郡山の魅力再発見!⑨~今は無き建造物~
今週は、「郷土愛ウィーク」として地元・郡山市に関する記事を掲載致します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このシリーズ記事も今回で9回目を迎えた。我が故郷にして居住地である福島県郡山市。震災以降、原発の放射性汚染物質拡散を含んだ被災地というイメージが定着してしまったが、その記憶が薄れてしまうほど活気に満ちた街だ。最近は「郡山ナンバー」が交付されるなど、故郷への帰属意識にも熱が入っている。そんな郡山市に関する記事で、今日は、昔あって、今は無くなってしまった建造物をクイズ形式で取り上げたい。50歳以上の方には懐かしいと思うし、簡単だと思いますが、ぜひ昔の記憶を甦らせて、一緒に考え、お答えください。
では、次の写真をご覧ください。いずれもかつては郡山に実在した建物です。さて、それらはいったいどこでしょうか?
<クイズ!この場所はどこだ!?>
Q.1
ヒント:左下に重要な建物が映り込んでいる・・・。
高さはまさかの20m越え。当時としては群
を抜く高さの建造物だった。てっぺんには2
人の人が立っている!見るからに怖い。
Q.2
ヒント:郡山市民憩いの場。現在の郡山市民文化センターが竣工するまではここで
いろいろな催しが開催された。
Q.3
ヒント:かなり歴史のある建造物。この時代は、
社屋や店舗を中心に石造りの外観が多
く建造された。
Q.4
ヒント:これは明治時代にあった建造物で、90歳
以上の方でもなかなか当てるのが難しい。
よくこんな歴史的な建築物があったものだ。
映画のセットでよく見かける。
Q.5
ヒント:さくら通り沿いにあった商店街。結
構、市街地にある。その南側には、
平屋の老舗旅館という風情の「染
本ホテル」があった。
Q.6
ヒント:さくら通り沿いにあった。右側の店舗
が大ヒント。このスーパーの隣りには
決まって東邦銀行が寄り添うように建
っている。Q.5の建物と至近。
Q.7
ヒント:昭和初期に落成された建物。この時代に
しては大きな建造物だ。ヒントは3代目会
頭の太田三郎氏がこの建設に尽力した。
Q.8
ヒント:さくら通り沿いにあった巨大工場。今は巨大ショッピングモールになっている。
Q.9
ヒント:郡山市内から16キロ北東に行った温泉街にあった遊戯施設。今は更地
となっている場所。
Q.10
ヒント:こんな一見長閑な風景だが、なんと市
街地にほど近いさくら通り沿いにあった
名物の建物だった。
<解答編>
A.1 麓山の高架水槽
現在の中央図書館の付近に立っていた。麓山の滝の西隣り辺りだ。
それが証拠に、左下に郡山市公会堂が映り込んでいる。高さ21.3mで、
直径は7.2mあった。
A.2 郡山市民会館
「スター誕生」や「NHKのど自慢大会」、「笑点」などの公開録画も行われた。
私が小学生時代、ここで合奏コンクールに出て、金賞をいただいた。また、
高校時代には、谷村新司コンサートも見に行った。ラジオ福島の公開録音で
抽選で当たって景品をもらった記憶がある。場所は今のNHK郡山放送局の
西隣りで、現在は駐車場になっている場所だ。
A.3 郡山電力株式会社
今は細沼町の合同庁舎北側に「東北電力」があるが、当時は国道4号線沿いの
中町にあった。
A.4 駅前にあった「凱旋門」
日露戦争に出兵した地元の兵隊を迎えるために建てられたと言われている。日
露戦争では、郡山郡やその周辺の村(大槻・富田・喜久田・桑野など)から数多く
の若者が戦争に駆り出された。郡山駅前の交差点付近にあったと推測される。
A.5 清水台商店街
アイスキャンディーや洋菓子屋の松風堂や星鑑定所なる古本屋などがあった。
桜通りを挟んだ南側の真向いでは、かつて遺跡が発掘され、調査が行われた。
A.6 ヨークベニマルさくら通り店
高校時代に私が短期間、アルバイトをしていた。今は虎丸公園になっている。昭
和初期には第二尋常小学校(現在の芳山小)があった。この向かい側にはトキワ
スーパーと赤トリ井があった。さくら通りとは名ばかりで、開成山付近にしかなかっ
た。昭和60年頃までは、柳並木の通りだった。しかも秋には葉が伸びすぎて、こ
んもり車道にまで垂れ下がり、夜中は薄気味悪かった。だから伐採し、すべて植
え替えた。このベニマルは、現在のツルハドラッグとドコモがある交差点に移転し
たが、5年ほどで撤退した。斜め向かいに「ザ・モール郡山」があり、駐車場が手
狭で面積も狭すぎて、品数も少なかったためだ。
A.7 郡山商工会舘
現在は郡山市清水台にあるが、平成23年に発生した「東日本大震災」で損壊し、
平成26年に全面的に改築され、リニューアルされた。
この写真は、昭和8年12月に旧郡山町役場後に建築された商工会館。
A.8 日東紡績第二工場
もちろん細沼と麓山の間に第一工場があった。私の実家のすぐそばにこの第二
工場が平屋建てのように低く長く繋がるように建っていた。私はその壁にボール
当てをして遊んだ。一方通行だった。今の安積黎明高校の東南の向かい側で、5
階建てくらいの女子寮も敷地内にあった。とにかく敷地が広かったことを覚えてい
る。守衛室は南東側の角地に遭って、その通りを東に100m先に日東病院があ
って、その斜め向かいに第一工場への入口(裏門)があった。現在は21世紀記
念公園になっている場所だ。
A.9 磐光パラダイス
昭和40年代、郡山市内には「郡山レジャーセンター」とこの「磐光パラダイス」が
あった。3階の座敷のステージで行われる金粉ショーなどが名物だった。私は小
学生の頃、ここで「フィンガー5」ショーを見た。ここのゲーセンで、メンバーの玉村
妙子を追いかけ、サインを貰おうとしたら、私の前の人で切られてがっかりした覚
えがある。この東に磐光グランドホテルが隣接していて、ホテルに潜入して宿泊部
屋を探してうろちょろしていたら、エレベーターのドアが開いて、いきなりメンバー5
人が目の前に登場し、マジでビビったことを思い出した。このホテルは、前身の磐
光ホテル時代、1969年(昭和44年)2月5日に大火に見舞われ、30名もの方が
亡くなられた。当時4歳だった私は、さくら通りを何台もの消防車が通過したのを
覚えている。
CMはコチラ https://www.youtube.com/watch?v=VHavUr4hdfA
A.10 百軒長屋
長者町にあった。現在の「真澄院」と駐車場があるところ。芳山小学校の南隣りか
らさくら通りに至るあの広大な土地に長屋が並んでいたのだ。アパートや同級生
の自宅も多数あった。日東サービス、印刷所、八百板正議員の自宅、さくら通り
沿いには商店街があった。理容所、焼き鳥屋、写真屋、釣り具屋もあった。私が
小3の頃、ピアノを習っていたS先生の自宅もあった。そこには日東紡第二工場
側へ渡れる歩道橋もあったし、安積女子高校の東隣りにはカネボウ化粧品の大
きな店舗が聳え立っていた。その後、そこは取り壊され、大きな駐車場になった
が、その後は宗教団体の近代的な寺院と広い駐車場となっている。
その他の懐かしい写真
これはかつて郡山駅前に建っていた「平和の女神像」。郡山のシンボリックな役目を果たした石造だった。駅前拡張工事に伴い、現在は「郡山総合体育館」の一角に移築した。昔は駅前に、アルファベット筆記体の「M」のような白いモニュメントもあった。一時、旧星総合病院のY字路の真ん中に鎮座していた。今もあるのだろうか?
これは、昭和50年代頃の中町商店街。駅前はとにかく活気があった。うすいの前のこの通りは、日曜日には銀座のように歩行者天国と化し、多くの買い物客で賑わった。今は閑散としていて淋しい限りだ。この通りは現在は綺麗に整備されたが、肝心の店が次々潰れてしまった。関川本店、会津屋洋品店、鈴屋、ツタヤ、靴のタカマツ、アメリカ屋、チロンヌップ、山ノ井、関川本店など名店が多かった。第一うすいとその隣にはトミヤという観覧車が屋上に建つ百貨店もあった。この時代は、津野デパート、丸光デパート、うすい2店舗、イトーヨーカドー、ダイエー、西友、丸井と相次いで出店し、競争が激化した。
こちらは今も細沼町に現存する県の合同庁舎。由緒ある石造りが歴史を感じさせる。今でこそ合庁だが、昭和42年に朝日町に移転するまで、ここが市役所だった。小学生の頃、土台の床下に忍び込んで蝋燭片手に探検ごっこをした覚えがある。建物の前は、昔は池だった。そしてここは、あの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた自衛隊市ヶ谷駐屯地に造りが似ていることから、再現映画「MISHIMA」(緒形拳主演)のロケに使われた。
今度は逆。駅前のこの建物は、25年前は何と言う名前だったでしょうか?
答え:「丸光デパート」です。地下1階の食品売り場に小学生の頃に入り浸っていた。ここのラーメンを食べては時間を潰したものだ。また、床が木のフロアだった。エレベーターで6階のおもちゃ売り場と屋上の遊園地は小学生には堪らない遊び場だった。大型の電動遊具があって、回転飛行機やコーヒーカップなどもあった。子供だましのゲーセンもあった。駅前大通りを横切る地下道には時々ストリートミュージシャンやアクセサリー細工を売る行商人もいた。そこから直接丸光に出入りできる階段があった。何とも懐かしい。
今は無き建物
こちらは麓山にあった中央公民館。平成23年3月11日起きた「東日本大震災」で、ここ郡山市内は震度6弱の激震に1分以上もの間さらされた。これによりこの建物も大規模損壊した。この麓山地区は、古い建物が多く、キシモト肉屋の店舗兼マンションも1階の土台部分が崩れ落ちてしまった。NHKやFCTにほど近かったせいもあって、全国ニュースに出るほどの崩壊だった。あれで死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。現在は再建中。間もなく完成の見込みだ。右上の写真は東日本大震災写真保存プロジェクトのHPよりお借りしました。ありがとうございます。
旧国道本町方面から北に向かって撮影。中央に「第2うすい」の表示が見えるが、その屋上(写真右上)には昔あった観覧車が見える。そして写真右下に入口の庇が見えるのは、当時ここにあった「イトーヨーカドー」だ。現在の「オーディオのだや」の前あたりだが、この付近には「ヤマト無線」があった。今となってはお宝写真だ。走っている年代物の車を見れば、時代の古さをうかがい知れる。おそらくは昭和40年代初期くらいだろう。
記事作成:1月29日(木)~30日(金)
« 「THE 異変」(天変地異) | トップページ | 郡山市の誘致活動失敗事例 »
「郡山の話題」カテゴリの記事
- 郡山の魅力再発見!55 ~ネーミングライツ~(2018.04.11)
- なぜか閉店する私の行きつけ(2018.03.24)
- 郡山の魅力再発見 ! 54~県外の方に訪ねてほしいスポット7選~(2018.03.06)
- 郡山のなぜ(2018.02.23)
このような記事を待っておりました
自分の親は二十年も前でしたが長者の釣具屋さんの隣の印刷活字を扱う小さい会社に勤めていました
また昔の写真を観れるのを楽しみにしております
・・・ざきさん、コメントありがとうございます。もしかして「東北イワタ印刷所」という印刷屋さんでしょうか?私も一度、見学させてもらったことがあります。この記事の百軒長屋の芳山小学校へ向かう道路沿いにあった活字印刷のお店でした。小学生の頃、通学時に必ず通っていましたので、よく覚えています。釣り具やさんは「澤田釣り具」だと思います。
近くにはヤマニという看板屋さんや「まるせい」という名前の文房具屋さんもありました。
私の記事で昔を懐かしんでいただけたら何よりです。
こうした郡山に関する話題は下の「郡山の話題」というカテゴリーに入っていますので、ぜひご覧ください。(SUZU)
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/cat60492139/index.html
投稿: ざき | 2015年2月23日 (月) 20時06分
ありがとうございます
まさに東北イワタです
今は無くなってしまいましたが、そこを通る度に思い出します
その近くのさくら通りの歩道橋も無くなってしまい残念です。
・・・やはりそうですね。古い話はよく覚えています(笑)。懐かしい話は大歓迎です。また何か気になる記事があればコメントよろしくお願いします。(SUZU)
投稿: ざき | 2015年2月24日 (火) 01時27分