歴史が動いた場所(東京編)
太古の時代から先人たちが築いてきた日本の歴史。戦いに敗れ、命を散らした時代、平穏な現代社会は、そうした先駆者たちの不断の努力と犠牲の上に築かれたものだ。とりわけ私たちが、日本史の教科書で習った出来事は、かなり美化されている部分が多いが、実際は血なまぐさい人の生死を賭けた戦闘の歴史だった。何か革命的な事件や変化を伴う時に、必ずと言って良いほど人命が失われている。
今回は、東京の各地において、歴史に名を留める証人とも呼ぶべきスポットを取り上げたい。
1 吉良邸跡(赤穂浪士討ち入り)
18世紀初頭の江戸時代元禄期に起きた事件で、江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭に代わり、元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸に侵入し、家臣の大石内蔵助以下47人が吉良を討ったものである。
現在の東京都墨田区両国3丁目、向院のすぐ東に、赤穂浪士が討入りした吉良上野介の上屋敷跡がある。
http://www.tesshow.jp/sumida/sight_ryogoku_kira.html
http://www.tokyo-kurenaidan.com/chushingura0.htm
2 大久保利通受難の地(紀尾井坂)
明治維新の立て役者である、右大臣大久保利通が明治11年5月 14日不平士族島田一郎に教われ暗殺された場所。 碑は明治21年竣工し清水谷公園は 、明治23年8月3329坪の後援として整備された。
http://sakura-miyuki.jugem.jp/?eid=1433
3 桜田門外の変(大老・井伊直弼暗殺の地)
安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京 都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。
http://tokyosuicatree.web.fc2.com/koukyo.htm
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-259.html
4 原敬・濱口雄幸受難の地(東京駅)
1921年(大正10年)11月4日、当時の首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅 職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。満65歳没。墓所は盛岡市の大慈寺。
http://murakumo1868.web.fc2.com/02-modern/02-001.html
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/hamaguti.htm
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相だった。1930年(昭和5年)11月14日、午前8時58分、陸軍視察のため岡山に向かう際、東京駅で、「燕」の1号車に向かって第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。しかし、容態は安定し、手術の末に一命を取止めた翌年1月に退院したものの、4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ(放線菌症)のため死去した。
5 2.26事件
1936年(昭和11年)2月26日から 2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官 兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。
将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。軍と政府は、彼らを「叛乱軍(反乱軍)」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱(反乱)将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。
http://bougakudai.com/LPOP/MRT/feb26/f26g.html
http://www.tokyo-kurenaidan.com/showa2.htm
7 5.15事件(総理官邸)
1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣・犬養毅を殺害した。「話せばわかる」と説こうと応接室に自ら案内。しかし青年将校らは「問答無用」と彼に銃弾を浴びせ襲撃。その後、重症を負いながら、しばらくは息があり、再度話し合いをしよう彼らを呼び戻すように側近に指示したが、次第に衰弱し息を引き取った。
8 GHQ本部
連合国最高司令官総司令部は、第二次世界大戦が終結する際に、ポツダム宣言執行のため、日本を占領して関節的に政統を行った、連合国の日本での司令本部。この本部は皇居お濠端の第一生命ビルに置かれた。 早速周辺のおもだった建物が接収され、 米軍以外の立ち入りは禁じられ、 PXと名付けられた店は米軍相手に商売を始めた。
http://www.jphistoryrd.com/sho/ghq.html
9 三島由紀夫自刃の地(市谷駐屯地)
三島事件は、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家・三島 由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加した。この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした異常な行動に一様に驚きを示した。
http://blogs.yahoo.co.jp/munyuchan2002/59667934.html
10 東京裁判(極東国際軍事裁判)市ケ谷旧陸軍士官学校
極東国際軍事裁判とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和 21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。「東京裁判」とも称される。
この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。
この「東京裁判」が行われた場所は、戦前、陸軍士官学校校舎として建てられ、 戦時中、大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が 置かれ、 戦後、東京裁判法廷、 陸上自衛隊東部方面総監部として、 三島由紀夫切腹の地として知られた建物は、防衛庁が檜町(東京六本木)から市ヶ谷へ移転するのに伴い解体され、玄関や講堂など建物の一部を組み合わせて、市ヶ谷の防衛省敷地内に、市ケ谷記念館として再建され、 一般公開されている。
11 東京裁判A級戦犯処刑の地(巣鴨プリズン)
巣鴨プリズンは、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設である。東京都豊島区西巣鴨(現豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収し、使用した。「巣鴨拘置所」などと呼ばれたこともある。極東国際軍事裁判(東京裁判)により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(1948年12月23日)されたことでも知られる。現在は「サンシャイン60ビル」の真下にある公園がその跡地であり、絞首刑場があった場所に、「永久平和を願って」と刻まれた慰霊のための石碑が建立されている。
http://teitowalk.blog.jp/archives/25113048.html
http://www.tanken.com/sugamo.html
12 鹿鳴館跡地
鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建て られた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が 広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。
現在の帝国ホテルの隣、いまはNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)が建つ辺りにあったが、建物は後に華族会館となり、1940年(昭和15年)に取壊された。
http://www.miadd.com/meijinotokyo/rokumeikan_3.html
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/741/Default.aspx
13 江戸城跡
歴代将軍家の住まいだったことはもちろんだが、幕末期には薩長軍と幕府軍・勝海舟の交渉で、「無血開城」した場所として歴史に名を残す。
現在は皇居だが、内堀通り、外堀通りなどには未だに石垣や門跡などが残り、当時の面影を偲ぶことができる。また、その周囲には多数の大名屋敷や代官屋敷などが取り囲んで、将軍の防御に当たっていた。約250年続いた徳川幕府の執政の中心地であった。
現在は当時の威容を偲ぶ場所としては「二重橋」や「桜田門」、「大手門」などであるが、一般公開できる江戸城の石垣跡は「天守台」を始め多数ある。
肝心の江戸城の天守閣だが、「暴れん坊将軍」にワンカットで出てくる城の画像の影響か、白鷺城(姫路城)」のような美しい白亜の城ではなく、実際は熊本城や松本城のような黒塗りのお城だった。これも意外な印象。
http://edoshiseki.com/edojyo.html
さて、今回は歴史にその名を刻む、東京にある歴史的なスポットを紹介した。もちろん長い有史では、ほんの僅かしか紹介できなかったが、もし私が東京在住だったなら、暇を見つけてはあちこち探検していたに違いない。それくらい、東京は京都や奈良と同様に歴史の中心地だった。しかし、奈良、京都のような優美な雰囲気とは趣を異にし、東京は幕末期以降、戦争の歴史だった。戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争、そして東京大空襲と多大な犠牲を払った土地柄でもある。昭和以降も、様々な事件や事故に苛まれた。ホテルニュージャパン火災、羽田沖航空機墜落事故、地下鉄サリン事件、秋葉原連続殺傷事件など。一見華やかで生活に事欠かない場所だが、その裏では、多くの人命が失われていることを私たちは忘れてはならない。
記事作成:平成27年8月23日(日)~12月31日(木)
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