郡山の魅力再発見!35~郡山の発展に寄与した人物~
郡山市は今年、市制92年を迎えた。隣接する町村が合併して大郡山市が誕生して、新産業都市に制定されてからも52年も経過する。日本一のマンモス議会と話題になったこともあり、日々発展を重ねてきた。そんな我が故郷、郡山市において、その発展に貢献した方々がいる。今日はそうした人物(故人)を10名取り上げたい。もちろん政治分野がわかりやすいが、市長はあえて除外したい。郡山の発展に寄与するのが本職だからだ。
太田緑子
郡山市にある老舗の大型総合病院「太田綜合病院」の娘として誕生し、その後、病院の名誉理事長として長らく郡山市の医療発展のために寄与した人物。
太田緑子理事長が他界したのは平成22年10月22日で、95歳の天寿を全うされた。病院と太田家の合同葬として10月29日に葬儀告別式が営まれた。
友人の彼女の死去を悼むブログには、病院の理事長を務める傍ら、社会福祉、教育、社会事業など様々な分野に貢献され、福島県社会福祉協議会長、福島県教育委員、中央教育審議会委員、福島県養護教育振興会長、文部省社会教育審議会委員、等々。
忙しい病院経営の傍ら、上記の様々な仕事を全く私利私欲なく、献身的になさってきました。“生命の尊厳”、“人間愛”と“平等”の精神および医の倫理を基盤 として、地域社会の幸せに貢献することを理念として活動された。
大高善兵衛
元郡山商工会議所会頭でヨークベニマルを父親の大高善雄氏が創業した紅丸商店からイトーヨーカドー資本を導入し東証一部上場企業へ成長させた。1994年の退任まで31年間社長を務めた。
福島県立安積高等学校を卒業し、父親の大高善雄が創業した紅丸商店(現ヨークベニマル)に専務取締役として入社する。
1963年、紅丸商事株式会社(現ヨークベニマル)代表取締役社長に就任。
1994年、社長を弟の大高善二郎と交代し相談役に就任。同年から郡山市商工会議所第19代会頭を務める。2007年にヨークベニマル相談役及び郡山市商工会議所会頭を退任した。
一節では、会長時代にマカオカジノで巨額の財をつぎ込み、多額の負債を抱え、それで自己破産に追い込まれたとの噂が流れた。真相は不明。
坪井栄孝
福島県郡山市生まれ。福島県立安積高等学校を経て、1952年、日本医科大学卒業。1953年に医籍登録。国立がんセンター病院放射線部医長を経て、1970年、福島県郡山市にて診療所を開設する。1974年、慈山会医学研究所を設立し、理事長に就任。同研究所付属坪井病院において地域医療に従事する。
2011年6月より財団法人慈山会医学研究所付属坪井病院名誉理事長。
医師会の活動としては福島県医師会役員を経て、1988年より日本医師会常任理事。1992年には副会長、1996年から2004年3月まで、4期8年にわたり日本医師会会長を務める(日本医科大学OBとして初)。
2000年10月より1年間、世界医師会会長を務めた。日本人の世界医師会会長就任は、武見太郎以来2人目。
2003年12月、アジア太洋州医師会連合会会長に就任。2004年4月より、財団法人日本医療機能評価機構理事長。
2001年5月、勲一等旭日大綬章。
2011年3月11日、郡山市内でNHKからの取材を受けている最中に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した。室内の棚が倒伏するといった地震被害の貴重な様子がテレビカメラに捉えられ、全国的に放映された。
2016年2月9日に86歳で呼吸器不全で死去。郡山市名誉市民
丹治一郎
丹治氏は郡山市出身、岩瀬農高卒。郡山商工会議所の副会頭を経て平成19年に第20代会頭に就任した。現在3期目で、商都の発展をけん引してきた。23年に起きた東日本大震災後は市内の産業復興に力を注いだ。
西部自動車学校の創業者で、西部自動車、西部観光バスなどの会長も務めていた。
県交通安全協会長、県指定自動車教習所協会長、県中小企業家同友会理事長、県共同募金会長などを歴任した。17年春の褒章で藍綬褒章、25年秋の叙勲で旭日小綬章を受けた。
4月中旬に体調を崩し、入院していた。
平成28年5月31日午後7時13分、肺がんのため福島県郡山市の病院で死去した。77歳。
関口富左
終戦直後、女子教育の遅れを取り戻すため、三十四歳の若さで「郡山女子専門学院」を開設。後に、日本最初の短期大学の一つとして、「郡山女子短期大学」家政科を開学された。
初代学長に就任して以来、先生は付属幼稚園、付属高校、女子四年制大学、大学院を開学された「郡山開成学園」の創設者であった。長年日本私学会や、教育界の重鎮として、県や国の要職を歴任され、藍綬褒章、県文化功労章、勲三等宝冠章等の勲章を受章された。
女子教育にその生涯を捧げられ、平成25年1月3日に99歳の天寿を全うされた。
私は女子大附属幼稚園の卒園者(うめ組・もみじ組)なので、いつもにこにこされた「優しい園長先生」という印象が強い。
ファン・ドールン
年間雨量が 1,200mm にも満たない当地は、疏水が引かれる前は、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であったこともあり、荒涼とした安積原野となっていた。安積原野を流れる五百川、藤田川、逢瀬川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、安積原野にあるため池群も流入河川がなく干ばつの影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地しか用途がなかった。
一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。そこで、1878年(明治11年)にオランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し、猪苗代湖から安積野原野一帯の調査を行い、その調査の結果、安積疏水の開削を政府に決断させた。1879年(明治12年)、国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整し水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設され、隧道、架樋等、延85万人の労力と総工費40万7千円(現在約400億円)によって127kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した。灌漑区域面積は約 9,000 haと広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。 なお、郡山市は、平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は、米穀生産量日本一の市であった。
他にも中央通りに店舗を構える関川栄達氏や郡山市体育協会長を長らく務め、福島県スポーツ民踊連盟を創設し、金ベロと称された鈴木博氏も欠かせない。
記事作成:6月1日(水)~
« 2016 パ・リーグチームの血液型比較 | トップページ | 郡山の公共施設工事進捗状況(2016.6) »
「郡山の話題」カテゴリの記事
- 郡山の魅力再発見!55 ~ネーミングライツ~(2018.04.11)
- なぜか閉店する私の行きつけ(2018.03.24)
- 郡山の魅力再発見 ! 54~県外の方に訪ねてほしいスポット7選~(2018.03.06)
- 郡山のなぜ(2018.02.23)
最近のコメント