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趣味

2015年2月17日 (火)

雑誌付き組み立て模型?

 かなり以前に、「ディアゴスティーニ」の商法について当ブログで取り上げたことがある。最近は、従前に輪を掛けて製作模型が凄みを増している。その商法を模倣した別雑誌も便乗登場するケースもあとを絶たない。なぜ流行るのか?創刊号を激安にして、手頃な値段設定で発売し、一度でも購入すれば、その模型を完成するまでは、毎回購入し続けなければならないからだ。途中で購入を忘れたり、買いそびれると、せっかくの大作模型が未完成で終わってしまう。
 これらは、1970年代頃に流行ったプラモデル愛好家から大絶賛されている。年のころで言えば、50代~70代の方々だ。ボケ防止や手先の衰えにももってこい。屋内でできる趣味がひとつ増える。ひとたび作品が完成すれば、この上ない喜びだし、苦労が報われるし、自らの組み立て、ひとつの作品として完成するため達成感も味わえる。また、部屋のインテリアとして飾ることで、毎回眺めることもできるし、何より出来栄えがよければ訪問客にも自慢できる。それを話題に話に花を咲かせることもできる。
 さらに嬉しいのは、孫が喜ぶことだ。男子なら誰もが一度は憧れた鉄道、戦車、飛行機、自動車、バイク、お城などの工作模型。孫とのコミュニケーション向上にも一役買う。孫に尊敬されることうけあいだ。

 では、これまでどんな「付録?模型」があったか振り返りたい。下のURLがあるものは、紹介動画を見ることができます。

 「週間フェラーリを作る」

http://yaplog.jp/987dreams/archive/740

 「零戦をつくる」

http://hobbycom.jp/workshop/special/13.html

Ferrari Zero_battle

 「HMSヴィクトリを作る」(帆船模型)

 「スズキ HAYABUSA GSX1300R」

Victory Hayabusa

 「隔週刊 ハーレーダビッドソン・プレミアムコレクション」

 「ランボルギーニ・カウンタック」

Harrey Countac

 「隔週刊 自衛隊モデル・コレクション」

 「マイ3Dプリンターを作る」

Selfdefence 3d

 「ロボット(ロビ)を作る」

 「蒸気機関車C57を作る」

Robi C57

 「F14トムキャットを作る」 販売元:アシェット・コレクションズジャパン

 http://www.f14tomcat.jp/home.html

 「国産鉄道」

F14 Railway

 「日本の貨物列車」

http://www.kamotsu.jp/home.html


 この手の作品は、往年の模型愛好家、つまりはオールドファンにはたまらないシリーズだろう。時間の無い方でも、毎週付いて来るパーツだけを組み立てていけば、相応の時間は要するものの着実に完成に近づける。しかも毎回少ない部品のため、雑に扱わないだろうから、仕上がりも一味違う筈だ。

 マイナスポイントは、創刊号こそ「釣り値段」のため、ついつい買ってしまうと、途中でやめられなくなる。これまでの苦労が水の泡なので途中で、飽きたとしてもついつい買わざるを得なくなる。また多忙で一度でも購入しそこなえば、これまた未完成になり、悔いだけが残る。結果的には完成する頃は、ふつうにプラモデルを買うよりも高くつく。パーツごとだと何号まで購入すれば完成なのか先が見えない。毎週1,000円程度の出費だとそんなに負担にはならないという皮算用だ。しかし、敵もさるもので、毎回販売価格が異なることがある。精巧なパーツを付録に付ける時は、特に値が張る。最初は格安でも、徐々に値段を吊り上げていく。冷静に考えれば、悪徳商法に値するが、それでも完成が見えれば、読者は購入せざるを得ない。そのあたりも出版社(制作会社)は、模型愛好家の心理まで計算しているに違いない。

 ところで、記憶を穿り返せば、昔からこの手の付録付きの雑誌はあるにはあった。学研の「学習」と「科学」などはまさにそうだった。しかし、最近は「雑誌(解説書)付きの模型」という意味合いが濃い。これは本末転倒で、ここまで来ると、書籍ではなく、玩具であり、どちらがメインだかわからなくなっているのが現状だ。

 しかしこの手の雑誌は需要があるのは間違いない。書店では、過去の売れ残りなのか、バックナンバーが結構平台に並んでいたりする。販売時期を過ぎればすぐに撤去や返品はしないようだ。このあたりは通常の雑誌の販売形態とは一線を画している。

 最近、活字離れで出版業界が危機に瀕している中で、こうした手法がひとり勝ちのように思える。最近は100万部を突破するようなベストセラーが少なくなっているだけに、関係者は一筋の光明を見た思いだろう。だから類似した模倣雑誌が自ずと増えるのだろう。

 しかしながら、今はある意味ブームに乗っかって追い風が吹いているが、やがては飽きられる時が来る。要は企画勝負で、ファンが食いつくようなシリーズ物が毎回出せるか、編集者の腕の見せ所かもしれない。

 最後に、私が考えた企画を列挙し、結びとしたい。

 1.「自分だけの街を作ろう」 自分でジオラマを制作する。建築に興味のある人には人気が出る筈。毎回、商店や学校などのミニチュアの建物模型が付録で付く。

 2.「86レビン製作」 かつてFRで人気があったかっとびマシン。峠でのローリングに嵌った人必見。

 3.「CBX400F」を作る。 30年前にブームになった旧車なのに未だに高値で取引される。後輪が動けば完璧。

 4.「ボーイング747」 いわゆる製造&運行中止したジャンボジェット。屋根が開いて内部(客室や操縦席)が見れる。 

 5.「姫路城を作る」 いわゆる日本のお城シリーズ。「熊本城」「大阪城」も続編として有。

 6.「世界遺産を作る」 版権が難しいが、「ピラミッド」、「エッフェル塔」などを組み立てる。

 7.「エンジンを組み立てる」 動力の仕組みを学べる優れもの。メカに強くなれる。

 8.「アポロを組み立てろ!」 「サターンロケット」「アポロ月面着陸船」「司令船」など

 9.「宇宙ステーションを作る」 ISSの模型を組み立てる。

10.「バッティングマシンで遊ぼう」 子供が大喜びの遊びを自宅で組み立てる。

11.「L特急はつかり」 先頭車両を作る 廃止された人気寝台特急 座席などリアルに 

12.「リニアモーターカーを製作せよ」 リニアモーターカーの原理も同時に学べる。

13.「食品サンプルの作り方」 外国人に大人気の食品サンプル。リアルさに驚愕。これを携帯ストラップやキーホルダーに加工する。自分だけのオリジナルを作れる。

14.「陶芸入門」 自分だけの器を簡単に作る 焼いてくれるレンタル窯の紹介も。

15.「人体模型」 等身大の人体模型を組み立てる。医学志望の学生がヒトの体の内臓や脳の配置、血管や神経、筋肉などの構造を学べる。

 また、他社で古谷一行主演の「金田一耕助」のDVDシリーズが発売された。ということは、天知茂主演の「江戸川乱歩」の「美女シリーズ」も解説付きで商品化されるのでは・・。

 中には版権が難しいものもあるが、ぜひ採用を検討して欲しい。

 記事作成:1月27日(火)

2012年4月23日 (月)

日本で流行した人形たち

 日本古来の由緒ある人形と言えば、市松人形や雛人形、博多人形などが挙げられる。外国でもなんでも鑑定団で信じられないほど高値がつくセルロイド製の人形やヨーロッパで大流行したビスクドール、日本でもメジャーなフランス人形、インディアン人形、そして民芸品として人気のあるご当地自慢の各種人形は山ほどある。今日、取り上げたいのは、日本でもブームになった人形を10点取り上げたい。もちろん私は人形にあまり興味がない。子供の頃はソフトビニールで出来たウルトラマンに登場する怪獣人形や消しゴムを集めたり、超合金やプラスチック製のマジンガーZ人形なども友達に借りてよく遊んだ程度だ。私は古い人間の部類なので、昭和45年以降で流行った人形などをピックアップすることをご容赦願いたい。

 1 リカちゃん人形

Rika  リカちゃん(Licca-chan)はタカラ(現タカラトミー)製の着せ替え人形玩具。フルネームは香山リカ(Licca Kayama )。累計出荷数は5000万体を超える。1966年、元々ダッコちゃん等のビニール玩具のメーカーだった旧タカラ(旧タカラビニール - 1966年)は、そのビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していた。企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学生という設定と、小さな女の子の手の平の中に収まる身長21cmという大きさと、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが、牧美也子の原案から考案され採用された。親しみやすい仕様が日本の子供に受け入れられた事と、マテル社が生産拠点を他国に移して日本でのバービーの販売に力を入れなくなったという市場の追い風を受け、発売から2年後の1969年には日本での売り上げでリカちゃんがバービーを上回った。その年の年末商戦でも他の人形を圧倒し、それ以降、事実上日本の着せ替え人形の女王として君臨した。
 本名:香山リカ(苗字は女優の香山美子と加山雄三に由来)
 誕生日:5月3日。年齢:11歳(小学5年生)
 星座:おうし座
 身長:142cm
 体重:34kg

 2 バービー人形

Barbie  バービー(Barbie)はアメリカの玩具メーカーマテル社が販売する着せ替え人形。30cmサイズ。1959年3月9日に発売開始。アメリカで売られていた着せ替え人形が 2 ドル台だった中で、『安かろう悪かろう』と言われていた日本製の人形に 3 ドルの価格を付けて販売したため物議をかもした。おもちゃ業界からは否定的な目で見られていたが、ファッショナブルで精巧なお人形は子供たちに支持され、爆発的に売れた。1967年には、腰をひねることができる「ツイスト・バービー」にモデルチェンジした。ただし、マテル社のバービーは、1962年に日本で販売されたが、当初から販売不振が続き、化粧や髪の色、衣装のデザインを日本人好みのものに変えるといった努力が続けられていた。1966年の『ビートルズ旋風』に乗って売れ行きをのばしたが、翌67年のリカちゃん人形の発売によって打撃を受け、日本市場から撤退した。

 3 シルバニアファミリー

 シルバニアファミリー(Sylvanian Families)はエポック社から発売されているドールハウス。1985年3月20日に発売開始し、同社の主力商品と化した。日本ではなじみの薄かったドールハウスを紹介するために、人形を子供に人気のある動物の一家に置き換えて発売した。2006年末時点で、累計で約7800万体が販売されている。森に囲まれたシルバニア村に住む動物たちという設定を沿え、欧米の田舎のような世界観を築いている。発売初期には、ヨーロッパのドールハウスに見られるような陶器製や木製の家具が売られていたが、現在売られているものは、ほとんどがプラスチック製になっている。

Shirubania

 4 キューピー人形

Qp  キューピー(Kewpie)とは、1909年に米国のイラストレーター、ローズ・オニール、1874年6月25日 - 1944年4月6日)がキューピッドをモチーフとしたイラストで発表したキャラクターである。オニールはこのキャラクターへの反響に応えて、雑誌の付録として紙を切り抜く形での立体人形を手がけるようになる。これはキューピーの表と裏からみた場合のイラストを、切り抜いて貼り合わせ、同様に着せ替えもできるというものであった。それにつれて立体的な人形の形でという要望が多くなり、オニールは自分の手で小さな彫像を彫ってみたところ、それを見た複数のメーカーが商品化のオファーを持ってくるようになった。初登場から4年程が経過した1912年、ドイツのメーカーによるからビスク・ドール製のキューピーが試作された。1913年3月4日、登録第43680号意匠特許として、アメリカ合衆国連邦特許商標庁に登録されたことで、今日親しまれているキューピー人形が誕生した。日本の食品メーカー、キユーピー株式会社(「ユ」の文字が大きい) - 1922年に「キユーピー」の文字およびイラストを商標登録している。同社製品のマヨネーズなどのパッケージにイラストが描かれている。

 5 アルマジロ人形

 これは私が小学生時分(昭和50年頃)、明治製菓の景品だった人形。「オイラはアルマジロ~」というフレーズで一世を風靡した。明治製菓がチョコレート商品の包紙の応募用紙を専用ハガキに貼って応募するとこの人形が抽選で貰えた。私は幾らハガキを出しても一向に当たらないのに、運の良いクラスメートA君は、ひとりで2~3個も持っていた。この頃から私はくじ運はないし、勝負運も弱いことを悟り、以来、賭けごとは一切封印した。アルマジロ人形(ポケットつき)とチビマジロ人形があった。

 詳しくはコチラをどうぞ

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/part-0f10.html

 6 モンチッチ

 1972年(昭和47年)にセキグチが発売した「くたくたモンキー」の改良版として1974年(昭和49年)1月26日に発売された。「モンチッチ」のネーミングの由来は、フランス語の「モン」(私の)と「プチ」(小さく可愛いもの)を合わせた「私の可愛いもの」と、日本語の「ちっちゃい」という音、モンキーのモンとおしゃぶりをチューチューと吸っていることなどから。この人形の特徴である、おしゃぶりをするポーズは、セキグチが製造・販売していた少女の人形「マドモアゼル・ジェジェ」のポーズを踏襲した。

Monchi

 7 ダッコちゃん人形

 1960年(昭和35年)に発売された空気で膨らませるソフトビニール人形の愛称。またそのモチーフとなったキャラクター。7月に発売されて以降、若い女性を中心にブームの兆しが起こった。ぶら下がる機能を活かしてこの人形を腕にぶら下げて歩く女性が時折見られるようになった。マスコミが取材対象とする中で、この商品には「ダッコちゃん」という愛称が与えられた。テレビに登場した結果ブームに火がつき、注文は大幅に増え、玩具店、デパートでは常に在庫切れとなった。当時半年で240万個を販売し、その人気は一大 ブームとして社会現象を巻き起こした昭和史を代表するヒット商品として知られている。

Dakko

 8 キャベツ畑人形

 1983年頃流行した人形。顔や髪型、肌や目の色、服装などの違いで6000以上の種類 がある。誕生日と名前入りの出生証明書付きで販売される。同じ人形は基本的にひとつ としてなく、1年後にはバースディ・カードが届くという仕掛けでヒットした。当時の価格は6,500円。過去30年で1億体を販売した。生みの親であるのザビエル・ロバーツ(米)が幼い頃「キャベツから生まれた」と聞かされていたため、「キャベツから子供が生まれる」というモチーフを元に作成された。

Cabbage_doll

 9 トロール人形

Troll  北欧ではトロルド、トロールド、トラウ、トゥローと呼ばれる。当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として設定されている。変身能力があるのでどんな姿でも変身できる。 どのような存在であるかについては様々な描写があり、一定しない。ただし、鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。ノルウェーの人の中では、現在でもこのトロールを信じている人が多い。日常生活でふっと物が無くなった際には「トロールのいたずら」と言われる。また、ほとんどの御土産物屋にトロールの人形が販売されており高い人気をはくしている。陶器製、マグネット製、紙製、キーホルダー製など実に様々なものがあり、トロールの姿も男性、女性、子供、老人、中にはバイキング姿、サッカー姿、サーファー姿、スキーヤー姿など実に様々なものがあり、中にはアンティークコレクションとして評価の高いものも数多く存在する。

10 ファービー人形 

Farbie  ファービー(英語表記:Furby)とは、アメリカのTiger Electronics社が1998年に発売した おもちゃ(電子ペット、ペットロボット)。日本ではトミーから1999年5月29日より発売された。発売当時は販売開始後5ヶ月間で200万個販売など、爆発的に流行した。そのため、当時は多数の類似品が出回った。2000年には、ファービー・ベイビーが発売された。グレムリンに登場する生物「モグワイ(ギズモ)」を模したファービーも販売された(正式なグッズ)。またマクドナルドによって、2000年9月ごろに「ハッピーセット」のおまけのおもちゃとして、ファービーを模ったおもちゃ(ペットロボットとしての機能はない)が発売された。流行が去った後も個人ウェブサイトなどで取り上げられ続けている。頭や腹、背中などに5種類のセンサーが内蔵されている。耳、まぶた、口、体が動く。相手をすることで成長し、ファービー語や日本語など約800の言葉を話し、歌ったり踊ったりする。日本での価格は3,980円。

 他にも万国共通の大ヒット人形と言えば「テディベア」、「ミッキー」を始めとするディズニーキャラクター、そしてハローキティーやケロッピーなどのサンリオ商品もある。

 さて、いくつご存知でしたか?結構ロングセラーの物もあれば、短期のブームで終わってしまったものまで様々だ。また、ウーパールーパーやソフトバンクの犬、アイフルのチワワなど、CMなどで「可愛い」と持て囃されたキャラクターが女の子のハートを射止めて離さないようだ。この人形というのは可愛さの象徴のようで、男の人形は極めて不人気だ。GIジョーは流行ったが、両津勘吉いわく、可動式で戦闘グッズという範疇で、それはプラモデルや怪獣人形の類で女の子からは見向きもされないらしいのだ。乙女が憧れたり、お人形さんのようになりたいという夢見る乙女の果てしない願望を追求し、形にしたものが人形という位置づけなのだ。今、精神的ストレスが多い日常生活の中で、ペットやこうした人形が究極の癒しグッズになるのだろう。したがって周期的に人形が大ブームを生む傾向が強い。各おもちゃメーカーは虎視眈々とその時期を見極め、次世代の人形開発に取り組んでもらいたいものだ。

 記事作成:4月4日(水)

 

2011年1月29日 (土)

古き佳き文通時代

 「文通」というのは「BCL」や「ポケベル」と同じくらい年代物の古い用語で、今ではほとんど死語に近い。現代社会のように情報が氾濫し、錯綜していない1970年代に流行し、多くの若者が見ず知らずの人達と交流したり、それぞれの郷里のことやお互いの興味関心、更には趣味の話までをやりとりする、そんな情報交換の場であった。言葉は悪いが、遠隔地なので、実際に会う場面は希少なのだが、現在の「出会い系サイト」のような物が「文通」だったのかもしれない。また、この頃は、好きな人との「交換日記」というものもあったし、卒業式には好きな言葉やイラストなどを書き込むメッセージ帳なるものまであった。私は交換日記の経験は皆無だが、メッセージ帳には当時フォークギターに狂っていたことから、ギターの絵を描き、好きなシンガーソングライターの歌詞を書き込んでいた覚えがある。好きな人に「告白」などしなかった時代にあって、どうにかして想いの丈を伝えようとして手紙を書いてみたり、年賀状にそれらしき文言をさりげなく盛り込んだ一文を入れたりして、何とか気を引こうと涙ぐましい努力をした覚えがある。こういったことは、現代では想像もし得ない、何か「古き佳き時代の産物」だった気がする。

 現在、通信手段は劇的な変化を遂げ、高校生以上の大多数が携帯電話を所有している時代である。ネットでは様々な情報が飛び交い、アナログからデジタル方式へと移り変わり、ペーパーの製品が姿を消し、液晶画面で大部分の情報が入手できるまでになった。しかし、便利になった分、弊害も数多い。「2ちゃんねる」などで特定の人間に対する誹謗中傷を行う裏サイトが横行、韓国では有名タレントを始め、自殺に追い込まれるケースも少なくない。また、若者文化の代表で必須アイテムであるメールのやりとりは、言語文化そのものの危機に繋がる。そこには情緒感や秀でた文語表現は存在しない。挨拶も「あけおめ」や「ことよろ」で済ませてしまう短縮世代。文章を打つ手間さえ省く絵文字の世界。何もかもが簡略化し、どっぷりと読書に耽り、行間を読み取るという本来の読書の楽しみさえを奪ってしまっている。何もかもがスピード時代で、ゆったりまったりの世界観が蔑ろにされていうる風潮さえ感じてしまう。感受性豊かに手紙を認める習慣が無くなった。すべてキータッチ一つで漢字変換され、印刷まですべてワンタッチで済んでしまう。デジタル時代は、ゲームもそうだが、要らぬ妄想をも生み出す。気が短くなり、すぐに結論を求め、じっくり考えることが身につかない。負ければ、オールクリアし、最初からリスタートする。そして勝つまで何時間もの間ひたすらにゲームに浸りきる。現実とバーチャルの区別がつかず、偏った物の考え方しか出来なくなり、正当な判断が出来ず、自分だけの狭い視野でしか行動できなくなる。結果、地域との交流を拒み、自分の殻に閉じ籠もってしまいがちな人間性と物事の道理や思慮分別のつかぬ大人を育て、秋葉原で起きたような無差別の殺傷事件を引き起こしてしまうことになる。

 歌もまたその時代を反映する鏡である。その時代時代、時々刻々で流行ったグッズやアイテムは思いの外歌詞やタイトルに使用されることが多い。1993年の7月にリリースされた国武万里の「ポケベルが鳴らなくて」はオリコン7位にランクされ、レコード大賞新人賞の栄に輝いた。また、WINKの「淋しい熱帯魚」の冒頭では「♪カ~レディオ~な~がれる~♪」という歌詞がある。何か懐かしい響きだ。また、本日のテーマとした「文通」に関して言えば、「文通の友」を意味する言葉として、ペンパルやペンフレンドというのが呼称としてあった。これは爆風スランプの「大きなたまねぎの下で」という名曲の中に取り込まれている。それは出だし部分で、「♪ペンフレンドの~二人の恋は~募るほどに~悲しくなるのが宿命~♪」というものだ。何か妙に懐かしさを醸し、郷愁を誘う言葉となった。この様な流行物や一時のブームは、これまで幾度も当ブログで取り上げてきた。つい先日も「一時期ブームになったアニマルや有名人」の記事を掲載したばかりだが、グッズやアイテムもまた星の数ほど有る。あれほど注目されたのに、ブームが去ればたちどころに見向きもされなくなる。ほんの一例を挙げれば、古くは「ローラースルーゴーゴー」や「ホッピング」、「ローラースケート」、「スケボー」、「笑い袋」、「人形」、「ルービックキューブ」、「キューピー人形」、「モンチッチ」、「アメリカンクラッカー」、「プリクラ」などの玩具類。「ぶら下がり健康器」や「スタイリー」、「ホームランナー」、「低周波治療器」、「太極拳」、「ジャズダンス&ブレイクダンス」、「ボウリング」、「ヨーガ」、「社交ダンス」、「ビリーブートキャンプ」、「フラフープ」、「アロマテラピー」、「紅茶きのこ」、「朝鮮人参」、「焼酎」、「やせる石鹸」、「禁煙パイポ」などのエクササイズや健康ブーム。また、ファッション関係では、「ガングロ&やまんば」、「ルーズソックス」、「IVYルック」、「ボディコン」、「ビギ」、「ワンレン」、「ボブヘアー」、「VAN」、「WAYOUT」、「通勤快速」、「ミンクの毛皮」、「ペアルック」、「パーカー」、「ポンチョ」、「ペイズリー柄」など。そしてスポーツ性のあるものでは、「PADI」、「スキー」、「パラグライダー」、「ヨット」、「ブギボード&ボディボード」、食べ物では「ナタデココ」、「ドライビール」、「ティラミス」、「メロンパン」、「五穀米」。アミューズメント系では「巨大迷路」、「ゴーゴー」、「ディスコ(マハラジャ・ジュリアナ)」、「プールバー」。趣味的な物では「切手収集」も定番のものだった。その他では、「天中殺」、「バツイチ」、「日ペンの美子ちゃん」、「武富士ダンサーズ」、「韓流」、「冬ソナ」の観光地巡りなど。また俗悪なものでは、「テレクラ」、「ビニ本」、「愛人バンク」、「不倫」など。そして、最近では善意の連鎖反応を示した「タイガーマスク運動」が挙げられるが、ここ数日は、あまりメディアでも取り上げなくなってきた。他にサッカーなどで別のことにニュースバリューが向くと、一斉にそちらへと関心が移る日本人の愚かな国民性も問題である。

 さて、話を本題に戻すが、「文通」は私が小学生の頃(昭和40年代から50年代初頭)に全盛期を迎えた。何を隠そう、私も「文学少女」だった姉の影響を受け、高知県室戸市と石川県松任市の女の子と文通で手紙のやりとりをした経験がある。同じ文面でも、石川と高知は女性の質が180度違う。石川県は毛利家が治めた加賀100万石の城下町だったことでわかるように上下関係が厳しい武家社会で、男尊女卑の教えにより、男性を立てる気質が今でも残っている。したがって、言葉遣いは丁寧だし、公家やお武家と言われるように躾が行き届いていることが、文通の書面を見ただけで一目瞭然。一方、高知県はカツオのたたきが有名で、坂本龍馬を生んだ土地柄としてやや革新的。土佐藩で、一度は天下取りに加わり、明治新政府でも官軍として重要な役職に就いたお国柄。かなり強気で滅多なことでは持論を譲らない。女性でも勝ち気な感じだった。あまりにも高知の女性が強烈で、返信に嫌気が差し、しばらくは姉が代筆していた時期があった。3つ上の姉貴は社交的で、高校もわざわざ郡山から福島の高校まで電車で通うほどであった。しかも演劇部に所属し、演劇の台本や短編小説を書くほどの文才があった。人当たりが良く、気さくで気配りも上手で活動的な姉は、いつも私の目標でもあった。確かそれは小学5~6年生の頃の出来事だったと思う。

 そして、それを試金石にした訳ではないのだが、それで味をしめて外国のペンパルとの交流を持とうと考えたことがあったが、さすがにそれは私の英語力ではどうにもならず、中学時代に行っていたBCLで英語の外国語放送を受信し、報告書を書いてベリカードを貰うという程度に留まってしまった。でも英語放送の「Voice of America」を聴き、私が辞書を片手に書いた受信報告書で、実際にその放送局からカードが届いたときは興奮するほど嬉しかった。当時は当時なりにコミュニケーションの手段は何かしら存在していたのだ。そしてその時代は1ドル360円と固定相場制。海外旅行など高嶺の花で、ハワイ6日間旅しようものならお一人様60万円以上の費用がかかったと言われている。国内旅行ですら頻繁には行けず、50年前は新幹線もなかった時代で、新婚旅行は伊豆半島の熱海と相場は決まっていた。「ハネムーンベイビー」ならぬ「熱海ベイビー」だったことになる。

 文通の利点は、確かに狭い視野に留まらず、他県の人と接することで、自分の見識を広げられることや、思いもよらぬ新発見があることがあることである。気候・風土、風習、文化、方言、民族性や気質、プロフ交換、悩み相談や趣味など話題には事欠かないだろう。もちろん、手紙を自筆で書くわけで、表現や漢字の選択に自信がなければ辞書で調べるし、そこで今まで使いこなせなかった言葉や表現を試しに使ってみることで、自分のボキャブラリーアップに繋がるのである。また、旅の記録としてツーリング日誌なるもの(紀行文のようなもの)を書いていたことも自分の文章力の改善になった。高校の修学旅行の紀行文以降、大学生までで大学ノート15冊に達し、ページ数も1,500頁を下らない。小さな文字で書いているので、文字数では想像できないくらいの膨大な量に上っている。このある種訓練にも似た作業の繰り返しで、自分でも信じられないほど書く力が身についた。文字を書くことが一向に苦にならないのだ。大学のレポート作成にも役立っている。もちろん一昨年の11月以降、一日も欠かさずにブログ記事をアップし続けられたのもこうした長年の経験の賜だろう。

 最近、ブログの話題に困ることも多々あるのだが、新聞や雑誌のコラムやネットを検索していれば、必ずネタは見つかる。そこで雑感めいたことをとりとめもなく書き綴り、それを公表し、寸評をコメントという形で貰えるブログの世界は私には格好の意見の発表の場だと考えている。私も欠陥だらけの人間なので、得手不得手があって、特定分野に記事が偏重するきらいは否めない。そのあたりは「下手の横好き」ということで黙って見逃して欲しい。人のことを「あーだこーだ」と好き勝手捲し立てているが、誹謗や中傷などで個人攻撃はしていないつもりである。個人的なことを主観的な見方で綴っている以上、どこかしらには弊害を与えてしまっているかもしれないが、許しを請いたいところである。最後に、テーマに沿って締め括るならば、文通という過去の手段から、今は便利なメールやネットと形は変わったが、人と人同士のコミュニケーションの手段として有効だったことは異論のないところだろう。文通は人間的な成長やスキルアップ(特に雑学的な知識や情報)を得られ、他人を通して自分磨きが可能になる点では秀逸したものであった。古き佳き文通時代を踏まえ、更にコミュニケーションのネットワークをこのブログという形で繋げて行ければこの上ない幸甚であると考えている次第である。本日も拙い文面ながら、最後までお付き合いありがとうございました。

Letter

 記事作成:1/28(金) 

 

2011年1月 9日 (日)

最強サラブレッド列伝

 私はサラブレッド(競走馬)が大好きだ。とは言っても、ご当地福島県には中央競馬管轄のJRA福島競馬場があるのだが、わざわざ競馬場まで行って観戦したり、馬券を買うことはしない。乗馬をしたことも未だかつて一度もない。では何故なのか。単にあの一迅の風の如く颯爽と駆け抜ける姿に惚れ込んでいるのだ。美しい毛並み、艶のある引き締まった馬体、上品で華麗な歩み、どれをとっても惚れ惚れしてしまい、我を忘れるくらい陶酔してしまう。私見だが、競馬ファンには悪いが、これを賭け事の道具にするなんて自分には到底理解できないのだ。だから、実際に競馬場に足を運び、ライブで見れば、臨場感や熱気などが直に伝わり、興奮の坩堝と化し、恍惚の極致に達するのだろうが、私自身は専ら解説付きの特定席であるテレビの競馬中継を見て楽しんでいるだけに過ぎない。それでも画面を通してひしひしと心を打つ感動を与えてくれる、そんな馬たちの織りなすドラマが大好きである。

 ところで、私は大学時代、教養課程の2年間を北海道にあるキャンパスで過ごしたことはこれまで何度も触れてきたが、その2年間を有効活用し、250ccバイクにてツーリングなるものを敢行し、様々な場所を訪れた。その中でも1・2を争うほど大好きだった場所が、日高地方に点在する牧場巡りだった。苫小牧から襟裳岬に向けて太平洋側の国道を走らせると新冠から静内にかけてその牧場地帯が現れる。その周辺は通称「牧場銀座」と呼ばれるほど、大小様々な牧場が密集している。一面の草原地帯に馬を放牧し、サラブレッドを育成しているのだ。その内陸に15kmほど入った辺りに、明和牧場というのがある。そこに競馬ファンを熱狂させ、競馬ブームの火付け役になったとされる、かの有名な名馬がいた。今はもう亡くなって久しいが、当時現役を引退し、種牡馬として第二の人生を送っていた。その史上最強のサラブレッドと謳われた名馬の名は「ハイセイコー」。そこで私は、たった二人きりの対面を果たしたのだその時の感動は今も忘れはしない。引退してもなお、凛として気品に溢れた雄姿は独特のオーラを発し、他の馬とは存在感が全く違っていた。それ以外にも覆面スタイルが印象的だった「グリーングラス」もこの目でしかと見届けた。

 そして昨年7月、無類の強さを誇り、人気・実力共に不世出の名馬がこの世を去った。彼の死を悼み、人間よりも豪華なお葬式まで執り行われ、別れを惜しむファンが数多く詰めかけた。ファンは彼の名を連呼し絶叫し涙を流した。当時、彼の人気は絶大で、彼を模した馬のぬいぐるみや関連グッズは飛ぶように売れ、サラブレッドには珍しい白い芦毛も注目を浴び、一大ブームを巻き起こした。そう、彼の名は「オグリキャップ」である。

 さて、前置きが長くなったが、早速、今回のテーマである「最強サラブレッド列伝」について語りたい。それぞれの競馬ファンには、一押しの馬や記憶に残るサラブレッドがいるであろう。必ずしも世間一般の人気とは合致しないだろうが、あくまで私個人の好みということでベスト10を発表したいと思う。(トップ3は詳細の解説付き)

 1位 シンボリルドルフ(1981年3月13日~現在29歳)

Shinbori  日本競馬史上4頭目のクラッシック三冠馬であり、また初めて無敗でクラシック三冠を達成した。三冠を含め、GI競走で通算7勝。1984年度優駿賞年度代表馬および最終週4歳牡馬、1985年度同年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。主戦騎手は岡部幸雄。1987年、顕彰馬に選出された。馬名「シンボリ」は馬主の冠名、「ルドルフ」は神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ1世にちなんで名づけられた。その競走成績・馬名から、「皇帝」、または「七冠馬」と称される。父パーソロンはリーディングサイアーに2度なった名種牡馬。母スイートルナはシンボリ牧場が生産した名馬スピードシンボリの産駒。日本では15戦13勝という驚異的な勝率を残し、生涯獲得賞金は6億8482万円を超えた。主な重賞勝利は皐月賞、菊花賞、有馬記念(以上1984年)、春天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念(以上1985年)など。シンボリルドルフと言えば「ルドルフ戦法」とも呼ばれた好位抜出型の典型と思われているが、実際には日経賞での逃げ切り、ダービーでの差し切りなど多様性に富んでいる。主戦であった岡部も著書の中で「平均的な勝ちパターンとすれば好位抜出型だが、ルドルフは自在性も多様性も持っている。その気になればテンからの大逃げも、最後方からのゴボウ抜きも出来るんだ。他馬が我慢できずに手前を替えるところでも手前を替えずにガマンできるのでタイムロスやスタミナの消耗が少ない。又、手前の替えも非常にスムーズであった」と、コーナリングの上手さがルドルフの強さを支える大きなポイントであったと舌を巻いたほどだった。常にレースは2着に3~4馬身差をつけるほどの圧勝だった。引退後、シンボリルドルフは公開入札という広く株主を募集する手法で10億円(2000万円×50株)のシンジケートが組まれ、北海道門別町のシンボリ牧場で種牡馬生活に入った。1世代目の産駒が1990年デビューし、その中から自身に勝るとも劣らないGI4勝の二冠馬トウカイテイオーを出した。このトウカイテイオーにより、父子2代連続の無敗での皐月賞・東京優駿の二冠制覇を達成した。外見的特徴では、人間で言う額の眉間に白く三日月型の蒙古斑があった。私が北海道在住時に夢中になっていた馬だ。彼が生きているうちにひと目見ておきたい。

http://www.youtube.com/watch?v=G1kk3VlmJp8

http://www.youtube.com/watch?v=nsexBRC8MjI

http://www.youtube.com/watch?v=FGfCfXelHWc

 2位 ハイセイコー(1970年3月6日~2000年5月4日30歳で没)

Haiseiko  競馬ファンのみならず国民的な人気を集め、「第一次競馬ブーム」「ハイセイコーブーム」と呼ばれる一大社会現象を巻き起こした。1984年にJRA顕彰馬に選出。1970年に北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにもタケシバオー(1969年春の天皇賞優勝馬)、メジロタイヨウ(1969年秋の天皇賞馬)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝馬)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬であった。母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、内3回はレコードタイムを記録した快速馬であった。ハイセイコーの競走馬としての生き様は、地方競馬出身の野武士が単身で中央競馬のエリート集団に挑んだという構図で語られることが多いが、中央競馬の馬と同様に、血統的にはハイセイコーもまた当時の良血(エリート)であった。その後、2年半の現役生活の中で、1972年7月のデビュー戦以降無傷の10連勝を飾った。主な重賞獲得は弥生賞・皐月賞・高松宮記念などで、22戦13勝であった。しかし、菊花賞や天皇賞、有馬記念などの優勝経験はない。競馬マスコミは中央移籍当初からハイセイコーを「怪物」「地方出身の野武士」と評し、その人気を煽り立てた。また、集団就職などで地方から上京し、都会で働いていた者たちには、地方競馬から出てきて中央競馬の一流馬たちに戦いを挑むハイセイコーに自身の姿を投影する者が多く、これがブームの根底を支える事になったとも言われる。NHK杯でデビュー以来無敗の10連勝を達成すると全国的な知名度と人気を獲得。「競馬を知らない者でもハイセイコーの名は知っている」と言われた。ハイセイコーが出走したレースのテレビ中継の視聴率はそれぞれNHK杯で20.2%、日本ダービーで20.0%(フジテレビ)、9.6%(NHK)を記録した。引退後も、明和牧場には多くのファン(赤木駿介によると、1975年はのべ30万人)が訪れ、新冠町はハイセイコーの故郷として全国的に有名になった。新冠町がハイセイコーの名前を冠した農作物を発売すると爆発的な売り上げを記録したという。有馬記念を最後に競走馬を引退し、翌1975年1月、東京競馬場で引退式が行われた。通常は最後の直線を500mほど走らせるところを、調教師の判断でコースを一周させた。ハイセイコーの引退直後に増沢末夫が『さらばハイセイコー』をリリースし、約45万枚の売り上げを記録した。

http://www.youtube.com/watch?v=ZzCfC9eaUcE

http://www.youtube.com/watch?v=6FkURlVLy-8&feature=related

 3位 オグリキャップ(1985年3月27日~2010年7月3日)

Oguri  「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期にハイセイコー以来といわれる高い人気を得た。父・ダンシングキャップ、母・ホワイトナルビーの子として生まれ、芦毛の美しい馬として1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。オグリキャップは女性にも人気を集め、多くの「オグリギャル」と呼ばれる女性ファンを観客として競馬場に集める原動力となった。32戦22勝(地方競馬時代含む)の成績を残して競走馬を引退した後は種牡馬となったが、中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。特に引退レースとなった1990年12月23日の有馬記念は、私にとって生涯忘れられないラストランになった。誰もが彼の体力の衰えを案じ、無事に走りきってくれればそれでいいと考えていた。しかし、彼は妥協を許さなかった。最後の直線で抜け出すと、往年の走りを彷彿させる粘りで、一着でゴールし、大観衆の喝采を浴びた。ウィニングランで鳴りやまぬオグリコール。競馬場が感動で震えていた。その快挙から2週間後の1月13日に行われた引退式では、誰もが涙し、誰もが彼に感謝し、競馬場が涙でぬれた一日となった。そして多くの競馬フリーク、オグリファンに見送られて彼はターフを去った。1991年、顕彰場に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など。彼は、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。優駿スタリオンステーション内で複雑骨折による安楽死処置にて25歳で没。その死は日本のみならず、共同通信を通じてイギリスのレーシングポストなどでも報じられた。オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、700人が出席。全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。

http://www.youtube.com/watch?v=dVr0x7aydls

http://www.youtube.com/watch?v=bybV0_t_DnU

http://www.youtube.com/watch?v=BkWwDLdVj8I&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=4L41ed-mL-E&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=GFPMwbm7uik&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=yg9P8KgMqgc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=hFVGggc9VDY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=-IPoPImD5ew&feature=related →泣かせます!

 4位以下については、主な経歴だけとさせて頂く。

 4位 テンポイント(1973年4月19日~1978年3月5日)

Tenpoint  トウショウボーイ・グリーングラス とともにTTGと称される。 1975年8月に競走馬としてデビュー。関西のクラシック候補 として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)と有馬記念を優勝した。後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。1978年1月に海外遠征に向けての壮行レース中に骨折し、43日間におよぶ延命治療の末に死亡した。1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬の顕彰馬に選出。主戦騎手は鹿戸明。父はコントライト、母はワカクモ。北海道早来町吉田牧場で出生。

http://www.youtube.com/watch?v=MlT2tgtRVG4&feature=related

 5位 シンザン(1961年4月2日~1996年7月13日35歳没)

Shinzan  1960年代に活躍した日本の競走馬、種牡馬。史上2頭目 、戦後初のクラシック三冠馬。1964年・1965年啓衆社賞年度代表馬。1984年に顕彰馬に 選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「鉈の切れ味」と形容された。1965年に有馬記念。秋の天皇賞を勝利したため、五冠馬と呼ばれることもある。デビュー時はあまり期待されていなかったが次第に頭角を現し、クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走をすべて制した。デビュー戦から引退レースまでの連続連対数19は、中央競馬におけるレコードである。「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズとともに、この後長らくシンザンは日本競馬の目標であった。競走馬引退後は種牡馬となり、ミホノシンザン、ミナガワマンナをはじめ、優秀な産駒を輩出。種牡馬引退後も1995年にサラブレッドの最長寿記録、1996年には軽種馬の最長寿記録を更新するなど最期まで注目を集めた。19戦15勝。父はヒンドスタン、母はハヤノボリ。

http://www.youtube.com/watch?v=W6Z_uP4GO8Q

 6位 ディープインパクト(2002年3月25日~現在8歳)

Deep_impact  史上6頭目のクラシック三冠馬(史上2頭目の無敗での三冠馬)である。2008年に顕彰馬に選出された。ディープインパクトはレース時の体重が436-452kgで、サラブレッドとしては小さな体型である馬として知られている。後方待機からの強烈な追い込みが身上であった。道中は中団から後方につけ、4コーナーから一気にまくりあげて他馬をごぼう抜きするという豪快なレーススタイルで数々のビッグレースを制した。特にジャパンカップでは、追い込み馬には不利とされるスローペースの中、道中最後方から直線で全馬を差し切って勝利した。 ディープインパクトの強みは優れた瞬発力とスピード、そして末脚の持続力である。実際、上がり3ハロンのタイムは日本国内のレースでは全レースで出走馬中最速であり、東京優駿(当時)、菊花賞、天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念(4歳時)等ではレース史上最速であった。また、天皇賞(春)ではいつも通りの後方待機策から残り600m付近で早くも先頭に立ったにも関わらずそのまま押し切っており、そのトップスピードの持続力は卓越していた。14戦12勝の圧倒的強さを誇った。生涯獲得賞金額は14億5455万円を超え、歴代2位であった。主戦騎手は武豊。父はサンデーサイレンス、母はウインドインハーヘア。

http://www.youtube.com/watch?v=5ERb1QUnIjU

http://www.youtube.com/watch?v=QH-LFeWUPjA&feature=related →凄いです!

 7位 トウカイテイオー(1988年4月20日~現在22歳)

Toukai  主な勝ち鞍は 1991年年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、1992年ジャパンカップ、1993年有馬記念など。日本調教馬として最初の国際G1競走優勝馬である。1991年度JRA賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬および最優秀父内国産馬、1993年度JRA賞特別賞。1995年、JRA顕彰馬に選出。七冠馬シンボリルドルフの代表産駒である。母はトウカイナチュラル。12戦9勝。生涯獲得賞金は6億2563万円。主戦騎手は岡部幸雄、田原成貴。出生は北海道新冠町の長浜牧場。彼のエピソードで欠かせないのは1991年5月に行われた東京優駿のレースの表彰式を終えてのことだった。競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われ、その結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6ヶ月」と発表され、年内の休養を強いられたことだった。その後も合計4度に渡る骨折と故障を繰り返しながらも、不屈の精神で這い上がり、その度奇跡の復活を遂げたことである。長いブランクの後、1年ぶりに出走したGIレースで見事優勝し、「奇跡の馬」として脚光を浴びた。翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を筋肉痛で回避。半月後には前回故障の患部である左前トウ骨を再び骨折し、4度目の休養に入った。以後は秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から引退が発表された。10月23日には東京競馬場で引退式が挙行された。当日のメイン競走はオープン特別競走であったにも関わらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、10万人以上のファンが訪れた。

http://www.youtube.com/watch?v=ypZ0aWdPOwg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Kjd-Js3NbQM&feature=related

 8位 トウショウボーイ(1973年4月15日~1992年9月18日19歳で没)

Tousyoboy  1970年代半ばにテンポイント、グリーングラス と共に「TTG時代」を作り、「天馬」と称された。主な勝ち鞍は皐月賞、有馬記念、宝塚 記念など。1976年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬。競走馬を引退した後に種牡馬としても大きな成功を収め、三冠馬ミスターシービーをはじめ7頭のGI級競走優勝馬を輩出。特に中小生産農家に絶大な信頼を寄せられ、「お助けボーイ」と呼ばれた。1984年、JRA顕彰馬に選出。父はテスコボーイ、母はソシアルバターフライ。出生は北海道静内町の藤正牧場で、主戦騎手は池上昌弘、福永洋一、武邦彦ら。サラブレッドとしては1976年1月から1977年12月までの2年間レースに出場。15戦10勝で獲得賞金額は2億8077万円。皐月賞や有馬記念で優勝したが、当時並みいる強敵揃いの中だったので、G1級制覇は他には宝塚記念と高松宮杯など。しかし、1992年8月5日、トウショウボーイが脚を痛がる様子が見られ、検査が行われた。この結果、蹄葉炎を発症していることが判明する。以降は職員総出の治療・介護が行われたが、病状の進行は止められず、9月18日に安楽死の措置が執られた。

http://www.youtube.com/watch?v=QNYGKMW3r1s

 9位 ミスターシービー(1980年4月7日~2000年12月15日20歳で没)

Mr_cb  日本競馬史において同名の競走馬が2頭存在するが、私が好きなのは2代目である。ミスターシービー(2代目)は1980年、北海道浦河町の千明牧場生産。1983年に中央競馬史上3頭目の牡馬クラッシック三冠を達成し、後に種牡馬になった。1983年度優駿賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬。父内国産の三冠馬は現在のところ本馬のみである。1986年、JRA顕彰馬に選出。父はトウショウボーイ、母はシービークイン。デビューは1982年11月から1985年4月までレースに出走し、当時、驚異的な末脚の追い込みで「捲りの刺客」と呼ばれた。主な重賞勝利は皐月賞・菊花賞・秋の天皇賞だった。当時の史上最強と謳われたシンボリルドルフとのジャパンカップ及び有馬記念での一騎打ちは競馬ファンの関心を一心に集めた。その後脚部不安を生じて休養、夏に調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念し、引退。同年10月6日に東京競馬場で引退式が雨の中で執り行われた。15戦8勝。獲得賞金は4億959万円。主戦騎手は天才と呼ばれた吉永正人。

http://www.youtube.com/watch?v=vzelVgdxuHg

10位 グリーングラス(1973年4月5日~2000年6月19日)

Greengrass  テンポイント、トウショウボーイとともに、三 頭の馬の頭文字を取ってTTGと称され、三強の一角を担った。クラシック戦線最後の 菊花賞で花開いた晩成の馬で、第三の男とも呼ばれた。主な勝ち鞍は菊花賞、春の天皇賞、有馬記念など。1979年には年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出される。競走成績26戦8勝。4歳時、グリーングラスの単勝5250円は、今も菊花賞の単勝最高払い戻し金額である。父はインターメゾで母はダーリングヒメ。出生は青森県七戸町の諏訪牧場。獲得賞金は3億2845万円。安田富男、嶋田功、岡部幸雄、大崎昭一。彼のトレードマークと言えば緑色の覆面スタイルであろう。これがウケて人気にも火がついた。私は、彼が現役引退後、余生を送っていた北海道の牧場で、彼との対面を果たした。最期は佐賀県のエンドレスファームで柵に衝突し粉砕骨折し安楽死となった。彼もまた、競馬ブームの中、一世を風靡したサラブレッドということができるだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=J_Sqy_O3Pzs

 さて、あなた好みの馬は登場したでしょうか?もちろん有名どころを挙げればキリがない。メジロマックイーンも一時代を築いた名馬として捨てがたいし、日本産の馬としてジャパンカップを初制覇したカツラギエースもまた強かった。先行し大逃げする快速逃亡馬だったサイレンススズカもいた。結局は、先行逃げ切り型か最終コーナーから直線で猛然と追い上げて抜き去る差し馬か、あるいは牡馬か牝馬かなど、個人の好みによるところが大きいだろう。また、トウカイテイオーのように度重なる故障や骨折を乗り越えて、見事復活を果たし、優駿の名をほしいままにしている最強馬もいる。毎年、天皇賞や菊花賞、日本ダービーなどの重賞レースは、多くの競馬ファンが詰めかけ、プロ野球やサッカー観戦を遙かに凌ぐ16万人もの大観衆に包まれる。筋書きのないドラマを自分の目に焼き付けようと必死で声援を送り、勝負の駆け引きや抜きつ抜かれつの手に汗握るデッドヒート、騎手の手綱裁き、そして競走馬が本来秘めている闘争心を呼び覚ますゴール前の直線での激走を見守る。そして僅か鼻の差や頭ひとつ差での大逆転のゴールインを演出する。これらの出来事が複合的に相まって、身震えが来るほどの感動ストーリーを呼ぶのであろう。

 最後に、JRAが過去に行った「20世紀の名馬100」というテーマの人気投票の結果も合わせて掲載したい。投票総数は548,845票。

3冠馬 牝馬 殿堂馬

『20世紀名馬100』ベスト10 得票数
ナリタブライアン 21戦12勝 37,798
スペシャルウィーク 17戦10勝 31,061
オグリキャップ 32戦22勝 27,866
サイレンススズカ 15戦9勝 25,110
トウカイテイオー 12戦9勝 24,782
シンボリルドルフ 16戦13勝 22,521
シンザン 19戦15勝 17,159
ハイセイコー 22戦13勝 15,302
エアグルーヴ 19戦9勝 14,182
エルコンドルパサー 11戦8勝 13,667

『20世紀の名馬100』11位~100位
11 ライスシャワー 41 トウメイ 71 ナイスネイチャ
12 メジロマックイーン 42 メジロブライト 72 エアジハード
13 グラスワンダー 43 ナリタトップロード 73 ダイタクヘリオス
14 テンポイント 44 トキノミノル 74 サクラバクシンオー
15 マヤノトップガン 45 ウイニングチケット 75 タイキブリザード
16 タイキシャトル 46 スーパークリーク 76 サクラチトセオー
17 ミホノブルボン 47 バブルガムフェロー 77 マーベラスサンデー
18 ミスターシービー 48 イナリワン 78 キタノカチドキ
19 メジロドーベル 49 フサイチコンコルド 79 マチカネフクキタル
20 ビワハヤヒデ 50 シルクジャスティス 80 タニノチカラ
21 ヒシアマゾン 51 メジロライアン 81 ヤエノムテキ
22 トウショウボーイ 52 フジキセキ 82 コダマ
23 サクラローレル 53 メジロラモーヌ 83 アカネテンリュー
24 タマモクロス 54 メイセイオペラ 84 クリフジ
25 ホクトベガ 55 ジェニュイン 85 ファレノプシス
26 グリーングラス 56 タニノムーティエ 86 ダイユウサク
27 テイエムオペラオー 57 エリモジョージ 87 ミホシンザン
28 サニーブライアン 58 ダンスパートナー 88 オフサイドトラップ
29 タケホープ 59 ファビラスラフイン 89 ナリタタイシン
30 セイウンスカイ 60 キョウエイマーチ 90 レガシーワールド
31 ダンスインザダーク 61 トロットサンダー 91 ツインターボ
32 マルゼンスキー 62 カツラノハイセイコー 92 カブトシロー
33 スピードシンボリ 63 ヒカルイマイ 93 ウメノファイバー
34 ステイゴールド 64 テスコガビー 94 マサラッキ
35 ノースフライト 65 サクラスターオー 95 ニホンピロウイナー
36 カブラヤオー 66 カツラギエース 96 フラワーパーク
37 メジロパーマー 67 ヤマニンゼファー 97 セントライト
38 ベガ 68 アイネスフウジン 98 ネーハイシーザー
39 タケシバオー 69 キーストン 99 メイズイ
40 アドマイヤベガ 70 サッカーボーイ 100

 http://www.youtube.com/watch?v=E-3Da1suKVA&feature=related

 この結果をみればわかるように、この投票を実施した年に近い時期に活躍していた馬しか印象に残っていないような気がする。もちろん、世代的にリアルタイムでその活躍した時期を経験しなければ、その馬の本当の凄さを認識することはできないだろう。したがってこのような人気投票結果となったに相違ない。しかし、いずれにしても、どの馬をみても重賞レース(GI)で一度は勝利している名馬中の名馬であることに間違いはない。「サラブレッド」、その響きは良いが、調教師と共に過酷なトレーニングを乗り越えて、やがて檜舞台に立ち、第一線で華々しい活躍をする競走馬たち。何か人間の人生模様や生き様、社会の縮図に似て、思わず惜しみない声援を送ってしまう。これからも競馬史に残るような名馬の出現、名勝負・名レースを期待して結びとしたい。

 <JRA感動PV>

 誕生編→ http://www.youtube.com/watch?v=hj1zGPleEfk&feature=related

 デビュー編→ http://www.youtube.com/watch?v=Ol7mbahVrbc&feature=related

 G I 編→ http://www.youtube.com/watch?v=IWU-vF0JozQ&feature=related

 ラストラン編→ http://www.youtube.com/watch?v=TjldXGyKr6I&feature=related

 胸が詰まる動画
     → http://www.youtube.com/watch?v=YHhvI1k7qoc&NR=1&feature=fvwp

 なかなか勝てない馬がいる編
     → http://www.youtube.com/watch?v=wKtAj0tfOus&feature=related

 飛んでくる馬(ブロードアピールの伝説の差し切り)
     → http://www.youtube.com/watch?v=QYGCMtCW8Lc&feature=related

       http://www.youtube.com/watch?v=MLihD26xRX8&feature=related
       

 <当ブログ・HP関連リンク>

 競馬に関する詩

 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%20177.htm

 競馬に関するエッセイ

 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%2014.htm

 

 記事作成:1/7(金)

2010年5月31日 (月)

私の趣味の遍歴

 すでに私のHP「趣味ING」をご覧になった方はご存知かと思うが、私が45年間生きて来た中で、常に傍らに寄り添っていたものは趣味だった。多芸に無芸とはよく言ったもので、私は子供の頃から好奇心旺盛で、下手の横好き、しかし飽きっぽい性格が災いして信じられないような数の趣味に興じて来た。幼少の頃は、父親にねだって色々なことに夢中になって首を突っ込んでは金を浪費したと思う。そこで今回は、備忘録も兼ねて、私自身の趣味の遍歴をお送りしたいと考えている。中にはあなたの趣味と合うものもあるかもしれない。

 1.仮面ライダースナックのカード集め

Rider  これが栄えある最初に身につけた趣味らしきもの。小学生3~4年生の頃に夢中になって集めた。もちろん子供の時分なので、金がかかる趣味は縁遠かった。そこでどうしても収集できるような趣味に傾倒しがちとなった。「冒険王」に連載された石森章太郎の「仮面ライダー」が大人気で、それが実写化された。ほどなく人気に便乗してカルビーから「仮面ライダースナック」が出た。1個20円で、ライダーの写真入カードが一枚付いていた。おさつスナックを細かくしたような甘いスナック菓子だったが、子供達にとってはお菓子よりもカードの方が重要だった。50個入り1,000円で、箱ぐしら購入する金持ち同級生もいた。人が持っていない絵柄のカードが出ると自慢できた。今のポケモンやデジモンカードのような感じ。裏に通しナンバーが書かれ、100種類以上あった。勿体ない事に、私はカードだけを取って、スナック菓子を近所の縁の下に捨てたこともある。何と罰あたりな・・・。そして友人同士で交換したり、見せびらかしたりした。そして、当たりカードが出て、宇都宮市にあるカルビーの工場に送ると、横長のライダーズアルバムが貰えた。小学生時分にはこのようなお菓子のおまけ(グリコのキャラメルのおまけ、チョコボールの金のエンジェルが出ると貰えるおもちゃの缶詰、「オイらはアルマジロ~」のCMが一世を風靡したアルマジロ人形など)がとにかく流行った。

 2.牛乳の蓋・スーパーカー消しゴム集め(小3~小4)

 これもさほど金がかからない、労力も時間もさほど要しない趣味だった。これも人が持っていないデザインの牛乳瓶の蓋を持っていると自慢できた。そして数の多さを競うのだが、これはメンコ遊びと同様、ゲームの材料として使った。使うのはこの蓋と自分の指だけ。蓋を指を使って裏返せば自分の持ち物になる。メーカーごとに蓋の絵が異なるため、牛乳屋さんを訪ね歩いた友人までいた。「明治乳業」や「酪王」、「福ちゃん牛乳」など様々な蓋を集めていた。また、10円のガチャポンによってカプセルに入ったおもちゃがあった。当時は空前のスーパーカーブームがあって、その車の形をした消しゴムが流行った。怪獣人形の消しゴムも子供達の間で持て囃されたが、一番人気は車だった。特にガルウィング(はね上げ)式のランボルギーニ・カウンタックは大人気で、子供達の注目の的だった。
 
 3.記念切手とコインの収集(小4~小5)

Stamp  これは40年以上も前からあった、年配の方なら誰でも一度はやったことがある趣味だろう。記念切手が出る度に、郵便局には長い列が出来たほどだ。当時は小学生だったこともあり、20枚セットの切手シートを買える筈もなく、貯めたお小遣いを叩いてバラで珍しい切手を揃え、アルバムに収集していた。特に人気が高かったのは、東京・札幌オリンピックの絵や、冨嶽百景、国宝になっている由緒ある絵柄の切手だった。また、使い済みの外国の珍しい切手を「東京切手センター」で購入でき、通信販売で何回か購入した覚えがある。今でもそのアルバムを大切に持っている。一枚一枚丁寧に専用ビニールに入れて指紋がつかないように細心の注意で扱っている友人までいた。小学生時分は、ハガキが10円、封書も20円の時代だった。それがあれよあれよという間に値上がりし、今やハガキが5倍、封書も4倍と高くなった。

 4.UFOの写真(小5)

 これは日本テレビの「木曜スペシャル」の影響。当時大流行したユリゲラーの超能力ブームと共に毎回高視聴率だったのがこの企画。当然、矢追純一プロデュース。あの超怖い「♪チャララーララ・チャララー」というテーマが何度も流れ、興味をそそる。しかし、毎回実態や結論は明らかにされず、目撃者の証言VTRに終始する。いいところでタイムアップ。まさに川口浩の探検隊シリーズの先駆けとも言えるような番組。いつも騙された、見なきゃよかったと思うのだが、でも毎回見てしまうのだ。やめられない止まらない、怖いもの見たさの人間の心理をうまく突いていると思う。私は友人を真似て親にポラロイドカメラをねだって買ってもらったことがある。でも夜間撮影しても光量不足で全く撮れなかった。一度UFOに纏わる怖い実話があった。北海道の岩見沢市に在住時、そのテレビを見て、寝たのだが、夜中、急に部屋全体が窓から差し込む強烈な光りに目が覚めたのだ。私の部屋は2階だったので、車のライトなどでは断じてない。そして物凄い轟音と共に、私は金縛りにあってしまった。前夜のテレビは人がその光に向かって吸い上げられ、そのまま円盤の中に消えて行くという再現VTRだった。同じ状況に恐怖で固まってしまったのだ。その時、心の中で、早く消えてくれと祈ったら、そのままスーッと光が遠ざかって行ったのだ。これは寝ぼけていた訳でも夢の中の出来事でもないのだ。そんな私を恐怖に陥れた一夜が実在したのだ。だから余計にこの日の出来事は忘れられない。

 5.ソフトボール

 小学生4年の頃から本気になって取り組んだ。その影響は紛れもなく巨人のON。親父が背番号1の巨人のユニホーム一式を準備してくれた。当時ホームランの世界記録更新が大流行し、友達と放課ソフトボールをしながら、「第○○号ホームラン!」と言って、ダイヤモンドを一周していた。また、夏休みの登校日には、恒例の方部対抗のソフトボール大会があって、我が虎丸第2方部は、2連覇していた。近くのクリーニング店のおじさんが監督をし、とにかく強かった。私は4年生時は背番号11で補欠。しかし、5年生では背番号3で一塁手、6年時には3番でショートを守った。しかし、最高学年では、残念ながら決勝で敗れてしまった。とにかく毎日のように友達同士が一堂に会し、裏表じゃんけんでチーム分けを行い、子供ながらに勝負にこだわっていたと思う。

 6.Nゲージ(鉄道模型)

C11  プラレールより高価で精巧な作りの大人もハマる趣味。Nゲージはレール幅が9mm(nine)で、それ以外にもHOゲージやOゲージなるモノも存在する。積水金属やTOMIX製で、本物をスケールダウンした感じの作り。レールに電気を流して走る。親にねだって買いそろえた。プラスチック製のプラレールとは異なり、こちらはかなり高い。車両一両が3,000円程度。モーター内蔵車だと5,000もする。私は親に連れられ、毎年夏に特急に乗って東京へ遊びに行っていたことから、ボンネット型と平面マスクのクリーム色に赤のラインが入った「ひばり」号の模型を5両程度、更に北海道でよく見かけたディーゼル特急の先頭車両、それからSLや貨物車両も揃えた。枕木と敷き砂利のついたレールやポイント、踏切などもかなりの本数持っていた。そしてそれを動かすのに必要だったのがコントローラーだった。中には本物そっくりにヘッドライトやテールランプが点灯し、車内灯までついた車両もあった。それをその日の気分で自由自在にレイアウトし、運転手気分で遊んでいた。恐らくNゲージに費やした総額は10万円は下らないと思う。それらを購入するのは、西武デパートや第一うすいのおもちゃ売り場で、しょっちゅう自転車や徒歩で駅前周辺を闊歩していた。結構金遣いの荒い子供で、親は大変だったと思う。今は残念ながら、親しいフォーク仲間にそっくりあげてしまった。もしあったら、ジオラマを作って没頭していたかもしれない。

 7.トランペット・メロフォン演奏

Merophone  小学6年生の頃、大好きなソフトボールと共に、急遽思い立って始めたのが楽器演奏。まず、市内の目抜き通りを練り歩く鼓笛隊パレードでは、トランペットを吹いて行進した。思い切り、アップでテレビに映ってしまった。また、体育祭では開会宣言の時に、水色のハットを被り、華々しくファンファーレを演奏するなど花形だった。それに味をしめ、勢いから合奏部に入部し、夏から秋にかけて練習に明け暮れる毎日となった。トランペット希望だったが、定員オーバーということで、ホルンに似た渦巻き型の金管楽器メロフォンを担当した。肺活量が当時3,000以上あり、息が長く続いたことが褒められ、それで練習にも拍車がかかった。隣の小学校まで出向き、東京から派遣された音楽家のレッスンも受けたことがあった。顧問だった男性のA先生の指導の元、猛練習を重ね、秋のコンクールでは市の大会で金賞を受賞。福島市の県大会でも金賞受賞した。その時の演奏曲はカール・E・キング作曲の「印度の女王」だった。隣りの小学校が総勢100名を超す大音楽隊を結成し、歌劇「我若し王者なりせば」序曲というバイオリンを使った、視線が釘付けになるような壮烈なイントロから始まるスケールの大きい曲を演奏し、他を圧倒していた。この体験が、その後のニューミュージックブームで私がギターに取り組むきっかけになった。残念なことにそのトランペットは、母親によって近所の子供に寄付され、今はもうない。ところが、2年ほど前に中古品屋の「DOKIDOKI」で紛れもなく私のモノだったトランペットが展示されていた。同じシルバーで、ピストンバルブの下のカーブした管に同じへこみがあった。布製の青いケースまで一緒だったので間違いない。愛着があったので、そんなことなら買い戻したかったくらいだ。

 8.漫画描き

 これも奇妙なきっかけだった。小学6年の頃、友人が趣味で漫画を描いていた。それが筋金入りで、藤子不二雄の「まんが道」に出てくるようなタイプだった。そいつが持っている道具が凄かった。本物の漫画家が所有しているようなセットだった。私も下手の横好きの本領を発揮し、見よう見まねで始めた。駅前の「山ノ井」で同語を買い揃えた。専用用紙、Gペン、ボトルインク、吸い取り紙、ルーラー(コンパス型で線を引くときに使う専用の道具)、羽根箒、スクリーントーンなど。まずは格好から入ったと思う。しかし、これは長続きはしなかった。今でも親には申し訳ないと思う。

 9.鉄道写真

Hibari  これも小学校高学年から中学生の頃に夢中になった趣味だ。写真部の暗室を借りて、自分でフィルムの現像や白黒の印画紙に焼き付けた。しかし、何度も線路のそばに立ち入って、運転手に警笛を鳴らされたり、叱られたこともある。今で言う「撮り鉄」を私は35年も昔に実践していたのだ。特に忘れられないポイント(撮影場所)は、駅から東口に行く、ガード下を潜る道がある。道路沿いに伯養軒や福島交通の車庫・ゴルフ練習場があった。ところだ。そこは磐越西線・磐越東線・東北本線の3路線が一度に撮影できる地点だった。現在はその上にコンクリート製の橋桁がかかり、新幹線がメインになってしまっている。列車の往来が激しく、それほど待たずして撮影できた。やはり一番人気は特急で、「ひばり」、「はつかり」、「やまびこ」、「つばさ」、「やまばと」、「あいづ」が走り、クリームと桃色のツートンの急行列車「ばんだい」、「あづま」、「まつしま」なども狙ってシャッターを押した。また、小豆色の電気機関車や、電化されていない東線のディーゼル列車も好きだった。ただ、ここでは割愛させていただくが、鉄道ファンが度を過ぎて、線路にしてはいけないこともしてしまった。30年以上の時が経過したので、もう時効だろうが・・・。(ん?時効廃止?)

10.BCL(ベリカード集め)

Tryx2000  これも以前当ブログで紹介した。ラジオを受信し「受験報告書」を記入し、その放送局に送ると、絵はがき型のその局独自のカードが貰えた。それは「ベリカード」と言い、国内外の様々な放送を視聴した。山田耕嗣さんが火付け役となり、BCLブームが巻き起こった。短波放送が視聴可能なラジオが各メーカーから続々出て、私は東芝製のトライエックス2000を親に買って貰い、海外の日本向け放送を多数聴いた。「オーストラリア放送」、「北京放送」、「モスクワ放送」、「アンデスの声」など。特に「Voice of America」は英語放送のため、英語のリスニング対策にも役だった。かたことの英語で受信報告書を書いたのだが、ベリカードが届いたときは流石に嬉しかった。結局、これをテレビ放送にも応用し、結果的には100枚以上のベリカードを集めたと思う。今もあれば、すごいコレクションになっていたと思う。しかし、母親にすべて捨てられた。女の人は、こういう価値観がどうもわからないらしい。よく鑑定団を見ていると、骨董品を収集している夫に対し、奥さんは冷ややかな対応で、まるでゴミ扱いで、軽くあしらう場面があるが、まったくその通りだったと思う。昔読んでいた漫画や雑誌も、私の承諾なしに全部廃品回収に出され、親子喧嘩の火種にもなった。

11.フォークギター演奏

Guitar  これは中2の頃から高校まで取り組んだ趣味だ。当時、アリスやオフコースを始め、大小さまざまなバンドブームが起きた。シンガーソングライターと呼ばれる人達がミュージック界を席巻し、ニューミュージックブームが沸き起こった。とりわけフォークブームは凄かった。昔のGSやかぐや姫、吉田拓郎などとはまた違った斬新さがあった。代表的な人達は、松山千春、さだまさし、永井龍雲、中島みゆき、渡辺真知子、八神純子、バンドは、ツイスト、ゴダイゴ、クイスタルキング、サザンが時代の寵児として活躍した。流行には敏感だった私もギターを買って貰い、必死で練習し、ギターコードを覚えた。アルペジオから始まり、ストローク、そして最も難しいスリーフィンガーやツーフィンガー、リズム変化までマスターしていった。そしてカポタストやサムピック、ハーモニカ型の調律器、楽譜等を買い揃え、本腰入れて取り組んだ。その頃、同級生だったのが「風とロック」の主宰者の箭内道彦氏だ。一緒に練習の成果をクラスメートに発表したこともあった。今となっては中学時代の良い想い出だ。

12.ラジオ深夜放送

 BCLブームの煽りから、中学から高校にかけてよく聞いていたのが芸能人が夜中にパーソナリティーを務めていた深夜放送だった。福島県では当時、かの有名な「オールナイトニッポン」をネットしていなかった。従って、NHKとモスクワ放送が終わり、電波状態がクリアに聞こえるようになる深夜に起きてニッポン放送(1240KHz)、TBSラジオ(950KHz)、文化放送(1310KHz)にチューニングを合わせ、時々雑音や混信とも闘いながら聞いていた。つぼいのりお、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、ラジオっ子、鶴光らがマイクを握り、話題を振りまいていた。リスナーからのお便りを元に人気コーナーを展開。本も出版された。他には、「セイヤング!」も人気があったし、午前3時からの「走れ歌謡曲」や「いすゞヘッドライトコックピットのあなたへ」も人気があった。親には勉強という名目で夜中まで起きていたが、実際は蒲団の中で笑い転げていた。また、福島県では23時から地元の女子高校生がDJとなる「たむたむたいむ」や岩橋修平(確かこんな漢字だった)の「標ない旅」というトーク番組、更には「ルーテルアワー」というキリスト教の布教活動をテーマにした番組もあった。そして大好きだったのがお便りと音楽で綴る「夜をぶっとばせリクエストで45分!」という人気番組だった。荒川守や大和田新をDJとして、深夜までバカ騒ぎを展開した。翌日の寝不足は必至の、今となっては想い出深い番組である。

13.洋楽鑑賞

Air_supply  高校生になると、近所に小さなレンタルレコード屋が出来た。親に頼んでラジカセからステレオにグレードアップした。私は当時、パイオニアのアートローディング方式の最新鋭のプレーヤーに、チューナー・アンプ・Wカセットデッキがトリオ製(現ケンウッド)、スピーカーはダイヤトーンだった。兄貴はもっとオーディオに凝っていた。ターンテーブル型のテクニクスのプレーヤーに山水のアンプ、デッキは通好みのNAKAMICHI、それに加えて小さなBOSEのスピーカーまで持っていた。デンオンのCDプレーヤーをいち早く購入した。音にこだわりがあったのだろう。それを駆使してそのレコード屋から借りまくった。当時流行っていたのは「アフリカ」が大ヒットしたTOTO、「ホテルカリフォルニア」や「素直になれなくて」のシカゴ、そして「ニューヨークシティセレナーデ」のクリストファークロス、「ナイトバーズ」のシャカタク、ボズ・スキャッグス、ディスコティックサウンドなノーランズやアラベスク、ABBAらがいた。しかし、私が一番好きだったのは、1980年初頭を代表するオーストラリア出身のポップデュオ「エアサプライ」だった。ヒット曲「ロストインラブ」や「シーサイドラブ」、「さよならロンリ―ラブ」、「渚の誓い」など本気になって歌詞を覚えた。日本でも当時流行したAORブームの波に乗り、さわやかでロマンチックな夏の海の代名詞的なイメージで非常に高い人気を博した。

14.ドラム演奏

Pearl  小学生時代、親がおもちゃのドラムセットを買い込み、私達兄弟に音楽に触れさせようと躍起になっていた。また、ピアノを習いに通わされたり、トランペット・トロンボーン・ギターも齧った。しかし、高校の時、バンドを組みたくてどうしようもない時期があった。当時、YMOやコスミックインベンションなどのシンセサイザーを駆使したテクノポップ調の新しいジャンルが生まれた。しかし、それらの機具はとても高価で、親にねだって買えるような代物ではなかった。そこで通販で、8万円ほどの「Pearl」製のドラムセットを購入した。色はワインレッドだった。しかし、購入当初は面白くて叩いていたが、所詮我流ではどうにもならず、加えて生来リズム感の悪い私にできる筈はなかった。残念ながら1年間で手放してしまった。たぶん送料込みで5万円ほどで売ったと思う。

15.ジグソーパズル

 これも近所に住む家庭教師の先生の影響で始めた趣味。やはり人に感化されやすいようだ。最初は500ピースほどだったが、昔のプラモデルと一緒で、だんだん完成に近づいて行く喜びが忘れられず、ハマってしまった。小学6年から始め、高校生まで夢中になっていた。年を追うごとにだんだんと絵が大きくなり、最終的には2,000ピース級までやるようになった。好んでトライした図柄は日本の風景(姫路城・金閣寺・東京上空、横浜ベイブリッジ、同夜景など)。当時は、額に入ったパネルなど高価で買えず、発泡スチロールの軽い台座に接着テープでそれらを貼り付けて飾っていた。「やのまん」と「ビバリー」が二大メーカーだったが、面白いことに会社によってピースの大きさも違っていた。一度、ピースをひとつ無くしてしまい、途中で辞めたことがあった。今も、家に2つ飾ってある。退職後に時間が取れればぜひ再トライしたい趣味だ。

16.バイクツーリング・紀行文執筆

Vt  バイクは高校生時分にはさほど興味はなかった。当時は横浜銀蠅やなめねこブームがあって、ツッパリが流行していた。だから「バイク=暴走族」というイメージがあったようだ。しかし、大学が北海道のキャンパスに決まったこともあり、生活や旅の足としてどうしても欲しくなった。その頃、映画「ハイティーンブギ」で空冷4気筒のCBX400Fの改造型が使われた。外観は白と赤のツートンで、ミーハーイメージなのだが、このバイク、音が凄く良い。30年近く経った今でも希少で人気が高い。しかし、当時の貧乏学生の私には手が届かず、その弟分とも言えるVT250Fを購入した。その頃は空前のスポーツバイクのクォーター(250cc)ブームで、ヤマハRZ、カワサキKR、スズキγなどが街を闊歩していた。私はそのスタイリッシュなデザインから、ホンダのVTを選んだ。色は黒で、初のV型ツインカムエンジンの水冷4気筒だった。このバイク、ミーハーと侮るなかれ。タコメーターが1万4千まであって、1万2千からがレッドゾーンだった。だからブンブンエンジンが回った。しかもシフトは6速まで。あるスピード域を超えると、両側に備えた2本のマフラーから独特の「ボーン」というエキゾーストノートを吐き出した。このバイクを駆って私は北海道を旅してまわった。これに関しては、当ブログNote「学生時代in北海道」をご覧ください。また、せっかく北海道をツーリングできる機会を得、何か旅の記録として後世に残せる形にしようと考えて始めたのが紀行文執筆だった。これは大学のレポートを書く上で、かなりプラスとなった。きっかけは高校の修学旅行で、紀行文の課題が国語の科目で出された。それを写真や雑感、俳句・短歌などを交えて書いていくうちに、面白さに嵌り、結果、キャンパスノート100ページを超える超大作になった。国語の先生に大そう褒められ、成績が「4」に上がったのだ。これに味をしめ、ツーリングに応用したのだ。これも当ブログで紹介済みなので書き方その他はそれを参考にしてほしい。2度旅行気分を味わえることや、細かい時間や地図や道順などを記載することで、自分だけのガイドブックにもなるすぐれ物。その時々、その土地土地で感じた事柄を記録し、費用や距離数も記載してある。この作業は4年間続き、今では計14冊、ページ数は1,500ページを優に超えている。したがって、卒論にもこの技術は反映されたし、日々のブログ記事を書くことなど苦にならないし、むしろ自分の情感を文章に落とせることに喜びすら感じている。

17.スキー

 大学が北海道だった割には、寒さが大の苦手で、スキーへは一度しか行かなかった。しかも萩の山市民スキー場という超マイナーなファミリー御用達の小さなゲレンデだった。富良野やニセコ、ルスツ高原やトマムなどもっと行けば良かった。私がスキーに夢中になったのは仕事に就いてからだった。1987年に映画「私をスキーに連れてって」が上映され、バブル景気とあいまって空前のスキーブームが起きた。リフトは長蛇の列で、30分待ちはザラだった。残念ながら当時はスノボは出たばかりの頃で、大部分はスキーだった。東京駅や新宿、汐留発着の夜行バスで、菅平や万座、志賀高原、上越国際、苗場などへの直行便が出ていた。強行軍だが、特に都会の人は、お洒落なペンションに宿泊し、映画と同様、クリスマスや大晦日、バレンタインデーをゲレンデで過ごすのがステータスになった。きっと原田知世ばりの可愛い子ちゃんとの出逢いを期待している人も多いのだろうが、そうはなかなか問屋は卸さないようだ。20代の頃、付き合っていた女子大生の彼女も、スキーツアーが縁で知り合ったが、やはり儚い雪の如くゲレンデに解けてしまった。私自身は昭和63年から本格的にスキーを始め、1シーズン30回を達成した。ひとりで仕事終わりにナイターであだたら高原や沼尻、羽鳥湖高原、猪苗代周辺、箕輪へ出向き、我流で何度も転倒しながら回数だけは多く滑っていた。10人程度の仲良しグループとも5~6回は行った。そして20代で1級を取得した。恐らく合計で300回を超えていると思う。猪苗代リゾートやミネロ、箕輪にはかなり通い詰めた。結婚後には回数が激減した。ここ3年間は、体力の衰退と気力も失せ、更には骨折までしてしまい一度も行っていない。アルツやグランデコへは2回ずつしか行っていない。蔵王へも3回、安比にも泊まりがけで足を伸ばしたことがあった。今やったら、3回リフトに乗ればそれでよっぱらである。
 
18.アマチュア無線

Th77  これも「私をスキーに連れてって」の影響大。当時は携帯電話が無く、ゲレンデで仲間と連絡を取り合う手段としてアマチュア無線(ハム)の免許を取得した。かつては電話級とか電信級という名称だったが、今は4級となった。携帯の普及で、免許状を更新しない人が多くなったが、私は20年前に取得したコールサインを気に入っていて、それを切らさないよう5年に一度更新している。平成2年の暮れに、私がいわき市に住んでいた時に、常磐道を車で下がってわざわざ晴海の試験会場まで行って、そこで一発勝負の受験をして、なんとか合格したのだ。テキストの丸覚えだった。理科が大苦手だったので、片っ端から暗記していった。たぶん満点だったと思う。その後、当時一番売れたケンウッドのTH77を5万円ほどで購入し、オールバンド受信可能な無線機に改造した。そして映画同様、マイクを胸元につけて滑ったり、ヘッドカムをつけてゲレンデを闊歩した。今は携帯時代なので、愛好家が減ってしまった。自分から知らない人に波を出して混ざるようなことはしない。自動車につけてマイクを握ったが、現在、走行中の携帯使用は反則行為になったが、アマチュア無線の場合はどうなのだろう。タクシー無線と変わらない気がするのだが・・・。

19.ガーデニング

 これは15年前に持ち家になってから始めた。花苗を購入し、花壇を作って植えたり、季節ごとに花をつける庭木や家庭菜園を楽しんでいる。これまで作った野菜は、ミニトマト、ナス、キュウリ、とうもろこし、ブロッコリー、かぶ、枝豆、小松菜、ニンジン、パセリなどである。農業はやってみると奥が深く難しい。毎週、NHKの「やさいの時間」を見て研究はしているのだが・・・。良質の土と、肥料が大事だし、いろいろな防虫対策が必要。連作障害もある。最近は時間が取れないので、ミニトマト一本やりである。また、本当は芝庭にして、グリーンに見立ててパットをしたいのだが、「手入れが大変」との周囲の猛反発に遭い、断念している。歳をとってからもできる趣味なので、長く楽しみたいと思っている。

20.フィッシング(海釣り)

Tsuriten これも39歳の時に、職場の釣り好きの上司に連れられて、始めたのがきっかけ。もっともその前に、義理の兄が釣りをしていた場所(請戸漁港)に子供と一緒に訪れて、物は試しにトライし、竿を上げたら偶然ハリ掛かりして魚(イシモチ)がかかっていた。それを持ち帰り、姉に焼いて貰い食べたら、抜群に美味しくて、そこから凝りだした。それからというのも道具を揃え、年間15回程度は釣行している。釣りを開始してから、この8年間で80回近く釣行した。最高サイズは53cmのナメタガレイ。お気に入りのフィールドは、中之作・相馬・小名浜である。郡山からは1時間半程度でどの釣り場にも到着できるので、近いと言えば近いかもしれない。一度も釣ったことが無いのはヒラメとスズキ。いつか釣り上げてみたい。残念ながら、ルアーを用いて一度も魚らしいものを釣った試しがない。また、体質的に船に乗れないので、いつかは狙って波止からもヒラメやスズキも釣ってみたい。

http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%2042.html

21.ホームページ制作

 これはこれまで体験して来た趣味を紹介する意図と、自身の備忘録を兼ねて制作を始めた。ホームページビルダーを使い、少しずつ増やし、今では300ページ分を超え、60MBまで容量を蓄えた。最初に作ったのが春夏秋冬を通じて季節ごとに追求できるアウトドアの趣味を紹介した「趣味ING」で、その中の「ようこそ釣り天国へ」を独立させた。そしてその中に「風越波海の世界」という詩歌の世界を盛り込んだ。これまで70作品を手掛け、画像やBGMを添えて紹介している。

22.詩作(ポエム・エッセイ・コラム)

 詩作は、2007年から開始した。それまでは旅の情緒や雑感めいたことを認めたコラムのようなものを書き溜めていた。それをポエム風にしたのだ。もちろんこれは前述した「趣味ING」の中で掲載してある。最初に書いたシリーズが、海をテーマにした「潮風の招待状」だった。BGMや画像を挿絵にしたり、自分なりに工夫し、臨場感を出したつもりだ。続いて執筆したのが、「趣味ING」内の「僕が北海道にいた頃」のエッセイを詩歌風に簡略化した「果てしなき大地」篇。これは、かつてテレビドラマ「俺達の旅」のエンディング時に流れるメッセージを意識した内容。北海道の様々な名所を訪れた時のことを思い出し、旅情を掻きたてる内容。そして3番目には身内の死や人生を意識した「黄昏の時刻」、そして短編小説を意識して「生活場面」を描いて綴った「都会の片隅で」がある。実は、アップしていないが、毎月替わりで執筆しようと計画して、頓挫している長編もある。高校球児をテーマにしたものや男女の別れを描いたもの、結婚をテーマにした家族愛の物語、卒業をテーマにした作品などがある。完成次第公開したいとは思っているのだが、なかなか詩作に取り組む時間が持てないのが現状である。

23.ブログ執筆

 そして2009年の4月下旬のGWから始めたのが当ブログ。1年ちょっとで300を超える記事を掲載した。最近は1日のアクセス数が400を越えている。有難い。しかし、思いがけず、私がひとりごと(いや最近はひとりよがりが強くなって来た)のつもりで書いた記事が、別の検索エンジンを介してみると、話の火種や論争になっていて驚くばかりである。政治以外のネタで個人名を挙げることは勿論、プライバシーの侵害や肖像権には気を遣っているつもりだが、想定外のことが現に起こっている。そもそもブログを開始したきっかけは、日々の様々な社会問題に際し、「本当にこれでいいのか?」と一石を投じる狙いで各種・広範囲な話題に触れたのだが、波紋を広がりすぎて、多方面・他分野にまで影響がある。おとといの経済ニュース「若者の自動車離れ」は、私が昨年書いた記事とそっくりだし、どうも専門家が感じる所感と差異はないように思っている。これからも、長すぎるので、あまり最後まで読んで貰えないと思うが、一報道者になったつもりで、身近な話題や芸能ネタ、文化ネタ、社会ネタ、政治経済ネタなど多彩なジャンルで記事を書き綴っていきたいと思う。

24.通信教育

 昔から、通信教育に首を突っ込んでは長続きせずに失敗を繰り返して来た。日ペンの美子ちゃんのペン習字、一時期流行った記憶術、学生の頃はリンガフォンという英会話教材にも手を出し、各種資格やトラベルジャーナル専門学校の数万円するような通信教材にも首を突っ込んだ。いずれも1年持たず断念。勿体ない。今回も仕事をしている傍らで、大学の通信課程に通うことになった。今、新たに考えているのは法律の知識の習得。退職を迎える15年後を睨んで、司法書士や行政書士の資格取得を目指している。昔から暗記はお手の物だが、いかんせん歳をとり、記憶力も覚束なくなっている。最短2年半だが、5年計画で仕事に支障をきたさないようにしたいと考えている。そして別段名前に憧れた訳ではないが、東京六大学のひとつとして名門の某大学に籍を置き、レポート提出や科目試験対策に悪戦苦闘を繰り広げているのは周知の事実である。

 いかがでしたか?「あ~懐かしい!」というのもあったかもしれない。それにしても随分金を使ったものだ。しかし、私は「趣味は人生を豊かにしてくれる水先案内人」を人生訓とし、仕事一筋でなく、どうせ一度の人生ならば、周りに迷惑を掛けない程度にやりたいことをできるだけチャレンジし、悔いの残らぬ生き方を貫きたいと思っている。そして、退職後もチャレンジしたい趣味が、榎木孝明が実行している旅行で訪れた場所で水彩画(風景画のスケッチ)を描いてみたいのと、70歳で始めて、今や二段の腕前になった母親に習って蕎麦打ちを行い、陶芸にて自らが制作した茶碗に盛りつけて食したいという希望がある。そして晩年は7年前に亡くなった父親の星を探すべく、天体観測に興じて人間として、男としての浪漫を感じながら死と向き合いたい。実現できるかは、健康状態にもよるし、財政的な問題もある。しかし、人として生を受けたからには、生きた証を大好きな趣味を通して子孫に残していければ幸甚だと考えている。

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