の常任理事国入りも果たした。
国内では積極的な鉄道網の開発のために公債を発行したり、高等教育拡大のために大学令を緩和して多くの早稲田・慶応など多くの私立大学が誕生することとなった。選挙への参加条件の負担金を値下げはしたものの、普通選挙制の実現には否定的であったことや、シベリアからの撤退に時間がかかったため、国民からの目は日に日に低下し、1921年(大正10年)11月4日、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の 丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。
https://www.youtube.com/watch?v=k5Heh1PYaWI
7位 小渕恵三 A型
任期中に脳梗塞で倒れ、そのまま死去した。沖縄サミットを記念して2千円札を製作したが、今では市中に出回ることはほとんどない。官房長官時代に「平成」という年号を国民に知らせた姿が印象的だ。
総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。1999年(平成11年)1月、自由党との連立政権発足。この事で政権基盤が安定し、周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)などの重要法案を次々に成立させた。
「日本一の借金王」と自嘲したように、赤字国債発行による公共事業を推し進めた張本人としても批判された。ただ、在任中は、日本銀行のゼロ金利政策やアメリカの好景気、何より積極財政の成果により、経済は比較的好調で、ITバブルが発生した。日経平均株価も2万円台にまで回復させた。合計約42兆円の経済対策の内訳は、公共事業が約4割を占めているが、減税や金融対策などにも充てられた。また公明党の発案で、地域経済の活性化と称し「地域振興券」を国民に配布したが、これは「バラマキ政策の極致」と酷評された。
https://www.youtube.com/watch?v=u67TCWayBQo
8位 濱口雄幸
その風貌から「ライオン宰相」との異名をとり、国民からも親しまれた。金解禁を断行、ロンドン海軍軍縮条約調印を行う。昭和5年東京駅の現10番ホーム(東海道線)で対向してきた暴漢により短銃で至近距離から撃たれ、その傷が元で10ヵ月後の翌年に死亡した。
https://www.youtube.com/watch?v=aF6ot0Al-yA
https://www.youtube.com/watch?v=cDvvYRlIsJI
9位 佐藤栄作 A型
1964年(昭和39)から72年まで自由民主党総裁・首相の座にあり, 高度経済成長政策,日米安保条約自動延長,沖縄返還などの政策を推進した。「非核三原則」により、1974年に日本の首相で、初のノーベル平和賞を獲得した。プライドが高いA型総理らしく、マスコミを怒鳴りつけ、全員退室させ、カメラだけに向かって退陣を表明した。
https://www.youtube.com/watch?v=N0jxKeJ0Sks
https://www.youtube.com/watch?v=DH6IsB97kSk
10位 石橋湛山
在任が1956/12/23~1957/02/25の65日という短命内閣だった。総裁選で岸支持派とのしこりが残り、更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航した。内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。
https://www.youtube.com/watch?v=gV37CSevy6Q
日本の首相はO型が断然多いが、こと好きな首相となるとA型4人、O型2人、B型1人。O型はワンマン宰相という印象が強く、派閥闘争を背景に、力関係を重視し、勝ち馬に乗る傾向が見られる。責任感が薄く、豪腕というだけで、風見鶏、朝令暮改的な首相が多かったように思う。
ワースト10
1位 森 喜朗 O型
脳梗塞で倒れた小渕恵三の後を受けて、自民党の密室での談合により、森喜朗が総理に就いた。しかし、彼の内閣は自らも含めて不祥事続きだった。
「神の国」発言で非難を浴び、解散総選挙にまで及ぶが、その後も森は失言を繰り返していった。
また、選挙後の改造内閣で官房長官となった中川秀直(現・自民党幹事長)は、右翼団体との交際や、警察の捜査対象だった自分の愛人に捜査情報を漏らしたことが発覚し、そのときの録音テープまで公開され、約3ヵ月で辞任した。
このように森内閣の不祥事を挙げればキリがないのだが、参議院の選挙制度が変わったのも一つの不祥事がきっかけだった。
2001年2月10日、ハワイ沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と衝突して沈没、日本人9名が死亡するという「えひめ丸事故」が発生した。森は第一報が入ったとき、彼はゴルフ場にいたが、このニュースを耳にしながら、官邸に戻らず、そのままゴルフに興じたり、散々叩かれながらも、未だに要職についている。
2位 鳩山由紀夫 O型
景気の良いマニフェストを掲げ、国民の支持をとりつけ、総選挙で初の政権交代を実現し、首相に登りつめたものの、途中で頓挫し、自らの無能さを知り、何の前触れも無く退陣表明を行った無責任ぶりだった。しかも、自らは巨額の資産を持ち、国民の困窮する生活には目もくれず、いざ旗色が悪く、政策実施が困難とみるやいなや、責任放棄。その後も小沢一郎と組み、影響力を残そうと画策した。266日での政権丸投げは7番目に短い。
3位 野田佳彦 B型
東日本大震災があった2011年の12月に、突如何の根拠も無く「福島第一原発事故」の収束を全世界に宣言した。その3年も経過した今でも、放射線被害は著しく、未だに故郷に帰れない避難者が大勢いるというのに、無責任な発言で、自らはそそくさと首相の座を降りた。
4位 宇野宗佑 B型
歴代首相の中で4番目に短く、69日で終わった。理由は自ら招いた女性スキャンダル。辞任会見で口を真一文字に結び、ふてぶてしい表情で「明鏡止水の心境だ」と述べたことが今でもまぶたに焼き付いている。
5位 安倍晋三 B型
小泉首相勇退後の政権を移譲される形で就任。52歳での首相抜擢は5番目に若く、戦後の首相では最年少。これは血筋で、代々政治家として実績が顕著な家系が物を云い、サラブレッドだった。就任時は「美しい日本」と何度もアピールしたが、第一次内閣では、持病の腹痛が災いし、職務継続困難で、突然に退陣発表に誰もが首をかしげた。いわゆる「お坊ちゃん」政治家で、スマートすぎて泥臭さが無い。教育改革を重要視した。
現在は2度目の首相就任で、消費税率8%への増税を断行。一時は株価が急上昇に転じたが、一部の特権階級だけが生活面で潤い、格差は顕著。円安が進み、外国製品への購買意欲が減退し、加えて増税で家計を圧迫。結果的に消費は下降。なのに、更なる消費税アップを模索し、国民の真を問うとして、2年あまりで衆議院解散・総選挙に踏み切った。
6位 東条英機 B型
関東軍参謀長・陸軍次官などを経て,1940年(昭和15)第二次近衛内閣の陸相となる。翌年首相に就任し,陸相と内相を兼任,対米英開戦の最高責任者となり太平洋戦争を推進した。44年7月,サイパン陥落直後総辞職。戦後 A 級戦犯として絞首刑。
7位 麻生太郎 A型
モントリオール五輪にライフル射撃種目に出場した経歴を持つ。2008年9月、08年自民党総裁選に4度目の立候補をし351票を獲得。自民党総裁に就任する。9月24日、第92代内閣総理大臣に就任。首相就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。しかし、相次ぐ失言を繰り返し、翌年8月の総選挙で自民党が惨敗し、政権交代により、その責任をとって辞任した。
8位 菅直人 O型
2010年(平成22年)6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、民主党代表選挙に勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名された。首相着任後に東日本大震災が発生。原発事故に見舞われその対応に四苦八苦した。
菅は震災の発生を機に国会のねじれを解消し、復興対策を円滑に進めるため、自民党に対し大連立を打診したが、不発に終わった。さらに2011年4月の統一地方選で与党が敗北するなど、与党・民主党内でも菅政権に対する不満が募り、小沢一郎を中心とする民主党一部勢力が「菅おろし」への動きを活発化させるようになる。
2011年6月2日、菅の地震・原発災害への対応が不十分であるとして野党の自民・公明両党により内閣不信任決議案が衆議院本会議に提出・上程。小沢に近い議員を中心に野党の不信任案に同調する動きが強まり、前首相の鳩山由紀夫も同調する構えを見せ、一気に不信任決議の可決や党の分裂が懸念される事態となり、退陣に追い込まれた。
9位 羽田孜 O型
64日という歴代首相でも2番目に短命政権。細川護煕が退陣した後に首相に座ったが、与野党逆転の逆風の中、政権運営がままならず、辞任を余儀なくされた。
10位 貧乏くじを引いた河野洋平と谷垣貞一
自民党総裁になりながら、首相になれなかった面々だ。どちらも責任感は人一倍あるが、プライドが高く、世渡りベタなA型。一匹狼傾向でそうなった。河野は細川護熙を首相とした相乗り政権で自民党が野に下った。谷垣は、民主党政権時の総裁。
歴代政治家の中には暗殺された方もいる。伊藤博文、原敬、濱口雄幸である。いずれも共通しているのが、駅で暴漢に襲われて亡くなっている。伊藤はハルビンで朝鮮人に、原と濱口は東京駅で命を落とした。ほかにも5.15事件の犬養毅、2.26事件で高橋是清と齋藤実がそれぞれ暗殺されている。
ここで自民党の功罪の歴史とも言うべき動画をみつけたので紹介したい。
自民党戦国史はコチラ
ちなみに首相を除いた政治家のベスト3とワースト5
ベスト10
1位 伊東正義・・・大平急死の後、臨時首相を務めた。「首相の椅子を蹴った男」
2位 市川房江・・・金のかからない選挙を実践。婦人の地位向上に尽力した。
3位 池田勇人・・・「所得倍増計画」で高度経済成長。庶民の暮らしは一気に豊かになった。
4位 濱田幸一・・・歯に衣を着せぬ発言で影響力は大きかった。自民党40日抗争の主役として、バリケードを築き、激高した。
https://www.youtube.com/watch?v=h56BBwHbYIY
https://www.youtube.com/watch?v=torFIxmfr0I
ワースト10
1位 小沢一郎・・・自民党離脱後、新進党、自由党、民主党、生活の党と渡り歩いた。ブローカーとして知られる。剛腕は自他ともに認められるが、いかんせん、好き嫌いがはっきりしていて、すぐに仲たがいを起こし、離党や脱党を繰り返し、そのたびに新しい政党を結成して党首の座に収まった。
2位 児玉誉士夫・・・小佐野賢治とともにロッキード事件で一躍有名になった。二人とも政治家ではないが、政界への強い影響力を誇示した。児玉は福島県本宮市出身だった。暴力団・錦政会顧問。「 政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
3位 金丸信 O型・・・政界のドン。陰の実力者。政策通、そして議員を顎で使い、いかんなくその政治手腕を発揮した。どうみても黒幕というポジションだった。
4位 青木幹雄・・・化かし合いにように、権力を利用し、身を翻して世渡りした印象。
5位 谷亮子 B型
いわゆる小沢信者のひとり。参議院議員に出馬し、当選した際に、「政治家と柔道を両立させる」と言い放ったことで、「片手間にできる仕事ではない」と世間の非難を浴び、現役引退に追い込まれた。
こうしてみると、昔の政治家は威厳があって、或る意味ふてぶてしく、まさしく「先生」という印象の人が多かった。個性的で存在感があった。
最後に、政界を揺るがした事件を取り上げたい。
黒い霧事件・・・1966年後半、自民党を中心に相次いで発覚した不祥事。一連の事件で自民党への国民の信頼は失墜し永田町を「黒い霧」が覆っていると批判されるようになった。
ロッキード事件・・・アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件。現職首相の逮捕に発展した。ピーナッツとか丸紅ルート、「記憶にございません」などの流行語を生んだ。
自民党40日抗争・・・1979年に起きた自由民主党内の派閥抗争。 自民党史上最大の危機といわれた。 1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙 における自民党の敗北から、11月20日の第2次大平内閣の本格的発足までの約40日の間、党内での抗争があった。
リクルート事件・・・1988年(昭和63年)に発覚した日本の贈収賄 事件である。リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社 の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。戦後最大の贈収賄事件とされている。
佐川急便事件・・・自由民主党・経世会の金丸信 会長が、佐川急便側から5億円のヤミ献金を受領したとし、1992年10月に衆議院議員 辞職に追い込まれた汚職事件。
記事作成:11月14日(金)
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