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小説

2013年3月13日 (水)

シュートショートの神様「星新一」

 星新一をご存知だろうか。私が彼の存在を知ったのは、恥ずかしながら今年の2月下旬のことだ。それも職場の同僚に言われて初めて、彼が日本人SF作家の草分けで、私が生まれた頃に、既に数十年後の未来像を描き、文字通り「空想小説」(SF)を描いた第一人者であったことを。その同僚は私に、彼の代表作5冊を実家の埃まみれになった本棚から見つけてくれて、貸してくれた。するとどうだろう。あまりに奇想天外なストーリーと予期せぬ結末につい吸い込まれ、「マイ国家」を3時間足らずで200ページを読破してしまった。彼の小説は「ショートショート」と呼ばれ、その名の通り、一話完結の話が3~5ページと短く、多忙でせっかちな私にはもってこいの小説だった。外国で言えば、アメリカの短編小説作家の「オー・ヘンリー」のような存在か。

 中学時代にNHK「少年ドラマシリーズ」の「なぞの転校生」や「未来からの挑戦」を見て、SF小説にハマり、読み漁った時期があったが、それは眉村卓や光瀬龍の作品が殆どだった。今回、星新一の作品を知り、まさに眉村卓は彼の作風を継承しているように思えた。つまり、最初にこのショートショートの分野を確立したパイオニアは星新一ということになる。翌日にはブックオフで、彼の作品を5冊買い込んだ。今後も時間を見つけては読みふけりたいと思っている。それにしても半世紀も前の世にあって、夢物語として予知、あるいは予見したようなことが、50年を隔てた今、不思議にも実現している事象が殆どであり、彼がまさしく稀代のSF作家であったことが見て取れる。
 前置きが長くなったが、それでは早速、彼の足跡を振り返り、アニメ化した作品で振り返ってみたい。最初に断っておくが、このストーリーは30年から50年ほど前に考え出されたものばかりである。いかに彼が先見の明を持ち、ユートピアなどの未来社会の出来事を仮想し、空想していたかがわかると思う。

 <星 新一のプロフ>

Hoshi  本名・星 親一、1926年〈大正15年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉 12月30日)は、日本の小説家、SF作家。
 父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一。森鴎外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。 
 1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町に生まれる。1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。

 多作さと作品の質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。71歳で間質性肺炎で死去。
 彼の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し(「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど)がされていて、星は晩年までこの作業を続けていた。激しい暴力や殺人シーン、性行為の描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない等の制約を自らに課していた。
 ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」「エフ氏」の名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。

 「彼の生涯」

http://www.youtube.com/watch?v=HHSrHE_pHC8

http://www.youtube.com/watch?v=aik2D8dFY1A

http://www.youtube.com/watch?v=l4bmOodpu8o

http://www.youtube.com/watch?v=fqOsmI5xNTQ

 代表作

 ようこそ地球さん(1961年(昭和36年)・・・31篇収録。星によると「ガガーリン少佐を乗せた初の人工衛星発射のおかげもある」とのこと。
 気まぐれ指数(1963年(昭和38年)・・・ユーモアミステリー小説。初の長編。東京新聞に連載された。NHK(少年ドラマシリーズ)、NET(「おれの番だ」に改題、植木等出演)でテレビドラマ化もされた。
 はじめてのSF長編。S-Fマガジンに連載された。
 気まぐれロボット(1966年(昭和41年)・・・のちに『きまぐれロボット』に改題。子ども向けショートショートに童話を加えたもの。
 マイ国家(1968年(昭和43年)
 ひとにぎりの未来(1969年(昭和44年)
 宇宙の声(1969年(昭和44年)
 だれかさんの悪夢(1970年(昭和45年)
 未来いそっぷ(1971年(昭和46年)
 ボッコちゃん(1971年(昭和46年)
 誰も知らない国で(1971年(昭和46年)
 さまざまな迷路(1972年(昭和47年)
 にぎやかな部屋(1972年(昭和47年)
 おかしな先祖(1972年(昭和47年)
 たくさんのタブー(1976年(昭和51年)
 地球から来た男(1981年(昭和56年)
 これからの出来事(1985年(昭和60年)
 つねならぬ話(1988年(昭和63年)

  •  <動画化された作品>
  •  ① アフターサービス
  •  ② ボッコちゃん
  •   
  •  ③ 逃走の道


  •  ④ 紙幣


  •  ⑤ 神

  •  ⑥ 悪夢

     ⑦ おーいでてこーい
    http://www.youtube.com/watch?v=gEb-cYuzD90

     ⑧ よごれている本
    http://www.youtube.com/watch?v=V1jxBMlQ3yw&list=PLCECA551838F0F281

     ⑨ 生活維持省
    http://www.youtube.com/watch?v=cRxJPpfEUdc

     ⑩ 夢と対策
    http://www.youtube.com/watch?v=ngE659UIq5s

     ⑪ 宇宙の男たち
    http://www.youtube.com/watch?v=iY_1eH5pbqw

     ⑫ 欲望の城
    http://www.youtube.com/watch?v=yPLq9U7Vl2w

     ⑬ ゆきとどいた生活
    http://www.youtube.com/watch?v=lRB17LFz_Cg

     ⑭ 椅子
    http://www.youtube.com/watch?v=fPTIxJdW6eY

     彼が同じ小説家から一目置かれる理由は、天下の東京大学を卒業するほどの秀才にもかかわらず、それをおくびにも出さず、知識をひけらかすこともしないで、淡々と自分の創作に邁進していた点である。無論、そこには傲慢さもゴリ押しもない。しかも圧倒されるのは、通常ならちょっと学を積み、文学者や作家ともなれば、普段目にしないような堅苦しい感じや語句を好んで用い、やたらと難解な古めかしい表現を使いたがる。威厳を上げようとか、とかく大学教授にありがちな堅物傾向に陥る。ものだがさも自分はこれだけのボキャブラリーを有しており、なおかつ学があるということをアピールしようと訝しげに並べるものだが、、彼にはそういう卑しい発想がない。一部の学術的に知的レベルが高い学識者や大人にはウケはいいだろううが、これは万人向けで大衆ウケするような類ではない。
     しかしながら星新一は、そういう高慢さも片意地張った部分も持たない。子供から大人までもが楽しめるような大衆文学にのめり込み、電車の中の移動時間やちょっとした休憩時間に誰もが気軽に読みふけることが可能なくらいの文字数で収め、その中にきっちりと高度なオチまで設けている。敢えて老若男女が一読しただけで、何の先入観もなくスっと入っていけるような平素な文体を用い、一篇が3~5頁程度の短編集を提供することにひたすら奔走した。長々と平坦で辛辣な文面を並べ立てるのではなく、少ない文章にしっかりと起承転結を盛り込む最高のテクニックを用いた。非合理的な概念はすべて排除し、自然体で未来のアイディアが湯水のごとく湧いてくるのだった。
     彼が「ショートショートの神様」と呼ばれる所以は実はそこにあったのだ。もっともSF小説の場合、ほとんどが空想を思い描きながら筆を下ろすために難しい文体だと表現が堅くなり、読者は戸惑い、理解が追いつかない。なぜならイマジネーションがその都度寸断されてしまうからだ。それをことごとく排除したのだった。

     今回、遅まきながら彼の作品と出会い、その作風に触れ、先を読むことの大切さを身にしみて感じた。そして夢を思い描くことも。夢は一見現実不可能だが、科学技術の発展を見越して考えれば、もしかすると世紀を超えて実現に至るかもしれない。空想家とはそうした作業を具現化する超能力者のような気がする。しかし、彼は単なる空想だけでは終わらず、どこかで警鐘を鳴らしている。豊かな生活を続けた末に待ち構えているものは・・・。引き換えに何を失うか。足元を見て生活することの大切さを痛切に皮肉とユーモアを交えて描ききっている。それにしても彼はもう故人であるが、彼の作品には続きがあるように思えてならない、毎回含みを持たせ、その先の教訓を読者に考えさせるからだ。そして、まるで麻薬にも似た感覚で、また読みたい気にさせてしまう。そう言えば、彼の別作品を読みたい衝動に駆られてきた。

     「星新一に関するブログ」

    http://www.hoshishinichi.com/

  •  記事作成:3月2日(土)
  • 2011年6月21日 (火)

    僕が北海道にいた頃(後編)

     今日は、6月18日にアップした「僕が北海道にいた頃」の後編をお送りしたい。

     第四章 「流氷物語」

     その時僕はさいはての北の岬、能取岬に向かうバスの中にいた。観光にはちょっと季節外れだが、そのバスだけは平日だというのに満員の乗客で熱気に包まれていた。それは、網走駅から冬の時季だけ運行する定期便の流氷バスだった。流氷、それは遥かオホーツクの彼方から二千キロも旅してやって来る冬の風物詩のことである。それがさい果ての最北の宗谷岬から東の根室沖の沿岸に接岸し、辺り一帯を埋め尽くすと、北の大地に厳寒期の訪れを告げる。オホーツクの凍った風は、白く巨大な氷の海を作る。すべてが白い世界にうずもれ、厳しい寒さが張りつめた美を創出するオホーツクの冬。流氷の織りなすファンタジーは、自然の持つエネルギーと神秘を物語ってくれる。毎年1月下旬のことである。
     さて、流氷バスは、文字どおりその流氷を間近で観賞するために、観光客たちを岬の突端まで運んでくれる。車窓からのぞく景色は、夏にツーリングで訪ねたものとは明らかに豹変し、北海道の本当の姿がそこにあった。冬枯れの木立を樹氷に装い、それだけで外界との隔たりをあらわにする。道端に刺してある積雪量を測るポールも、その半分以上が雪の中に埋もれてしまっている。北の冬は、来訪者を拒むかのように雪が吹き荒ぶ。冬の岬もまた同様に、立っていることさえ困難なくらい強風が荒れ狂う。そんな季節に、誰が決めた訳でもなく、例年繰り返されている出来事が、この流氷来訪であった。
     私が降り立った能取岬は、まさに冬本番を思わせる天候。激しい風が吹雪を連れて来る。流氷というよりは、海がそのまま凍りつき、大海原になったよう。見渡す限り白一色。雪原が遥か北限の水平線上までつながっている。辺りはこの世の果てという壮絶感が漂っていた。
     ところで、谷村新司の『群青』という歌を知っているでしょうか。一節を紹介すると、「空を染めていくこの雪が静かに、海に積もりてあなたを凍らせる(眠らせる)・・・」 この歌の情景そのものだった。この流氷について説明を付け加えれば、誰もが寝静まった夜半に氷鳴が聞こえるという。氷鳴とは、流氷が他の氷の群れとぶつかったり、擦れあう時にできる音のことだ。静かな冬の海に、まるで生きてる証をアピールしているようだ。人知れず叫び続け、自分の存在を主張しているようだ。数千年の長い歴史の中で、決して途絶えることのなかった想像を絶する感動のドラマ。それを目前にして、その重みに言葉が出ない。自然の偉大さをまざまざと見せつけられた瞬間だった。
     岬の岸壁に打ち寄せ、びっしりと周囲を埋め尽くした流氷群ではあるが、その景観も3月初旬を迎えると気温の上昇に伴って、静かに、本当に静かに岸辺を離れ、また北の洋に帰って行く。そして北国にもやっと遅い春の訪れを告げるのである。
     流氷から私たちが学ぶことは数多いと思う。冬の期間、限られたその生命を精一杯表現しようとする。たとえ訪れる者が、誰一人としていなくても、そこで生命を輝き続けている。あまり目立たない存在ではあるが、だからこそそこに価値を見出すことは容易なことではない。言い過ぎかもしれないが、「たかが流氷、されど流氷」である。私はその限られた儚い命だからこそ、最高に美しいのだと思う。

    Ryuhyo

     第五章 「返せ北方領土!」

     「国際化」という言葉が使われて久しい。しかし、国際的見地から判断して、日本人という人種ほど母国の国家に対する愛国心や忠誠心が希薄な国民はいまい。その代表的な例が国家斉唱だろう。いろいろな時代の変遷や歴史的背景があったにせよ、自国の歌を声高らかに自信を持って歌える人は数少ない。若い世代では、その歌詞の意味すら知らない人がいる。それは絶えずあの忌々しい戦争という多大な犠牲を払った重く圧し掛かった過去の記憶が、そのイメージを悲哀なものへと追いやってしまっているようだ。悲しいかな、それが現実なのである。同様に最近の日本人の非国民性を言い表すのに格好の材料がある。それはもう遠い過去のものになってしまった感が強い、「北方領土問題」である。
     北方領土という言葉が、ともすれば死語になりつつある現在、日本人はその本来の意味すら忘れがちではないだろうか。たとえ日本国民の半数以上がこのことに背を向け、見向きもしなくなってしまっても、決して忘れられない、いや忘れてはいけない人達がいる。それはご当地、北海道の人々である。北方領土とは、言わずもがな北海道の北東の海上沖に点在する四つの島々(択捉・国後・色丹・歯舞群島)のことであることは周知の通りである。地理的にも歴史的にも、あるいは政治的に見ても確かに日本固有の領土であるこの島々が、ポツダム宣言受諾後、サンフランシスコ条約や国交を回復した際に締結した日ソ共同宣言という理不尽な条約の下に、なぜ一方的とも思える旧ソ連の不可侵を許すなどといった戦々恐々とした状況に陥ってしまったのか。それには主な理由が状況判断から二つあると考えられる。
     ひとつは、北方の海は世界でも最大の漁場であり、食糧や生活難が著しいソ連のお家事情にとって、スケソウダラなどの魚が黒潮に乗って多数回遊するこの地点は、まさに宝の海と言えよう。
     もうひとつは、軍事目的のためだった。当時、世界を東西に二分した冷戦に代表されるように、旧ソ連にとって最大の敵国であったアメリカを牽制する上で、意志を共にする日本のこの地に戦略的拠点としての陣地を置いておきたかった。そのため是が非でも北方4島を占拠し、手中に収めておく必要があったと推定される。また別の見方として、領土問題について中国への政治的配慮があったとも考えられる。
     時の書記長スターリンに端を発したこの問題は、その後も双方の歩み寄りは見られず、話し合いも暗礁に乗り上げたまま、常に平行線をたどって来た。その後も、日ソ交渉の度ごとに、この問題は棚上げされたり、必ずと言ってよいほど懸案が決裂するネックとなったのである。これを考えずして、日ソ問題を語るなかれというのがこれまでの定説だったからだ。
     今、我が国を取り巻く国際情勢は、実に多種多様、広範囲に渡っている。そうした中で、世界の中の日本の位置づけや果たすべき役割を鑑みた場合に、「北方領土問題」は、単に日本と旧ソ連という二カ国間だけの問題に留まらず、国交正常化や国際協調の観点から判断しても、早期に解決を図らなければならない重要な問題であることは言うまでもない。誰もが感じ、認めていることだろう。
     しかし、最近ソ連が崩壊したのを契機に状況は明るくなった。それがロシア共和国やその他の独立国家共同体に分割した今、それまでの緊張が段階的に緩み、毎年定期に実施される墓参やビザなし渡航が可能になった。地元の人々にとって一筋の光明を見た思いだろう。
     私が北海道に住んでいた時、その問題を現実のものとして直視させられた出来事がいくつかあった。根室から日本最東端の納沙布岬を目指して走る道道には、その途中、幾度も「返せ北方領土!」の看板を目にすることができる。私が納沙布岬を訪ねた時には、偶然にも巡回で訪れた自衛隊員が、双眼鏡で目前の海上に浮かぶ小さな島々を監視している場面に遭遇した。肉眼で見えるそれらが異国の土地だというのか。また旧ソ連の警備は厳しく、敵国の飛行機や船舶などが領空や領海を侵犯していないかを監視するために、上空をソ連のジェット戦闘機が何度も飛来していた。けたたましい騒音を放つそれは、まるで実践そのものの様相を呈していた。スクランブル発進などは日常茶飯事だった。しかし、時間の経過と記憶の忘却とは恐ろしいもので、一時期、北海道沖で一触即発のそんな状況にあったことを、今知る人は少ない。
     それが脚光を浴びた出来事が、昭和59年に起きた大韓航空機撃墜事件であった。日本人乗客29人を含む乗員乗客約400名を運んでいた民間旅客機は、サハリン沖でコースから外れて飛行してしまい、敵影と間違えられてスクランブル発進したミグ戦闘機によって撃墜された。当時、ソ連はこの事実を否定し、蔑ろにし、挙句の果てには事実を捻じ曲げ、真実を闇から闇に葬り去った。そして、長い沈黙の末に提示された結論は操縦士の精神的欠陥が原因だったとする調査報告を行っただけだ。しかし、人の記憶とは恐ろしいもので、こんな大事件があったことさえ、次々と世界各国から飛び込んで来る新しいニュースによって、次第に風化し、いつしかマスコミも取り上げなくなってしまう。
     こういう時世だから、現代人に必要なのは、たとえ世界がどんな情勢に陥っても、その時代の風潮に流されず、かつまた付和雷同しないように、個々が確固たる意見や主張を持つことではないだろうか。日本人には一番希薄な部分ではあるが、当面は意識改革が早急の課題だろう。
     したがって、私はここであえて声を大にして言いたい。「返せ北方領土!」と。日本人としてこの文字を忘れないために。そしてこの言葉の意味をしっかりと後世に残すために。
     この先、世界平和や共存共栄のために、日露交渉が決裂することなく平穏無事に進展していくことを心から祈ってやまない。

    Hoppou


     第六章 「涙の連絡船」

     都はるみが歌った名曲「涙の連絡船」を地で行くような出来事が、昭和63年3月にあった。旧国鉄がJRとその名称を改めた年から僅か一年後に、数多くの犠牲者の人命を奪い、工期24年と気が遠くなるような長い歳月と莫大な費用を投じて、遂に青函トンネルは完成した。開通の3月13日、しきりにテレビでは、本四連絡橋開通と合わせ、「日本が一本のレールで結ばれる記念すべき日」を強調していた。その日、北海道では待望の開業に道民がこぞって沸きに沸いた。北海道に暮らす人々にとって、鉄道で内地に渡れることは悲願であり、長年の夢だった。内地に住む私たちには、彼等の感激やその喜びようは計り知れないし、知る由もない。しかし、このことで時間にして青函連絡船を使っていた時と比べ、乗り換えの際のタイムロスを含めて約一時間半以上の短縮になるというのだから、まこと大願成就なのだろう。
     そして、青函トンネル開通に伴い、一方では、時代が産み落とした新たな建造物の陰で、当然のことながら相反するように去り行くものがあった。3月12日、名実共に最終の連絡船「八甲田丸」は、一路函館港を目指し、文字どおり最後の航海へ向けて青森港を出港した。低音で重厚な汽笛を鳴らし、埠頭を離れるその光景は、最後の勇姿をひと目見ようと集まって別れを惜しむ大勢の人達に見送られ、五色のテープが宙を舞い、悲哀がバース一帯に漂っていた。何も言わず、唇をかみしめながらじっと船体を見守る人、万感込み上げ感無量の情に絶えかねて、嗚咽をする人、涙を浮かべながらその瞳に永遠にその姿を焼き付けようと惜別する人、様々だった。そして函館でも、悲喜こもごもの情景の中、大勢の人達に迎えられ、明治41年の開業以来、80年間の長い歴史に幕を下ろした。
     私は個人的に、この青函連絡船には、一方ならぬ思い入れがあった。私が初めてこの船に乗ったのは、昭和59年7月、大学1年の時、夏休みに帰郷する際のことだった。それから二年の間に、計六度乗船を果たした。東北線の夜行急行で降り立った青森駅で、北海道へ向かう人はここで連絡船に乗り換える。人波に押されながら、プラットホームの階段を上り、標識を頼りに架線橋を渡ると、乗船口にたどり着く。すでに大型の船が、旅行客の到着を待ち侘びていたかのように、バースに横付けされていた。その周囲は、さすがに港らしく、磯の香りが漂っていた。夜の闇に紛れて、水面にゆらゆらと町のネオンが映える。そして、ようやく搭乗口からデッキに乗り込んだ。青函連絡船の内部は、椅子席もあるが、寝そべることのできるフロアがブロックごとに仕切られてある。私は、見知らぬ人とも話しをしやすいフロアのほうが好きだった。津軽海峡の波は、内浦のせいか大抵穏やかで、ことのほか揺れは少ない。速度もゆっくりだ。だから、しみじみと船上で旅情に耽られる。航行は、時間にして4時間弱。十分別れの涙を乾かせる。本州でのさまざまな思いをこの連絡船上で断ち切るのだ。いつの日も、この船は哀愁や悲哀に満ち溢れ、まさしく涙の連絡船だった。
     昭和63年を最後に現役を退いた連絡船の末路はどうなったのであろうか。当時は大雪丸、檜山丸、八甲田丸、羊蹄丸、十和田丸、摩周丸、空知丸、石狩丸の計八隻で、一日数往復を繰り返した。老体にむち打って、人々の生活や思い出を運び続けた。引退後、彼らは引き取り手に渡り、日本各地に散らばって行った。あるものは、青函連絡船の展示船として故郷に残り、地元の人々に愛され、またあるものは、その意志とは裏腹に解体され、またあるものは改造後に再利用されたりと、その道もさまざまだ。栄枯盛衰を感じる。その昔、洞爺丸というのがあったが、昭和29年、修学旅行の中学生らを乗せた満員の洞爺丸は、台風15号の嵐の中出港して行ったが、ついに青森港にたどり着くことはなく、尊い命が海の藻屑と消えた。難破である。翌日、台風が去り、前日の天候がまるで嘘のように晴れ上がった七重浜には、数多くの遺体が漂着したという。またひと頃は、自殺が流行したこともあった。夜中にこの船から身を投げる自殺者が続出し、幽霊船という、ありがたくないレッテルを貼られた時期もあった。
     こうして連絡船は、その長い歴史の中で一時代を築き、一世を風靡した華やかさだとか実用性ばかりが目につくが、その陰では、人々のはかない思いや憂いが染みついた怨念の船だったようだ。だから、青函トンネル開業で、確かに便利になったとはいえ、そのために取って代わられたもの、犠牲を払ったものなどが数多く存在していることを私たちは忘れてはならないような気がする。


    Hakkoudamaru Stamp

     さて、二度に渡ってお送りしたエッセイ「僕が北海道にいた頃」、如何でしたでしょうか。北海道に住んでいたことが25年以上も前の出来事になったとは信じがたい。そしてこれらのエッセイを書き綴ってからも17年が経過している。光陰矢のごとしというが、時の流れの速さ、儚さを痛切に感じる。未だその懐かしい想い出は、脳裏を鮮明なまま去来する。退職して毎日サンデーとなり、時間が取れるようになったら、250ccスクーターでも駆って、今度は時間に追われることもなく、一か月くらいかけて私という人格を形成してくれた北海道をもう一度旅して周りたいものである。

     記事作成:6月17日(金)

    2011年6月18日 (土)

    僕が北海道にいた頃(前編)

     ネタが無くなり仕方なく、私が1984年4月から1986年3月まで暮らしていた北海道での学生時代を振り返り、今の職業に就いてから書き綴ったエッセイの中から3篇紹介したい。以前、当ブログで掲載したシリーズである。今回は纏めてお送りして、第二の故郷と自負して止まない北海道への想いを馳せたいと思う。

     第一章 「消えゆく北海道のローカル線」

    「幸福駅」をご存知ないだろうか。今から30年くらい前になるだろうか。「愛国から幸福へ」の謳い文句で一大ブームを巻き起こした、今となっては旧国鉄・広尾線にあった幻の駅である。北海道の地図を広げ、南東に目を向ければ、そこにはかの有名な襟裳岬がある。そこから更に北へ向かうこと30キロの所にある広尾駅を起点とし、帯広駅まで続く約60キロほどの小さな単線、それが広尾線だった。もちろん電化はされておらず、二両連結のディーゼル車が一日数往復しかしていない典型的な赤字ローカル線だった。
     今から遡ること、昭和60年頃の旧国鉄は、赤字路線を否応なしに廃止にしようとの方策を打ち出した。これによって実際に廃止に追い込まれたのは、私が北海道に住んでいた僅か二年の間に10路線にものぼった。
    万字線(岩見沢~万字)、富内線(鵡川~日高)、白糠線(白糠~北進)、相生線(北見相生~美幌)、諸滑線(諸滑~北見滝ノ上)、美幸線(美深~仁宇布)、岩内線(岩内~小沢)、興浜北線・南線(浜頓別~北見枝幸・興部~雄武)、瀬棚線(瀬棚~長万部)、そしてこの広尾線が主な路線である。その大部分が、余剰人員削減や赤字線撤廃などの都合のいい勝手な理由で、バス転換されてしまった。その後もその流れは変えられず、今では17路線あまりが相次いで廃止に追いやられた。
     当時を振り返ると、鉄道に多くの期待と夢を馳せていた沿線の住民たちは、どのような面持ちで廃止の時を迎えたのだろうか。毎日、ある者は通学や通勤に、またある者は買出しや所用にと、それぞれ大切な生活の足として利用してきた筈だ。いろいろな思い出を運び、愛着が染み付いた列車が翌日からはもう走らない。町を貫く線路には二度と列車が通らない。住民たちの心境を察すると、私自身いたたまれない衝動に駆り立てられた。
     そこで私は、マスコミ等で広尾線がなくなることを知り、その姿をこの目に焼きつけておこうと前年に引き続き二度目の訪問を敢行した。幸福駅の駅舎はこの辺りで目にする駅とは趣がまるで違う。ほとんど建物自体が売店といっても過言ではない。木造の古い物置小屋といった佇まいを見せるそれは、林に囲まれたその奥にひっそりと立っていた。当然、駅員など常駐していない。そして、その壁や柱の至る所に、日本中から旅行で訪れた人々が残していった旅の切符や使い古しの定期券、名刺やスナップ写真などが所狭しと貼り巡らされてあり、そこにはとりとめのないメッセージや訪問した日付、はたまた本人のサインなどが記されてあった。
     私がそこを歴訪した時、偶然に列車が到着するところだった。心なしか普段よりも乗客が多かった。廃止がほぼ決定的となり、その別れを惜しむ記念乗車の客足なのだろう。あるいは廃止ブームに便乗してはるばるやって来た、旅行愛好家とか鉄道マニアと呼ばれている人達なのだろう。結局その気運を盛り上げているのは、この鉄道とは何の関わりを持たない呑気な第三者たちだった。廃止の波に身を任せ、「最後の脚光」を浴びせるだけ浴びせておいて、ブームが去れば嵐と共に立ちどころに消え去ってしまう無責任な偽善者たち。その後に取り残されるものは,直接被害を被る無力な住民たちの深い悲しみだけのような気がした。残念ながら自分自身が前者のほうの一員に入りそうな予感がした時、いみじくも自責の念に苛まれた。ただひとりの旅人という立場でしかその場に立ちあえなかった自分自身の境遇に対して・・。
     その列車がプラットホームを離れる時、私自身僭越ではあるが「長い間ご苦労様」と労いの言葉を掛けずにはいられなかった。と同時に時代の流れの儚さ、「時代にそぐわないものはどんどん削られていく」現代の風潮を痛切に思い知らされ、しばし感傷に浸ることを禁じ得なかった。
     そして今、その幸福駅はもうない。長い年月、住民たちの熱い思いに支えられて来た幸福駅は、時代の流れに逆らい切れず、力尽き、たくさんの思い出と共に過去の遺物と化してしまったのである。

    Kouhuku Ticket

     第二章 「北海道を題材にしたドラマ」

     「幸福の黄色いハンカチ」「網走番外地」「北の国から」「昨日、悲別で」「優駿」
     これらを聞いて、すぐ映画やテレビドラマのタイトルを思い浮かべた人は数多くいることだろう。そう、ここに挙げたのは、紛れもなく北海道を舞台にした映画やテレビドラマである。私は現代っ子気質なのか、大のテレビ好きでこうした有名なテレビドラマのロケ現場を見て歩くのがたまらない趣味なのだ。ミーハーとか俗物根性などと言われればそれまでだが・・・。そしてこの北海道をテーマにした映画やドラマが放送されると、各地を東奔西走、その場所を探り出しては訪れたものだ。北海道をテーマにした番組は、その大部分が大自然の中で生活する人々の苦悩や若者の都会への憧れを描いたもの、有名な観光地を背景にうごめくさまざまな人間模様やそこで体験した事柄を取り上げたドキュメンタリー風の内容の物が多い。
     一方、北海道を描く人たちの方に目を向けてみよう。ことのほか北海道に魅せられ、この大地をこよなく愛した多くの人達がいる。北海道が気に入り、この地に住まいを構え、そして骨をうずめようとした決心した人達がいる。この土地柄は数多くの著名人を輩出しているが、作家・倉本聡さんもそうした人達の中のひとりだ。彼は北海道のほぼ中心に位置し、初夏の頃になると薄紫色したラベンダーが辺り一面に咲き誇る、富良野という小さな町に丸太小屋を築き、ほとんど自給自足の生活の中で、意欲的に作家活動を行っているという。彼が手がけた名作『北の国から』などもそうした都会の雑踏や雑念から遠く隔離されたこの地で創作されたものだ。
     私が北海道にいた昭和59年から61年頃には、彼は既に当地に移り住んでいた。昭和58年に、彼はテレビドラマ『昨日、悲別で』をこの世に送った。それを私は郷里で観て、北海道への思いを強くした。それは私が受験地獄に喘いでいた頃のことであり、また実際に北海道へ行くことが正式に決まる一年前のことだった。やがて、夢が現実のものとなり、憧れの北海道の地を踏みしめた私は、予てからの課題だった「悲別」のロケ地巡りに没頭した。ドラマの中で「おっぱい」役の石田えりが住んでいたとされる廃屋と化したペンケ沢の炭住、悲別の舞台となった上砂川の駅や町、萎びた炭坑跡、ラストシーンで主人公「竜」に扮する天宮良が「おっぱい」を追いかけて求愛して盛り上がった砂川の駅。そしてミュージカルスターへの道を歩むきっかけとなり、試練の時を過ごした「悲別ロマン座」。この様に、ありとあらゆる場所を訪問した。そして決して忘れてはならないのが、テーマソングの“風”の「22才の別れ」だった。
     私が大学2年の頃になると、地元の青年会の有志たちの働きかけで、町復興の切り札としてミュージカル『昨日、悲別で on stage』が上演された。テレビと全く同じ出演者を一堂に会し、特に北海道創生の原点ともいえる炭坑町を中心に、4か所で演じられた。実に涙なくしては見れない感動の舞台公演だった。ストーリーもテレビ編と同様の内容だった。あらすじだけかいつまんでお話しすると、北海道の廃れた小さな炭坑町で生まれた田舎育ちの青年が、近所に住む映画好きのおじさんの影響でダンスミュージカルにカルチャーショックを受け、自分も一旗揚げようと上京する。昼間はダンスのレッスン、夜はスナックパブのショータイムに出演する傍ら、チャンスを伺っていたが、どうもうだつがあがらない。同期の奴等はどんどんチャンスをものにし、スターへの階段を昇っているというのに・・・。そんな時、或るオーディションで「竜」は偶然に同郷の女の子「おっぱい」と再会する。その娘は、高校時代不良娘のレッテルを貼られ、悲別を逃げ出した訳だが、その後「竜」と同じダンサーを夢見て東京に出ていた。しかし、田舎育ちの彼女は、東京に当てなどなく、生活苦と資金難から自らの体を売ることで生計を立てていたのだ。やがて、それが政界をも巻き込んだスキャンダルに発展し、マスコミによって汚名を着せられた彼女は深く傷つき、逃げ場を探して故郷に戻る。そんな彼女を、同じく夢途絶えた「竜」を始め、悲別の昔の仲間たちが温かく迎え入れ、互いに傷つきながらも共に励ましあい、仲間意識を強めていくといった、言うなれば青春ストーリーだった。当時はかなり話題になり、北海道では二度三度と再放送を繰り返すほどの好評を得た。
     ところが平成2年の4月に、或るテレビ局でこの続編とも言うべき番組が放映された。やはりミュージカル形式で、そのタイトルも『今日、悲別で』という、まさにあの感動を巻き起こした前編に継ぐ、悲別の7年後を描いた内容の物だった。倉本聡さんのこの作品に賭ける情熱や熱い思いがひしひしと伝わって来るようだ。彼の作品が多くの人を感動させ、支持される大きな要因は、私が言うのもおこがましいが、そのひとつひとつがその後も息衝いているということだ。決してひとつの作品として完結しないところに、彼の主張する生活の本筋や継続性があるのだ。数年後のドラマの続きを見て楽しめるのも彼の作品ならではである。 『北の国から』でも同様のことが言える。二年後、三年後に主人公の成長に合わせて続編が登場するが、出演者は変わらないのに、そのつど新鮮さが伝わって来る。 なぜだろうか。きっと彼の描く世界では、たとえテレビの中では一応の終わりはあっても、その先、登場人物たちが、私達の目に見えないところで、時間の経過と共に絶えず成長を続け、懸命に生きているからにほかならない。
     そういえば、そろそろ『北の国から』の続編が待たれる頃合いである。


    Romanza

    お断り: この文章は平成4年5月に書いたものです。現在「北の国から」は完結しています。

     第三章 「北海道の牧場」

     その昔、年配の方々が若き頃、胸躍らせて競馬場に向かった時代があった。古くは五冠の偉業を達成し、不世出の名馬と詠われたシンザンを筆頭に、ハイセイコーとよきライバルだったタケホープ。レース中に左後脚を骨折し、普通なら安楽死させるところだが、復活を望む多くのファンの熱い声援に支えられて、最後まで闘病生活を強いられ、非業の死を遂げた「流星の貴公子」テンポイント。覆面スタイルが印象的だったグリーングラス。同期のライバル、トウショウボーイ。捲くりの刺客ミスターシービー。無敗の皇帝シンボリルドルフ。ジャパンカップを日本馬で初めて制したカツラギエースなどの名サラブレッドたちに、それぞれの夢を託し、馬券を握りしめていた頃。競馬ファンにはこたえられない昔懐かしい名前が続々登場する。
     今、日本では長引く不況も手伝って、空前の競馬ブームなのだという。老いも若きも男も女も、どこかで聞いたようなフレーズだが、スタジアムに競馬新聞や馬券を手にした若い女性たちの黄色い歓声がこだまするようになり競馬風景もだいぶ様変わりしたようだ。特に新人類と称される人達などは、ギャンブル性の強いこの競技を、まるでスポーツを楽しむかのような感覚で捉え、競馬場に足を運んでいる。最近は人気のデートスポットにまで挙げられる熱の入れようだ。これほど競馬の地位を高め、人気を不動のものにした出来事は、映画『優駿』の上映だった。この映画は、北海道の牧場で働く人々の生活や人間と馬の熱い絆を描いた、近年まれにみる傑作だった。
     また、競馬が多くの若者の支持を得た最大の要因は、若き天才ジョッキー「武豊」の出現によるところが大きい。彼は愛馬、ダイナビショップに騎乗し昭和62年阪神3日目3Rで初勝利を挙げた。彼がまだ弱冠17歳の頃である。その後、彼はオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワン、メジロマックイーンなどを駆って大レースをことごとく物にしている。彼が手中に収めた主な重賞レースは、G1だけでも天皇賞(春秋)、皐月賞、ダービー、菊花賞などである。更に、彼は30代半ばにして通算1000賞を達成しており、名実共に若手NO..1の実力派。まさに天才騎手の名声をほしいままにしている。その後の彼の活躍は、私があえてここで述べるまでもないだろう。周知のとおりである。
     今回このような話を持ち出したのは、別に競馬を奨励している訳でも推奨している訳でもない。まして勝負に賭ける執念を表現しようとした訳でもない。競馬のルーツが北海道にあるという話をしたかったのだ。競走馬の大部分は、北海道で生まれ、雄大な自然の中で育ち、その健脚に磨きをかけている。北海道の中でも特に、日高地方はこうしたサラブレッド馬の故郷としても知られる。かつて一世を風靡し、脚光を浴びた往年の名馬たちは、第一線を退いた後、そこで第二の人生を送っている。疲れ果てたその体を休める一方で、その二世たちが次代のスターを夢見て、日夜トレーニングに励んでいる。
     北海道の日高地方には、気候が比較的温暖な新冠から静内(ともに太平洋岸)にかけて牧場が数多く点在している。その場所(牧草地帯)を総称して牧場銀座と言う。道を挟んだ両側に、大小30以上の牧場が連なるその通りは、その名もサラブレッドロードと呼ばれている。そして、その一角に明和牧場がある。そこに先輩諸氏を熱狂させ、感動の渦に巻き込む名レースを展開した史上最強の馬がいた。競馬ファンならずともこの競走馬の名前を聞いて、知らない人はまずいまい。その馬の名は「ハイセイコー」。彼はそうした牧場の片隅で、晩年の時を迎えていた。私が彼を表敬訪問したのは、昭和60年6月15日のことだった。馬を真近で見ることが初めてなら、これほどの名馬との対面は胸の鼓動が張り裂けんばかりの感動があったし、かつまた衝撃的だった。白い柵の中で、たてがみを振り乱し、自由気侭に走り回るその姿は、そこに往年の面影はなかった。つや光りした濃い褐色の体に長い尾が揺れ、ひずめの音も軽やかに、自ら大地の感触を確かめているようだった。そのハイセイコーと私は、5分の間たったふたりで時を過ごした。その周りには誰一人としていなかった。この時の彼は、生まれ故郷であるこの地に戻ってから、種馬としての生活を送り、二世・三世の誕生に貢献していた。
     これ以外にも、タケシバオーやカネミノブ、スーパーソロンやグリーングラスなどの大物たちと対面を果たした。そして、これら馬たちを眺めていて、ふと心に思ったことがあった。これは決意にも似たようなことだった。自分の生活を顧みた時に、時間や若さを無駄にしていないだろうか。自分の夢を浪費してやいないか。若い今を悔いの残らぬように精一杯生きよう。「一事が万事」「若いうちが華」というように、年をとってからはできないことが山ほどある。若い時にしかできないことを今、一生懸命やろうと思った。馬でさえ本能の赴くまま生き続け、そして過ぎ去った今でもずっと変わらずに輝いているのだから・・・。


    Horse

     これらのエッセイは、今から20年近く前に、北海道の想い出を回顧しながら物思いにふけってしたためたものです。内容が、現況の合わない部分がありましたらご了承願えればと存じます。

     次回は「流氷物語」、「返せ北方領土!」、「涙の連絡船」の三篇をご紹介します。

     記事作成:6月17日(金)

    2010年10月28日 (木)

    白虎の魂 飯盛の地に果てぬ  ~峠の虚像~

    およそ1年前に「会津の魂」というタイトルの記事の中で下記の時代小説を認めたたことがある。私の祖父母は生粋の会津人で、特に5年前に亡くなった祖父は、「ならぬものはならぬ」の頑固一徹の厳しい精神が骨の髄まで宿り、どこを切っても会津の血が流れるほどの根っからの会津武士道を全うした人だった。もちろん剣道六段で師範の資格も有していた。今回は二度目の掲載となるが、尊敬する祖父を偲ぶとともに、会津武士道を忘れないために敢えて二度目の掲載に踏み切った。幕末の時代背景を噛みしめながらとくとご覧あれ。

    時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世 
    倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
    幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
    尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
    天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
    その存在を世に知らしめた新撰組
    戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
    されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった

    禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
    その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
    同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転

    慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に 
    錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
    城を抜け江戸へと逃げ帰る 
    あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意 
    会津は後ろ盾を失い 京を追われた
    やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ 
    倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった

    「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
    孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
    やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
    その猛威の前に退却を余儀なくされた

    Tsurugacastle

    奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
    城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
    それが会津人の魂
    その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
    歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
    日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
    「ならぬものはならぬ」の尊い教え
    よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
    誰一人として想像した者はいなかった

    やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
    会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
    一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
    ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
    ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
    やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
    噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図

    戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
    あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
    命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
    洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
    そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
    隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷 
    そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
    鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前 
    息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
    死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
    それこそが武士道 それこそが武士の本懐
    かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
    遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った

    僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
    会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
    死んでいったに相違ない
    悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
    城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった

    Byakkotai

    時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
    もうひとつの悲劇があった
    妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
    うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
    壮絶な最期であったとされる

    「なよ竹の 風にまかする身ながらも
               たわまぬ節はありとこそ聞け」

    その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
    成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
    奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
    小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
    勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
    それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった

    Byakko

    あれから百数余年が経ち 
    平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
    四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
    そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
    遠い昔の出来事が現世に甦る
    旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
    その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡 
    柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
    白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
    終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み 
    霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
    白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
    しかと見届け脳裏に刻み込む

    そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
    彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
    今も後を絶たない 
    そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
    彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
    まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
    生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
    後世まで語り継がれることとなった

    志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
    それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
    しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした

    終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
    死んでいった多くの防人たちの魂の叫び 
    今もこの胸に去来して止まず
    その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
    我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
    今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
    会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている

    彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
    今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
    いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである


    「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」

     薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である

    Aizubyakko

    2010年7月14日 (水)

    すりぬける風

     残業を終えての仕事帰り ふと携帯に目をやれば君からのメッセージ
     「急に海が見たくなって・・・」 どこか寂し気な君の声

     真夜中過ぎの国道 東に向かってバイクで駆け出す 君をシートに乗せ 
    よく海まで出かけた道
     見慣れた街並みと変わらないいつもの風 
    街角のネオンサインが光の帯となって飛んで行く

     あの頃はコーナーを曲がるたびに背中越しに感じた君のぬくもり 
    そしてふたりでひとつの一体感 
    タンデムの君は離されないように腕を強く回し
    ちょっと怖そうに僕の体にしがみついていた 

     高層ビル群の間を縫うように潜りぬけ 俄かに進行方向の視界が広がっていく
    やがてシールド越しに漂う潮の香り 桟橋渡る風を全身に浴びて 
    僕らは夢物語に迷い込んだ子犬のように
     
    行き着く場所はいつも決まって誰もいない浜辺だった

     「今日は帰りたくない」そう言って君は時計を外し ポケットにしまい込んだ

     砂浜に寝転んで 君は僕に腕枕をねだり ふたりで星を数えた日々 
    君の息遣いまで聞こえそうな静かな海
     いつしか君はすっかり安らいだ表情で
    僕の隣りで静かに寝息を立てていた

     そんな弱々しい君の仕草に 「君をずっと守っていく」そう心に決めた夜 

    「時間よ どうかこのまま止まって」と願いを込め 君をこの手に強く抱きしめた

     しばらくして突然決まった僕の転勤 いつからかすれ違いの日々 
    知らないうちに心が離れて行く

     電話の回数が減り 次第に交わす言葉も少なく 互いに気まずくなっていき 
    やがて僕は言い訳ばかりを繰り返すようになった 

     あんなにいとおしく 僕のすべてだった君 
    その存在が僕の中でだんだん小さくなっていく

    ふたりの愛は紛れもなく真実(ほんとう)だったはずなのに…

     今言えるのは 3年の遠距離恋愛は ふたりにとって
    あまりにも長すぎた歳月だったということ 
    その空白を埋めようと君は努力した 
    何度か僕の居場所を探しては僕との関係を必死につなごうとした

     あの頃の君は 僕に恋していたのではなく 恋に恋していただけ 
    まるで自分を映画のヒロインに仕立て上げ 着飾って本当の自分を隠そうとしていただけ
     離れて暮らして 初めて気づいた君の本心

     突然切り出す別離の言葉 君は予感していたかのように 聞かない振りで
    ただ黙って夜の海を見ていた

    バイクの風で体が冷えて震える君に 僕は自分のジャケットを脱いで君の肩にかけた

     「優しくしないで…」と君は僕の手を振り払った

     君の横顔 頬を伝う涙 潮騒にかき消された最後の言葉

     もっと僕に勇気(つよさ)があれば 君を迷わせたりしなかったのに…
     もう少し時が緩やかに流れていれば 今日の日を迎えずに済んだのに…

     砂浜に佇んで君との想い出を燃やし ふたりでその燃え残る残像を砂に埋めた
    今 3年の月日はモノクロームとなって 僕の記憶の中に閉じ込められた
    流した涙と引き換えに お互いに手に入れたものは 自由という名の道しるべ

     これから先は 別々の道を歩いていく もう振り返ることはない
    過ぎた時間に決別するように 波がふたりの過去を押し流していく 
     

     蒼い海 すり抜ける風 最後の風景画 僕は今 静かにその筆を置いた

    2010年7月 1日 (木)

    球児たちの夏 ~一球に賭けた青春~

    高々と打ち上げた打球 同点の三塁走者が落下点を見据えて身構える
    捕球と同時にスタートを切るランナー 外野から懸命のバックホーム 
    矢のような送球が返って来る 間一髪の際どいクロスプレー
    ホームベース上に舞い上がる土煙 一瞬静まり返るスタンド
    球場全体の視線が一斉にホームベース上に注がれた
    やがて主審の右手が高々と挙がり その瞬間私達の夏は終わった・・・

    Sports121

    私達の学校は山間の小さな村にある分校 全校生徒を合わせても百名足らず
    部員はマネージャー兼スコアラーの私を含めて たったの15名
    大会に出れば 毎年一回戦敗退の弱小野球部だった
    あれは五月 桜が散って間もない頃 私達は夏の大会に向けて
    辛く厳しい練習に明け暮れていた時のことだった
    いつになく暗く沈んだ表情の部長が 生徒を集めて話を始めた
    それは少子化と財政難により来年3月を以って学校は廃校
    そして野球部は今夏の甲子園地区予選終了後に解散という残酷なものだった
    思いも寄らぬ言葉に 部員の誰もが絶句し悔し涙を流した
    そしてその日から私達は「一日でも長く一緒に野球をしよう」を合言葉に
    雨の日も風の日も 毎日汗と泥まみれになって白球を追い続けた
    じりじりと照りつける太陽の下 真っ黒に日焼けした肌
    グローブのオイルの匂い そして血マメとグランドに鳴り響く金属バットの音
    私の仕事と言えば選手の怪我の手当て 買出し 泥だらけのユニホームの洗濯
    用具の整理 ノックの際の球出し そして氷水の準備など独りで何役もこなした
    でも仲間意識が強く 辛いと思ったことは一度もなかった
    そして誰もがひとつの夢に向かって同じ道を歩んでいることがやけに嬉しかった

    Sports391

    やがて訪れた真夏の季節 かくして地区予選大会の幕は切って落とされた
    確かにクジ運にも恵まれたが 必死の努力が報われて 
    分校としては十二年振りに一回戦を突破し 二回戦も一進一退の攻防の末
    九回裏逆転サヨナラ勝ち 奇跡は二度起きた 
    周囲の誰もがフロッグと相手にしなかった
    そして いよいよ三回戦となるこの試合を迎えていた
    相手は 甲子園出場への近道とばかりに
    全国から有能な選手をかき集める甲子園の常連の私学の強豪校
    今回も第一シードの定位置をほしいままにしていた
    「もしかしてこれがマネージャーとして最後の試合になるかもしれない」
    私はそう覚悟し 徹夜で選手全員分の御守りを拵え
    試合前の控え室で ひとりひとりに手渡して自分の想いを託した
    すると皆 私のためにも悔いの残らぬプレーを全力ですると約束した
    そして運命のプレーボールがかかった

    試合は序盤から劣勢 相次ぐ失点で六回終了時点で七点差
    そして七回の自分たちの攻撃を迎えた 
    もしこの回無得点ならコールド負け 
    観客の誰もが七回での試合終了を予想した
    勝利を確信した相手チームが続々と選手を入れ替えた
    それは発奮材料としては十分だった これがチームの打線に火をつけた
    代わったばかりの控え投手が制球を乱し 四死球を連発 完全に浮き足立つ 
    それに乗じて 苦しい練習の成果をいかんなく発揮し バントと足でかき回す
    更にしぶとくつないでこの回三点を返し コールドを阻止しただけでなく
    私たちの夢も繋がった

    そして最終回 ユニフォームの中に忍ばせた御守りを握りしめ打席に入る選手たち
    先頭打者が初球を叩き内野ゴロ しかし捕球寸前で幸運にもバウンドが変わり出塁
    まだ勝利の女神は我らが手の中にあった
    続く打者が意表をつくセーフティバント 処理を焦った捕手が指示を誤り野手選択
    更に4番打者を警戒した相手投手が四球を出し 無死満塁とチャンスが広がった
    そして次の打者が絶妙のスクイズを決め二点差に詰め寄る 
    なおも一死二・三塁 一打同点の場面を築く 
    押せ押せムードの中 気づけば球場の空気も変わっていた
    我がチームの捨て身で必死の粘りに心を打たれた観客たち
    そして負ければ即解散の危機に球場全体が熱烈な声援を送る
    続く六番が疲労の色濃い投手の甘い球を見逃さず強振 
    打球は鋭く三遊間を抜き三塁走者が生還し遂に一点差 
    更に一死一・三塁と攻め立てる
    そしてとうとうあの場面が巡って来た 
    それは相手投手が最後の力を振り絞って投げ込んできた渾身のストレートだった・・

    Sports151

    最後の最後で勝利の女神は私達に微笑まなかった
    試合終了のサイレンが球場に鳴り響く 
    総立ちの割れんばかりの拍手に迎えられ
    ベンチに引き揚げて来る選手たち その誰の目にも光るものがあった
    控え室で大声で泣きじゃくる選手たち 
    ひざを突きうなだれて選手同士で抱き合う
    私はその光景を前にして「今日は思い切り泣けばいい 
    私たちが流した汗と涙は力の限りに戦ったことの証しなのだから・・・」
    心からそう思えた
    強敵を相手に少しもひるまず 正々堂々と渡り合い
    名実ともに最期となった試合 
    「決して恥じることはない」そのことは観客たちが証明してくれた
    そして何よりその涙は 例え分校という弱小チームでも 気持ちで負けなければ
    実力以上の力を発揮し 十分に戦えることを知らしめたはずだ
    たとえ野球部や学校はなくなっても きっと人々の記憶の中に残っていくに違いない
    「君たちはよく戦った ありがとう 胸を張って帰ろう」監督の檄が飛ぶ
    その時 主将が選手たちを集め 私を中心にして輪を作った
    「マネージャーのおかげで僕たちは今日まで戦ってこれました
    本当に今までありがとうございました・・」
    その瞬間 必死で堪えていた感情がこみ上げ 大粒の涙が床にこぼれ落ちた
    私の野球に賭けた青春の一ページが これで終わったことを実感した

    Sports311

    その半年後 学校は正式に廃校となった 私たちは母校と呼べるものはなくなったが
    同じ時間を共に過ごした青春の証しは 永遠に心の中に生き続けていくことだろう

    そしてあれから十年の月日が流れ 今年も球児たちの夏がまたやってきた
    どこまでも続く青空の下 青春を賭けた飛び切り熱いドラマが繰り広げられる
    あの季節が・・・

    Sports41

     追記

     このショートストーリーは、一年前の夏の甲子園の決勝で、名勝負を演じた新潟県代表・日本文理の活躍をモチーフに、廃校寸前の野球部の「最後の夏」を表現したものです。一度でも負ければそれで終戦となる筋書きのないドラマ。一球に賭ける真剣な眼差しとひた向きさ、その陰では筆舌に尽くし難いほどの練習量。毎日泥だらけになって、白球を追いかける青春のひとコマは、見る人の感動を誘う真実のドラマである。しかし、忘れてならないのが、そうした華やかな夢舞台の陰で、表には出て来ない人達の努力や苦労である。今回は女子マネージャーという立場で青春の想い出を刻んだ裏舞台を表現してみたくて、このような作品が完成しました。

    2009年6月 1日 (月)

    JUNE BRIDE

    純白のウェディングドレスを身に纏い 
    君はバージンロードをゆっくりと歩いてくる
    白いブーケを両手に抱え 長いドレスの裾を天使たちが運ぶ
    やがて僕の横を静かに通り過ぎ 君は愛する人の元へ
    キャンドルが揺れるその中で 君は誓いの言葉を呟く
    そしてステンドグラスの前でベールを上げて向き合うふたり
    その瞬間 僕は目をそらし瞳を閉じた

    あれは四年前 僕と親友そして君は同じ大学のサークル仲間
    でも僕も彼も密かに君のことを想っていた

    とあるゼミの野外セミナーで訪れたサマーキャンプ
    山歩きの途中で君は足を挫いた 山小屋までどっちが君を
    運ぶかで 僕はジャンケンに負け 彼にその役を譲った
    これがそもそもの間違いの元だった
    その出来事を境に ふたりは急接近 時を追うごとに
    君たちの絆が強くなって行くのを 僕はただ脇で見ていた

    都会育ちの君は 瞳を輝かせていつもこう言っていた
    「いつか愛する人と高原の可愛いチャペルで式を挙げたい」
    そしてふたりは愛を育み 夢を叶え 今日の日を迎えた

    Cathedral に鳴り響く讃美歌
    神父の導きにより儀式は厳かに終わり やがて退場の時
    教会の鐘の音をBGMに 彼の腕に抱きかかえられた君が
    僕たちの待つ石段を下りてくる ライスシャワーの祝福に
    ふたりは満面の笑みでこたえている
    やがて始まる映画のワンシーンのような光景
    君が後ろ向きに投げたブーケを若き乙女たちが奪い合う
    それは幸せのおすそ分け

    すべてが終わり新郎新婦を見送った後 
    誰もが二次会へ足を運ぶ中 僕はひとり
    君との想い出が詰まったキャンパスへと向かった
    僕たちが出逢った礼拝堂の前で 僕は立ち止まり
    あの日の出来事を静かに回想した 無邪気な君の笑顔 優しさ
    そしてふたりが過ごしたかけがえのない時間
    きっと君は今でも知らないだろう 僕の本心を

    六月の空はどこまでも蒼く 君との想い出をそっと天に還した
    これからのふたりの幸せを祈りながら 
    真心込めて 君に贈る言葉  
    「おめでとう・・・ そしてさよなら」

    2009年5月28日 (木)

    名馬たちの墓標~サラブレッド達よ安らかに大地に眠れ~

    そこは日高山脈の麓にある見渡す限りの牧草地帯
    南に太平洋を望む国道より 川に沿って分け入れば
    知る人ぞ知るサラブレッドたちの聖域 
    ここ日高は競走馬の生まれ故郷

    今は亡き 世を席巻した幻の名馬に逢いたくて僕は旅に出た
    通称牧場銀座と異名をとる新冠は 辺り一面雄大な平原
    その一番奥深き場所に 明和という名の牧場(まきば)がある

    時は水無月 梅雨なき大地の空はどこまでも青く
    緑の芝生によく映え 眩しいことこの上なし
    大小五十を優に超える牧場と厩舎 そして北の風物詩サイロは
    さながらサラブレッドロードと呼ぶに相応しく
    まるで水彩画のような風景がそこにあった

    四方を白い柵に囲まれたその中で 鬣を振り乱し
    縦横無尽に走り回る勇ましき姿
    干草を頬張りながら我が子の行く末を優しく見守る母馬
    その傍らで無邪気に戯れる子馬の微笑ましい光景
    一方で一線を退き 疲れた体を休める往年のサラブレッドを尻目に
    次代のスターを夢見て 日々トレーニングを繰り返す競走馬の群れ
    そして何より馬たちの成長を願い 風雪に耐えて
    牧場を守り抜いてきた人々の懸命な姿 
    そこには毎日繰り返される実直で飾り気のない真実のドラマがあった

    やがて僕は ずっと憧れ続けた馬との対面の時を迎えた
    その馬の名はハイセイコー 彼を知らない競馬ファンはいない
    その昔一世を風靡し 一時代を築いた名馬の中の名馬

    牧場主に面会を許され そこにいると告げられた場所へ足を運べば
    厩舎裏の芝生に彼はひとり静かに立っていた
    黒光りした艶のある馬体 引き締まった筋肉 そしてどことなく
    威厳さえ漂わさせる風格と存在感 それは紛れもなく本物の彼だった

    数分間 私は彼とふたりだけの時間を過ごした 歴史に名を刻む
    名馬との対面は 全身を稲妻が貫くほどの凄まじい衝撃があった
    思い返しても 未だ興奮冷めやらぬ研ぎ澄まされた感覚だった

    当時 彼は引退後 生まれ故郷の大地に凱旋 文字通り錦を飾った
    そして第二の人生を種牡馬として送り 二世三世の誕生に貢献していた

    別れ際ふと心をよぎるフレーズ「夢をありがとう、そしてさよなら」
    それが彼に伝えたかった言葉だった

    やがて世紀末の皐月の或る日 三十歳という高齢でこの世を去るまで
    彼は過去の栄華とはおよそ無縁の静かな余生を送ったという
    自然のなりゆきに任せ もはや誰からもあてにされず 責任のない
    自由の身として 生きとし生けるもの本来の姿に戻って最期を全うした

    あれからどれくらい経ったのだろう 今日も日高は都会の雑踏からは
    かけ離れた異次元空間のまま 
    ここだけがあの日から時間が止まっている

    小高き丘の上に登ればその片隅に 今は亡きサラブレッドたちの墓標
    「偉大なる名馬 ここに眠る」と刻まれた鎮魂の碑
    志半ばで散った馬たちの凛とした勇ましき姿が 今もこの胸に去来する
    静かに手を合わせ 天に祈りを捧げた夕刻の情景

    やがて僕は我が愛車と共に旅立つ 
    次代の担い手たちが元気に駆ける草原地帯を抜け 僕は一輪の風となり
    やがて現れた桜並木の一本道を潜れば 
    見果てぬ夢は未だ覚めずこの胸を締めつける

    2009年5月26日 (火)

    ジェット気流が夜空を闊歩する時刻

    八十年代 僕が大学生活を送っていた頃
    世間はバブルの絶頂期 人々は身も心も潤い飽食の時代とまで云われた
    そんな物がありふれた日常にあって
    僕が欠かさずに聞いていたFMラジオの長寿番組があった

    午前零時 誰もが寝静まった夜半に 80.0MHzにダイヤルを合わせれば
    そっと流れてくる癒しの音楽 そして魅惑の世界へのいざない

    その人はラジオの向こう側から異国のBGMに乗せて
    独特の低い口調で リスナーにせつせつと語りかけてきた
    心を酔わせる甘い囁きは 星の輝きにも似た煌く夢の欠片を優しく包み
    やがていつもと変わらぬナレーションが この胸をときめかせる


    「遠い地平線が消えて ふかぶかとした夜の闇に心を休める時
    遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は 限りない宇宙の営みを告げています
    満天の星を頂くはてしない光の海を 豊かに流れゆく風に心を開けば
    煌めく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の何と饒舌な事でしょうか
    光と影の境に消えていった遥かな地平線も 瞼に浮かんで参ります」


    その番組の趣旨は 日本にいながらにしてさまざまな国々の街角を旅し
    異国情緒を存分に満喫できるところにあった
    彼がコックピットで奏でる言葉のメロディーに 乗客たちは酔いしれて
    やがて安らぎを覚え まことしやかな憩いのひとときを見出す
    いつしかジェットストリームの虜になっている自分自身に気づかされる

    まるでリスナーは雲上を漂う夜間飛行をナレーションと共に追体験する
    機内の窓辺では星屑たちが夜空を乱舞し 目映い光の渦を演出する
    心地よい銀河の子守唄 過ぎ行く時間は太平洋上で一日の元に舞い戻る

    当時 暇を見つけては旅に出ていた自分の生き方と相通ずるものがあり
    詩をしたためながら 好んで聴いていた至福の一刻(ひととき)

    しかし物の道理には 初めがあればいつかは終止符を打つ時が訪れる
    彼は声優の魂ともいえる喉の病を患い 四半世紀務め上げてきた
    機長の座を降り後進に道を譲ることを決断した 1995年暮れの事だった

    彼のフライトでは エピローグはいつだって穏やかだった

    「夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは 遠ざかるにつれて
    次第に星の瞬きと区別がつかなくなります
    お送りしておりますこの音楽も美しく あなたの夢に溶け込んでいきますように
    また明日 午前零時にお会いしましょう・・・」
    それが決まりごとになっていた いつもの約束のメッセージだった

    そして最終フライトで彼の遺した最後の言葉は その後語り継がれる伝説となった

    「25年間 私がご案内役を務めて参りましたジェットストリームは
    今夜でお別れでございます 長い間本当にありがとうございました
    またいつの日か 夢も遥かな空の旅でお会いしましょう
    では皆様 さようなら よいお年をお迎えください」

    その時彼は 自分の死期が近いことを悟っていたに違いない
    そして操縦桿を静かに置いてから わずか二ヵ月後の翌年二月 
    新しい時代の夜明けを迎えることなく 見果てぬ夢とその美声を残し  
    彼は永遠の眠りに着いた 享年六十三


    ジェットストリーム それは心地よい夜の静寂へいざなう音楽の定期便
    その後彼の遺志は受け継がれ 午前零時の同じ時刻に今もフライトは続いている

    世相とは無縁の天上夢幻の世界 ジェット気流が夜空を闊歩する時刻
    彼は今夜も 世界のどこかの空を旅していることだろう

     

    2009年5月23日 (土)

    「遠い日の記憶」

    小学校の通学路にあった古ぼけた木造の駄菓子屋
    決まり事のように店番をするのは割烹着姿のおばあちゃん
    そこは子どもたちの溜まり場 いつも夕刻は自転車の列
    小銭で一個から買える選り取り見取りのお菓子の山
    そして籤で当たる多彩なおもちゃ そこは子どもの宝の在り処
    そんな夢を育む場所で 僕には忘れようにも忘れられない過去があった

    あれは小6の秋 いつものように学校帰り友達と駄菓子屋で待ち合わせ
    おばあちゃんは いつも子どもたちの相手で忙しそう
    それでいてどこか嬉しそう そんな日常の中で僕に魔の手が忍び寄る
    その日どうしてもほしいカードを見かけた でもお金が足りなかった
    僕はとっさに嘘をついてしまった 「この前の買い物の時お釣りが足りなかったよ」
    そう言ってまんまと100円をせしめてしまった

    家に帰って親の顔を見た途端 全身を襲う罪悪感そして虚脱感
    僕はおばあちゃんを裏切った あんなに優しいおばあちゃんを

    あの日から僕は後ろめたさから その駄菓子屋に行かなくなった 
    帰り道もわざと遠回りして 次第に友達からも離れていった
    その後 そのまま小学校を卒業し その店と反対方向の中学へ入った
    だけど心の奥のどこかにそのことが引っ掛かっていた いつも・・・

    高校入学後は 僕の心の傷も癒えて 部活に熱中する日々を過ごした
    やがて東京の大学へ進学し親元を離れての生活 そしてそのまま東京に就職した
    あの日の出来事は日常の忙しさの中で すっかり遠のいていた

    仕事に就いてようやく お金を稼ぐことの大変さを身を持って知った
    営業の帰りに信号で止まった車の中で ふと古びた駄菓子屋を見つけた
    その時 遠くセピア色に色褪せた記憶が僕の脳裏に鮮やかに甦ってきた
    「あのおばあちゃんはどうしているかな そうだあの日の過ちをお詫びにいこう」

    正月久しぶりに実家に帰省した 
    その折 十五年ぶりに立ち寄ったあの日の場所
    しかしそこに駄菓子屋はもうなかった 
    建物は既に取り壊され 空き地と化していた

    近所の人に聞けば 駄菓子屋のおばあちゃんは今から十年前に亡くなり
    元々ご主人とは戦争で死に別れ 身寄りがなく独りでお店を切り盛りしていたため
    その店はその後町に引き取られ 今から五年前に取り壊されたという
    知らなかった 何も知らずにいた そんな自分がやるせない

    幼い日の記憶を手繰り寄せ あの日の出来事を追憶
    空き地の前で呆然と立ち尽くし 涙がとめどなく溢れた 
    遠い日の過ちを心から悔いた できることなら生きてるうちに一言謝りたかった

    その空き地に分け入り おばあちゃんが立っていた場所を探し当て
    折れた木の枝で穴を掘り あの日の100円をそこに埋め手を合わせた

    「おばあちゃんご免なさい 随分遅くなったけどあの日のお金を返すよ」
    「どうか安らかにお眠りください・・・」

    ようやく今 十五年の時を経て 長年の胸の痞えがとれた
    帰り道 涙が止まらなかった でも人として大切な何かを取り戻した気がした 

    すると僕の心の中で おばあちゃんの笑顔が浮かんでは消えた・・・

     

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