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2017年8月28日 (月)

謎の死を遂げた有名人(日本人スター編)

 本日も前日に引き続き、「謎の死を遂げた有名人」をテーマにした記事をお送りしたい。今日は、日本人スター編。芸能人や有名スターの中には理解できないような不可解な死に方をしている方も少なくない。昨日も彼らの名誉を傷つけたり、ファンの感情を逆撫でする意図はまったくないことを予めお断りしておきます。

 <日本人編>

 尾崎豊

 1983年12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。ライブでの熱烈で破壊的なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに表現した赤裸々な歌詞など、社会や学校の中で感じる葛藤や心の叫びを表現した楽曲の数々が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に多くの人から共感を呼び、カリスマ的存在となる。その作品と活動と精神性は、日本の音楽シーンに多大なる影響を与え、作品に迸るメッセージは死去から20年以上経過した現在でも多くのファンやミュージシャンにリスペクトされている。



 1992年、あまりにも若すぎる26歳での突然の死は、当時、社会的にも大きな衝撃を与えた。死後20年を過ぎてもなお、尾崎を慕うものは絶えず、新たなファンを生んでおり、彼が遺した曲の数々は多くのアーティストにカバーされ続けている。
 1992年(平成4年)4月25日早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に見てもらった方がいい」と診断したが、尾崎は妻と兄と共に自宅マンションに戻る。しかし、10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で手当を受けるも、午後0時6分に死亡した。死因は覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) による肺水腫。
 この発見当時の様子では、全身に殴られたような打撲痕があった。自傷行為では考えられず、複数犯にリンチに遭って倒れていて、それが致命傷に繋がったのではないのかという謎が、死亡直後から巻き起こった。なぜ、事件として処理されなかったのだろうか?それとも彼の名誉を傷つけるような事実が判明し、それを覆い隠そうとしてこのような発表に至ったのだろうか?

 坂井泉水

 1991年2月10日、ZARDのヴォーカルとして、シングル「Good-bye My Loneliness」でデビュー。以降、音楽活動を続け『負けないで』『揺れる想い』『マイ フレンド』など9作でミリオンヒットを記録。90年代アーティスト・トータル・セールス:女性ボーカル・アーティスト1位(オリコン調べ)に輝いた。
 2000年以降、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症と次々に病気を患い、通院の日々が続いた。2000年に自曲「Get U're Dream」がNHKのシドニーオリンピック放送時のテーマ曲になった縁から2000年のNHK紅白歌合戦の出演に前向きだったと報じられたが、その後「体調がすぐれないため」として出場を辞退した。
 2006年4月、仕事中に体調が悪化したため、病院で検査をうけたところ子宮頸癌が発見される。6月1日に慶應義塾大学病院で病巣の摘出手術を受けて、7月に退院。
 2007年4月、肺への転移が見つかり、再入院。入院中は抗がん剤による治療を受け、治療後のアルバム製作とコンサートツアーに向けて作詞を行うなど、再始動を目指していた。

  •  5月26日朝5時40分頃、入院先の病院内のスロープから3メートル下に転落し、駐車場で仰向けに倒れているところを通行人に発見される。集中治療室で緊急処置を受けるも、翌5月27日午後3時10分、後頭部強打による脳挫傷で急逝する。40歳没。
  •  私は実際に母校である大学の附属病院の事故現場を訪れ、手を合わせてきたが、私はあんな場所で手すりに後ろ向きでもたれかかることはありえないと感じた。よって、覚悟し、自らの意思で後ろ向きに倒れ、後頭部を痛打したとしか思えない。あれだけの美貌で、顔を傷つけたくないという乙女心があって、事故を装った自殺だったように思えてならない。あえて明確な自殺を決行しなかったのは、これまで積み上げてきたZARDの功績を汚したくなかったのと、残されたファンへの影響だったと思う。
     ZARDとして登場した時も神秘のベールに包まれていたが、自らの幕引きもまるでオブラートに包まれた謎の死を自らの手で演出したものと思う。合掌
  •  飯島愛

     1972年10月31日、東京都江東区生まれ
     中学在学中から不良仲間と毎晩ディスコ等で夜遊びに耽るようになり、遊ぶお金の為に万引きやカツアゲを繰り返す生活をしていた。高校には入学したものの全く通学しておらず、すぐに中退する。中学卒業前後には既に家出同然の状態であり、家出後の彼氏との短い同棲生活等を経て、六本木でホステスとして働いていたところをスカウトされ、1992年にAV女優となる。
     1994年頃、AV女優を引退。テレビ番組への出演等によってタレントとしての知名度を得たことで、引退後は完全にタレント業へと転身を果たした。
     2000年、半自伝的な小説『プラトニック・セックス』でリンチ被害、AV出演や性病感染、中絶手術、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っていた。
     2007年3月3日、芸能界引退の報道が流れる。


                                                                                                                         
     2008年12月24日、東京都渋谷区桜丘町の渋谷インフォスタワーの自室にて死亡しているのが、親戚の女性によって発見された。その後、警察などの捜査によって、発見時現在で死後1週間ほど経過していたことが判明した。死亡推定日は発見日である12月24日から起算して12月17日前後であると考えられている。36歳没。2009年(平成21年)2月4日、東京都監察医務院による病理検査の結果が警視庁渋谷警察署より発表され、死因は肺炎であったことが判明した。

     彼女の人生は波乱万丈だった。AVタレントから芸能界でも姉御肌で多くの友人がいた。

     大原麗子

     1964年、テレビドラマ『幸福試験』の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演し、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演、『夜の青春』シリーズをはじめ、数々の映画に出演したが、梅宮の主演映画では酒場のホステスやパンスケ役が多かった。1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。

     1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。47歳のときには乳がん手術を受けた。1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。
     2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。

     2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断された。 満62歳没(享年64)。

     あれほどの大女優が孤独死とは一般人からすると想像が付かない。二度の結婚・離婚で身寄りがなく、誰にも見取られずに天国へ旅立ってしまった。表向きの華やかさとは裏腹で、私生活は質素で人知れずひっそりとした暮らし向きだったようだ。

     どれも自殺を想像させる不可解な死に方だが、故人の名誉と生前の活躍に対するファンへの影響を考え、事故死と発表したのかもしれない。数奇な運命を辿り、儚く散ったスターたち。しかし、彼らの遺した作品は決して色褪せることなく、私たちの記憶の中で生き続けて行くことと思う。

     記事作成:8月14日(月)

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