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2016年1月15日 (金)

郡山の魅力再発見!28 ~昔の郡山の映像集~

 今日は、「郡山の昔話」として、古い貴重な映像を発掘したので、それを皆さんと共に観て、当時の郡山市の活気や繁栄ぶりを目の当たりにし、懐かしみたいという趣旨でお送りします。なお、リンクした映像は私がアップしたものではないため、予告無く削除される場合があることを予めご了承ください。

 1972年 幻のワンステップフェスティバル

 この音楽のビッグイベントに電撃参加を表明したオノ・ヨーコが来郡し、駅前が群衆でごった返した。その際、昔の郡山駅がカラー映像で残る、貴重な映像です。まず、1分32秒に懐かしいL特急「ひばり号」から下車し、厳重な警備の中、報道陣、全国のファンと共に郡山駅の改札を抜け、駅前へ。すると、2分30秒頃には、昭和40年代の頃の郡山駅前の様子がカラーフィルムに写っている。もう駅前は大パニックだったことがよくわかる。

 ジョン・レノンと結婚した「オノ・ヨーコ」。いろいろな意味で話題を提供した。今でも伝説となっている日本人女性だ。その彼女が郡山の地を踏み、そして開成山陸上競技場のステージに立ち、歌を披露したのだから、今ではあり得ない一大イベントだったことがわかる。

 三島由紀夫の決死の演説シーンを合同庁舎で撮影

 1970年11月25日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自殺した。45歳没。
 その実話に基づき、三島由紀夫の生涯が日米合作で映画化された。そのシーンが郡山市堂前にある「合同庁舎」で撮影された。三島由紀夫役に故・緒形拳が扮し、2階のバルコニー部分で決起を呼びかけるシーンを撮影した。タイトルは『Mishima: A Life In Four Chapters』 で、1985年(昭和60年)にアメリカで公開されたが、 三島役の同性愛的描写などに対して瑤子夫人が反対し、右翼団体の一部が抗議しているという噂が流れたため、映画配給会社が躊躇して日本では非公開となったため、幻の作品と言われている。

 このドキュメンタリー映画の節々に郡山合同庁舎の建物と、当時の市内を偲ぶ町並みが映っている。冒頭部分は郡山の合同庁舎だ。
 その緒形拳さんも、今では「天国のスター」になってしまった。

 「西部警察」全国縦断ロケで石原軍団が郡山へ

 手術成功率3%の重い解離性大動脈瘤の手術から奇跡の生還を果たした俳優・石原裕次郎をはじめとする、「石原プロモーション」の豪華俳優陣が、石原裕次郎の職場復帰への感謝を伝える「全国縦断ロケ」を敢行。我が郡山市には1983年3月11日に来郡した。その1年半前に、テレビ朝日系列の「福島放送」(KFB)が県内3番目の民放テレビ局として開局したのを機に、県内各地で大掛かりな撮影を行った。福島放送の会議室を捜査本部に見立て、更には現在の郡山警察署も、「郡山中央署」という名前で建物がロケに使用された。石原裕次郎と渡哲也が事件解決後、2人で署の玄関から出てきて、タバコをのむという場面が撮影された。
 その時の、軍団の郡山到着時の市民の大歓迎ぶりを示すフィルムが下。

 毎回お馴染みの大爆破シーンは、熱塩加納村の日中ダムの建設現場で行われた。敵のアジトの建物をダムの中腹に築き、それを丸ごと火薬や爆薬で大爆破したのだった。やり直しが利かない一発勝負の撮影だった。西部警察は、何をやるにも超ド派手で、大掛かりだった。

 1970年(昭和45年)の郡山市内

 刑事ドラマのロケで郡山市内各所でロケが行われた。高柴デコ屋敷、国鉄郡山駅、福島中央テレビ、三森峠(縄文時代の遺跡)、染本ホテル(清水台)、うすいデパートなど、私が少年時代に見た景色がそのままの姿でカラー映像として残されている超レアな映像だ。

 いかがでしたか?意外な郡山の横顔をご覧いただきましたが、郡山市には、さまざまな有名人が訪れ、その度に、その模様をマスコミが撮影し、昔の郡山市の風景が写り込んでいる。今では懐かしい過去の産物だが、当時の様子を知ることもできる。特に、1970年代は家庭用のビデオカメラなどなかったし、あるとしても8ミリ映写フィルムで、音声までは収録されていなかった。だから、こうした映像は非常に貴重だ。
 これらの映像は何を私たちに語り掛けてくれるのか・・・・。新産業都市に認定された高度経済成長期に生まれ育った私だが、市の街並みの変遷こそ、郡山の来し方・行く末を語る証人だと感じる。今後、どのような郡山の姿が見られるか、死ぬまでこの目でしかと見届けたいと思う。

 記事作成:1月3日(日)

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