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2014年12月 8日 (月)

再建してほしい歴史的建造物

 私は大河ドラマや幕末の動乱を描いたドラマが好きでよく観る。壮大なロマンを感じさせる歴史の渦や一大スペクタクル絵巻に興味があり、当時を生き抜いた武士や英傑たちの生涯にも思いを馳せる。しかし、歴史を紐解けば、かつて歴史を作った重大な事件やそこに確かに存在した筈の由緒ある建物が、震災や火災、あるいは空襲により、その大半が失われ、未だに再建されていないことに気付いた。
 これは国家的損失にほかならず、膨大な予算がかかることから、その後は再建計画すら持ち上がっていないのが現状だ。日本の歴史の証人としての価値を考え、ぜひとも当時の姿や面影を偲ぶ趣旨から再建してほしくて、ここに関連した建造物を取り上げることとした。

 1.江戸城

Edojyo 武蔵国豊嶋郡江戸にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里]と、日本最大の面積の城郭になった。
 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。
 明治維新後の東京奠都で宮城となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。国の特別史跡に指定されている。

 現在の皇居の中に再建は無理だと思うので、東京湾を埋め立てた場所に復元してほしい。よく「暴れん坊将軍」などで目にする江戸城は、白鷺城(姫路)のような石垣の上に白亜に輝く巨城という印象だが、実際は、松本城や熊本城のように黒塗りだったようだ。そこを中心に「江戸八百屋町」がご城下に連なっていたとされている。城はその国の国力を内外に誇示し、権力の象徴の意味合いもあった。ぜひ再建への気運の高まりを期待したい。

 2.安土城

Azuchijyo 織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」 と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1 階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

 一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天守内部の宝塔(推定)や絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られる。安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。あくまで焼失したのは、天主、本丸などであり後に織田秀信が二の丸に入城したように、二ノ丸をもって十分に機能していた。

 3.万世橋駅

 現在の神田駅から中央線沿いに御茶ノ水方面に行く途中の昔、鉄道博物館があった場所あたりに存在した、赤レンガで、東京駅によく似たデザインの駅舎が旧万世橋駅。

Manseibashi 1912年(明治45年)4月1日、万世橋駅の営業を開始した。甲武鉄道は1906年(明治39年)3月31日に国有化されたため、鉄道院の駅となる。なお万世橋駅の開業によって御茶ノ水 - 万世橋にあった昌平橋駅は役目を終えて廃止された。
 初代の駅舎は豪華であった。東京駅と同様に辰野金吾の設計による赤煉瓦造りで、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室等を備えていた。また、貨物用のエレベーターも整備されていた。中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面への総武線の敷設計画をも見据えたものであった。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である廣瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に最盛期を迎えた。
 しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。1919年(大正8年)3月1日、万世橋 - 東京が開通。中央本線の起終点としての役目は7年で終わった。同年、神田駅が開業。1925年(大正14年)11月1日には、上野 - 神田間の高架線が完成。秋葉原駅が旅客営業を始めた。一方、万世橋駅は1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失し、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎が再建された。

 4.凌雲閣

Ryounkaku 明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で半壊し、解体された。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。
 1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。
 1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。
 2012年10月23日に凌雲閣南側の映画館跡に松竹が建設する再開発ビルが、凌雲閣を再現した構造とする計画があることが報じられた。ただし街並み整備地区計画による36mの高さ制限があるため、当時の高さよりは低くなる見込みである。

 5.鹿鳴館

Rokumeikan 国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建て られた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が 広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。
 煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。
1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。1898年にコンドルが改修工事を行い、外観が変更された。
1927年(昭和2年)、華族会館の敷地が日本徴兵保険会社に売却された。1930年に保険会社のビル(3階建)が新築されたが、旧鹿鳴館の建物は残されていた。建物は後に華族会館となり、1940年(昭和15年)に取壊された。鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。千代田区内幸町の跡地には「鹿鳴館跡」のプレートが設置されている。現在、跡地にはNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が立っている。

 6.池田屋

Ikedaya 幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件が発生した。池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。
 御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける(彼らは後の新政府により俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士達は三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。
 長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に禁門の変を引き起こした。
 事件後、池田屋は人手に渡り、その後別の経営者が佐々木旅館として営業していた。1960年頃まで当時の建物も遺っていたが、その後取り壊され佐々木旅館も廃業。跡地はテナントビルやパチンコ屋など転々としたが、2009年に居酒屋チェーンのチムニーが居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業している。
 当地には佐々木旅館の縁者が建立した「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。それにしても、あの歴史的大事件で、その名を全国に知らしめ、現代においても英雄として名を刻む「新撰組」の活躍があった場所が、現在は全国チェーンの居酒屋とは・・・。

 7.近江屋

Oumiya_r_2 江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年 12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺 された事件。この事件では、事件当初は新選組が実行犯だとの噂が流れて、それに関連して天満屋事件などが起こったが、実行犯は見つからなかった。しかし、1870年(明治3年)に見廻組隊士だった今井信郎の供述が転換点になり、見廻組が実行犯であることが有力となった。現在の歴史学上では見廻組の佐々木只三郎らを実行犯とする説が通説として扱われている。
 現在、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている場所は、当時の近江屋の北隣にあたる。建立場所が隣地になったのは、1927年(昭和2年)の建立の際、土地所有者の了承が得られなかったためとされる。

 こちらも、池田屋と同様、京都に存在したが、今その有名な場所が再現されず、居酒屋や旅行会社、コンビニが建ち、片隅に跡地を示す石碑が残るだけの寂しい状況。どうも腑に落ちない。

 8.吉原遊郭

Yoshiwara 江戸幕府によって公認された遊廓。始めは日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
 このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる(当時の)海岸に近い、葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画で、葦の茂る、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。
 寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になっていった。
 こちらは歴史的価値として再建し保存してほしい。もちろん建物だけである。

 9.本能寺

Honnoujato 京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。織田信長が明智光秀の謀反に遭い、討たれた「本能寺の変」で知られる。1582年(天正10年)明智光秀の率いる軍勢に包囲され打死する事件(本能寺の変)が起き、その際、堂宇を焼失した。
 1591年(天正19年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転させられた。伽藍の落成は、1592年(天正20年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。つまり、歴史に名を残す織田信長が命を落とした「本能寺」は、別の場所に移転してある。現在の京都の堀川高校東側の小川通り沿いにあったとされる。2007年(平成19年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっている。それにしても歴史に名を轟かし、日本人が好きな歴史上の人物のベスト3に挙げられる偉人の終焉の場所が、今やマンションとは・・・。500年も前の出来事とはいえ、「戦」という殺戮が繰り広げられ、大勢の兵士が亡くなった場所に住んでいる住民は、どのような意識と感覚で毎日の生活を送っているのだろう。

10.聚楽第

Jyurakudaiato 安土桃山時代、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区)に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。なお当時の文献には単に「聚楽」、あるいはまれに「聚楽城」と現れる。竣工して8年後に取り壊されたため構造などについては不明な点が多い。
 聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。
 九州州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や2004年に発見された「洛中洛外図」(江戸初期)などの絵図に描かれており、さらに国立国会図書館などが所蔵する「聚楽古城図」では本丸北西隅に「天守」の書き入れがあるので、天守の存在が推定されているが、一方で天守はなかったのではないかという指摘もある。内郭部の規模は、秀次の家臣駒井重勝の『駒井日記』に詳しく記されている。それによると本丸の石垣上の壁の延長は計486間、三つの曲輪も含めた四周に巡らされた柵の延長は計1031間であった。
 聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。なお、西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門など聚楽第から移築されたという伝承がある建造物も少なくないが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ研究者の間で聚楽第の遺構と認められている建造物は唯一2003年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された大徳寺の唐門だけである。
 聚楽第は、現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていない。現在、中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点)と中立売通裏門南西角(本丸西堀があったとされる地点)の2箇所に『聚楽第址』の石碑があり、聚楽第の在った位置をおおよそ知ることができる。

 さて、今回は、古き佳き時代に、歴史の中心に鎮座していた建造物に焦点を当ててみたが、ぜひ観光などで訪れる際に、候補地のひとつとして参考にしてほしい。そこに、かつて存在し、歴史目撃して来た重要な建造物。今は姿・形が残ってはいないが、その場所に建てば、歴史の足音が聞こえるかもしれない。そこで行われていた華やかな伝統的な行事も見えてくるかもしれない。跡も形もない場所については、再建なり復元して歴史的遺産の建設、および保存を懇願するものである。

 記事作成:10月19日(日)

 追 記

 この日、私がこの記事を昼に書き上げたところ、時を同じくして夜の21時からNHKで、「カラーでよみがえる!東京100年の映像物語」が放送された。なんと、私が記事に記した凌雲閣や万世橋駅まで登場した。私が記事にすると、それが何故かテレビ等で取り上げられ、注目される不思議。ジンクスはまだ続いていたようだ。

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