2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

« 魔性と呼ばれた女たち | トップページ | そのスポーツに付き物のテーマソングとマンガ »

2017年9月21日 (木)

英雄たちのミステリー集

 学校で習う日本史はどこまでが事実なのか?最近疑いの眼差しを向けている。それは幼少期に歴史教科書に書いてあった足利尊氏の絵が実は単なる足軽だったことが判明したり、銀閣寺を建てた室町幕府8代将軍の足利義政、源頼朝、武田信玄、西郷隆盛の肖像画なども偽物であった。そうした事実を目の当たりにすると、私たちが教え込まれた史実も疑念を持って見た方が面白みがある。自分で勝手に空想や妄想ができるからだ。そうした視点で私と意識を重ねる番組がかつてあったので、それを紹介しながら、私が疑問に思う歴史英雄たちのミステリーに迫りたい。真偽のほどは不明だが、これをご覧になるあなた自身の判断に任せたい。

1 織田信長の遺体はどこへ?

https://www.youtube.com/watch?v=XjOovqBVnp8

2 幕末の英雄・新撰組副長「土方歳三」の亡骸は?

 諸説あって判然としない。(Yahoo!知恵袋の回答例より)

①五稜郭内→願乗寺説

土方の遺体は従士が担いで五稜郭に持ち帰り、伊庭八郎などと共に埋葬されたという説
明治11年の五稜郭土塁修復工事の際に夥しい遺体が発見され、それらは願乗寺に改葬され土方も含まれるという説
しかし願乗寺はその後何度も火災などにあった為、いまではどこに箱館戦争の戦死者を葬ったのか判らなくなってしまったという。
尚、大正時代に五稜郭から戦死地である一本木に改葬した説もあるが、上記の願乗寺改葬の方が数十年も前なので疑わしい

②大円寺説
土方の馬方であった吉田という男が土方の遺体を回収して五稜郭で通夜を行った後に、大円寺に葬ったという説
境内の二本松下に葬ったという説と、50年後に無縁塚に改葬されたという説があるがいづれも信用度は低い

③七重村の閻魔堂説
実は七重村に閻魔堂は存在しない
七重浜の近くの閻魔堂として極楽寺閻魔堂がある
島田魁が戦死した土方の遺体をお堂の床下に埋め、明治二十年に改葬したという
ただし、当時の閻魔堂は現存せず、現在の閻魔堂は建物も位置も違うモノだという

④碧血碑説
新政府の意向により、箱舘戦争の五稜郭側死者の埋葬は禁じられていたが、これに逆らって埋葬を強行した博徒の親分がいた
この親分は③の説の閻魔堂から土方の遺体を発見して火葬、碧血碑に合葬下という説
②の説の後日談に「高等の位地に改葬した」というのがあり、これが境内ではなく高台と解釈し碧血碑もしくは函館山のどこかと解釈する説もある

http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/hijikata-maisouchi.html

⑤近藤勇が武士として切腹ではなく罪人として斬首・晒し首となった上に、明治政府が五稜郭側死者の埋葬を禁じたりしていたので、人知れず秘かに埋葬されたが混乱の中埋葬したので場所がわからなくなったという説
同じように、場所は把握していたが知っている者が後世に語り継がなかった為にわからなくなったとも、今でも秘密にされているという説もある

 新説?ロシアで生きていた?

 

3 源義経は平泉で討たれていない?チンギスハンになったという説は?

 平家を滅ぼした立役者でありながら、兄・頼朝と不仲になり、追われる身となり、弁慶を伴い、奥州へ落ち延びたが、やはて討伐軍によって平泉で自害したとされるが、頼朝に贈られた首は偽物で、それは家臣の杉目太郎行信のものだった。
 その後、命からがら生き延びた彼は、北海道に渡った。それが証拠に平取村には義経神社が存在するし、神居岬には彼が大陸へと逃げた伝説まで残っている。

4 平将門の祟りとは?

伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。

その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。

 平将門の怨霊が記録に残っているのは江戸時代であるが、それ以前にも太田道灌が江戸城を築いて、その後に主君に忙殺されるなどがあった。そして、江戸時代になると、平将門の首塚近くに施設を建てたり何か物を盗んだものに対しては必ず祟るようになったのである。  

 江戸時代の文献に残っているのは、成田山にある東光寺に保管されていた「将門の犬屏風」が盗賊に盗まれた時であった。盗賊らはその絵を売り払ってしまったのだが、その後盗賊の一人が狂って「犬の絵を八幡宮へ返せ…返せ…」と大声で喚きだす。見かねた盗賊の頭は絵を買い戻し、東光寺に返したところ、その症状が治ったのだという。 関東大震災後、首塚の上に大蔵省の仮庁舎を建てた時はその無礼に怒り、将門の祟りが爆発した。当時の大蔵大臣を含め、関係者数十名が次々と変死する事件が起きた。いずれも平将門など落ち武者などに殺される夢にうなされて変死する、または事故死してしまったのである。昭和2年4月27日に将門の供養が行われ、神田明神の宮司によって実施され祟りは収まった。ように見えたのだが、昭和15年6月に再び事件は起こった。突如落雷が大蔵省を襲い、大火事となったのだ。その落雷現場が将門の首塚付近であったことから、祟りではないかというウワサが立ち上ったのだ。 また、この首塚などを含めて、平将門ゆかりの神社として「鳥越神社」「兜神社」「神田明神」「将門首塚」「筑土八幡神社」「水稲荷神社」「鎧神社」があり、これらをすべてつなぐと北斗七星の形になるとして有名だ。そして、それらの神社で平将門の名誉を傷つけると、死を賜るということになります。

5 関が原で東軍に寝返った小早川秀秋の裏切り

https://www.youtube.com/watch?v=8ZuZJDFGGfg

弱冠21歳という若き将だった小早川秀秋。関ヶ原の戦いで、まさかの裏切り行為で東軍の徳川方につき、結果、石田三成率いる西軍は敗れた。その後、この裏切り行為に対し、落ち武者の霊が小早川の枕元に夜な夜な立ち、小早川は発狂して死んだとされる。

6 女子どもを容赦なく撫で斬りした伊達政宗の殺戮

 通説では800人なで斬りと言われている小手森城の戦いだが、我が福島県の郷土史によれば、実際は1,200人と言われている。

 天下を得て平定をするには、敵対するものを殺戮しなければならないのが戦の掟。しかし、怨みを晴らす意味で無抵抗の女性や子どもまで手にかけた政宗の所業は常軌を逸している。天下人として奉られている戦国時代の英傑たちは、実は大量殺人者であり、地獄に落ちて当然の身柄だ。
 私も4年前にここを訪れたが、死者の怨念が未だに渦巻く地に足を踏み入れてしまった結果、その祟りに遭い、脚を痛めてしまった。もう二度と訪れたくない場所だ。

7 キリストの墓が青森にある不思議

 謎だらけの歴史。史実では測りきれない陰の部分に光を当てると予想外の新説が姿を現す。すべてが正しく伝えてあると思い込むのは危険で、実は天下を握った人物に都合の良いように伝記が書き換えられていたり、全くのでたらめを、さも事実のように語り継いできた経緯があるのではないか?そう考えると歴史教科書も眉唾で、何を根拠にそう判断したのかさえも疑いたくなる。
 当時はテレビもVTRもPCもなく、それを客観的に記録しただけだし、実際にその場面を見てもいない者が読者のウケを狙って歌舞伎のようにフィクション化した可能性も十分ある。

 記事作成:9月16日(土)

 

« 魔性と呼ばれた女たち | トップページ | そのスポーツに付き物のテーマソングとマンガ »

社会」カテゴリの記事

福島県の天気


無料ブログはココログ