郡山の魅力再発見!⑮~郡山城の所在ミステリー~
歴史を紐解けば、我が街郡山市は古くから奥州街道の宿場町として交通の要衝だった。したがって歴史に名を残す偉人たちも当地を訪れている。中には真偽のほどが定かではない絵空事のような言い伝えもある。
まず史実としては、松尾芭蕉が弟子の曾良を伴い、江戸時代に旧奥州街道を旅して歩き、後に「おくの細道」を編纂した。続いて鎌倉時代、頼朝の執拗な討伐から逃れるために、旅装束に身を隠して、箍を背負った弁慶を連れだってあの義経が落ち延びて来たといういわれがある。妾の静御前が、その後を追って、当地を訪れたが、そこで平泉で討たれたとの一報を聞き、悲観して市内西部にある「美女池」に身を投げてその生涯を閉じたとされ、彼女を奉った「静御前堂」が市内西部の静町に実在している。
このように、歴史的にも名だたる偉人が、当地を訪れ、その足跡を残したとされている。いやがおうにも歴史浪漫を掻き立てられる話ではないか・・・。たとえ眉唾だったとしても、是が非でも歴史絵巻に浸りたい衝動さえ覚える。
さて、このように歴史上の偉人が郡山にその足跡を残しているが、あとひとり重要な人物を忘れるわけにはいかない。それは戦国の世に、天下人として戦に奔走した戦国大名・伊達政宗だ。彼は二本松や岩代、白沢、本宮などで合戦を展開した。小浜城を拠点とし、「人取橋の戦い」など、方々で血塗られた戦果を残した。小手森城では老若男女を問わず、犬猫家畜までも皆殺しにした「八百人なで斬り」は凄惨な処遇だったし、二本松城主畠山氏に父親を殺された恨みは相当強いもので、彼を狂気に変えた。政宗自身が父・輝宗を射殺したという一説があるが・・・。
では、本日の話題だが、その戦国時代にあって、当地郡山に存在したとされる「郡山城」。この城の所在地を巡っては諸説あるのをご存知だろうか。郡山市内に40年以上も居を構える私でさえ、そのような議論が巻き起こっていたとはつゆ知らず三昧だった。
史料として、「郡山まちなか文化遺産」のサイトより、その所在が幻ではないのかという記事を見つけたので抜粋したい。
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天正16年6月11日、二階堂氏に属していた郡山城主・郡山太郎右衛門尉頼祐が伊達方についたことにより、佐竹氏、芦名氏、岩城氏、二階堂氏、白河氏、石川氏の反伊達連合軍らが安積郡に進撃した。これが俗に言う「郡山合戦」。伊達勢の主力は、逢瀬川の北にある現在の冨久山久保田の日吉神社の境内、山王館に、一方の連合軍は麓山に本陣を置き、合戦は今の郡山市のほぼ中心部で行われたとされている。
では、この郡山氏の居城であった「郡山城」は一体どこにあったのだろうか?郡山市史には、西ノ内の台地上にあったとされ、埋蔵文化財発掘調査まで行われていたと記録されている。また、地元の郷土歴史研究家によれば、本当の郡山城は、市街地の中心であった陣屋にあったという説も上がっている。
「街こおりやま7月号」の記述によれば、郡山城の位置については、西ノ内の幕ノ内と、駅前の陣屋とする説があるが、郡山合戦の佐竹・芦名勢、伊達勢の布陣や動きから判断して、駅前陣屋が郡山城であることが有力との見解を示している。また、明治17年発行の、郡山村の地籍図からも郡山城は陣屋であることが読み取れるとしている。
では一体、郡山城の実際の所在について、現在の有力説と遺跡から読み取りたい。
① 「郡山合戦」の布陣
天正16年、佐竹・蘆名連合軍は四千騎をもって郡山西側の野山一面に陣を構えた。
6月12日には富田の阿久戸(現在の4号バイパス下の親水公園付近)を攻撃し、翌日には市内の西の高台に土山を築き、鉄砲を打ちかけた。
一方の伊達政宗は、郡山城に鉄砲隊、馬30騎を籠め、奉行に防御を命じたが、戦力的拠点であった郡山城落城を危惧し、自らも福原の前に陣を敷き、対陣した。
6月14日と16日に、佐竹勢は久保田の南側より攻撃を開始したが地形に手間取り苦戦。蘆名勢も山王山(現・日吉神社)の西側から攻撃したが、伊達勢の抵抗に遭い、失敗。
佐竹・蘆名連合軍は郡山城を孤立させる作戦に出て、23日に郡山中心地と久保田の間を遮断するべく、逢瀬川の南側に砦を挟むように2か所築き、敵の襲来に備えた。このため、郡山城は孤立化した。
一方の伊達勢も戦略的拠点を失うわけにはいかず、逢瀬川の北側に砦を築いて応戦。
7月4日、運命の郡山合戦の火ぶたが切って落とされた。武将の伊東肥前が戦死するなど一進一退の壮烈を極めたが、7月10日に岩城常隆・石川昭光の仲裁で和解するに至った。和睦覚書については、郡山城を伊達方にすることを、佐竹・蘆名方が認める旨の記載があった。
② 航空写真と地形図が示す城の在り処
西ノ内説
現在では桜木1丁目にあたる。うねめ通りの大東銀行若葉町支店から西側に300mほど行った、シミズストア向かい側の東京靴流通センターの裏手一帯がそうだ。
1940年代撮影の航空写真
2010年頃の航空写真
現在公園になっていて、遊歩道がある
北側の逢瀬川に向かって東西に長く延びている比高10mほどの河岸段丘の先端部近くを利用した城であったようである。しかし、市街地ということもあって、開発が進んでおり、やがて消滅する運命にある。というか、すでにほとんど湮滅状態である。(余湖くんのホームページより)
http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/kooriyamasi3.htm
この場所はこんもりした雑木林で、人目につかない場所にあり、郡山市民でもめったに足を踏み入れない。発掘が頻繁に行われていたり、都市開発の一画となっている。また、周辺は広大な墓地があったい、せせらぎ小路や逢瀬川が町を二分している。戦略的な陣地や砦は築きやすい地形だったことは一目瞭然。
茶臼館(桃見台)説=西ノ内・若葉町
陣屋説
郡山地方史研究会が主張して憚らないのが「郡山城陣屋説」。その根拠は、前述したが、郡山合戦の布陣による。また、現在のうすいの東側、つまり陣屋ビルが犇き合っている場所はには、堀跡があったという。詳細はNTT東日本郡山支社の北側、フロンティア通りを挟んで、北西側、つまり、かつての寿泉堂病院、大東銀行本店、そして「姑娘飯店」があるあたりをグルリと囲む一帯に郡山城の土塁やお堀跡が現存していたとすることが一番の理由。
さて、私の個人的な見解だが、私自身は「郡山城」はその遺跡発掘調査から「桜木(西ノ内)説」が有力と見ている。逢瀬川を挟んで北と南に砦を築き、両者睨み合いをした事実や、城址を彷彿させるような遺跡址とその雰囲気は間違いない。
市街地に城を築くのはあり得ない。確かに交通の要衝だったし、宿場町であった駅前周辺だが、安積国造神社の参道の門があったりする中で、そこに城を築くのは無理がある。
もちろん城と言っても、今で言う立派な天守閣があった訳ではない。おそらくは敵の攻撃や進出を食い止めるための城塁とか土塁や石垣の類で、建物は平屋の貧相な造りだった筈だ。それを城と呼ぶにはあまりにもお粗末な造りだったに相違ない。だから、痕跡や証拠が少なく、だから様々な憶測や諸説が蔓延するのであろう。
いずれにしても歴史家にとっては格好の研究材料だし、決定的証拠が出ない限りは、結論は出せないのは見え透いている。
記事作成:7月21日(火)
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