郡山の魅力再発見!⑬ ~不思議スポット~
以前、当ブログにて「郡山市にある世界遺産」と「郡山発!おもしろオブジェ大集合」、「郡山発!おもしろオブジェ大集合第二弾」という記事を書いた。正確には「世界遺産もどき」とかパクリの範疇だが、ご当地・郡山市には、もっと不思議な場所が数多く点在しているのだ。
今回は、あまり知られていないスポットや歴史的な場所に焦点を当ててみたいと思う。
1. 謎の「世界のビール博物館」
http://www.fukulabo.net/is/tv/012.html (地図や詳細はコチラ)
これは郡山市民でもなかなか知らない人が多い筈。。世界中のビール缶を2万本も集めてミュージーアム化したようだ。店内いや、博物館内は迷路のような狭い通路の両側の棚に、所狭しと綺麗に並べられたビールの空き缶がズラリ!まさに日本最大級の品ぞろえだ。
場所は笹ノ台のファミマの向かい側。開成6丁目だが、針生前田地内。
2. 飛行場
郡山にはかつて飛行場が2つ実在していたのをご存知だろうか。第二次世界大戦まで、今の日本大学工学部付近にあった。旧日本海軍が作ったもので、第一航空隊(整備教育用)が現在の日大、第二航空隊(練習訓練用)は田村工業団地内にあった。
詳しくはコチラのサイトをどうぞ!
http://1901rjtt-to-roah.blog.so-net.ne.jp/kouriyama_airfield
浄土松公園から逢瀬公園に向かう道路にも飛行場を建設する計画があったが、着工前に終戦を迎え、幻となった。軍需用の飛行機格納庫(二穂田飛行機工場)があったからだ。
3. 競馬場
現在の開成山公園内にあった。五十鈴湖を囲むように整備されていた。
開成山競馬場では1928年の地方競馬規則により建物改修を迫られ、翌1929年に新築されると同年から地方競馬開催を始めたが、1939年に軍馬資源保護法が公布されると、1940年から1944年にかけて鍛錬馬競走を行った。
1949年、新競馬法を受けて郡山競馬場として福島県営の公営競馬として再開され、翌1950年から郡山市営に移ったが、1956年に廃止されている。
4. 古墳・遺跡群
横穴式墓・・・霊園手前「小川蝦夷穴」
古墳・・・大安場、清水台、針生古墳、田村町、咲田、守山、喜久田、福原に数多く点在
清水台遺跡は、奈良~平安時代に安積郡の郡役所が設置された場所で、これが現在の「郡山」の名称の元にもなっている。松風堂というお菓子屋さんがあったさくらセンタービルの向かい側。現在はライオンズマンションが建っている場所だ。
「郡山にある古墳」サイトを参照ください。
文化財研究調査センター http://www.bunka-manabi.or.jp/history/ruins.html
5. 防空壕
郡山の駅前にも数カ所あった。有名なのは駅前の旧寿泉堂綜合病院近辺と旧太田記念病院があった辺り。
また駅の東側に化学工場があったことから、B29が飛来し、爆撃を行い、学徒動員の女子高生26名を含む多くの市民(460名)が爆死したことから、小学生以下の児童は市内の河内や逢瀬町、多田野近辺に集団疎開したために、防空壕がかなり掘られた。
浄土松公園の防空壕は平成3年に調査が行われた。その結果は以下の通り。なおこの資料は「再生おじさん」のブログ記事を引用させて頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
②浄土松山の岩石は軟質なため、防空壕はかなり風化しており崩れ易い。
③防空壕の掘られている範囲は、浄土松公園の他、県立少年自然の家付近、及び中丸地区とかなり広範囲である。
④公園入口の芝生広場を中心として10箇所あったが、入口が確認できるのは3箇所だけである。
⑤元々駐車場より低い谷間であったが、2つの大きな壕を掘った際に出た残土によって現在の高さになった。
⑧ここには部隊(田村町金屋の海軍航空隊の分遣隊)本部があり、三角兵舎があった。
⑨野営場も元々急坂な谷間であったが、排出された残土で埋められ平坦になった。
⑩昭和18年の終わり頃から掘り始められた。
⑪各々の穴の内部には横穴があり、相互連絡できる様になっていた。
⑭工場関係事務に携わった方の記憶によれば、この飛行機工場は、中島飛行機太田工場の系列で扶桑第130工場という名称で、夜間戦闘機「銀河」を作る予定であった。
⑮地上工場の敷地は、東西30m×南北100mで現在も残っている。
⑯村人たちは、昭和18年~20年にかけて、勤労奉仕作業に動員された。
⑰軍の計画は、大槻に飛行場を、多田野・三穂田地区に工場や軍事格納庫等を設置する計画であった。
⑱大槻と大谷の間に広い道路兼滑走路が作られつつ(未完成らしい)あり、大槻飛行場が使用不可能となった際には、この真っ直ぐに作られた軍用道路が「大谷滑走路」となり、浄土松の飛行機を離陸させる計画であった。
6. 不発弾
2011年2月16日午後3時20分ごろ、福島県郡山市本町一丁目の市道本町谷地林線の道路拡幅工事現場から焼夷(しょうい)弾とみられる不発弾のような物が見つかった。市と郡山署、郡山消防署が長さ約20センチ、直径約5センチの円筒形の物を確認した。
県警の要請を受けて山形県東根市の陸上自衛隊第六師団不発弾処理班が対処し、午後10時半ごろに2個を回収した。
市と郡山署などによると、業者が工事のため重機で掘削したところ、地中約1メートルから金属製の物を発見した。作業員は「火花と白煙が出て、異臭がする」と市に連絡。当初はガス漏れの可能性も疑われたが、同署は焼夷弾の可能性が高いとみて陸上自衛隊に協力を要請した。隊員3人が午後9時40分ごろに到着し、スコップなどで掘り出して回収した。周囲も掘って調べ た。現場は昭和20年の郡山大空襲の被災地で、当時の不発弾の可能性もあるとみられる。
市教委は周辺の小中学校7校に連絡し、注意を呼び掛けた。
現場は4号国道と市道本町谷地林線(通称・文化通り)の交差点から東に約15メートル。JR郡山駅から近く、金融機関や病院、住宅、商店街が立ち並ぶ中心市街地。焼夷弾の場合、爆発の恐れはないが危険なため、同署は午後6時ごろ、現場を立ち入り禁止とした。
2012年4月4日午後2時20分ごろ、郡山市開成の民家の解体撤去作業現場で、「不発弾のようなものが確認された」と作業員から連絡を受けた市が郡山署に届けた。同署から要請を受けた陸上自衛隊神町駐屯地(山形県)の不発弾処理班が出動、同日午後8時ごろ回収した。
さて、今日は5月31日(日)に訪れた「郡山歴史資料館」で学んだ内容を一部記事にした。たぶん若い方は、郡山の昔の出来事を知らないで生まれ育った人が多い。「温故知新」ではないが、郡山の歴史を知ることで、現在の郡山は先人たちの努力によって築かれたことを認識し、新たな魅力に触れて欲しいと考え、このテーマを設定した。今後の生活の指針になれば幸いです。
記事作成:5月26日(火)~5月31日(日)
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