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2016年10月24日 (月)

V9戦士の監督としての戦績

 過去何度もプロ野球の話題に触れてきたが、今回はかつてプロ野球界を席巻し、9年連続の日本一の栄冠を獲得するという大金字塔を打ち立てた川上哲治監督。ONを中心に役割分担をきっちり決め、分業制を確立し、手堅い管理野球を徹底した結果だった。この時活躍した黄金世代をV9戦士と呼び、伝説として語り継がれている。
 大変な実績を残した彼らは、指導者、つまりコーチや監督として他チームからも引く手あまたで、三顧の礼をもって招聘されることが多かった。 しかし、「名選手は名監督に非ず」という言葉がある通り、現役時代と比べ、監督としての成績はお世辞にも良かったとは言い難いものだった。それを数字で検証したい。

 先ずは、あの野村監督も崇拝し、管理野球を継承して成功した広岡達朗、藤田元司、森昌彦らを育て、大監督として君臨した川上哲治の戦績から。

  1,866試合1,066勝739敗61分 勝率.591

  実に14年の監督生活でリーグ優勝11回。その全てで日本一!

 打撃の神様と称された川上哲治は監督としても超一流で、野球を通して人間を育てるという人生哲学が随所に見られた。そのゆるぎない信念はあの野村克也も彼の管理野球を参考にし、データ重視をプラスしたID野球を編み出した。牧野茂を参謀役として配し、緻密で徹底した分業制による適材適所に駒を置いた。その常勝巨人の勝利の方程式は、その後、川上野球の愛弟子で、監督に転身した広岡達朗、藤田元司、森昌彦に受け継がれ、名将を生み出すお手本となった。
 しかし一方で、V9戦士が監督に招聘された後、ファンがその実力を認める名監督は藤田氏だけであり、ONもまたその偉大さゆえに監督としては棘の道を歩くこととなった。

 それでは9戦士たちの戦績を挙げ、比較したい。

1番センター 柴田勲 スイッチヒッターで俊足、2,000本安打を達成した理想の先頭打
             者  残念ながら、監督としては招聘されなかった。

2番セカンド 土井正三 小技が利く頭脳派の二番打者 守備の名手でもあった。故人

 監督としての戦績  390試合195勝183敗12分 勝率.516 オリックス3年 

3番ファースト 王貞治 世界のホームラン王 一本足打法。敬遠も多かった。

 監督としての戦績  630試合327勝264敗39分 勝率.553  巨人5年
            1,877試合988勝854敗35分 勝率.536 ダイエー14年

 王が現役を引退してもすぐに監督就任とはいかなかった。王には長期政権を期待した結果、長嶋の失敗の二の舞を避け、助監督として藤田監督の下で采配を学ばせた。V9時代の名参謀役だった牧野茂を招聘し、ヘッドコーチを任せ、徹底的に監督業を学ばせた。トロイカ体制とも呼ばれた新たな采配方式を確立した。しかし、藤田が3年契約で2度の日本一という戦績を残した後を引き継いだ王は、采配が空回り、クロマティーと鹿取を酷使したものの、就任5年で成績不振を理由に解任されてしまう。「世界の王」を持ってしても監督は別世界というのを強く印象付けた。しかし、巨人一筋を貫いた長嶋とは異なり、彼は捲土重来の機会を別チームに求めた。ダイエーとソフトバンクの監督に就任し、リベンジを果たそうと試みた。ダイエー就任後は負けが込み、ファンからは心無い野次や「辞めろコール」を浴び、外野スタンドには「腹を切れ」という横断幕まで掲げられたこともあった。

4番サード 長嶋茂雄 ミスタープロ野球

 監督としての戦績 1,982試合1,034勝889敗59分 勝率.538 巨人15年

 長嶋は現役引退の翌年、川上監督からバトンを渡され、監督に就任した。その1年目は球団創設初となる最下位転落という散々たる結果だった。自身が引退し、頼みの王貞治も35歳を過ぎ、ピークを越えていた。投手陣もWエースの堀内や高橋一三を始め高齢化が進んだ。そこで複数の大型トレードを敢行し、日本ハムから安打製造機の異名をとった張本勲を獲得し、新生OHを結成。打線のテコ入れに成功した。翌年は王のホームラン世界一フィーバーも手伝い、最下位から見事、奇跡の優勝を果たした。ド派手な長嶋野球らしかった。しかし、その2年後には主砲の王がシーズン30本塁打を放ちながら現役を退き、長嶋も成績不振を理由に電撃解任に追い込まれた。
 長嶋は長い浪人生活を送った末に巨人の監督に復帰。再び背番号3を身に纏い脚光を浴びたが、監督が偉大すぎて、あるいは目立ちすぎて選手が萎縮。結果、ドラフト改革で逆指名によって上原、高橋由、仁志、二岡らを獲得、さらには大型トレードやFA導入で根こそぎ他球団の主砲やエース級を強奪するという荒療治に出た。その場しのぎの付け焼き刃的な発想で補強に次ぐ補強を敢行。生え抜きの若手を育てるといった「巨人愛」は影を潜めた。それだけ球界の盟主として、常勝を義務付けされた人気球団の宿命だった。清原、石井、蓑田、加藤英、広沢、江藤、マルチネス、ペタジーニ、ラミレス、落合、ローズ、小久保、小笠原、村田などを入団させた。投手もグライシンガー、川口、工藤、杉内、ゴンザレスなどを獲得するまでに至った。外国人助っ人の獲得はことごとく失敗に終わった。

5番ライト 末次利光 コーチ経験はあるが、監督にはならなかった。 

6番ショート 黒江修 彼も巨人や西武でコーチを長く務めたが、監督にはならなかった。

7番レフト 高田繁

 監督としての戦績 854試合385勝433敗36分 勝率.471

  明治大学時代は主将として抜群の統率力を発揮したが、日本ハム4年ヤクルト3年弱ですべて3位以下に低迷。3年目にはペナント途中で休養に入ることとなった。事実上の解任だ。そんな実績のない彼がなぜDeNAのGMをやっているのか不思議でならない。

8番 キャッチャー 森昌彦(監督時代は祇晶に改名)

 監督としての戦績 1,436試合785勝583敗68分 勝率.574 10年 

 広岡監督の後を引き継ぎ、西武の黄金時代を築き上げ、盤石だった。秋山、清原のAK砲に加え、デストラーデ、平野、辻、石毛などのスターを揃え、投手陣も松沼兄弟、森、工藤、渡辺久信、郭、潮崎など完璧な布陣だった。8年間で7度のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた。その実績を買われて横浜の監督に招聘されたが、結果を出せず解任となった。

 その他

 広岡達朗

 監督としての戦績 966試合498勝406敗62分 勝率.551  

 8年間でリーグ優勝4度、3度の日本一に輝いた。強い川上野球を間近で見ていた彼は、他チームでもその手法を活かし、セ・リーグのお荷物球団だったヤクルト、そしてパ・リーグでも球団売却で実績が出せなかった西武を率いて共に優勝を浚った。しかも巨人が倒せなかった当時最強だった阪急を倒して日本一の栄冠に輝き、西武では宿敵巨人に競り勝って日本一になった。早稲田卒の頭脳明晰、知性派の監督となった。 

 投手出身の巨人監督

 藤田元司

 監督としての戦績  910試合516勝361敗33分 勝率.588 7年間で優勝4回 

 彼は川上野球の継承者ではないものの、管理野球+温情采配の持ち主だった。V9の初期に現役を引退した。慶應出身のエリート投手の彼は、短命だったが8年間の現役ながら119勝を上げた。シーズン29勝という戦績も残した。監督としてはONの後の尻拭い約だったが、紳士的な立ち居振る舞いを徹底し、2度共に見事チームを立て直した。そその藤田野球の影響を受け、継承したのが原監督だった。

 堀内恒夫

 監督としての戦績 284試合133勝144敗7分 勝率.480 

 巨人監督として唯一負け越している監督だ。原監督が電撃辞任し、コーチも決まらない中で、後を引き継いだ。しかし、現役時代の天狗状態は成りを潜め、全く奮わなかった。そんな彼が、呑気に専門家気取りで解説などよくできると思ってしまう。理論は一流でも実践が伴わなかった典型。今では参議院議員とはいい身分だ。 

 宮田征典 

 リリーフエースとして活躍したご存知「8時半の男」。セーブという制度が無かった時代に大活躍したセットアッパー兼クローザー。故人
 試合の終盤、7回頃に登場すると、時間が20時半頃だったことからそう呼ばれた。267試合に登板し、45勝30敗の成績だった。残念ながらコーチ経験はあるものの、監督としてはお呼びがかからなかった。

 さていかがでしたか?冒頭で「名選手は名監督に非ず」という言葉の意味を理解できたと思う。自分自身が選手として華々しい活躍をしても、人間を観察し、適材適所や調子の良し悪しを見極め、人を配置して使う能力は別物だということがわかる。

 しかし、1980年代以降、不思議なことがある。V9戦士以外の生え抜きの巨人の選手で監督をしたのは、原辰徳、中畑清(DeNA)、高橋由伸しかいない。江川、桑田、松井秀喜らは監督に就いていない。やはり現役時代にどんな名選手でも、記憶に残る活躍をした選手でも、人を使いこなす監督業はやはり違うのだ。

 記事作成:10月4日(火)

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