2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

« 記憶に残る古いCM~ハムソーセージ編~ | トップページ | 震災の記憶(6周年) »

2017年3月10日 (金)

福島県民を救った男たち

 福島県は「東日本大震災」が発生するまでは、緑豊かで長閑な田園風景と風光明媚な観光地、そして自然の恵み豊かな食料が溢れ、それは裕福な土地柄だった。しかし、原発事故を境に人々の生活は一変した。私自身、いつ福島県や職を捨て、避難をしなければならなくなるのか不安だらけの日々を送った。GSからガソリンが消え、コンビニからは食品が無くなった。「もう終わった」と誰もが思った中、県民に希望を与える救世主となった人たちが存在した。今日はそんな福島県民にとって「命の恩人」と言えるような男たちを紹介したい。

 吉田昌郎所長

 東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故当時、所長として勤務し、指示を出す本社や首相官邸とのやり取りの中、現場に留まり、その収束に向けて指揮を執り続けた。本社の意向を無視し、海水による原子炉を冷却することを懇願したり、一刻も猶予のない切迫した中で、放射能漏れや拡散の恐怖と闘い続けた。そして退職後、すぐに胃がんを発症し、この世を去った。これは紛れもなく、間近で放射線を浴びた結果と誰もが予想した。そしてこの事故を自分の責任において処理したいという熱意が、逆に彼の体をストレスが襲い、知らず知らずのうちに蝕んでいたに相違ない。 

 所長として、体調不良を押しながら4号機燃料プールの補強工事を行っていたが、人間ドックで食道癌が発見され、2011年11月24日に入院した。その後2011年12月1日付で病気療養のために所長職を退任し、本店の原子力・立地本部事務委嘱の執行役員に異動となった。東京電力によると被曝線量は累計約70ミリシーベルトで、医師の判断では、被曝と病気との因果関係は極めて低いとされている。米山公啓聖マリアンナ医科大学医学部第二内科元助教授は職責などからくる極度のストレスが原因ではないかと指摘している。

その後入退院を繰り返し、抗癌剤治療を経て、2012年に食道切除術を受けた。その後東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の調査などを受けていたが、2012年7月30日、東京電力は26日に吉田が外出先で脳出血のため倒れ緊急入院し、緊急手術が行われたと発表した。容態については「重篤だが意識はあり、生命に別条はない」とした。

治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行なっていたが、2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。死去に際し、広瀬直己社長から「決死の覚悟で事故対応にあたっていただきました。社員を代表して心より感謝します」との声明が出された。
 事故から2年4か月後であり、どう考えても放射線が影響したことは間違いない。私は文字通り命を懸けて職責を全うした「命の恩人」だと思ってやまない。

 高野英男医師

 原発事故現場から一番近い病院として知られ、広野町にある「高野病院」。そこでたったひとりで患者に寄り添い、80歳の高齢で、満足に歩けない体で最後まで医師として診察を行ってその生涯を全うした医師。患者に慕われ、絶大な信頼の元、血の通った医療を実践したその人は、昨年の暮れ(12月30日)、不慮の火災により、その生涯を突然閉じた。患者を始め、地域の方々の悲しみと絶望感は大きく、今もなお、彼の死を悼んで多くの方々が病院を訪れ、彼の遺影に向かって手を合わせ、お供えをしている。
 彼は政府関係者や警察消防が避難を呼びかけても、患者を無理に搬送することで、容態が悪化する高齢者が多く入院していたことを危惧し、その要請を断り、一人で診察や患者の治療を継続したのだった。彼の穏やかな性格に、高齢者を始めとする患者たちは彼をしたい、信頼していたのだった。医療の真の姿を彼の生き様を通じて知った思いがする。彼の遺した功績を誰かが継いでほしいと心から願う。

 東京消防庁の特命消防士たち

 日本を救うため、原発事故に勇猛果敢に挑んだ特殊チームの面々。アラームが鳴りやまぬほどの高レベルの放射能の中、原子力建屋を冷やすために、消防車でメルトダウンした原子炉の直近まで迫り、命がけの放水活動を行った。
 2011年3月11日に発生したマグニチュード9.0の巨大地震。大津波が福島県沿岸を襲った。海岸端に建つ原子力発電所に津波が飲み込まれ、まさかの全電源喪失の危機的状況。原子炉が冷やせず、異常高温となり、炉心が溶け出し、燃料が漏れる非常事態。我が国初の「原子力非常事態宣言」が発令され、危急存亡の危機を迎え、付近の住民は緊急避難を余儀なくされた。着の身着のままで故郷を脱出した人々。第二のチェリノブイリと化す危険の中、彼らが特命を担い、死と背中合わせの状況の中、「誰かがやらなければ日本は滅びる」との信念から、果敢に任務に挑み、見事その職務を果たし、日本を救ったのだった。彼らにだって愛する家族がいる。誰も好んで死に直面した現場に向かうのは怖かったに違いない。しかし、彼らの懸命な姿を見て、地元の人々は勇気づけられたことは間違いない事実だ。

 石原元都知事の感涙と感謝の言葉

 彼らの勇敢な姿を見て、消防士になりたいと思った若者が多かった。国を守り人を救うという使命感に燃える彼らの姿は、被災者の希望の星となった。6年近く経った今でもこの映像を見ると涙が込み上げて来る。 

 最後に、東日本大震災で交通網が寸断される中、被災地に石油を届けるために奔走した鉄道マンの底力を描いた画像集をご覧いただき、感謝の気持ちをここに表したい。

 明日は震災から丸6年となる震災祈念日。毎年掲載している「震災の記憶」を地震発生時刻の午後2時46分にアップしたいと思う。

 記事作成:2月3日(金)

« 記憶に残る古いCM~ハムソーセージ編~ | トップページ | 震災の記憶(6周年) »

旅行・地域」カテゴリの記事

福島県の天気


無料ブログはココログ