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2015年11月21日 (土)

国鉄、JR、そして未来へ

 前回「天空に舞う翼」という旅客機をテーマにした記事を掲載したところ、多くの航空ファンのアクセスをいただき、気を良くした小生が、性懲りもなく第二弾として、鉄道に関する歴史的変遷を描いたPVを紹介したい。

 私が20代の頃までは陸路の中心は鉄道だった。しかも旧国鉄の時代だった。多額の赤字を抱えながらも、それでも全国に張り巡らせた鉄道網が広がり、旅の水先案内役を果たしてくれた。郷愁漂う牧歌的で長閑な田園風景、都会のざわめきが聞こえてきそうな雑踏の中を貫く線路、遠くの山々を車窓から眺めながら、幾つもの街を越え、トンネルを抜け、鉄橋を渡り、そしてたどり着く見果てぬ世界。心躍り、新しい世界が待っていると夢に描く。そんな幼少期からのドキドキ感と共に電車は日本列島を走り抜けた。
 それでは私の半世紀の人生を振り返って、私が見た鉄道の風景を自身の鉄道エピソードを交えながら振り返りたい。

 <国鉄>

 ① SL D51、C11、C61

 私が4歳まで東北本線にSL(蒸気機関車)が走っていたが、完全電化に伴い、SLは姿を消し、電気機関車が主流となった。それ以降は只見線など、電化されていない区間に配置転換された。SLと聞くと、私は真っ先に「D51」を思い浮かべるが、これは貨物専用で、客車をけん引したのは「C11」か「C61」だった。残念ながら、私は今まで一度も乗車したことがない。磐越西線でたまに「D51498」が走るが、それも満員でまずチケットが取れない。

 ② 電気機関車EF、ED

 赤色のFEシリーズが東北本線の主流になった。北斗星はEF81だが、昔は普通列車や貨物列車、さらには夜行急行を牽引した。「ピー」という高い汽笛が印象的な電車だ。

 ③ ディーゼルカー

 こちらは凸型のディーゼルカーで、無電化の磐越東線でよく見られた。たまに貨物を運んでいる場面を目にする。磐越西線でも単独で回送している場面を目撃する。

 ④ L特急ひばり

 私の小学時代の想い出は、亡き父親と毎年訪れた東京見物だった。7:49郡山駅発上野行きのの特急「ひばり1号」が常列車だった。クリーム色に赤のライン。ボンネット型の流れるフォルムが印象的な先頭車両のボディー。旅立ちにはこれ以上ない近未来的な車両だった。その上野~仙台間を往復した「L特急ひばり号」は、東北新幹線開業に伴い、その役目を終えたのだった。車内で聴く。鉄道唱歌のメロディで始まるアナウンスに心ときめき、黒磯駅で交流から直流に切り替わる際に、いったん消灯し、エンジンが停止。暫く惰性で前へ進み、その後、電力が切り替わり、エンジンが再始動する。宇都宮駅で、おびただしい数の線路に驚き、福島県以北ではお目にかかれない、オレンジ主体で緑のツートンカラーの電車が走り出す。その後、上を跨ぐ立体交差でベージュ系の東武鉄道の特急「けごん」と交錯する。やがて、ビル群へと突入し、国電と競走。都会の人々の多さに圧倒され、やがて列車は地下のトンネルへ吸い込まれる。そしてこれまた夥しい数のホームに我が目を疑う。そして速度を緩め、車止めにて停車。10:16上野着。これが都会への第一歩となる。さて、今回の旅行はどこが目的地か・・・。後楽園?渋谷のNHK放送センター?プロ野球見物?それとも豊島園?船の科学館?思い起こせば、亡き父親にいろいろな場所に連れて行って貰った。

 ⑤ 急行

 都会で遊び疲れた帰路は、おのずと急行電車だった。「あづま」「まつしま」「ばんだい」のいずれかだった。クリーム色にあずき色のラインの電車だった。向かい合わせの4人掛けのボックスシートで親子3人で寝そべって3時間半の電車の旅で、東京の余韻を楽しんだ。父親が窓を開けて夜風に薄くなった髪をなびかせて過ぎ去るネオンを優しい眼差しで眺めていた光景を今でもはっきりと覚えている。

 ⑥ 夜行急行

 大学生の頃、北海道のキャンパスだった私は、帰省とアパートに帰る時は、青森まで「八甲田」か「津軽」を使っていた。新幹線「やまびこ」が盛岡まで開通していたが、貧乏学生には高嶺の花で、6時間半も揺られながら、「津軽海峡冬景色」の一節にあるような光景に浸っていた。当時はまだ青函連絡船の時代で、深夜に到着した青森駅で、連絡船に乗り換えた。「八甲田丸」「大雪丸」「羊蹄丸」「十和田丸」「摩周丸」に乗船を果たした。

 ⑦ 青函連絡船

 私は北海道在住の2年間で6回連絡船に乗船した。大部分が夜間だったため、津軽海峡の景色を拝むことは少なかった。揺れは少ないが、4時間弱の長い航海だった。私は寝そべることができるフロアが好きだった。波が荒く、揺れが激しい時だけ座席に座ることにしていた。乗船記念のスタンプは毎回欠かさず押印していた。函館駅からは特急北斗に乗り換え、室蘭本線経由で札幌へ。そこからまた乗り換えて、実に16時間半の長旅でアパートに帰ったものだ。時間に余裕のある学生だからこのような芸当ができたと思う。旅費は片道15,000円くらいだった。同じアパートに国鉄のチャレンジ2万キロをしている横浜出身の同級生がいた。そいつは青春18きっぷですべて鈍行を乗り継ぎ、三日がかりで神奈川の自宅まで帰った兵だった。すべての駅で途中下車し、ホームで駅の表示を入れて写真を撮り、さらには駅のスタンプを押印することで、到達証明になるのだ。

 懐かしの国鉄時代ののCM

 「いい日旅立ち」

 「エキゾチックジャパン」(3本目)

 <JR>

 ① 新幹線

 一般の鉄道ファンが撮影した新幹線のPV。まるでプロが撮ったかのような出来栄え。完成品だ。躍動感やハイスピードの臨場感が伝わる。

 東北新幹線は昭和57年に盛岡~大宮間で暫定開業した。その後、上野まで延伸し、西遊的には距離計算の起点となる東京駅まで開通した。東北新幹線は白に緑色のラインで、200系の鼻高美人の愛称だった。「やまびこ」と「あおば」、同時開業の上越新幹線は「あさひ」と「とき」だった。この開通により、特急で2時間半以上かかっていた都会までの所要時間が半分の1時間20分程度で行けるようになった。
 この新幹線、私は東海道新幹線、山陽新幹線、東北新幹線、山形新幹線、そして秋田新幹線に乗車を果たした。

 ② 青函トンネル(北斗星)

 青函トンネ開業に伴い、ダイヤが大幅改正され、時刻表には行先「札幌」の文字が躍った。これが学生時代にあったらどれほど楽だったか。それは寝台特急「北斗星」だった。東北本線では「あけぼの」と「ゆうづる」が寝台特急だったが、「北斗星」は北海道へ渡る初のブルートレインだった。残念ながら一度も乗車したことがなく、今年完全引退となった。それだけ人気が高く、チケット発売とほぼ同時に完売するほどの超人気列車だった。私は青函トンネルは2度の旅行で4回のみ通過した。連絡船当時よりも1時間半も短縮され、便利になった。
 個人的に「北斗星」と聞くと、私は「鉄腕DASH」で犯人城嶋を追いかける企画がまず思い出される。もう15年以上も前に放送されたものだ。

 ③ はやぶさ&こまち

 残念ながら我が郡山駅には停車しない。爆音を立てて、ただ通過し消え去るのみ。鮮やかなメタリックグリーンの車体とワインレッドの「こまち」を連結して疾風の如くすっ飛んで行く。仙台駅~大宮がノンストップのため、これに乗るには仙台駅で乗り換えなければならない。上京する際にはまず乗れない。今年の10月に念願叶って、こまちに乗る機会を得たが、時速320キロは、やまびこ号のそれとはまったく異なり、車窓の風景が飛び去って行く。まるで飛んでるのと同じ感覚だった。揺れも振動も「やまびこ」とは比べ物にならない。怖ささえ感じた。

 <未来>

 リニアモーターカー

 未来型浮上式超電導高速鉄道。新幹線の2倍近い時速500キロでの営業運転を目指し、工事が進行している。品川~名古屋間で2027年の開業を目指している。世界各国で鎬を削る最高速度の世界記録更新。今のところ、有人で600キロ越えを達成し、世界一。中国、ドイツ、フランスが国の威信をかけて最高速度更新に挑み続けている。

 私がもし乗車できるとしたら、63歳。小学生の頃から宮崎実験線でテスト走行が開始されてから、実に半世紀。ようやく実現の目途がついた。これなら死ぬまでに一度は乗車できそうだ。

 さて、今日は東北本線を走った車両の変遷を追って、私の経験談を踏まえ、鉄道との関わりについて郷愁を交えながら思いの丈を書き綴ってみた。最先端技術や科学の進歩は目覚ましいが、予算との兼ね合いで途中で頓挫した計画もあったが、いよいよ未来に向けて、国家主導のプロジェクトが始まる。東京五輪には間に合わないが、現代の進んだ日本の技術や将来の日本の理想像を国内外にアピールするには持って来いだろう。ものづくり&技術大国ニッポン、その名声をさらに高められるよう、頑張ってほしいと思う。

 記事作成:11月12日(木)

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