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2015年2月24日 (火)

郡山市の誘致活動失敗事例

 これまで当ブログで、我が故郷の郡山市についての記事を30回以上に渡って掲載してきた。本日お送りするのは「負の遺産」である。郡山市は、福島県の中央に位置し、東西南北に高速交通網や鉄道が整う交通の要衝である。昔から宿場町として栄え、人や物資の交流が盛んな土地柄であり、人口33万人の中核都市および県内では商都となっている。
 そんな郡山市において、過去に予算を計上し、誘致や招致活動を展開しながら、実現に至らなかった事例が数多く存在する。いずれも各方面の利権が絡んで失敗したケースが殆どだ。今日のテーマは、「地方都市の誘致運動失敗」の事例報告としたい。税金の無駄遣いで、余計な予算を支出しないための反面教師として貰いたい。

 「郡山そごう」

Sogo 昭和50年頃の商都・郡山は駅前に首都圏資本の大型百貨店やスーパーをこぞって誘致し、競争が活発化した。1959年に既存の「丸伊デパート」を買収して誕生した「うすい百貨店(第2うすい)」、1967年には呉服屋の色合いが濃かった「津野本店」、同年12月に駅前に進出した老舗の「丸光デパート」に加え、1969年には「イトーヨーカドー」、1975年には「西友ストア」、「クレジットデパート丸井」、「ダイエー」が立て続けに出店し、駅前を取り巻く商戦は大激戦となった。
 
 しかし、競争が激化したことで、客が分散化し、売り上げが一気に激減。マイカー族が増えたこともあり、駅前では駐車場の確保がままならず、結果的に客足が遠ざかることとなった。するとまず、丸光デパートが1980年(昭和55年)1月に閉店して撤退、昭和57年頃から駅前周辺の空洞化が深刻化し、一気に斜陽を迎えた。個人的には丸光が12年と1か月間の営業で閉店したとは思えないほど慣れ親しんだデパートだったし、各フロアは古い印象があった。こうした相次ぐ撤退劇で、郡山市は危機感を抱いた筈だ。そして1987年(昭和62年)には、郡山の地場百貨店だった「津野デパート」までもが廃業した。
 百貨店業界が衰退を見始めたその頃に、当時の「高橋堯」市長が、商業活性のための起爆剤として「そごう」の誘致に乗り出した。これに対し、地元の「うすい百貨店」を中心とした百貨店業界の労働組合が頑なに誘致拒否を表明。昭和60年の郡山市長選で、誘致反対を表明した現職の県議会議員だった「青木久」氏が無所属で立候補し、現職を破り初当選を果たした。

 私はこの選挙戦は記憶に新しいが、選挙最終日の夕方から夜にかけて、青木久支持者がシュプレッヒコールをあげながら大挙してさくら通りの歩道を行進したのを目の当たりにし、その切れ目なく続く人の波に、「青木新市長誕生」を予感した。私の祖父が、現職の応援に回り、市内各地で演説などを行っていたため、落選の報には驚いた。
 その青木氏が新市長に就任すると、直ちに「そごう誘致白紙撤回」に着手。郡山市民の理解が得られなかったとして「そごう」側も、一旦はまとまりかけていた郡山進出を1986年に正式に断念した。
 政治は一寸先は闇をこの時痛感した。市長が変われば方針が180度転換するのだと。

 その後も業績悪化による百貨店の撤退に歯止めがかからず、ダイエーから変った子会社の「ディスカウントストア・トポス」も1994年(平成6年)に撤退し、その後、「イトーヨーカドー」が西ノ内の「西部自動車学校」跡地に移転し、「ジャスコ」(現在「イオン」)が日和田町の4号バイパス沿いにオープン。2000年(平成12年)には、郡山駅前の「西友(郡山西武)」が閉店し、「ザ・モール郡山」として長者の日東紡績第2工場跡地へ移転したことで、駅前はますます活気を失った。

 最後まで粘った「丸井」もまた2008年(平成20年)に遂に閉店してしまった。人の流れは駅前から郊外へと移ってしまい、駅前はますます空洞化が顕著になった。その後も、駅の東側の「イオンタウン」のオープンや「ベニマル」の増設などで、ますます郊外の住宅街が賑わう皮肉な結果となった。ここに商都・郡山のネームバリューは脆くも崩れ去った。
 しかし、ここで素朴な疑問がある。もしも「郡山そごう」が実現していたら、その店舗はどこにできていたのだろうか?駅前?それとも郊外?駅前だとしたら、駅の西口再開発の目玉だったろうし、ビッグアイは無かったかも知れない。

 「東海大学」

 1984年に誘致準備事業団が設立し、85年には財政負担80億円程度なら誘致すると青木市長が表明。1986年6月には2学部6学科540人の計画と東海大郡山校舎“直営で”大学側が構想を打ち出したことで設立準備財団は白紙に。そして同年11月には、募金分の40億円が目処が立たず、昭和64年開校が宙に浮く。翌年1987年2月には東海大学誘致を断念。郡山市議会で青木市長が誘致協定解消を正式に表明した。
 以下、「郡山シティー」の「文教都市をめざせ」のサイトを引用します。

  東海大誘致では、それまで話し合いを進めていた高橋氏が'85年の市長選で敗れ、青木氏に交代した直後から条件面での厳しい要求が前面にあらわれ、結局、誘致は実現に至りませんでした。その後、東海大は他の地方都市に進出したと聞きます。その時の進出条件はどうだったのか、大いに気になるところです。初めに密約があったのか、青木市長(当時)との話し合いの過程で総長の心変わりがあったのかどうかは謎のままです。

Tokai

 この話が立ち消えた後、東海大学は1986年に法学部を新設、1991年には5学科(感性デザイン学科、情報通信工学科、物質化学科、生物工学科、医用生体工学科)からなる開発工学部を沼津市に開設した。よって、もし郡山に東海大学が出来ていたら、このいずれかの学部だったと想定できる。

 その後も郡山市は、'88~'89年には「暁星国際大」、「交通科学総合大」、「日本医大」の進出話が浮上しましたが、青木市政が積極的に取り組んだ「暁星国際大学」も議会と対立する局面が多々あり断念に追い込まれた。青木氏は教育にはあまり関心がなかったと見え、再三に渡る誘致政策は頓挫の連続で、結局は積極的な誘致はT&Mだけで、教育改革は大失敗に終わった。

 当時、郡山には「日本大学工学部」、「東北歯科大学」、それに「郡山女子大学・女子短期大学部」しかなかった。ここに東海大学の学部があれば、学生が全国からやって来て、街も活性化していたと思う一方、大学側は学生の奪い合いとなり、死活問題になっていたかもしれない。

 「テキサスA&M」

 1980年代、郡山市は地域振興のため東海大学の誘致を目指していたが、失敗に終わ
る。そこで1990年頃に海外の大学の日本校がブームになると、当時の青木久市長はアメリカのテキサス州にあるテキサスA&M大学(Texas A&M University)の日本校誘致に方針を転換する。1990年(平成2年)5月19日、学校法人郡山国際学園の運営により郡山市本町に仮校舎で開校した。

 郡山駅に近く、立地には比較的恵まれていたものの、プレハブの校舎とそれに囲まれる形で中庭に位置するバスケットボールコート1面以外には何もない、極めて小規模なキャンパスであり、当初の予定では、いずれは本校舎を建設してそちらに移る予定だった。
 しかし、1990年度の入学者は、170 - 200人の定数に対して69人、1991年度の入学生は、定員 300人に対して82人と入学者が予想を大きく下回ったため、開校直後から税金の無駄遣いではないかと、市を二分する大問題になり、やがては駅西口再開発と並ぶ市長選挙の争点の一つになった。
 1993年(平成5年)の市長選挙で、青木市長に代わって藤森英二市長が当選すると、翌1994年(平成6年)に閉校になった。「そごう誘致白紙」で当選した青木久市長は、「T&M」誘致で失脚し、その存続に異論を唱えたかつての部下(市役所幹部)だった藤森英二氏に敗れる皮肉な結果となった。青木氏の誘致策は失敗の連続だった。

Tamu

 この事業が失敗した理由には、日本の大学卒業資格が得られない、単なる専修学校扱いだったこと。日本の大学と同等の単位認定が不可能だったことで、アメリカの本学に編入しなければ、何の意味もないことがバレたためだ。結局は平成6年8月31日で閉校になり、190名いた学生はアメリカの本校へと移籍することとなった。名前に踊らされて飛び付き、大失敗した典型例。市県民税の無駄遣いで終わった情けない施策だった。 

 ​場所は、東北本線沿いの本町の高層マンション「サンロードステーション21」の北隣りで、住所は「〒963-8871 福島県郡山市本町1-20-22」 
 しばらく更地状態だったが、今は、福島県看護協会会館看護研修センターがある。

 「東北文化学園大学薬学部」

 2003年、8月突然に出てきた薬学部誘致の話は、計画が立ち行かなくなった大学側の一方的な判断で、中止となった。
 2004年2月国税庁の査察、3月仙台育英高校の水増し受験、財務諸表の数字の違いの問題が発覚、そして4月20日、平成9年の大学認可申請時の架空寄付問題が決定的になり大学の存続の危機に、4月27日の二重帳簿発覚から大学側が薬学部断念を決意、そして6月21日民事再生法を申請した。 
 郡山市は、5月7日全員協議会を開き、薬学部断念を正式に発表し、6月2日『東北文化学園大学薬学部設置に関する基本協定及び土地使用貸借契約の解消及び清算契約書』を締結。郡山市は大学側に誘致のために予算執行した費用(2億168万円余り)を請求した。しかし、東北文化学園大学は、2004年6月21日民事再生法を申請、大学は存続の道をたどれますが、郡山市が求めている賠償保障は請求額が圧縮され平均的には、多くて10%から2%とのことだった。
 また、郡山市の大学誘致の失敗を巡り、市民17人が同市を相手取り、藤森英二・前市長に約2億円を請求するよう求めた住民訴訟で、仙台高裁は16日、請求を棄却した1審判決を支持し、住民側の控訴を棄却した。小野貞夫裁判長は「予算執行の適正確保の見地から見過ごし得ない瑕疵(かし)があるとまでは言えない」と指摘した。

Tohokubunka

 この失敗を補填するかのように、既存の「奥羽大学」に薬学科が誕生した。しかし「薬剤師」の資格が4年制から6年制に変更され、私大だけに巨額な学費がかかるため、倍率が1~1.3倍程度と苦しい経営が見られる。

 「立志館大学」

 広島県安芸郡坂町に本部を置いていた日本の私立大学で、2000年に設置された。 学校法人広島女子商学園が経営する広島女子商短期大学を母体として、2000年4月に広島安芸女子大学として開校した。
 開校当初より定員割れで経営難に陥り、2001年にジェイク医療福祉技術専門学校(現・郡山健康科学専門学校)などを運営する学校法人佐久間学園が経営支援を表明。
 2002年4月に男女共学になり立志舘大学と改称。佐久間学園の地元である郡山市への保健福祉学部の新設等も計画したが、理事長による資金横領等が発覚し、同年10月に理事長が辞職し佐久間学園が支援から撤退。その結果経営に行き詰まり、2003年3月に一度も卒業生を出さずに廃校となった。

Rissikan

 「新設医学部系の大学」設置構想の失敗

 医学部脳神経疾患研究所を中核とする南東北グループ大学の設置を検討し、「国際復興記念大医学部医学科」(仮称)を福島県郡山市にそれぞれ新設する計画があった。そして厚生労働省の認可申請を行ったが、無慈悲にも認可されなかった。将来的にも継続的な放射線被害による健康問題に対処するために、是が非でも研究機関を有する大学病院の新設が必要だった。陽子線治療施設や現在工事中のホウ素中性子補促療法施設の運営にも弾みがつくことを期待した。
 しかし国は、こうした事情を百も承知で拒絶し、仙台への設置を許可した。

 これ以外にも、誘致ではないが、郡山市内の学校関係の不祥事は多い。廃校に追い込まれた「ジェイク」(国際ビジネス専門学校&医療福祉技術専門学校)のトップの横領事件、「アイシーケア介護福祉専門学校」もまた、指導者の数が充足していない問題が明るみに出て、一時経営が停止した経緯もある。また、ホテルハマツの西隣りの細長いビルで運営していた同じ系列の「アイシービジネス専門学校」も今はもう無い。実に残念でならない。

 他にも福島県自体が「首都機能移転」のPRで使った宣伝広告費や誘致にかかる費用は莫大で、そのツケは大きいし、県民が負担した額は相当大きい。行政は市民や県民目線で考えるべきである。

 首都機能移転推進CM https://www.youtube.com/watch?v=p7v_PJPxxLQ

 さて、今回は郡山に足掛け40年以上住み、税金を払い続けている私が、行政の失敗に対する不満めいたことをまくし立てた感が強い。私の家庭では、毎月夫婦合わせて5万円以上もの住民税を払っている。ということは、年間60万円。仕事に就いてから会津といわき勤務を除き、郡山市に21年間も居住し、税金を払い続けている。通算すると実に1,200万円以上にも上る。これだけ税金を郡山市に払っているのだから言う権利は十分あるだろう。源泉徴収だと見えずらいが、冷静に考えると多額である。だから税の無駄遣いは腹立たしく感じるし、許しがたい。行政の窓口は、「親方日の丸」のお役所仕事で、いつ市役所を訪れても、利用者からは罵声が飛び交っている。この現状をどう考えているのか。市民あっての役所ではないのか。それをぞんざいに扱いすぎる。
 市は、実にもならないくだらない誘致のために、無駄に財政を投資するのではなく、シフトチェンジして被災者を含めた福祉関係に予算を支出したほうがいい。昭和60年以降、この30年のうちに学校招致や企業誘致関連で、これだけ失敗しているのを真摯に反省すべきだ。もう少し、為になる予算執行をして貰いたい。重ね重ねだが、同じ轍を踏まないよう厳粛に受け止め、市政運営をお願いしたいものだ。

 記事作成:1月30日(金)~31日(土)

 

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コメント

>>この事業が失敗した理由には、日本の大学卒業資格が得られない、単なる専修学校扱いだったこと。日本の大学と同等の単位認定が不可能だったことで、アメリカの本学に編入しなければ、何の意味もないことがバレたためだ。結局は平成6年8月31日で閉校になり、190名いた学生はアメリカの本校へと移籍することとなった。名前に踊らされて飛び付き、大失敗した典型例。市県民税の無駄遣いで終わった情けない施策だった。

神戸市北区にかつてあったエドモンズ大学日本校も同じでした。

>>市は、実にもならないくだらない誘致のために、無駄に財政を投資するのではなく、シフトチェンジして被災者を含めた福祉関係に予算を支出したほうがいい。昭和60年以降、この30年のうちに学校招致や企業誘致関連で、これだけ失敗しているのを真摯に反省すべきだ。もう少し、為になる予算執行をして貰いたい。重ね重ねだが、同じ轍を踏まないよう厳粛に受け止め、市政運営をお願いしたいものだ。

そのとおりです。

 ・・・エルさん、初めまして。コメントありがとうございます。この郡山市の例だけでなく、日本各地に似たような例がたくさん存在するということですね。一体行政は何をしているのか。全く持って先見の明がないですね。
 今は日本の大学も、少子化でこうなると分かっていたのに、10年前から補助金や助成金目当てで私大を中心に新設や学科増設などが相次ぎましたね。結局、今になって定員割れして、経営が行き詰まり、廃校になった大学もたくさんあります。被害を受けたり犠牲になるのは学生というのはあまりにも酷いお粗末な話です。(SUZU)

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